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自分自身をケアする
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自己肯定感が低く、自信が無い状態に対し、いっそのこと”自分は役立たずで、誰からも期待されない”という状態からスタートしてみる、ということを、先日の記事で提案してみました。
しかし、役立たずだからといって、自分のことをないがしろにしたり、貶めたりするのとは、全く違います。

時々、自分自身をケアすることに対して、抵抗感や罪悪感を持っている方がいます。
例えば、家族を自死で亡くされていたりすると、自分も死んでしまいたいという思いがよぎる。
でも、実際に病気になると、たちまちの苦痛を治してもらいたくて医療機関にかかってしまう。
そして、死にたいはずなのに、楽になれるようなケアを行ってしまう自分を、責めてしまうのです。

そうでなくても、親が不幸そうだったり、過去に誰かに言われた言葉が、自分をケアすることや幸せになろうとすることに対する強力なブレーキになっていることがあります。
正確に言えば、そのブレーキになっているものは実は原因ではなく、それを口実にしてその人が不幸であることを選んでいるのですけれど。

身体が不調の時に、楽になるように自分自身をケアをすることは、とても自然なことです。
これは個の意識を超えた、普遍的ないのちの流れが、そのように意を発し、人間の本能として備わったのでしょう。
この、自分自身をケアするというプログラムが備わっていなければ、人類はとうに絶滅しているはずです。
自分自身をいたわり、ケアをするというのは、いのちの営みなのですね。


**********


自我(エゴ)というと、苦しみを作り出す排除すべき悪者であるようなイメージがあるような気がしますが、実はこの自我が、個としての意識生命体を生かしめています。
ヨーガでいうと、自我は”ahamkara(アハンカーラ:我執)”という内的心理器官であると言われています。
ヨーゲシヴァラナンダ著『魂の科学』によると、この我執から、「私が…」とか「私の…」という意識(アハン・アスミ:aham asmi…)が生じてきます。

我執は、執着への苦しみの元凶となる一方で、解脱をするために最後の最後まで必要不可欠な働きをも持ち合わせています。
「これはなんだろう…?」という好奇心ともいえる意を発する役割を、実はこの我執が行うことにより、真我を識別する智慧に到達することができるのです。


自我は、いつも私たちを助け、いのちの大きな流れが発展するように、働いてもくれています。
要は、使いようによって多大なる苦悩の元ともなるし、いのちを大きく助け、調和に導く立役者でもある訳です。

自分のからだを愛おしみ、いたわる心を持っていたいものですね、お互いに。
あなたのからだは、あなたの私的な持ち物というよりは、個を超えたいのちのあらわれとして、今ここに存在しています。


愛と感謝をこめて




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# by ramram-yoga | 2018-09-11 23:53 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
セラピストとしての原点が覆される
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心理士の職に就いてからというもの、毎週”スーパーヴィジョン”といって、心理職としてのスキルアップのための指導を受けています。
そこで、言葉の一つ一つの出し方、また相手ごとの臨機応変な対応の仕方についても、細かく指導を受けます。
心理カウンセリングを学び始めた当初は、師匠の言葉遣いの精緻な棲み分けに、本当に驚きました。

それだけでも濃密な指導内容なのですが、指導中それを上回る強烈なインパクトをたびたび受けることになります。
何に関してかというと、それは他の誰でもない、自分自身の課題への直面化です。
セラピストが心理カウンセリングをしていると、同じようなシチュエーションのところでうまくいかない、という状態が浮き彫りになってくることがあります。

例えば、決まって患者さんのこんな言動に腹が立つ・動揺するなど感情的になってしまう。
同じようなシチュエーションの時に、いつも自分から話題をそらしてしまう、等。

そんなときは、セラピスト自身の課題(こだわり)がセラピーの進展を阻害してしまっている可能性があり、指導者より教育分析(セラピスト自身がカウンセリングを受ける)を受け、その課題と対峙していくことになります。
これが、なかなかヘビーな作業で、私は今回受けた教育分析で、大学時代からずっとずっと持ち続けていた、セラピストとしての活動の動機が、根幹からひっくり返されてしまいました。

その、自分のセラピストとしての活動の動機は何かというと、「目の前の苦しむ人をどうにかしてあげたい」という思いでした。
音楽療法士時代も、ヨーガ療法士になってからも、心理職についてからも、私のテーマはずっとこれでした。
目の前の苦しむ人を前にするたびに感じる無力感が、色々なことを学び吸収していく強力なモチベーションになっていました。

