Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
みるということ
a0118928_23114370.jpg
セラピストという仕事をすればするほど、今目の前の人が直面している課題は、私とは無関係なものではないという認識が強くなっていきます。
そして、その人が私の目の前に現れていることに偶然はなくて、私を映す鏡として存在しているように感じています。

私は目の前のその人を通して、実は自分自身をみている。

セラピーの本質を突き詰めていく時、それは究極的には”みる”、”みられる”という行為のように思います。
”みる”というのは、意識の光を当てるということ。
例えば、カウンセリングで困りごとを話す時、話しているのをお聞きしているだけで、解決してしまうことがあります。
それまでは暗みの中にあった問題に意識の光が当てられたことで、その問題が質的に変化していくのです。

また、カウンセリングの経過の中で、相手が変容していこうとする時。
そこで大切なのは、その相手をみている、つまり意識の光を当てることです。
その人は、みられることによって変容していく。
それほど、みるという行為にはすごいものがある。

最近、相手をみているとき、みているのは実は私ではなかったという認識が強まりつつあります。
いわゆる、個としての私がみているのではない。
意識が、私という個人を通して、その人をみている。

ここでいう意識とは、個人の意思とか思考ではなく、根源的普遍的なものを指します。
ヨーガで、アートマンが純粋意識(chaitannya)と呼ばれているように、すべてを包括している普遍的な”それ”とは、まさしく意識なのだと思うようになりました。
だから、私がするべきは、その意識ができるだけ純粋な状態であらわれ出ることができるよう、自分を透明にしておくことだと思っています。

そして、私に起こっていたのは、みるだけではなかった。
同時にみられてもいたのです。
意識が、相手を通して私をみていた。

そうか、私はみられていた。
普遍的な意識から、静かにずっとみられていた。


愛と感謝をこめて



[PR]
# by ramram-yoga | 2018-09-23 00:25 | "わたし”との対話 | Comments(0)
期待されなくても大丈夫
a0118928_22435119.jpg
心の反応の仕方の癖は、人それぞれあるものですが、本人は無自覚である場合が多い訳です。
なぜなら、その人にとって、それが当たり前だから。
苦しい時やしんどい時、必ずそこには、その人特有のこだわりが関係しています。

ですから、苦しみを手放そうとするときは、まずは自分の心の癖に気づき、自覚していく作業が必要となります。
自覚すると、手放すという次の段階に進むことができるのです。
でも、この自覚の作業は、案外ヘビーだったりします^^

私の場合も、自分の支配性を突き付けられ、自覚したあたりからいろんなことが変わり始めました。
前は、誰かに頼りにされたり求められたりされるように、いろんな役割を進んで引き受けていました。
でも、今はあまりそんなことはしません。
別に、誰かにとって頼りになる存在じゃなくても、よくなったのです。
「あなたのおかげで助かるわ!」と言われるのは嬉しいですけれど、それを過剰に求めて自分のよりどころにすることは、無くなりました。

「期待されない私はダメ」から、「期待されたら嬉しいけど、期待されなくても大丈夫」。
この変化が、不安感から、安心感へのシフトをもたらします。
ここのシフトができた時の、率直な感想は・・・
「あぁ、期待されなくてもいいって、なんてラク!」

こんな風に、実際の心の反応や行動の変化を実感すると、自分は変わったな、と思います。
以前は口が裂けても言いたくなかったことも、抵抗なく言えるようになってきていて、自分を苦しめていたこだわりを、少しずつ手放せていけているように感じます。

本当は、誰も自分のことを苦しめていなかったのだなぁ、自分で自分をがんじがらめに縛り付けていたんだなぁと、改めて思います。
浮き輪と同じで、手放して放っておけばぷかぷか浮いているものを、わざわざ押さえつけて沈めておいて「浮上できない、苦しい!」ともがいているのですよね。
楽になるには、ただ、押さえつけている自分の手を放せばいいだけだったりする訳です^^



