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どうにかしようとしない
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先日、深刻なうつを体験したある方の体験談を聴いていました。
その方は、「自分なんか死んでしまえ」とか「苦しい苦しい苦しい」とずーっと思っていたのだそうです。
ですが、ある時、その、自分の頭の中で延々と続く思考を”放っておこう”と思ったのだそうです。
そして、その方は現在とってもイキイキとお仕事をされています。

私はそのお話を聴いた時、よく”放っておこう”なんて、そんな風な発想ができたな~!と、思いました。
というのも、苦しんでいるときは、そんな発想がまず出てこないのですね。
逆に、「何が何でも〇〇しなければ!」と、しがみつきが強くなっている状態の時に、非常に苦しいのです。

直面している”問題”自体は、何も解決していないにも関わらず、その人は苦しみから解放された。
その時何が変化したのか。
それは、問題や状況の方ではなく、その人の立ち位置です。
直面している情況を、「対処すべきもの」として扱わなくなってしまったのです。

問題を今までの延長線上で解決しようとするのではなく、捉える側の立ち位置を変える。
すべての問題の根本的解決とは、ここにあるのではないかと思います。
いえ、そもそも問題自体、私たちが作り出したものなので、そもそも問題の実態もなければ解決もないのですけれど。
つまり、フェーズが変わることによって、問題をもはや問題としてみなさなくなってしまうのです。

***

ヨーガでは起こってくることにたいして「観察する」とか「客観視する」ということを行いますが、これは、受け入れがたい出来事や感情であればあるほど、難しいことでもあります。
まず、前提としてこだわりがあるので、ありのままを観察する、ということができないのです。
その結果、拒否反応をしている意識状態のまま、起きてくることを観察する、ということが起きてしまう。
すると、心乱されるわけです。
ニュートラルであるはずの、観察する側の意識がすでに、好き嫌いや善悪の判断をしているのです。

その点、”放っておく”というのは、いいですね。
手放して、任せている感じが、なんとも^^



************


悪夢にうなされている人は、夢の中では走り、隠れ、闘い、叫び、崖を飛び降りる等多くのことができる。
しかし、この夢の中にある行動から他の行動へのどんな変化も、悪夢自体を止めることはできない。
したがって、我々はこの種の変化を「第一次変化」と呼ぼう。
この夢の外へ出る道の一つは、眠りから醒めるという変化を得ることである。
覚醒はもはや夢の一部ではない。
全く異なった状態への変化である。
従って今後はこの種の変化を「第二次変化」と呼ぶことにしよう。

我々自身を現実と呼ばれるルールに従うゲームのコマと考えるのか、我々自身がそれを作り、受け入れている限りの「現実的な」ルールに従ってゲームをやっているプレイヤーと考えるかの違いなのだ。
後者は従ってルールの改変はいつだって可能なのだ。

『変化の原理 問題の形成と解決』
P.ワッラウィック、J.ウィークランド、R.フィッシュ著



愛と感謝をこめて





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# by ramram-yoga | 2018-05-04 13:03 | ことば・メッセージ | Comments(0)
条件付けからの脱出
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最近、自分がこれまで感じていたよりももっともっと深い部分で、自分の心の動きや行動を規定付けていたものについて、考えています。

先日の記事(気づいたら終わる。光に返る。)では、生まれて物心ついてからの記憶や対人関係において作られてきた私の思考や行動の傾向について触れました。
しかし、そのような、個としての私の今回の生における経験に基づいて形成されてきた思考や行動の傾向は、どちらかというと割合としては少ないのではないかと、感じはじめています。

例えば、わが子を可愛いと思う親心。
これは、親なら当然でしょうと、それを疑うこと自体がタブー視されるほど、当たり前のことです。
でも最近、毎朝毎晩、息子の寝顔を見ながら、この無条件に湧き上がってくる愛着の想いとは何だろうと思うのです。
これは、ただ私が自発的に息子を愛しているというよりも、生物学的な本脳がそうさせている部分も多いのでしょう。

哺乳類は、個体として、身体全体における頭部の大きさが大きいほど、そして丸みを帯びているほど、その対象物をに愛着を感じるようにできています。
声は、低いより高い方が、その個体を擁護しようという動機が高まるように、できているのです。
極端な話、ひげを生やし、声の低い5歳児とかだったら、あんまりかわいがる気になりませんよね(笑)


***


また例えば、誰か特定の人に対して強く惹かれる心の動き。
誰もが経験するものと思いますが、そのさなかにいる時には、まるで有無をいわせない強力な力が働いているかのようです。
その力に、抗いようもありません。
その力に対して、完全に受動的になっているかのようです。
ある捉え方から見れば、それは運命的と言われるものなのかもしれません。
しかし、ある捉え方から見れば、それは、これまで人類が繰り返してきた相手への想いや行動の記憶を、今のその人の人生において再生しているようにも思えるのです。
そして、ある日突然その力が無くなってしまったかのようになる時が訪れます(訪れない人も、きっといますね^^)。
夢が覚めたかのようです。
なぜ、その人にそんなに惹かれていたのか、自分でも説明がつきません。