しかし。
最近、その「目の前で苦しんでいる人をどうにかしてあげたい」という強い想いが、セラピーにおいて裏目に出てしまっているということが、指導を受けていて分かったのです。
本来、苦しみというのは、その人が何かに気づき、学んでいくために訪れているものであるにも関わらず、私は相手がその場で安易に楽になるような言葉をかけてしまう傾向にある、ということが、見えてきました。
つまり、その人からむやみに苦しみを取り上げてしまっていたのですね。

私のこの傾向の裏には、「人の役に立ちたい」という強い欲求がありました。
今回の教育分析では、その思いは本当にはその人の為というよりは、自己満足であるということが、突きつけられました。

これは、衝撃でした・・・。
セラピストとして成長していく中で、いわば原点ともいえるような、セラピストになった動機までをも、捨てていかなければならないのか、と。
師匠から、苦しみがその人にもたらす恩恵について、よく考えるように、という宿題を出されました。
今年はいろんな方面からアイデンティティが崩されていき、その都度びっくりするやら動揺するやらしています。
その一方で、その経過を俯瞰して面白がっていたりもする、今日この頃。


愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2018-09-10 23:07 | 心理学とヨーガ | Comments(0)
自分の価値を上げようとすること
エネルギーを浪費せず、使うべきところに出し惜しみをしない。
これを実践しようとするとき、何にエネルギーを浪費しがちなのかについても、考えてみる必要があると思います。
ひとつ、エネルギーを浪費しがちなものとして ”自分の価値を上げようとすること” があるように思います。

普段カウンセリングで、しんどい辛い思いをしている人の話を聴いていると、そこには例外なく”自分の価値”というキーワードが存在しているように思います。
要するに、自分にある条件を課して、その条件を満たすか満たさないかによって、自分自身の価値を決定づている訳です。
その条件とは、人によって色々です。

例えば
・ある特定の人(親や上司や配偶者)に認めてもらえるかどうか、気に入ってもらえるかどうか
・周りの人にとって歓迎されているか、役立っているか、一目置かれているか
・仕事や引き受けた役割を全うできているか、失敗したり迷惑をかけたりしていないか
・段取りよくスムーズに物事をこなしていくことができているかどうか
・自分の中で決めた ”これができればOK、できなければダメ” といったラインを満たしているかどうか
・世間的な風潮(恋人・配偶者・子どもがいる、勝ち組・負け組、学歴、職業)

これらがいろいろと絡み合って、その人はそれぞれの基準と照らし合わせ、自分がそれを満たしていればOKつまり価値があり、満たしていなければ価値がない、というような捉え方をする。
そして、それら自分が設定した”基準”を満たすため、もっともっと必死にがんばる。

何かを目指して頑張っている姿は、一見前向きで向上心があるように見えますが、よくよくその動機を観察していると、それが不安と恐怖からきているように思えることが、少なくありません。

何もしないのが怖い。
だらだらする自分が許せない。
頑張らない自分を想像できない。

もしそうだとすれば、一度、自分を条件付けで評価しているかどうかを、省みてみるといいかもしれません。
つまり、自分の価値がある・ないという、相対的な価値観の中で自分を評価していないかどうかということ。

そして、不安や恐怖から頑張る人というのは、基本的にそもそもの前提として”自分には価値が無い”と思っているのです。
自分がただそのまま在るだけでは価値が無いので、いろいろとプラスして評価を得たり業績を上げようとしている、ということです。

カウンセリングで、頑張りすぎる人に時々率直にそれを伝えることがあります。
本当は自分に価値がないと思っている、あるいは本当は自分に自信が全然ないから、がんばっているのでは?
満たされて安心している人が、今あなたがやっているやり方や考え方をすると思いますか?と。
すると、その方は”ウッ”と、図星のような顔をされます。

かくいう私も、ずっと、自分を条件付けで受け入れる・受け入れないをずっとやり、頑張り続けてきました。
でももう、少しずつ手放しつつあります。
それがいかに、無駄なことかということに、気づきつつあるからです。

だって、外側に自分の評価基準を求めている限り、どこまでいっても安心できませんからね。
本当は、手に入れたいのは”好かれている”とか、”評価される”とか、そういうこととはおよそ関係のないところにあるはずです。

