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一点集中、みるみる
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先日29日は、沖縄でいなふくクリニックを開業されている、精神科医の稲福薫先生の大阪での治療・体験会に行ってきました。
この会に行こうと思ったきっかけは、先生のご著書である『無の精神療法』を読んだことです。
稲福先生によれば、すべての精神病は、親の不調和波動に影響されて起こっています。
ですから、病気を治そうと思えば、まず本人か、本人にかかわる誰かがその不調和波動から抜け出すことが必要であるということです。
医療者自身が不調和波動から抜け出した状態で、病の人を見る。
そうすることで、精神病は必ず治すことができるのだと。
これには、衝撃を受けました。

また、文章もさることながら、たびたび登場するイラストにも衝撃を受けました。
そこには、不調和波動に侵されている人と、そこから抜け出した人のイラストが何度も登場するのですが、見るだけでドキっとするのです。
まさに、不調和波動に侵されている人のイラストは、普段かかわる患者さんの悩み苦しむ姿そのものであり、自分が悩み苦しんでいる状態の時そのものであったのです。
この先生は、病というものの本質を見抜いておられるのだな、と思いました。

その後、今年に入って脳梗塞で死をさまよった後、生還され、いよいよ確信が深まったという稲福先生。
先生によると、私たちの正体は、”ぽっかり穴”なのだそうです。
すべての苦しみは、私たちが”個人”だと思っていること。
苦しみから抜け出すには、ぽっかり穴を見つめ、そして、最終的に自分がぽっかり穴そのものであったことに気づく以外にないのだ、ということです。
それが本当なら、ぽっかり穴を見てみたい。
そしてできることなら、そのぽっかり穴そのものであるという体験をしたい。
そんな思いで、今回の治療会に参加しました。

*********

名前を呼ばれ、診察ルームに入ると、初めて見る稲福先生の顔は何とも優しく、ひと目見て深い親しみを感じました。
今回、個人的要望として、「ぽっかり穴を見る、ぽっかり穴そのものになる」ことと、「日々出会う患者さんの苦しみをどうしたら解消できるかを知りたい」ということを紙に書き、先生にお渡ししました。
先生はそれを見て笑顔で、「そうです。できますよ。」と頷いた後、「あなたがこれまで勉強してきた心理学の知識なんて全く役に立たない!」とおっしゃいました。
それを聴いて思わず苦笑いしてしまった私ですが、稲福先生に「あなたもそれが分かってるから、ここに来たんでしょ?」と言われ、「はい、そうです」と素直に返答しました。

そして、”ぽっかり穴”への誘導へ。
「僕の左目を見ておいて、一点集中、みるみる」と言われ、そこをずーっと見ていると、思考が停止して何も考えることができなくなってきました。
「そうそう、それそれ」と、しばらくその状態でいると、「これが、ぽっかり穴」と、言われました。
へっ?こんなにすぐなれるものだったの?
…というのが正直な感想です。
とても懐かしい、そして安堵した感じがしました。

「この状態で、患者さんを見ておくの。
 あなたがただ、この状態でいればいいの。
 あなたがこの状態でいれば、患者さんの苦しみは無くなるから」

と先生に言われ、その後この状態をからだにしみこませるために、別の部屋で20分休ませていただきました。


**********


あれから、あのぽっかり穴になった時の状態を、繰り返し思い出していました。
そうやって思い返してみると、ぽっかり穴は、初めての経験ではなかった。
幾度となく体験していたような気がする、特に、子どもの頃に。

そして、ぽっかり穴の状態で私を見ている稲福先生のまなざし。
あのまなざしで、今までにも何度も見られたことがあったことを思い出しました。
何よりも…自我意識とは別の、もう一人の自分がこのまなざしで絶えず自分のことを見ていた、ということに気づきました。
もう少し、この感覚を、自分の中で深めていきたいと思います。

*********

稲福先生の治療・体験会は、今度は9月23日にあるそうです。
1回5000円で受けられますので、ご興味のある方は、行ってみられてはいかがでしょう。
ホームページの「治療会のお知らせ」に、詳細が掲載されています。
Facebookでの稲福先生の記事も、かなり頻回に更新されています。

先生によると、ぽっかり穴がどういうものかを一度体験しておくと、今の状態がぽっかり穴なのかそうでないのかを判別することができるから、体験しておくことは大事だ、ということですよ^^



愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2018-07-31 16:32 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
”権力”という力
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日常で、対人関係において働く”力”のようなものを感じることがあります。
誰かからのプレッシャーを感じるとか、圧力をかけられるとか、権力や支配力を行使されるとか、特定の人に圧倒されるとか。

