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巧妙に働く支配性への気づき
もう10年ほど前のこと。
日本統合医療学会の研究総会が東京大学で開催され、ヨーガ療法学会がデモンストレーションをすることになりました。
そのメンバーになぜか私も選ばれ、安田講堂の舞台でヨーガの実演を行いました(真ん中の青い服が私、左がcocoroyogaの中島朋子さん、右がカルマヨーガスタジオ の生熊恵理さん、その後ろの白い服の男性はチャンドラ・スクール・オブ・ヨーガの古市先生と、大阪幹事長の澤先生)。

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ヨーガ療法士としてまだ駆け出しで、ヨーガを熱心に勉強していた頃です。
自分がメンバーに選ばれたと知った時、私の心の中の何かの波形が振りきれたかのように、過剰に反応したのを覚えています。
つまりは、嬉しかったのです。
心から尊敬し慕っていた師匠が、多数のヨーガ療法士の中から私を選んでくれたことが。
その嬉しさといったら、少し度を超えていて、自分自身でも少し驚いたほどです。
それから、どんどんヨーガ療法の世界にのめりこんでいきました。

それからの私は、いろんな場面で、そのコミュニティの中で良しとされることを熱心にやり、注目され、ほめられ、期待に応え、貢献することを繰り返していました。
それをすること自体、全く苦ではなく、喜びでもありました。
感謝され、頼りにされるポジションは、自分にとってとても心地の良いものでした。
でも、それらがどのようにして生じてくるのかについて、あまりはっきりと自覚できていませんでした。
自分にとっては、あまりに当たり前のやり方だったからです。

しかし、だんだんと見えてきました。
それらの行動は、自分の居場所を確保するためだったということに。
周りから評価されることで、好意的に感じてもらうことで、また頼りにされることで、私は自分の価値を確認しようとしていたのだ、と。
そして、教育分析(自分自身がカウンセリングを受ける)によって見えてきたのは、その動機に”主導権”というキーワードが入っていたということです。
つまり、支配的な魂胆もあったのだ、ということです。

これは、一見、見えにくい構造ですが、人間関係で生じるコントロールという力は本当に巧妙です。
例えば、人が誰かを頼る時、そこには支配性が生じることがあります。
頼られる人が、頼る人に対してコントロールという力が働き始めるからです。
頼りない人と、頼れる人のどちらの言うことに耳を傾かるか?というと、やはり頼れる人ということになりますから。

私は実は、支配的な人間だったんだ。
これは本当に認めがたいことでした。
認めるまで、時間がかかりました。
ですが、心理の師匠から、そのことを幾度となく直面化させられ、認めざるを得なくなりました。

ですが、認めてしまったら意外と楽でした^^


長くなったので、続きは次の記事で。



愛と感謝をこめて





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# by ramram-yoga | 2018-09-22 00:04 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
からだに訊く
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最近のテーマは、「妥協しない」です。
これを、自分なりに突き詰めてみようと思っているのですが、何かを選択するときに妥協しないことを優先してみると、自分の選択や振る舞いが変わってきていて、面白いです。

言葉の感覚で言うと、選択や判断の基準が「これいい」から「これいい」へと、変わります。

今年の春ごろからかなり意識し始めたのが、自分のスケジュールの入れ方。
以前は、そのスケジュールを入れるのが可能かどうかで判断し、可能ならすぐに入れていたのですが、最近は新しくスケジュールを入れることに、慎重になりました。
結果、スケジュールにゆとりができ、バタバタすることが無くなりました。

今は、一つ一つのスケジュールを吟味して入れているので、日々の行事にとりかかる時に気が乗らないということもほとんどなくなりました。
また「これをやっておいた方が後々無難だから」とか「付き合いの手前」といった動機で行事に参加することも、減りました。
一度やろうと決めたスケジュールも、日が経って改めて「本当にやりたい?」と自分に訊き、あんまり気が進まなかったらやめます(迷惑にならない程度に^^)。

そして、結果的に、仕事を含めて”毎日好きなことしかやってない”という感覚が強くなってきています。
好きなことしかやっていないというと、少々我がままな感じもしますが、別の言い方をすると、自分がひとつひとつの作業を納得して能動的・主体的にやっている感覚が増してきている、という感覚です。

こんな風に、妥協せずにひとつひとつの選択をしていこうとするとき、頼りになるのはつくづく自分の身体感覚だなと思います。
からだが秘めている力には、心底敬服します。
まさに「からだは何でも知っている」。

ある事をするのかしないのか。何をするのか、どれを選ぶのか。
その時に、自分の身体感覚を静かに観察してみます。
すると、自分のからだが求めているときは、そのことを頭に思い浮かべると胸の奥がウキウキっとしたりします。
他にも、清々しくなったり、丹田が充実してくる感覚、地に足がつく感覚など、色々です。

