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心理的な重さと摂食障害
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先日の「スゥーっとした世界」という記事で述べたフェーズにいて、新たに見えてきたことがいくつかあります。
それは、このフェーズにいると、摂食障害の症状の出ようがないのではないか、ということ。
摂食障害だけでなく、他の様々な困難さも低減していくように感じています。

まず、このフェーズにいると、自他の区別があいまいになります。
”わたし”と”あなた”との間に確固としてあると思っていた境界線が、実はそんなにはっきりしていないということに気づくようになります。
ですから、「あの人にあんなこと言われた!」とか「周囲にこういう評価を得たい!」とか、「受け入れてほしい」「分かってほしい」など、つまり対人関係上であれこれ思い煩い、フラストレーションが溜まる、ということが生じなくなります。
がんばって気にしないのではなく、ごく自然に気にならなくなります。

それと同時に、気負う、気構え、プレッシャーといった心理的な”重さ”をあまり感じなくなります。
例えば「〇〇までに〜〜しなきゃ!」という風に気負うことがなくなります。
心理的な重さが減ると、出てくる考えが「しなきゃ」という受動的なものから「しよう」という能動的な言葉もしくは「する」というシンプルな動詞に変化し、実際にその行為に移るまでの時間も格段に短くなります。

そういう意識で振り返ってみると、私が過食嘔吐を繰り返していた時期はいつも、この心理的な重さがありました。
その重さから逃げるようにして、あるいは破壊しようとして、過食嘔吐をしていたように思います。
心理的な重さが無くなると、過食嘔吐する必要が無くなります。
よく、自分の症状は癖になっているだろうから治りにくいのではないかと感じている摂食障害患者さんがおられます。
ですが、私はそうは思いません。
癖だろうがなんだろうが、必要のない症状は出ません。
過食嘔吐という行為は本来苦しいのです、とっても。
自分が何の気負いもない時に、1回たりとも過食嘔吐をしたいなどと思わないし、そんな発想すらわかないはずです。
にもかかわらず、過食嘔吐という苦しいことわざわざするのです。
そこには理由が必ずあるのではないでしょうか。

物質中心の、いわゆる唯物的な世界に主眼を置いて生きていると、そこに心理的な重さが伴いやすく、人生が苦しみに満ちたものとなります。
あるいは、苦しみや苦労があるからこそ幸せが引き立つというような、二極的な価値観の中で生きることになります。
わたし自身も時々、「生きていくということはなんて大変なことなんだろう」と感じていました。

しかし、唯物的な世界から「スゥーっとした世界」に主眼をシフトしていくと、苦しむ必要が無いのです。
自分を苦しめる人は、実はいなかったことに気がつきます。
あなたをジャッジして価値づけをする人もいなければ、受け入れたり否定したりする人もいません。
感情が無くなるわけではないのですが、感情にいつまでも浸ったり振り回されたりすることが無くなります。

摂食障害の症状を持っている人を批判したり、苦しむことを否定している訳ではありません。
なぜそんな状態に陥ってしまうのか、どうしたらそこから抜け出すことができるのか、そのために私に何ができるのかを知りたいのです。
以前は摂食障害で苦しむ患者さんを目の前に、私ができることはひたすら一緒に考え、人生の伴走者となることだと思っていました。
でも、もっとできることがあるような気がしています。

まだまだ私も分からないことだらけです。
このフェーズについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。
そして、さらに違うフェーズも、垣間見えています。
パラレルに存在しているこの世界の、いくつかのフェーズが少しずつ見えてきた。
そんな感覚でいます。



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写真は、昨日小1の息子と訪れた奈良にて。
この酷暑に、鹿も人間もバテ気味でした。
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愛と感謝をこめて