その現象を、よくよく観察してみる。
すると、あたかも権力という力が実在し、支配力が働いているようでいて、実はそうではなかったのだということに気づきます。
権力という力には、実体はなかった。
ただ、自分が作り出していた錯覚だった訳です。

人の言動から感じ取ったことを”権力”あるいは“圧力”と解釈し、そこに反応した人だけが、その力関係の中に組み込まれ、縛られていきます。
そして、支配する側ー支配される側という二者関係ができあがることになります。
でも、支配する側も、支配される側が存在しないと自分たちが成り立たないという点で、絶えず支配される側に依存しています。
支配する側も、支配される側も、ともに二極対立的な価値観の中に取り込まれているという点では、不自由です。

では、実際に、どんな感覚の時に、私たちは人の権力に支配されているのか。

それは、「~させられている」と感じる時です。
他にも「~された」、「誰々のせいでこうせざるをえなかった」と感じる時です。

このような感じは、自分が相手に対して”受け身”の時に生じる認知的反応です。
もう少しいえば、被害者的になっている時です。
もっと率直に言えば、今の自分の状態の責任を、相手にとらせようとしている時に出てくる言葉なのです。

被害者でいるということは、ある意味楽なのです。
自分が今不幸なのは、自分ではない誰かのせいなのですから。
でも、本当はとても苦しいのです。
だって、自分を自分で無力な存在として認め、貶めてしまっているからです。

では、その被害者から抜け出すには、すなわち権力から解放されるには、どうしたらいいのか。
それは、言葉のレベルでは、すべて能動的な言葉に置き換えていくというプロセスを伴います。

つまり「~させられている」を「~している」に、変えていきます。
「~された」のではなく、あくまで相手はただそのような言動をした。
それに対して、「~されることを許した」あるいは「された感を感じた」のは自分です。
すべての行動は、させられたのではなく、自分の決断の上でしたのだ、と、ひとつひとつ確認していくのです。

これは、受け身的な態度が身についている人にとっては、かなりヘビーな作業です。
今の自分のあり様の責任はすべて自分にあるのだ、ということを、徹底して突きつけられるからです。

今、たちまちできなくてもいいから、できるところから、やっていけばいいと思うのです。

ちなみに、やらないという選択は、あまりお勧めしません^^;
なぜなら、あなたはそんな無力な存在ではないからです。


感謝と愛をこめて



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by ramram-yoga | 2018-07-26 22:22 | | Comments(0)
花ひらく

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その方とはもう、長い付き合いになります。
先日その方のからだに手をあてていると、それまでずっと、ただただ静かで静寂だったところから何かがうごめき出そうとしているのを感じました。

何と表現したらいいのか、春に植物たちが一斉に芽吹き始める少し前のような、そんな感じです。
そしてそれから少し経ってまた彼女と会った時、花が開いていくようなイメージが繰り返し浮かんでくる。

「いのちの細胞が輝くことをしたい」

と言った、彼女の表情を眺めながら、あぁ、彼女にしか咲かせられない花を、これからひらいていくのだと思いました。
愚直なまでに真っ直ぐで、そして豊かな感受性と深い洞察力を持ちながら生き抜くその姿が、すでに人(私)にこんなにも影響を与えているのですけれどね^^

それにしても、”いのちの細胞が輝く”って、すごい言葉です。
それがどういうことが、分かっている人にしか、口にできない言葉だと思うのです。


**************


今日は、タテタカコさんの歌を。







愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2018-07-24 11:41 | music | Comments(0)
子どもの無条件の愛
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昨日は勤務先クリニックで開催された、摂食障害の患者会に出席していました。
色々と思うことがありました。

摂食障害の子どもを持つ母親は、だんだんと、子どもを条件付けで評価することをやめ、子どものありのままを全て受け入れようという考えに変わった時、ただただ我が子が生きてくれていたらいい、と思うようになる。

もちろんそれは、そこに至るまでに、本当に沢山の試練を乗り越えてきたから。


でも。
そんな親ばかりではない。
むしろ、そんな親の方が少ないのかもしれない。


親が変わらないと悟った時、あなたは手放していかなければならないかもしれない。
親から愛されたいという思いを、手放す。
でもそれは、あきらめて、甘んじて不運を受け入れるのとは、少し違う。
不幸な親かもしれない、かわいそうな親かもしれないし、全く何にも分かってくれない親かもしれないけれど、そんな親は親として自分の人生をそれなりに生き抜いていくのだと、信頼し任せるというプロセスでもある。
あなたは、親という荷物を肩から降ろし、あなたの人生を歩んでいく。


そして、あなたは、誰の承認によっても、何の価値基準によっても決められることのない、絶対的な価値を自分の中に見出していくという段階に入っていく。
あなたは、ただあなたであるということが、何事にも代えがたく貴いのだから。