そしてそれは、本当は手に入れるものではなく、気づくものだと思うのです。
すでに自分は安心の中にいて、大丈夫なのだということに、気づく。
すると、思考や行為が、恐怖や不安からではなく、安心から出てくるようになっていきます。

だんだんと苦しみから自分を解放し、安心していく人達に共通するのは、「ま、いっか」という言葉が増えていくということと、失敗や失態をおかしても深刻にならず笑い飛ばせるようになるということのように思います。
要するに、だんだんお気楽・お気軽に、”抜けた人”になっていくのですね。
そして、身軽で颯爽とし、本当に自分がやりたいことにドバッとエネルギーを投入し、そこで絶大な集中力を発揮していくのです。


自分には価値があることを周りに認めさせることにエネルギーを注ぐより、いっそのこと自分は誰からも期待されない役立たずと思ってしまうのはどうでしょう。

「クズがここにいるぜ~!」と、元気いっぱいの清志郎さんです^^




宮沢賢治の「アメニモマケズ」の中で”ミンナニデクノボウトヨバレ”という一節があり、小学時代からその意味がよく分からなかったのですが、最近やっと、少し分かり始めました。




愛と感謝をこめて


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# by ramram-yoga | 2018-09-09 18:51 | music | Comments(0)
妥協しない
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昨日の記事の続きです。
自分の意識が、受け身から能動的・主体的なものへと変化すると、それから少し時差はありながらも、実際の現象もいろいろと変化してきています。
今日は、普段の持ち物の変化について。

最近、とある人に、私が仕事の時に持ち運んでいるリュックについて「一体中に何が入っているの?」と言われました。
いつもどうしてそんなに多くの荷物を持ち運んでいるのか?という率直な疑問をぶつけられた訳です。

言われた時は、あまりピンとこなかったのですが、よく考えるとその人の言う通り、自分はいつも多くの荷物を持って移動をしているということが分かってきました。
それも、ほとんど使わないものまで「あると安心だから」という理由で持ち歩いていたのです。

そこで、カバンの中のものを一度全部出して、その日その日で絶対に必要な物と、身に着けていてうきうきする物という基準で選んでみると、あら不思議。
びっくりするほど、荷物が軽くなりました(笑)

これがあった方が安心だから。
この人がいいと言ったから。こうした方が後々損しないから。
こういう想いが少しずつ少しずつ積み重なって、知らず知らずのうちに、心身ともにいろいろなものを抱え込み、ため込んでいたようです。

私の気質は、インドの伝承医学であるアーユルヴェーダによると、カパ(水)の性質が多いのですが、心理面でも物理面でも、ため込むのはこのカパの特徴でもあります。
自分自身がもっと身軽に、そしてこだわりを無くしていくためには、この”ため込む”ことによって生じてくるエネルギーの滞りや浪費をできるだけ減らしていくことにひとつのポイントがありそうだ、と感じました。

そのためのキーワードは、妥協しないこと。
最近これを、かなり意識するようになりました。

今、これは本当に必要か?
それを私は本当に気に入って使っているのか?
惰性でとか人からもらったからとか、もったいないからという理由で身に着けていないか?

以上の、普段身の回りにある物との付き合い方は、そのまま人間関係における自分の在り方にも影響しています。
愛想笑いをしたり無理に人と合わせたりせず、淡々と接する(親切・丁寧は忘れずに)。
人に好感を持ってもらえるように、または人から批判されないようにすることにエネルギーを浪費しない。
本音を隠したり、オブラートに包んで伝えたりせず、率直に伝える。付き合いたいと思っていない人とは、無理に付き合わない。

こういうことを意識しはじめて、自分が今までいかに、余分なことにエネルギーを浪費していたかということを、ひしひしと感じています。本当に、莫大なエネルギーを、使っていたのでした。

自分が何にエネルギーを注ぎたいのか。
妥協せずに選び取るセンサーを、鋭くしていきたいと思います。


*********


小学校1年生の息子と買い物に行くと、時々そこで、直感を磨く楽しい練習タイムがはじまります。

この日はスナック菓子売り場で、どれがいいかと迷っていた息子。
これは高いし、あれはお母さんがダメって言うだろうし・・・。

そこで、「今一番食べたい!って幸せな気持ちになるものを選んでおいで」というと、走って和菓子コーナーへ。
頭でいろいろ考えてた時と、妥協せず直感で選んだ時と、まったく違うものをチョイスしたのでした。
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ちなみに甘党なのは、母譲りです(笑)


