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最近、寝る前に子どもに本を読み聞かせるのが、日々の楽しみのひとつになっています。 私自身は幼い頃、両親に毎晩のように本を読んでもらって育ちました。 その経験が、その後の言葉との付き合いにおいて、広がりや楽しみを持つ基礎となっていると思います。 仕事としている間はなかなかする余裕の無かった、本の読み聞かせ。 時間に余裕ができて、真っ先にしたいと思いました。 といっても、もう小学2年生。 漫画や大人向けのバラエティ番組も楽しんでみるようになってきているこの子に、童話はもう幼稚なものに感じられてしまわないか? 試しに図書館で借りて来た童話を、寝る前に息子に読んでみました。 すると、すぐにお話の世界に飛び込み、楽しそうに聴いている息子。 そんな心配はまったく不要だったことが分かりました。 寝る前の本の読み聞かせをはじめて数日たった頃、息子が「お母さん、最近なんで本を読むようになったの?」と聞いてきました。 その唐突な質問に、少々面食らってしまいました。 そう、この読み聞かせは、息子にとってこそ唐突なものだったのです。 そこで 「お母さんはね、前からこんな風に本を読みたいと思ってたんだ。 〇〇(息子の名前)も喜ぶかなぁと思ってやっているよ。 もしよかったら、これからも続けていきたいと思ってるんだけど、いいかなぁ?」 息子の返事を息を飲んで待っていると 「ぜんっぜん、いいよ!」 という返事が、明るい声で返ってきました。 それから毎晩というもの、読み聞かせは私にとっての1日の終わりの楽しみになっています。 昨日読んだのはこちらの童話。 このお話に出てくる、つんつくせんせいは、お茶目でちょっぴりこどもっぽいところがあります。 ある日、子どもたちを遠足に連れていく道中というのに、自分の欲しかったどんぐりに夢中になり、ポケットいっぱいに詰め込みます。 その後、どんぐりの持ち主だったリスからどんぐりを持っていないかと聞かれ、持っていないとシラを切るつんつくせんせい。 しかし、その後楽しくてついついダンスを踊っている最中に、ポケットからどんぐりがこぼれ落ちてしまいます。 どんぐりを隠し持っていたことがみんなにばれ、ばつが悪そうに、でもお茶目に笑うつんつくせんせいと、「せんせい、ずるーい!」といいながらもゆかいに笑うこどもたち。 どんぐりを返してもらったリスは、せんせいとこどもたちにりんごをプレゼントします。 子どもと読みながら、童話の中にながれるゆったりとした、そして寛容な世界観にすっぽりと包まれ、私自身もくつろぎながら眠りにつきました。 そして翌朝。 その、なんともゆったりとしたあたたかな感じに包まれた感覚とともに、目覚めました。 ちまたでは官僚の不適切発言や、SNS上での炎上など、何か少しの失敗に批判が殺到しつるし上げ、謝罪を求められるような余裕のない雰囲気が漂っている。 子どもたちも、少なからずそんな大人たちの世界での出来事を、肌で感じていると思います。 ですがそんな時に、人間のおろかな部分や失敗もひとつの味わいとして寛容に含みこんでいる童話の世界を自分の内側に持っていることは、子どもがこれからいろんな局面を生き抜いていく時の糧に、確かになっていくのだろうと思いました。 そして私自身にとっても、この読み聞かせの時間は自分の子ども時代を追体験をしながら、同時にこれまで子どもたちへ数えきれないほどのお話を書き残してきた大人たちの、沢山の愛と親しみとを感じる時間にもなっています。 愛と感謝をこめて HPはこちら。 #
by ramram-yoga
| 2019-10-30 14:48
| 出産・子育て
ブラックホールも、私が子どもの時よりも解明が進み、その新たな知見を盛り込んだブラックホールについての説明が、子どもにもわかるような表現で書かれていた。 それを読んでいて、ブラックホールについての記述が、ここのところずっと繰り返しイメージとして浮かんできている自分の内側の中心の一点と面白いほどオーバーラップしていたので驚いた。 そして読みながら目を輝かせて興奮する息子と同じように、私も静かな興奮を感じながら読んでいた。 私たちの地球がある天の川銀河をはじめとして、すべての銀河の中心には必ず、超巨大なブラックホールが存在していることが分かってきているのだという。 ブラックホールは、自らの重力で光をも吸い込んでしまうために、真っ暗な大きな円系のものとして観測されるが、その中心は極小の一点であるということ。 