からだこそが、頭でいろいろ考えることをよそに、私を予測もしなかった新しい世界に誘ってくれるのです。

「常識的にはこうした方がいい」、「誰々に言われたから」といった、既存の価値観や周囲からの評価からいかに離れ、からだの声を訊くことができるか。
難しいことではないのですが、結構勇気が要ったりします^^
そして、練習が必要です。
そういうことでいうと、ヨーガで長年身体感覚に繰り返し意識を向けてきた経験が、からだの声を訊くセンサーを鋭くさせることに役立ちました。

からだはすごい。
どんなすごい知識よりも、どんなに素晴らしい人の話よりも、私たちはこの自分のからだをこそ深く探求していくことで、そこに眠る計り知れない智慧の宝庫に出会うことができるのではないでしょうか。


愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2018-09-19 20:15 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
意識科学の時代へ
研究会三昧の3連休です。
昨日はRam-Ram's Roomにて、専門職向けの催眠ワークショップを開催し、みっちり実習をしました。

今日は京都にて「宗教と科学の対話研究会」に出席。
この研究会ではいつも、自分が見ている世界を広げてくれるような示唆に富んだ内容のお話を、時代の最先端を行く研究者の方々から直接聞くことができるので、今回も楽しみにしていました。

タイトルは ”物質と精神を統合する意識科学~宇宙は高次元意識場「意識が物質・現象を創る」~”。

今回話題提供してくださったのは、人間科学研究所所長の米田晃先生と、前田技術研究所所長の前田豊先生でした。
お二人とも科学者であり、『意識科学 意識が現象を創る』という著書の編著者でもいらっしゃいます。

私も、今回の研究会に参加するにあたり、その本を読みましたが、最近の量子力学や素粒子物理学の研究を極めていかれる先生方の世界観と、仏教やヨーガ、そして”気”という概念を含むいわゆる形而上学における世界観とは、驚くほど本質のところで一致している、と感じました。

著書の中で、元通産相電総研主任研究官で、日本意識工学会会長でいらっしゃった猪股修二博士の言葉が紹介されていますが、そこにそれが端的に顕れているように思いました。


”この宇宙の究極の要素は意識である。
 物質とエネルギーは意識から生ずる。”


お話の中で、特に印象に残ったキーワードが”ゼロポイント”でした。
潜象界、つまり物質になる前のエネルギーが現象の世界にポンとあらわれ出る時、それはゼロポイントを介してである、ということ。
実と虚とのちょうど境にあるゼロポイント、極みの1点。

目の前にあらわれている現象をより根源的本質的に理解しようとするとき、必然的に目に見えない、精妙な次元に意識を向けざるを得なくなっていきます。
例えば、目の前のクライアントさんを見るとき、表面的な言動や感情的反応にフォーカスするよりも、その奥にあるエネルギー状態や、向かっていこうとする方向性のようなものを感じ取る方がより本質的な理解になると思って、そうしています。
ですが、まだまだ自分の感じとっているエネルギー状態は粗雑で、もっと精妙な視点からクライアントさんを見ることができないかと思っていたところでした。
その究極的な視点が、きっとゼロポイントにあるのではないかと、思っています。
ゼロポイントから、クライアントさんを見ると、どんな風に見えるのだろうか?
そこは二極性を超えている場所であるはずです。


************


講師の先生は、お二人とも、人格的に素晴らしい方でした。
ゆったりとくつろいでいて、参加者のどんな質問にも真摯に耳を傾けて答えてくださいました。

私は特に米田晃先生に親しみを感じ、研究会終了後にご挨拶しましたが、ちょうど先生が1冊だけご著書を持参なさっていて、運よく購入させていただきました。
丁寧にサインもしてくださいました^^

いただいた言葉は、
「いのち輝かせて生きる!」
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愛と感謝をこめて










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# by ramram-yoga | 2018-09-16 23:00 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
自分自身をケアする
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自己肯定感が低く、自信が無い状態に対し、いっそのこと”自分は役立たずで、誰からも期待されない”という状態からスタートしてみる、ということを、先日の記事で提案してみました。
しかし、役立たずだからといって、自分のことをないがしろにしたり、貶めたりするのとは、全く違います。

時々、自分自身をケアすることに対して、抵抗感や罪悪感を持っている方がいます。
例えば、家族を自死で亡くされていたりすると、自分も死んでしまいたいという思いがよぎる。
でも、実際に病気になると、たちまちの苦痛を治してもらいたくて医療機関にかかってしまう。
そして、死にたいはずなのに、楽になれるようなケアを行ってしまう自分を、責めてしまうのです。

そうでなくても、親が不幸そうだったり、過去に誰かに言われた言葉が、自分をケアすることや幸せになろうとすることに対する強力なブレーキになっていることがあります。
正確に言えば、そのブレーキになっているものは実は原因ではなく、それを口実にしてその人が不幸であることを選んでいるのですけれど。

