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David Fray のピアノ
今宵はDavid Frayのピアノを。

初めて彼の演奏を聴いた時は、ちょっとした衝撃が走りました。

躍動感があって、一音一音の隅々にまで生気がいきわたっているような響き。

バッハピアノコンチェルトBWV1055。


同じくバッハのピアノコンチェルトBWV1056。主旋律がうたいます。


バッハのパルティータも、彼にかかればこんなに鮮やかで独創的な演奏に。



最後に、シューベルト即興曲Op.90 No.3



それでは、おやすみなさい^^



愛と感謝をこめて




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# by ramram-yoga | 2018-05-09 23:30 | music | Comments(0)
看護学生さんへの講義
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今日は、看護学部の学生さんにヨーガ療法の講義をしてきました。
代替療法の授業の一環として、受け持たせていただいています。

ヨーガ療法の講義をした後は、体育館でヨーガ療法の実習も。
最後のヨーガ・ニドラー(休息)では、多くの学生さんが深い意識状態に入っていた様子でした。
以前病院の職員さんにヨーガ指導をしていたことがありますが、看護師さんは身体に意識を向けるのが上手な方が多いように思います。
それは、普段の業務で、目の前の患者さんと心身共に触れ合っていることで、感性が磨かれていくからなのだと思います。
そしてそもそも、看護師を志す人には、そのような感性の豊かな方が多いのだな、と今回思いました。

個人的には、先日息子がけがで病院にお世話になったのですが、その時の看護師さんの心ある対応に非常に助けられ、感激したエピソードがありました。
心身ともに少し弱ったり、動揺している状態の時に、落ち着いて冷静に、そしてやさしさをもって接してもらうことに、どれだけ励まされ勇気づけられるか。
そのような看護師の教育に、少しでも携わることのできるこのご縁を、有難く思いました。

それにしても、10代後半で、看護師になることを志すということ自体、すごいですね。
人が目の前で痛がったり苦しんだり、悲しんだり。
喪失体験や挫折体験を目の当たりにする人達と直に接する職業です。
そうであることを分かった上で、それを自ら引き受けて立つ選択をしている訳ですから。


***********


30代半ばあたりから、にわかに年下の人達が頼もしく思えてきました。
今は年下の人にアドバイスをもらったり、導いてもらったりということも、よくあります。
そして、今回のように尊敬の念を抱いたり。
私もうかうかしてられません^^

生きているということにおいては、年齢の差は関係ありませんね。
自分が置かれた場において、目の前のことに誠実に対峙していく姿には、何にも代えがたい美しさがあります。


感謝をこめて


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# by ramram-yoga | 2018-05-08 22:45 | 活動記録 | Comments(0)
愛着の見直し
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前回の記事(「思考を放っておく」)でも書いた、起こってくる思考を”放っておく”、というやり方を覚えてからというもの、それが面白くて面白くて、暇をみつけてはやってみています。
”放っておく”ことを”やる”、というのは、少しおかしな表現です(笑)
ですが、これまで、それほどまでに無意識的に思考を掴んでいたのですね。

例えば、「あのとき、ああした方がよかったな」と思ったとします。
すると、これまではその思考を引っ掴まえて、”そんなことを思う自分って、まだまだこだわっているなぁ”なんて思いながら、そのような心の反応をしたことについて、地味にネガティブな感情的反応をし、されにいろいろと思いを巡らせていました。
「なんでそんな風に思ったんだろう」とか、「あらあら過去に引きずられてしまってる~!」とか。

でも、放っておくやり方だと、”「あのとき、ああした方がよかったな」っていう思考が今出てきているな~”と、いわば無責任に、まるで他人事のように眺めていることができるのです。
そのような思考が起こってきたことに対する感情的反応が、あまり起こりません。
そして、そのようにニュートラルに眺めていると、その思考は間もなくすーっと行ってしまい、今ここに立ち戻ってくるのです。