そして一番興味深かったのは、ブラックホールは、「ジェット」と呼ばれるガスの噴出をしていて、実はそのジェットが銀河を作っているのではないかというのが、最近の知見なのだそうだ。 これが本当だとすると、ブラックホールはただ、物を吸い込むだけではなく、新たなものを創造していく莫大なエネルギーの宝庫だということになる。 そしてそのジェットは、銀河をゆうに突き抜けるほどのスケールの大きさなのだということだった。 そしてそのジェットのイラストが描かれていた。 真っ暗な宇宙に閃光が走るように飛び出し、花火のようにひらいていくジェットの様子。 それが、自分の内側で起こっていると感じていたことと重なった。 これだ、と思った。 周りのもの吸い寄せる強い求心力を持ち、同時にそこから爆発的な創造力を発揮させていく、中心の一点。 この、すべての銀河の中心にあるブラックホールと同じようなものが、ひとつひとつの生命体の中心にある。 愛と感謝をこめて #
by ramram-yoga
| 2019-10-25 11:05
| 中心の一点
今回の8年ぶりの出産は、自分自身の在り方を問い直す、ひとつの大きな転機になったと思う。 それまでしてきた活動を一旦すべて止めてみて、初めて見えてきたことが色々とある。 上の息子を出産してからの8年間は、間もなく始めた心理学の勉強をきっかけに、次々と新たな活動を展開させていくことができ、とても充実した期間だったと、振り返って思う。 外向きには。 でも一方で、後回しにしてきたものがあったとも、思う。 そしてその、後回しにしてきたものについて、最近よく考えている。 何をかというと、それは家庭のこと。 今の私は、全面的な家族の支えがあってこそ、こんな風に活動することができている。 夫が理解のある人で、本当によく家事・育児に協力してくれている。 子どもも1歳の頃からずっと保育園に行きながら、忙しい私に合わせてくれていた。 そのことについて、自分はとても恵まれていると、ずっと思っていた。 いつもそんな家族に感謝していた。 でも、この8年間を振り返っていて、単に恵まれていたことへの感謝で終わらせるには、あまりにきれいごと過ぎるように思えてきた。 実はうすうす感じていて、見ないようにしていただけなのかもしれない。 ”犠牲”という言葉が嫌いで、なるべくならこの言葉を使いたくないし、使わないようにしてきた。 でも、敢えてこの言葉を使い、私がこれまで払ってきた犠牲について、反省したいと思っている。 ************* 今回の産後、洗濯物を取り入れて座ってたたんでいた時に、そういえばここ数年、洗濯物を座ってたたんだ記憶がほとんどないことに驚いた。 それくらい時間に余裕がなく、バタバタとしていた。 仕事関係の予定を充実させればさせるほど、結果としてどうしても、家庭にかける時間とエネルギーを削ることになってしまっていた。 活動量の充実=人生の充実 というように、どこかで考えていたのだと思う。 今は以前に比べて、外向きの活動量は明らかに減り、その中で違った感覚での充足を感じている。 充実を得るためにどこかに向かっていくのではなく、今ここで充足しているという感覚。 活動量が減ったことで一番良かったと思ったのは、子どもの色々な変化に、その都度ゆったりと対応ができるということ。 ゆっくり話を聴いたり、勉強をみたり、本を読み聞かせたり。 以前は学童保育に預けていたので、仕事を終えて夕方息子を迎えに行き、そのまま夕飯の準備からお風呂、寝るまでほとんどゆったりと過ごすことができていなかった。 それが今は、 「子どもが私に合わせる生活」から 「私が子どもに合わせる生活」へと 変わってきたと思う。 今回、はっきりと実感したことは、今ここに充足している、ということを感じながら生活するには、実際の活動量は多すぎてはいけない、ということ。 そして、子どもに丁寧に対応するゆったりさというものが、母親には必要だということ。 勿論子育てにはいろんなスタンスがあって、いい悪いはないのだけれど、少なくとも私自身はそうしていきたいと思った。 一度、息子に、以前の忙しくしていた頃のことについて謝ったことがある。 すると息子は、 「でもねぇお母さん。 学童もいいもんだよ。 友達もいたし、漫画も読めたし。」 と、申し訳なさそうにしていた私をなぐさめるように言ってくれた。 そんな息子の思いやりを、心からありがたいと思った。 