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# by ramram-yoga | 2018-07-17 13:36 | 摂食障害 | Comments(0)
アウトプットありきのインプット
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今日・明日と、いのちアカデミー の講座にスタッフとして参加しています。
今日は松原恵美さん の講座でしたが、アナウンサーをされているだけあって、言葉遣いの精度が高い。
さらに、情報の質が高く、そして膨大。
短時間の内にこんなに膨大な量の情報が発信できるものなのかと驚愕すると共に、人間の持つ底知れぬ能力を垣間見る気がしています。
受け取る側としては、とにかくそれを一身に浴びる。
そして、また日常に戻り、少しずつ少しずつ反芻し、自分なりの言葉と体感ができるまで落とし込んでいく。

前回、前々回の記事(「スゥーっとした世界」、「意識とは何か」)は、まだ自分の中で意識化できるかできないかのところで言葉にしたのですが、今日のえみさんの講座のお話は、もうすでにそれらが前提とされていて、さらにその先の内容でした。

それがよく分かったのは、インプットをする前に、言語化してアウトプットするというプロセスがあったから。
アウトプットをすることで今自分の中にある情報をどのように処理しているかを明確化しておくと、その後のインプットの精度が格段に上がります。
アウトプットありきの、質の高いインプット。


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さて、この夏、アウトプットする機会をいくつかいただいています。

8月4日 第47回日本女性心身医学会学術集会 に、シンポジストで登壇します。

9月2日 第27回ホリスティックナーシング研究会 で、ヨーガのワークショップをします。


7月21日(土)のRam-Ram's Room での研究会は、ほぼ定員に達しました。
あと若干名ご参加いただけますので、もしご興味ある方がいらっしゃいましたら、是非どうぞ^^

愛と感謝をこめて







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# by ramram-yoga | 2018-07-14 23:28 | Infomation | Comments(0)
意識とは何か
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意識とはなにか。
元々、他と区別されるような個としての意識というものがある訳でないような気がしています。
上の絵のように、連続性の中で濃淡のようなものが出現し、ある程度密集して濃度の高まった部分が、まるで個の意思を持ったかのように自律的に方向性を持ち出す。
そんな感覚を持っています。

そんな風に感じるようになったのは、最近のある経験からです。
ある晩、なぜか寝付けず、しばらく手をつけていなかった論文のことが気になって仕方ありません。
布団から起きだし、久しぶりにその論文をひっぱりだすと、その論文自体が何か意思を持っているように感じられました。
しばらくその意思に意識を向けていると、その論文が論文化する方向性を持っていることを感じました。
そして、そこに、論文化されることで自己を発揮し、役立つという目的も感じられました。
この体験には、少し驚きました。

これまで、人間以外の動植物や物に意思や方向性のようなものがあることは感じていましたが、論文という、元々は実体のないものにまで方向性が生じうることを感じたのが初めてだったのです。
方向性や意思というのは、言い換えるとヨーガや東洋医学で言うところの”気(プラーナ)”と同じもののように思います。
この論文は大学院で修士論文に関係していたのですが、意思のようなものが生じたのは、人間という意識生命体がなんども同じところ(修士論文)に意識を向けたことで生じてきたのではないかと考えています。
つまり、人間がある一定の事柄に繰り返し繰り返し意識を集中することで、そこに密集して濃度が濃くなって意識体が出現し、それ自体が方向性を持ち出した。

そんな風に感じられてから、論文は論文としてすでに具現化という方向性を持っているので、その流れを手助けしてあげればいいのだと考えるようになりました。
私が一人でがんばって論文を書く、という感覚が減り、論文の方向性を読み取りながら共同作業をしているという感覚です。
その他のいろいろな事柄との付き合いも、いっぺんに変わりました。


外に敵はいなかったし、私を苦しめるものもなかった。
そして、私は独りではなかった。
最初からずっと。


それが今の実感です。


愛と感謝をこめて







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# by ramram-yoga | 2018-07-14 01:09 | drawing | Comments(0)
スゥーっとした世界
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今年に入ってから、目の前に広がる世界がまた違ってきています。
住んでいる場所は変わらないのに、日々出会うものは変わらないのに、世界の見え方が留まることなく変化していきます。

特に、今週に入ってから、今まで入ったことのないフェーズに入ったように感じています。
一時的なものかと思いきや、数日間続いているので、この感覚を書き留めておこうと思います。