こういう視点でみてみると、苦しみというのはどうやら、思考を掴んでいることから生じてきていたようです。
分かっているようで、分かっていなかった。
できているようで、できていなかった。

さて。
それでは今までなぜ、そんなにも思考を引っ掴まえ、フォーカスしてしまっていたのか。
それを改めて考えていたのですが、そこで、これまであまり目を向けようとしてこなかった自分の傾向に目を向けざるを得なくなりました。

それは、自分が”好き”と思うものを追い求める傾向です。
例えば、瞑想中に経験する静かで深い意識状態では、思考の働きがほとんど感じられなくなります。
それは確かに魅力的な意識状態ではありますが、それを追い求めるあまり、そうでない意識状態を知らず知らずのうちに否定的に捉えていたところがあるように思います。

それ以外でも、自分が過去において高揚した体験、感動した体験、やった!と思った体験、アハ体験。
そのような、過去の”よかった”印象(記憶)を握りしめ、それらを知らず知らず再体験したいと追い求める傾向にあったことを認識しました。

私たちは、嫌なものとかシチュエーション、ネガティブな気分など、歓迎しないものについては、どうにかそれらを遠ざける努力をするものです。
しかし、自分が愛着を感じているものについては、意外と無防備。
だって、好きだから。
だって、もっともっと欲しいから。
でも、好きという愛着の感情も、嫌いなものと同じか、時にそれ以上、非常に強い煩悩になりうるのですね。

そう、だから、手放すというのは、ただ単にネガティブな記憶や感情だけではない。
ポジティブな記憶や感情も、同様に手放していく。
正確にいうと、好き嫌い、ネガ・ポジ、といった判断を手放していく。
ただただ、一過性のものとして、眺めて放っておく。

そのためには、”思考は自分のもの”という考えを、まずは横に置いておく必要があります。
空を流れていく雲と同じように、思考を眺めるのです。
雲がどこから来てどこへ行くかなんて、全く私の責任の範疇にはないし、ましてや掴めもしない。
それと同じように、思考に対しても責任を持とうとせず、ゆったりと傍観しておくのです。


*******


”好き”という愛着の感情は、それが強ければ強いほど、苦しみを引き起こす。
それを失うことの苦しみ、実際に失った時の苦しみ、得られなかった時の苦しみ、変化してしまった時の苦しみ。

今まで強力にしがみついていたたくさんの”好き”なものを、再点検するときが、やってきたようです。



愛と感謝をこめて




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# by ramram-yoga | 2018-05-07 23:08 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
思考を放っておく
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先日の記事(どうにかしようとしない)でも書きましたが、湧き出てくる思考を”放っておく”という、今までの私にはない発想がなかなか良くて、繰り返しやってみています。
”放っておく”と思うだけで、フッと気が抜けて笑ってしまい、なんだか楽~になっていくのです。

別にどうこうしなくっても、いいんだ。
放っておけば、いいんだ。

それで初めて気づきました。
今まで、自分の頭の中に沸いて出てくる思考に、責任を持とうとしていたのだ、ということに。
だから、自分の思考を掴み、そして追いかけまわしていたのだなぁ、と。
そしてその責任感は、「思考は自分のもの」と思っていたところから来ていたのだなぁ、と。

そういう意味では、客観視という言葉だけでは、まだ思考を手放すことができていなかったのです。
正確には、客観視できる思考と、どうしても客観視できない思考とがあった。
その点、”放っておく”という言葉では、いとも楽にできてしまったのです、私の場合。
その言葉の持つニュアンスというのは、時に思いもかけないような働きをしてくれるのですね。

さて。
追いかけず、放っておき、観察していると、思考はスーッと流れて行ってしまいました。
まるで、葉っぱが川に流されて行ってしまうように、なんともあっけなく。
頭の中でぐるぐる回って止まらない、ということには、なりません。
思考が頭の中でぐるぐる回る状態というのは、私たちが無理やり思考を引っ掴んで握りしめていることから起こっていることなのだ、ということが分かりました。
今まで分かっていたようでいて分かっていなかったことが、腑に落ちた瞬間でした。