でもそれは、悲しむべき終結ではありません、きっと。
そこで初めて受動的な状態から脱することができ、その人の生き方が主体的になる可能性に開かれるからです。


***


また、例えば、栄光と堕落。
これはその人の人生において交互に訪れます。
なぜなら、堕落がなければ栄光はないからです。
栄光の形は人によって違います。
ある人にとっては大勢の人からの賞賛。
また、ある人にとっては特定の人からの特別な注目。
あるいは、達成感、すっきり感、感動、高揚感。
これらは、落差が大きいほど強い印象を残します。
つまり、それらの対極にある、堕落、絶望、苦しみ、疲労困憊が大きいほど、栄光を手にした時に強烈に高揚するのです。

高揚、堕落。高揚、堕落。
このジェットコースターのような急激なアップダウンは、非常にスリリングです。
このスリルを味わうことで、生きている感じがする。
もしくは、”存在することを許される”という感じ?
平坦な生活では、味わえない。
自分を貶めたり、ストイックになりすぎる人の中に、このような傾向を感じることがあります。


****


タイトルに書いたように、思考や行動が、すでに”条件付け”されている部分が多々あるような気がしています。
他にも、まだまだ。
”条件付け”とは、カルマとでもいいかえれると思います。

今まで当たり前と思っていた自分の心の動きを、一度新鮮な驚きを伴って観察してみる。
「なぜ?」と問いかける。
気が付いたら、その”条件付け”から脱することができる。
有無を言わせず自分を駆り立てていた行動から、解放されるのです。
まるで、枯れて落ちていく花のように。
花は咲き終わると、途端にその植物全体の働きが、花に栄養を送るのをストップするのです。
それと同じように、条件付けされた行動に、もはやエネルギーが注がれなくなっていきます。

本当の意味で主体的に生きていくということは、どういうことなのか。
それは、その条件付けから脱した時に初めて俎上に乗せることができるテーマなのだと思います。



感謝と愛とこめて







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# by ramram-yoga | 2018-05-02 21:48 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
あなたの世界の終わり
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『あなたの世界の終わり -「目覚め」とその“あと”のプロセス-』
アジャシャンティ著

なんとも衝撃的なタイトルの本です。
先日、友人に紹介してもらい、昨日読みました。

この本に書いてある「目覚め」とは、それまで”私”と思っていたものが、実は全然違った!という、一瞥(いちべつ)体験のことです。
大抵、私たちは自分のことを自我(エゴ)だと認識していますが、本当の主体はヨーガでいうところのブラフマン(梵)、本書で言うところの「一(いつ)なるもの」なのだということが、強烈な直覚として経験されるのです。

本書によるとその体験は一瞬で終わることもあれば、数日~数か月にわたって続くこともあるのだそうです。
しかし、その一時的な一瞥体験を得たからといってそのまま悟りが定着するというケースはまれで、その後、主体を自我に置いたり「一なるもの」に置いたりと錯綜する時期を得て「定着した」覚醒状態に入るのだそう。


本書がおすすめなのは、とにかく著者の洞察が深く、説明が中立で、丁寧かつ親切であるからです。
沢山の人が一瞥体験を得て、「定着した」覚醒状態に入っていくのをファシリテートしてきた人物だからこその内容です。一瞥体験を一時的に体験した後に陥りやすい状態についても、詳しく書かれていたのも、良かったです。

というのも、私は去年の今頃、主体だと思っていた自分が実は客体だったという体験を突然して(後から考えるとこれが最初のプチ一瞥体験だったと思うのですが)、それから深刻な虚無感に襲われた時期がありました。
それ以外にも、それまで感じたことの無かった感覚が突如として出現したり、ここには書けないような奇妙な体験をしたりと、今振り返ると「あの頃は色々あって大変だったな・・・」と思うような体験をいろいろして驚きっぱなしでした。
それらについても、ちゃんと、この本に説明してありました。

一言で言えば、起こってくる出来事にあまり過剰に反応する必要はなかったようです^^

****

やさしい言葉で書かれていますが、ものすごいことが書かれています。
一回読んで消化できるような内容では、ありませんでした。

”私”が目覚めるのではないのです。
”私”が悟るのでもないのです。
自我は目覚めない。
「一なるもの」が、”私”から目覚めるのです。


(本文より)
・・・
もしそれが本当の目覚めなら、目覚めたのは「自分」ではないことを私たちは知ります。
目覚めが、「自分」”から”目覚めたのです。
スピリットが、エゴとの一体化から目覚めたのです。

エゴは目覚めませんし、「自分」も目覚めません。
そして私たちは「エゴ」ではなく、「自分」ではないのです。
私たちは「エゴ」と自分に目覚めているものです。
私たちは世界に目覚めているものです。
この観点から見れば、私たちはまた全世界でもあります。



愛と感謝をこめて








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# by ramram-yoga | 2018-05-01 23:51 | | Comments(0)
3・4月の読書本
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(2018年1月からの通し番号です)