身体が不調の時に、楽になるように自分自身をケアをすることは、とても自然なことです。
これは個の意識を超えた、普遍的ないのちの流れが、そのように意を発し、人間の本能として備わったのでしょう。
この、自分自身をケアするというプログラムが備わっていなければ、人類はとうに絶滅しているはずです。
自分自身をいたわり、ケアをするというのは、いのちの営みなのですね。


**********


自我(エゴ)というと、苦しみを作り出す排除すべき悪者であるようなイメージがあるような気がしますが、実はこの自我が、個としての意識生命体を生かしめています。
ヨーガでいうと、自我は”ahamkara(アハンカーラ:我執)”という内的心理器官であると言われています。
ヨーゲシヴァラナンダ著『魂の科学』によると、この我執から、「私が…」とか「私の…」という意識(アハン・アスミ:aham asmi…)が生じてきます。

我執は、執着への苦しみの元凶となる一方で、解脱をするために最後の最後まで必要不可欠な働きをも持ち合わせています。
「これはなんだろう…?」という好奇心ともいえる意を発する役割を、実はこの我執が行うことにより、真我を識別する智慧に到達することができるのです。


自我は、いつも私たちを助け、いのちの大きな流れが発展するように、働いてもくれています。
要は、使いようによって多大なる苦悩の元ともなるし、いのちを大きく助け、調和に導く立役者でもある訳です。

自分のからだを愛おしみ、いたわる心を持っていたいものですね、お互いに。
あなたのからだは、あなたの私的な持ち物というよりは、個を超えたいのちのあらわれとして、今ここに存在しています。


愛と感謝をこめて




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# by ramram-yoga | 2018-09-11 23:53 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
セラピストとしての原点が覆される
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心理士の職に就いてからというもの、毎週”スーパーヴィジョン”といって、心理職としてのスキルアップのための指導を受けています。
そこで、言葉の一つ一つの出し方、また相手ごとの臨機応変な対応の仕方についても、細かく指導を受けます。
心理カウンセリングを学び始めた当初は、師匠の言葉遣いの精緻な棲み分けに、本当に驚きました。

それだけでも濃密な指導内容なのですが、指導中それを上回る強烈なインパクトをたびたび受けることになります。
何に関してかというと、それは他の誰でもない、自分自身の課題への直面化です。
セラピストが心理カウンセリングをしていると、同じようなシチュエーションのところでうまくいかない、という状態が浮き彫りになってくることがあります。

例えば、決まって患者さんのこんな言動に腹が立つ・動揺するなど感情的になってしまう。
同じようなシチュエーションの時に、いつも自分から話題をそらしてしまう、等。

そんなときは、セラピスト自身の課題(こだわり)がセラピーの進展を阻害してしまっている可能性があり、指導者より教育分析(セラピスト自身がカウンセリングを受ける)を受け、その課題と対峙していくことになります。
これが、なかなかヘビーな作業で、私は今回受けた教育分析で、大学時代からずっとずっと持ち続けていた、セラピストとしての活動の動機が、根幹からひっくり返されてしまいました。

その、自分のセラピストとしての活動の動機は何かというと、「目の前の苦しむ人をどうにかしてあげたい」という思いでした。
音楽療法士時代も、ヨーガ療法士になってからも、心理職についてからも、私のテーマはずっとこれでした。
目の前の苦しむ人を前にするたびに感じる無力感が、色々なことを学び吸収していく強力なモチベーションになっていました。

しかし。
最近、その「目の前で苦しんでいる人をどうにかしてあげたい」という強い想いが、セラピーにおいて裏目に出てしまっているということが、指導を受けていて分かったのです。
本来、苦しみというのは、その人が何かに気づき、学んでいくために訪れているものであるにも関わらず、私は相手がその場で安易に楽になるような言葉をかけてしまう傾向にある、ということが、見えてきました。
つまり、その人からむやみに苦しみを取り上げてしまっていたのですね。

私のこの傾向の裏には、「人の役に立ちたい」という強い欲求がありました。
今回の教育分析では、その思いは本当にはその人の為というよりは、自己満足であるということが、突きつけられました。

これは、衝撃でした・・・。
セラピストとして成長していく中で、いわば原点ともいえるような、セラピストになった動機までをも、捨てていかなければならないのか、と。
師匠から、苦しみがその人にもたらす恩恵について、よく考えるように、という宿題を出されました。
今年はいろんな方面からアイデンティティが崩されていき、その都度びっくりするやら動揺するやらしています。
その一方で、その経過を俯瞰して面白がっていたりもする、今日この頃。


愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2018-09-10 23:07 | 心理学とヨーガ | Comments(0)