それからというもの、折に触れ、思考を放っておく、ということを繰り返していました。
ふと、あるタイの僧侶の講和を思い出しました。
皆さん一人一人、自分の頭の中に水洗トイレを持っておきましょう、というお話。
どういうことかというと、感情や思考を自分自身の力で流す術を、持っておきましょう、ということです。

今朝、イメージの中で水洗トイレのノブをひねり、自分の頭の中をジャージャー流していた時のこと。
ここ最近ずっとわだかまっていて、こびりついていたこだわりが、流れはじめようとしていることに気づきました。
どうしても、ガンとして譲れなかったこと、これだけは何が何でも守らねばと思っていたことが、ありました。
それが、意外とあっけなく流れようとしているのです。

「え~っ!ちょっとまってぇ~…」

と思いなら、無理に引き留める気にもならず。
そのこびりつきは、ほどなく行ってしまいました。
あんなにしがみついていたのに…、あれはなんだったんだろう。

そして、それらが流れ去った後、ふつふつと、なんともあたたか~いものが湧き出てくるのです。
それは、愛としか言いようのないものでした。
私が思考を引っ掴んで苦しんでもがいている間にも、愛はずっとベースにあって、ずっと私を包んでくれていたのでした。
なぁ~んだ、と、ほっとして、勝手に幻想と対戦していた私に、苦笑いしたのでした。

こうしていつも、私たちは愛の大海原の中にいたことに気づきます。
いくら離れてもまた、私たちが回帰していくところは、愛なんだなぁ。


******


先日読んだ『あなたの世界の終わり』で、エゴをわたしだと思っていることは、実はとても不自然なことなのだ、というくだりがありました。
つまり、思考を自分のものとしているということ自体、非常にエネルギーを消耗しているのだ、と。
そして、わたしの本質がエゴではなく「一(いつ)なるもの」の側にあることに目覚めた時、それまで背負われていた重荷は下り、言いようもない安堵感と開放感がやってくる、と。

今が不自然なら、自然に回帰したい。
今重荷を背負っているなら、重荷を降ろして身軽になりたい。

気づき、手放す。
また気づくたび、手放す。
これを、淡々とやっていく先に、安堵感と開放感があるのですね、きっと^^



愛と感謝をこめて






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# by ramram-yoga | 2018-05-06 18:44 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
思考からの解放


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すべてを手放す。

すべての過去の印象から、解放する。

嬉しかった瞬間。
幸せだった瞬間。
これだ!と思った瞬間。

その時の高揚、ときめき。
その時の感動、キラキラ。

過去のそれらの印象を、追い求めない。
それらは頭の中を繰り返しリピートしている幻想。

そうではなく、今わたしはここにいる。
過去にでも未来にでもなく。
今ここにいる。



すべての思考から、解放する。

こうでありたい!
こうでなければ!
あの時、ああであるべきだった!

だって、あの人があのときこう言ったから!
だって、この本にこうって書いてあったから!
だって、自分はあのときあのように決心したんだから!

・・・でも、わたしは思考ではない。

本来のわたしは、私の頭の中にはいない。
あの人のイメージの中にもいない。
たった今ここに、ありのまま実在している、それがわたし。

思考は吸盤のように、キャッチしたものに吸い付こうとする。
ターゲットにこびりつき、定着しようとする。

でも、生命の本質とは流転。
絶えず動き、流れている。
わたしの本質とは、流れそのもの。

その中で思考だけが、それを固定化しようとしている。
思考だけが、わたしを小さな枠の中に限定しようとしている。

その思考の働きの、ありのままを観る。
すると、それまで固定しようとしていた強力な力が、弱まり始める。
吸引力に注がれていたエネルギーが、失われ枯渇しはじめる。


わたしはどんな信念にも縛られず、ありのままのわたしとして今ここにいることができる。



(最近の写真は、大山崎山荘にて。)

愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2018-05-05 14:01 | "わたし”との対話 | Comments(0)