44.『無の精神療法 薬によらない統合失調症の治し方』稲福薫著
45.『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹著
46.『新訳 原因と結果の法則』ジェームズ・アレン著
47.『これから「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル著
48.『思うとおりに歩めばいいのよ』ターシャ・テューダー
49.『新生地球の歩き方』川田薫、はせくらみゆき、山内尚子著
50.『空の扉を開く聖なる鍵』Mana著
51.『カルマからの卒業』はせくらみゆき著
52.『あなたの世界の終わり 「目覚め」とその“あと”のプロセス』アジャシャンティ著


******

1月・2月の読書量に比べ、この落差(笑)
一時期、全く文字が入ってきませんでした。
また少しずつ読めるようになってから、少し出会う本の質が変わってきました。
出会う本は自分に対するメッセンジャーであるという意識が強くなり、内容もよりやさしく、よりダイレクトに、そしてよりストレートなものに変化してきています。

出会うものの変化は、自分の状態が変わったということが分かる客観的なデータとなります。
自分が変われば出会うものが驚くほど変わる。
このことを、もっともっと突き詰めてみたいと思っています。

“こうなるべき”みたいな理想像がある訳では、どうやらないのではないかと思います。
それよりもむしろ、世界は私に即時即応しているという真実があるのではないかと思うのです。
(それを実感した時の記事はこちら→ 同時に別の私が存在している
つまり、どうありたいかは、自分で決めればいいのです。
まず、自分で決めることができるのだという感覚を、もっと確かなものにしたいと思います。

植物や鉱物などには、それぞれ固有の振動数があります。
それに対して、人間は振動数の幅がとても広い。
非常に低級な考えや行動をとることもあれば、非常に高尚なものに心を向け、質の高い行為をすることもできます。

だから、いろんな”わたし”が経験ができる訳です。
自分の選択次第で、様々な振動数になり、その振動数と近い対象物と共鳴する。
こんなに自由な生き物って、いるでしょうか。
自由だからこその苦しみや行き詰まりもある。
でも、それも人間だからこそできる経験。

さて。
今日から、意識的に振動数を変えていくことにチャレンジしてみます。
具体的に変えることは、身体に入れるもの(正確には入れる時の意識)と、発する言葉(正確には振動)です。
どんな展開になるかは、お楽しみ。



感謝と愛をこめて


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# by ramram-yoga | 2018-04-30 00:22 | | Comments(0)
ベートーヴェンの第九
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今夜はテレビの特番で、熊本地震復興支援コンサートをやっていました。
有名な楽曲を地元の演奏家の方々が演奏されていて、復興への強い想いと人々の絆を感じました。

最後にはベートーヴェンの第九。
今さら私が言うまでもないですが、やはりベートーヴェンの曲は本当に素晴らしいですね。

ベートーヴェンは、曲の完成度もさることながら、生きるということに全くといっていいほど妥協の無かった人だったのではないかと思います。
人間的な苦悩を、ごまかすことなく、逃げることなく舐め尽くした人。

苦悩無しには生まれなかったであろう、ベートーヴェンの楽曲の数々。
例えばこの曲の出だしからは、絶望としかいいようのないものを感じます。

ベートーヴェン作曲 ピアノソナタ第8番 ハ短調 タイトルはその名も「悲壮」。
アシュケナージの演奏で。




そして、その苦悩を、群を抜いて美しく洗練された音楽にまで昇華していったところに、ベートーヴェンの偉大さがあります。
ちなみに、「悲壮」の第二楽章は本当に美しいです。
こちらも、アシュケナージの演奏。


この完成度の高い美しい音の重なりや和音進行は、極めて緻密に推敲を繰り返し繰り返し行うという、ベートーヴェンの作曲スタイルから出来上がったものです。

第九を聴いていると、もはや、人間的な苦しみや喜びとは明らかに次元の違う、万人の祈りや歓喜に圧倒されるような感覚を覚えます。
多分、ベートーヴェンは、人間的な苦悩を経験することを通して、最終的に高みに達していったのだと思います。

バッハのような、人間離れした、天から大地に降りてくるような音色も美しいですが、ベートーヴェンの楽曲は逆に大地から光指す天に昇っていくようで、またバッハにはない美しさがある。

**************

よく、悩んでいる人に、「まぁまぁ、そんなに気にしないで」と言ったりして、深刻に悩むこと自体を悪い事のように捉えてしまうケースがありますが、悪いことでは全然ないのではないでしょうか。
でも、その人が悩んでいるのなら、今、その人には悩むという経験が必要なのです。
悩んで悩んで悩みぬいて、もがいて悶えて、納得するまでとことん苦しめばいいと思うのです。
きっと、苦しみ抜くという経験を通して、他の誰にも表現できない、唯一無二の美しさを表現していく人なのです。

ベートーヴェンの楽曲は、精神的にしんどいと感じる時に聴き、これまで何度も何度も助けられてきました。
聴いていると、今直面している苦しさから目をそらさず、その中に自ら入っていく勇気をもらえる気がするのです。

さて、こちらでは小澤征爾さん指揮のを貼り付けています。
ベートーヴェン作曲 交響曲第九番





愛と感謝をこめて


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# by ramram-yoga | 2018-04-29 20:54 | music | Comments(0)