「わたしは、いまのままのわたしでいい」

絶対的な安心感の中で、心からそう思えるように。
本当はもとから、何もあなたを価値づけるものは何もなかったことに、気づき始める。

そして、そこはゴールではなく始まり。
あなたが、そこから花開いていく。



**************


時々、親よりも、子どもこそが親を無条件に愛していると感じることがあります。

ただただ、お母さんが好きで好きでしょうがない。
お母さんに笑顔でいてほしい。
お母さんを守りたい。


世の中のお母さん、気づいていますか?
あなたの子供が、どれだけあなたを愛しているのかを。



感謝と愛をこめて

(写真は、花壇のマリーゴールド。
 猛暑の中、可憐に花壇を彩ってくれています。)



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by ramram-yoga | 2018-07-23 21:15 | 摂食障害 | Comments(0)
【Ram-Ram's Lab】第3回研究会を開催しました
昨日は、山崎こころとからだ研究会(ラムラム・ラボ)第3回研究会を開催いたしました。
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今回のテーマは、「イメージ動作法~動作によって体験の在り方を変容させる東洋的心理療法」。
イメージ動作法を開発された冨永良喜先生(兵庫県立大学防災復興政策研究科教授)をお招きし、理論と実践をみっちり行いました。
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12名の熱心なセラピストやボディワーカーの方々が、それぞれの思いと熱意をもって参加してくださいました。
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冨永先生の教示により、様々な課題動作を行い、心の変化を観察します。
私も今回、姿勢や動作によってこんなに意識状態が変化していくものなのかと、改めて衝撃を受けました。
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研究会後は、徒歩3分の場所にあるうどん屋さん「かぎ卯」へ。
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水無瀬神宮のご神水を使って作っているという美味しいうどんをいただきながら、話に花が咲きました。
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大学院時代の恩師の冨永先生と。
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今から4年前の2014年。
兵庫教育大学大学院に入学し、10人以上いる臨床心理学コースの先生のうち、どの先生のゼミに入ればいいのかと少々途方に暮れていた時、私がヨーガをやっていることを知った冨永先生が、「うちのゼミにおいで」と声をかけてくださいました。
そして、2年間の間、研究のみならず、たくさんの貴重な体験をさせていただきました。

先生のご専門のうちひとつは、学校教育におけるストレスマネジメントで、よくストレスマネジメントの授業をしに小学校・中学校・高校へ出向きました。
また、もう一つのご専門であるトラウマティックストレスや大規模災害後の心理支援の一環として、イメージ動作法を学びました。
ヨーガに深い理解と敬意を持ってくださる先生について大学院で学べたことは、私にとってはとても幸せなことでした。

冨永先生、そしてご参加くださった方お一人お一人に、心から感謝いたします。


さて、今回はインプット中心で、実際に教示を出す練習ができませんでしたので、来月の研究会ではイメージ動作法の練習会をします。
体験するだけと、実際に相手を前にこちらがインストラクションを出す練習をするのとでは、自分の身になる質が違います。
なので、来月はみっちり練習をし、自分の身に落とし込んでいきましょう^^
今回ご参加なさった方も、今回は参加できなかったけれど興味がある方も、是非お越しください。
最初、前回の復習も兼ねて、やり方を丁寧にファシリテートいたします。


 第4回研究会 「イメージ動作法の練習会」
 日 時:8月11日(土・祝)13~17時
 内 容:イメージ動作法の練習
❶反復イメージ動作法(ネガティブな感情の低減)
❷解決イメージ動作法(自分の理想像を描き、近づく)
 会 費:1,000円


お申込は、こちら よりどうぞ。
ご一緒できるのを、心よりお待ちしております。


愛と感謝をこめて


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by ramram-yoga | 2018-07-22 19:01 | Ram-Ram's Lab | Comments(0)
命がけで相手と向き合う
facebookで、精神科医の稲福薫先生の記事を拝読しています。
いつもすごい記事ですが、今朝のは特に響きました。

命がけで相手と向き合う。
私が理想とする医療者の姿です。
それをどこまで極めていけるか。

さすがに、取っ組み合いの喧嘩まではしないと思いますが(笑)


以下、稲福先生の文章を、敬意をこめて転載させていただきます。
********


『ある青年と取っ組み合いの喧嘩をした。』

アルコール依存になっている青年が、
母親とやってきた。

わたしは、
「あなたは親に甘えている。それがすべての苦しみの原因だ。」
と言った。

すると、
青年は逆上して、
「なにをー!」
と、わたしに凄んで突っかかってきた。

わたしは売られた喧嘩は買う。
そして、必ず勝つ。
それがわたしの流儀。
なぜならば、
わたしは常に命がけで生きてきたから。
毎週の空手でもそれを稽古している。

相手が自分より体力が上でも、勝つ。
なぜなら、
わたしが命を賭けて相手に向かえばいいのだから。
それに対して、
ほとんどの人はただ外見だけ凄んで見せているだけだから。