でも一方で、それに甘えているだけではいけないと思った。 そう言わせている側面も、やはりあったのではないかと思う。 その証拠に、私が産休に入ったことで学童に行く必要がなくなってからというもの、息子はもう学童には行きたくないと言い出した。 この、子どもの気遣いと愛情を、私は濫用していなかったか。 自分が高校生で不登校になり、それまで母に持っていた不満や悲しみを本人にぶつけた時、母が私に言った言葉に意外なものがあった。 「あなたは分かってくれてると思っていた」 つまり、親は親なりに一生懸命子どもに愛情を注いでいるし、努力しているということが、ちゃんと子どもにも伝わっていると、母は思っていたのだ。 だけれど、実際の私は、常に親の機嫌を伺いながら、家庭での居場所を確保するために我慢していい子にしていたという記憶がある。 ここに親と子の認識の、大きな乖離がある。 親子はそもそも対等ではない。 体力、経済力をはじめとした実際的な権力は、親が握っているのだ。 親子が対等に付き合う重要性が叫ばれるのは、そもそも対等ではない、この力関係からスタートしているからである。 確かに、子どもには心の傷を自ら癒し回復させていく回復力(レジリエンス)があるし、自分の人生を自分で意味づける力がある、という風に、子どもの力を信じるのはとても大切なことだ。 でも、それを都合のいいように理解して、自分の活動に夢中になっていなかったかと、自問自答している。 親が自分のやりたいことをいきいきとやっていくのは、素晴らしいことと思う。 ただ、やりたいことをやるならそれなりの後始末というものがあり、私はそれがおろそかだったのではないかと感じている。 つまりそれが、家庭での余裕の無さとしてあらわれていた。 余裕が無いという自覚さえあまりなかった。 そういうもんだと思っていた。 今回の出産で余裕ができて、初めて余裕が無かったのだと自覚した。 大小問わず、集団の中で、発言力のある人、目立つ人、勢いのある人、能力の高い人、経済力のある人というのは、やはりそれなりに力を持つ。 そして、力を持つ人が活躍し、輝く時、そこにひずみがある場合、そのしわ寄せを引き受ける存在がいる。 それが家庭内では、子どもである場合が多い。 女性の場合もある。 社会においては、あるいは社会的弱者と呼ばれる人に当てはまるかもしれない。 でも、しわ寄せを引き受ける人達に、「それはあなたの責任よ」と、そこで切り離してしまうと、それはつまるところ自分自身のある側面を分断してしまっているのと同じではないだろうか。 自分が活躍できている時には、必ずそれを支えている人がいるし、もしかして何かをいやがおうなくひきうけさせている場合もあるのだということを自覚しておくのは、大切なことだと思う。 では、そうしていくためには、どうすればいいのか。 それは結局のところ、自分で自分の後始末をする、ということなのではないかと思う。 自分の欲求を満たすために、誰かに何かを押し付けたり、搾取したりしていないかどうか。 自分自身のネガティブな感情を、人に当たり散らして消化するのではなく、自分自身の中で消化しているかどうか。 それができている人が、真に自立した人間だと言えるのではないだろうか。 そして、自立することが、結果として他者と調和し共生することにつながっていくのだと思う。 愛と感謝と、そして自戒をこめて HPはこちら。 #
by ramram-yoga
| 2019-10-25 03:21
| 出産・子育て
去年あたりから繰り返し何度も脳裏に浮かんでくる点のイメージが、ここ数日でまた一段と深化した感がある。 現象の背後にあるものは何かを辿っていくと、つまるところ一点になった。 自分の内側にある、現象が生まれ出てくる、中心の一点。 現象の世界は、絶えず発展している。 多様化し、個性化し、さらに進化・超越する方向へ。 でも、その発展は、点から繰り広げられている。 その点の方へとまっしぐらに向かわせるような、求心力が一方である。 その一点に、あらゆる可能性が秘められた、躍動する無限が息づいている。 静寂なのに、そこから生み出されるものは華々しく音や色に彩られている。 普段、外側に見ているものは、実はそこから映し出されているし、外側から取り入れていると感じているものもまた、そこから生み出されている。 以上のように考えるとすれば、どのような生き方になるか。 何か得たいものがあるとするなら、外側へ向かって求めるのは方向が真逆になってしまっている。 