愛と感謝をこめて




[PR]
# by ramram-yoga | 2018-09-22 00:30 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
巧妙に働く支配性への気づき
もう10年ほど前のこと。
日本統合医療学会の研究総会が東京大学で開催され、ヨーガ療法学会がデモンストレーションをすることになりました。
そのメンバーになぜか私も選ばれ、安田講堂の舞台でヨーガの実演を行いました(真ん中の青い服が私、左がcocoroyogaの中島朋子さん、右がカルマヨーガスタジオ の生熊恵理さん、その後ろの白い服の男性はチャンドラ・スクール・オブ・ヨーガの古市先生と、大阪幹事長の澤先生)。

a0118928_23105216.jpg
ヨーガ療法士としてまだ駆け出しで、ヨーガを熱心に勉強していた頃です。
自分がメンバーに選ばれたと知った時、私の心の中の何かの波形が振りきれたかのように、過剰に反応したのを覚えています。
つまりは、嬉しかったのです。
心から尊敬し慕っていた師匠が、多数のヨーガ療法士の中から私を選んでくれたことが。
その嬉しさといったら、少し度を超えていて、自分自身でも少し驚いたほどです。
それから、どんどんヨーガ療法の世界にのめりこんでいきました。

それからの私は、いろんな場面で、そのコミュニティの中で良しとされることを熱心にやり、注目され、ほめられ、期待に応え、貢献することを繰り返していました。
それをすること自体、全く苦ではなく、喜びでもありました。
感謝され、頼りにされるポジションは、自分にとってとても心地の良いものでした。
でも、それらがどのようにして生じてくるのかについて、あまりはっきりと自覚できていませんでした。
自分にとっては、あまりに当たり前のやり方だったからです。

しかし、だんだんと見えてきました。
それらの行動は、自分の居場所を確保するためだったということに。
周りから評価されることで、好意的に感じてもらうことで、また頼りにされることで、私は自分の価値を確認しようとしていたのだ、と。
そして、教育分析(自分自身がカウンセリングを受ける)によって見えてきたのは、その動機に”主導権”というキーワードが入っていたということです。
つまり、支配的な魂胆もあったのだ、ということです。

これは、一見、見えにくい構造ですが、人間関係で生じるコントロールという力は本当に巧妙です。
例えば、人が誰かを頼る時、そこには支配性が生じることがあります。
頼られる人が、頼る人に対してコントロールという力が働き始めるからです。
頼りない人と、頼れる人のどちらの言うことに耳を傾かるか?というと、やはり頼れる人ということになりますから。

私は実は、支配的な人間だったんだ。
これは本当に認めがたいことでした。
認めるまで、時間がかかりました。
ですが、心理の師匠から、そのことを幾度となく直面化させられ、認めざるを得なくなりました。

ですが、認めてしまったら意外と楽でした^^


長くなったので、続きは次の記事で。



愛と感謝をこめて





[PR]
# by ramram-yoga | 2018-09-22 00:04 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
からだに訊く
a0118928_19042088.jpg
最近のテーマは、「妥協しない」です。
これを、自分なりに突き詰めてみようと思っているのですが、何かを選択するときに妥協しないことを優先してみると、自分の選択や振る舞いが変わってきていて、面白いです。

言葉の感覚で言うと、選択や判断の基準が「これいい」から「これいい」へと、変わります。

今年の春ごろからかなり意識し始めたのが、自分のスケジュールの入れ方。
以前は、そのスケジュールを入れるのが可能かどうかで判断し、可能ならすぐに入れていたのですが、最近は新しくスケジュールを入れることに、慎重になりました。
結果、スケジュールにゆとりができ、バタバタすることが無くなりました。

今は、一つ一つのスケジュールを吟味して入れているので、日々の行事にとりかかる時に気が乗らないということもほとんどなくなりました。
また「これをやっておいた方が後々無難だから」とか「付き合いの手前」といった動機で行事に参加することも、減りました。
一度やろうと決めたスケジュールも、日が経って改めて「本当にやりたい?」と自分に訊き、あんまり気が進まなかったらやめます(迷惑にならない程度に^^)。

そして、結果的に、仕事を含めて”毎日好きなことしかやってない”という感覚が強くなってきています。
好きなことしかやっていないというと、少々我がままな感じもしますが、別の言い方をすると、自分がひとつひとつの作業を納得して能動的・主体的にやっている感覚が増してきている、という感覚です。

こんな風に、妥協せずにひとつひとつの選択をしていこうとするとき、頼りになるのはつくづく自分の身体感覚だなと思います。
からだが秘めている力には、心底敬服します。
まさに「からだは何でも知っている」。