(上の写真は、現在お気に入りの持ち歩きアイテム。
 Laura ashleyのペンケース、Desiner Guildのスケジュール帳、そして今日新しく仲間入りしたsybillaのポーチ。)

愛と感謝をこめて

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# by ramram-yoga | 2018-09-08 22:00 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
揺さぶりがもたらした転換
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今年は明けてから間もなく、大きな揺さぶりをかけられました。
私にとっては青天の霹靂ともいえるような出来事で、大いに動揺し、大いに迷いました。
それにやっと区切りがついたので、今こうやって書くことができています。

簡潔に言うと、ある身近な目上の人との関係が、悪くなったのです。
それまで数年間にわたって尊敬し、本当にたくさんのことを教えていただき、そして一緒に仕事をしてきた人です。
これからもずっと、この人とはかかわりながら色々な仕事をしていくだろうと思っていました。

考えてみれば、私がその人の言うことを素直に聞き入れようとしているときは、うまくいっていました。
しかし、相手の提案に対する疑問や違和感を感じはじめ、それを相手に言い出した頃から、関係がギクシャクし始めました。

そして、それが度々の言い合いにまで発展してしまうにまでになってしまいました。
私が怒ったことに相手も驚いたと思いますが、なにより人に声を荒げて怒る自分に、私自身がびっくりしました。
怒っている自分を、妙に面白がって観察している自分もいたりして(笑)
でも、怒るということは、それだけ大きな期待を相手にしていたのですね、きっと。

あぁ、これまで私が付き合っていたつもりでいたのは、私が勝手にその人に対して描いていたイメージであって、その人自体は私のイメージとは全然違う場所にいたんだなぁ‥!
ということに、気が付きました。

そして、その人から離れていく、ということに決めました。
そう決まれば、後はシンプルです。



********


何を隠そう、この決心に至るまでが正念場でした。
今まで思ってもいなかった、自分のある部分を突き付けられたからです。
その”ある部分”とは、人の価値観の中で生きている自分です。
自分がそんな、人の価値観の中で生きている人間だとは、思ってもいませんでした。
それほど、物心ついた頃から、誰かの、あるいは既存の価値観に合わせて行動することが、当たり前になっていたのだと思います。

「この人がこう言ったから」とか「世間的には」とか、そんな基準で、今の自分のやっていることを絶えず評価していたのです。
裏を返すと、既存の価値観において自分を評価していないと、不安だったということですね。

これまで既存の価値観や誰かからの評価によって自分のとる行動を決定してきた人にとって、”自分で決める”ことは怖いことです。
なぜなら、失敗した時に、人のせいにしたり、言い訳したりできないからです。
全責任を自分で負わなければならない。
でも、本当は、人のせいにしていても、自分の行為がもたらした結末は、いつでも自分が引き受けているのですよね。
この半年あまりの間、繰り返し繰り返し突きつけられたテーマでした。

人からの評価や既存の価値観の中で生きる人生から、自己決断と自己責任の中で生きる人生へ。
もう少し端的に言うと、受け身の人生から能動的・主体的な人生へ。
この転換が起こった時、「させられた」「された」と思っていたことが、全部「自分がした」に置き換わっていきました。

「縛られている」のではなく「自分で自分を縛っている」ことがわかりました。
「させられた」のではなく「相手がどうであれ、自己決断の上自分がした」のだということが分かりました。

この転換は、強烈なインパクトを伴いました。
まるで、世界が360度ひっくり返ってしまったような気分でいます。

この変化の過程で、実は今年の春から夏にかけて、3日断食を計6回しました。
すると、あら不思議。
持ち物や人間関係までもが、色々とすっきりしていくではないですか。
今まで必要と思っていたものが意外となくても大丈夫だということに気が付いたり。
どうやらいろいろと抱え込んでいたものがあったようです。
まだまだ、その変化の途上ですが、いろんなものが、シンプルに見えつつあります。


感謝をこめて





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# by ramram-yoga | 2018-09-07 23:32 | 最近のいろんなこと | Comments(0)