本題に入る前の前提として、私はこの世界はパラレルに存在しているという認識をしています。
実際に、そう感じるからです。
たとえ一緒の空間を共有していたとしても、その人がどのフェーズに起点をおいて存在しているかによって、見える世界とその後の展開がそれぞれ異なります。
触れ合うものの質感も、異なっていきます。

今回入ったフェーズから見える世界は、一言でいうと「スゥーっ」としています。
スゥーっとしか表しようがないほど、何もかもがスゥーっとして感じられます。

いわゆる”現実的”な感覚が薄いです。
といっても、非現実的で地に足がついていないというのではなく、今までガンとして存在するように感じられていた物質世界のリアリティが薄らぎ、より本質的なものがリアリティを帯びてきたと言った方が正確です。
今のフェーズから見ると、物質というのは、精妙なエネルギーの表現型であり、結果なんだなぁという風に感じられます。
10年以上前にヨーガ哲学を学び始めた当初に、より精妙になればなるほど把握しにくく、より強力な力を持つと学びましたが、そのとおりだと実感しています。



また、それに加え、以下のような感覚があります。


二極性の弱まり
私と対象者(物)があまり明確に区別されない。
「わたし」対「あなた」というような、自と他のはっきりした境界が、そんなにはっきりと感じられなくなっている。
両者の間の線引きがあいまいで、そこがまさに”スゥーっ”として感じられるのです。
”生”の対極に、断固としてあると感じられていた”死”の存在感も、薄らいでいる。
このフェーズからは、生と死は対極にあるというよりは、表裏一体もしくは連続性のあるものとして感じられます。


固定性の薄らぎ
物質世界がガンとしたゆるぎないものとしてそこにある、という感覚が弱まっています。
物質の”ガッチリ”とか”ゴツゴツ”という感じが薄らいで、スゥーっとして感じられます。
物質を精妙なエネルギー状態としてとらえると、それぞれ何らかの方向性もしくは意思のようなものを持っているように感じられます。
それら方向性をもっているのは、どうやら生物や物質だけでは無いようです。
そして、その意思をじっと感じてみると、これはまた驚きと感動なのですが、他者に貢献するために自己を十全に発揮することなのです。


”重さ”や”気負い”の消失
フェーズが変わると、世界を支配している法則が変化すると感じます。
何かを手に入れたり、達成したりするために、がんばって苦しんで努力する、という必要が、無くなります。
なぜなら、手に入れたいものも、達成する目標も、現在の自分とはっきり区別できるものではもはやないからです。
ですから、今までだと気合を入れて頑張って立ち向かおうとしてきたものが、今のフェーズに立った時には立ち向かうべきものではなくなっているので、重さや気負いというものがあまり無い。
ガツガツと努力するのではなく、”スゥーっ”と自然体でやっていけるのです。


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いつも、世界観の深まりには、日常で接するヨーガの生徒さんやクリニックの患者さんとのやりとりがリンクしています。
苦しんでいる患者さんを目の前にして、一体私に何ができるのか。
ずっとずっとこれが私のテーマであり、原動力である訳なのですが、繰り返し考えて行きつくところは、自分自身がどう在るか。
私ができることは、自分自身がより本質を理解し、体得し、本質そのものと合一していく以外にないのだという思いを強くしています。



感謝と愛をこめて








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# by ramram-yoga | 2018-07-13 08:06 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
セッション仕様のRam-Ram's Room
Ram-Ramのグリーンは、先月バッサリと剪定され、小ざっぱりしています。
しかし、植物たちの生命力はすごい。
先週末の雨で、またぐんと成長し、緑も深さを増しました。

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本日のRam-Ram's Room は、セッション仕様。
6回コースで、カウンセリングと手当てとを受けていただきました。
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心を深く見つめる作業を、窓から見えるグリーンが見守ってくれていました。

このお部屋でセッションをすると、セッションの展開がスムーズに行き、来ていただいた方の満足度も高いように思います。
不思議な場所です。



愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2018-07-11 00:02 | Ram-Ram's Room の四季 | Comments(0)