ある事をするのかしないのか。何をするのか、どれを選ぶのか。
その時に、自分の身体感覚を静かに観察してみます。
すると、自分のからだが求めているときは、そのことを頭に思い浮かべると胸の奥がウキウキっとしたりします。
他にも、清々しくなったり、丹田が充実してくる感覚、地に足がつく感覚など、色々です。

からだこそが、頭でいろいろ考えることをよそに、私を予測もしなかった新しい世界に誘ってくれるのです。

「常識的にはこうした方がいい」、「誰々に言われたから」といった、既存の価値観や周囲からの評価からいかに離れ、からだの声を訊くことができるか。
難しいことではないのですが、結構勇気が要ったりします^^
そして、練習が必要です。
そういうことでいうと、ヨーガで長年身体感覚に繰り返し意識を向けてきた経験が、からだの声を訊くセンサーを鋭くさせることに役立ちました。

からだはすごい。
どんなすごい知識よりも、どんなに素晴らしい人の話よりも、私たちはこの自分のからだをこそ深く探求していくことで、そこに眠る計り知れない智慧の宝庫に出会うことができるのではないでしょうか。


愛と感謝をこめて



[PR]
# by ramram-yoga | 2018-09-19 20:15 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
意識科学の時代へ
研究会三昧の3連休です。
昨日はRam-Ram's Roomにて、専門職向けの催眠ワークショップを開催し、みっちり実習をしました。

今日は京都にて「宗教と科学の対話研究会」に出席。
この研究会ではいつも、自分が見ている世界を広げてくれるような示唆に富んだ内容のお話を、時代の最先端を行く研究者の方々から直接聞くことができるので、今回も楽しみにしていました。

タイトルは ”物質と精神を統合する意識科学~宇宙は高次元意識場「意識が物質・現象を創る」~”。

今回話題提供してくださったのは、人間科学研究所所長の米田晃先生と、前田技術研究所所長の前田豊先生でした。
お二人とも科学者であり、『意識科学 意識が現象を創る』という著書の編著者でもいらっしゃいます。

私も、今回の研究会に参加するにあたり、その本を読みましたが、最近の量子力学や素粒子物理学の研究を極めていかれる先生方の世界観と、仏教やヨーガ、そして”気”という概念を含むいわゆる形而上学における世界観とは、驚くほど本質のところで一致している、と感じました。

著書の中で、元通産相電総研主任研究官で、日本意識工学会会長でいらっしゃった猪股修二博士の言葉が紹介されていますが、そこにそれが端的に顕れているように思いました。


”この宇宙の究極の要素は意識である。
 物質とエネルギーは意識から生ずる。”


お話の中で、特に印象に残ったキーワードが”ゼロポイント”でした。
潜象界、つまり物質になる前のエネルギーが現象の世界にポンとあらわれ出る時、それはゼロポイントを介してである、ということ。
実と虚とのちょうど境にあるゼロポイント、極みの1点。

目の前にあらわれている現象をより根源的本質的に理解しようとするとき、必然的に目に見えない、精妙な次元に意識を向けざるを得なくなっていきます。
例えば、目の前のクライアントさんを見るとき、表面的な言動や感情的反応にフォーカスするよりも、その奥にあるエネルギー状態や、向かっていこうとする方向性のようなものを感じ取る方がより本質的な理解になると思って、そうしています。
ですが、まだまだ自分の感じとっているエネルギー状態は粗雑で、もっと精妙な視点からクライアントさんを見ることができないかと思っていたところでした。
その究極的な視点が、きっとゼロポイントにあるのではないかと、思っています。
ゼロポイントから、クライアントさんを見ると、どんな風に見えるのだろうか?
そこは二極性を超えている場所であるはずです。


************


講師の先生は、お二人とも、人格的に素晴らしい方でした。
ゆったりとくつろいでいて、参加者のどんな質問にも真摯に耳を傾けて答えてくださいました。

私は特に米田晃先生に親しみを感じ、研究会終了後にご挨拶しましたが、ちょうど先生が1冊だけご著書を持参なさっていて、運よく購入させていただきました。
丁寧にサインもしてくださいました^^

いただいた言葉は、
「いのち輝かせて生きる!」
a0118928_21571112.jpg


愛と感謝をこめて










[PR]
# by ramram-yoga | 2018-09-16 23:00 | 最近のいろんなこと | Comments(0)