本来、自分の内側に深く潜って、汲み取りにいくものなのだから。 何か表現したいものがあるとするなら、最初から外側に向かって出すというよりは、中心の一点に落とし込み、そこから発していく。 つまり、外側で見聞きした知識や言葉をそのまま使うのではなく、一度”自分”という個を通して自分の言葉と感性で表現していく。 中心の一点とは、私の感覚では確かに、他のどこでもなく、自分の内側にある。 誰かの教えや言葉の通りに生きていこうとすると、どこかで頭打ちしてしまう。 これまでいろんな言葉や世界観に触れてきて、魂が震えるほどに共感するものにも出会ったけれど、では自分の感性と照らし合わせてみて、その表現のとおりなのかというと、どれとも微妙に違う。 借り物の言葉や世界観で生きると、どうしても自分の感性とのずれが生じてしまう。 そうすると、”他者”という存在を自分で作り出すことになり、それに影響を受けるという客体としての性質を持ちながら生きることになる。 本当は自分こそが主体であるのに。 自分の感覚に根差した感性で、自分で吟味した言葉を使って、存在し、表現していく。 それをどこまで究めることができるか、そこから何が展開していくのか。 そんなことを考えている、今日このごろです。 愛と感謝をこめて HPはこちら。 #
by ramram-yoga
| 2019-10-17 23:47
| 中心の一点
昨日の午後、ふと気づくと憂うつな気分になっていた。 そこで、ゆったりとソファに座り、生じてきている憂うつな感じに意識を向けてみることにした。 憂うつの中に入って浸り、じっくり味わってみる。 憂うつを嫌ったりごまかそうとするのではなく、親しみを持って関心を向け、味わってみようという態度をとるとき、すでにそれは憂うつではなくなっている。 憂うつな感じというのは、心への気づきが鈍くなっている時に生じるものだと、今では理解している。 ********** 過去の私は、憂うつになるべきではないと考えていた。 憂うつを否定し、避けようとしていたので、そのの正体をよく理解しないまま、感じないようにしていたと思う。 でもその結果、憂うつは無くなるところかどんどん大きくなり、それに翻弄され、コントロール感覚を失ってしまうまでになってしまっていた。 そして長い間、そのコントロールできない”何か”を、怖いと感じていた。 本当は、見ないように背を向けていたその”何か”にこそ意識を向け、よく観察してみればよかったんだなぁと、今になって思う。 自分に生じてくるネガティブな感情を観察している中で、結局私は何を一番譲りたくないのかを繰り返し考えていた。 そしてそれは、まさに今ここに存在している、ということへの気づきであるということがはっきりしてきた。 反対に、今ここにいるということへの気づきを失い、今に自己が不在であることを、私はもうやめていきたいと思う。 もう二度と、今を見失いないながら生きるということを、したくない。 まだまだ、気づきが鈍ることはある。 だけど今は、その状態に陥りそうになった時、もしくは陥ってしまった時に、そんな自分に気づき、今ここに立ち戻ることができるという感覚があり、その術も知っている。 気づきという行為は、深めれば深めるほど奥深い。 気づきは主体的な感覚を伴った行為であり、今この時を生きている自分という存在の主人は自分自身であるという決意表明である。 私は他の何でもなく、これをこそ求めていたのだ、と。 何かを成し遂げることではなく、毎瞬今ここにいることに気づくこと。 未来でもなく過去でもない、まさに今ここに在り、それを充実させていくということ。 その感覚を長い間、後回しにしてきたのだと思う。 人生で成し遂げたいことに向かっていくことに、コミットしようとするあまり。 でも今、はっきり言えることは、今ここへの気づきをないがしろにしてまで、やるべきことは何もなかったのだ、ということ。 そしてこれは、周りの何にも依存しない。 周りがどうであれ、私が気づきを失いさえしなければ、常に立ち戻ることが可能なのだ。 わたしが、まさに今ここに実在しているという真実。 その真実そのものとして在る。 究めていきたいことがあるとすれば、このことだ。 愛と感謝をこめて ショパンの舟歌。 アシュケナージのピアノで。 HPはこちら。 #
by ramram-yoga
| 2019-10-12 16:25
| 最近のいろんなこと
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