青年と取っ組み合いをして、
首を絞めてやった。
なめんなよ。
このクソ野郎!
こちらは命を賭けて生きてんじゃ、こら!
このクソ野郎が!
と言いながら。

すると、
うちの職員の女性3、4人が
中に入って、
無理矢理に二人を引き離したが、
母親のほうは側で見ていて涙を流していた。

青年は
「チッ!」と
クリニックを飛び出して行った。

引き離されたわたしは息をゼーゼーさせながら、
(65歳の体ではさすがにきつい。)
「これも治療の一つです。」
とそばにいた母親に言った。

母親は
「わたしが口にできなかったことを言ってもらいました。」
と感謝していた。

親が命がけで子供に向かうことでしか、
子供の問題は解決しない。
親の代わりにわたしがやってあげただけである。

彼は二度とわたしの所にはやって来ないかもしれない。
でも、
一生忘れることができない「喝」が入ったはず。
それが彼を治すことになる。


**********


7月29日、沖縄在住の稲福先生が大阪で治療会をなさいます。
私も参加しますし、まだ若干空きがあるそうです。
先生によれば、私たちの正体とは「ぽっかり穴」という穴なのだそう(!)
もしそれが本当だとするなら、それを是非とも実体験しなければ。

先生のHPはこちら



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by ramram-yoga | 2018-07-18 22:30 | ことば・メッセージ | Comments(0)
心理的な重さと摂食障害
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先日の「スゥーっとした世界」という記事で述べたフェーズにいて、新たに見えてきたことがいくつかあります。
それは、このフェーズにいると、摂食障害の症状の出ようがないのではないか、ということ。
摂食障害だけでなく、他の様々な困難さも低減していくように感じています。

まず、このフェーズにいると、自他の区別があいまいになります。
”わたし”と”あなた”との間に確固としてあると思っていた境界線が、実はそんなにはっきりしていないということに気づくようになります。
ですから、「あの人にあんなこと言われた!」とか「周囲にこういう評価を得たい!」とか、「受け入れてほしい」「分かってほしい」など、つまり対人関係上であれこれ思い煩い、フラストレーションが溜まる、ということが生じなくなります。
がんばって気にしないのではなく、ごく自然に気にならなくなります。

それと同時に、気負う、気構え、プレッシャーといった心理的な”重さ”をあまり感じなくなります。
例えば「〇〇までに〜〜しなきゃ!」という風に気負うことがなくなります。
心理的な重さが減ると、出てくる考えが「しなきゃ」という受動的なものから「しよう」という能動的な言葉もしくは「する」というシンプルな動詞に変化し、実際にその行為に移るまでの時間も格段に短くなります。

そういう意識で振り返ってみると、私が過食嘔吐を繰り返していた時期はいつも、この心理的な重さがありました。
その重さから逃げるようにして、あるいは破壊しようとして、過食嘔吐をしていたように思います。
心理的な重さが無くなると、過食嘔吐する必要が無くなります。
よく、自分の症状は癖になっているだろうから治りにくいのではないかと感じている摂食障害患者さんがおられます。
ですが、私はそうは思いません。
癖だろうがなんだろうが、必要のない症状は出ません。
過食嘔吐という行為は本来苦しいのです、とっても。
自分が何の気負いもない時に、1回たりとも過食嘔吐をしたいなどと思わないし、そんな発想すらわかないはずです。
にもかかわらず、過食嘔吐という苦しいことわざわざするのです。
そこには理由が必ずあるのではないでしょうか。

物質中心の、いわゆる唯物的な世界に主眼を置いて生きていると、そこに心理的な重さが伴いやすく、人生が苦しみに満ちたものとなります。
あるいは、苦しみや苦労があるからこそ幸せが引き立つというような、二極的な価値観の中で生きることになります。
わたし自身も時々、「生きていくということはなんて大変なことなんだろう」と感じていました。

しかし、唯物的な世界から「スゥーっとした世界」に主眼をシフトしていくと、苦しむ必要が無いのです。
自分を苦しめる人は、実はいなかったことに気がつきます。
あなたをジャッジして価値づけをする人もいなければ、受け入れたり否定したりする人もいません。
感情が無くなるわけではないのですが、感情にいつまでも浸ったり振り回されたりすることが無くなります。

摂食障害の症状を持っている人を批判したり、苦しむことを否定している訳ではありません。
なぜそんな状態に陥ってしまうのか、どうしたらそこから抜け出すことができるのか、そのために私に何ができるのかを知りたいのです。
以前は摂食障害で苦しむ患者さんを目の前に、私ができることはひたすら一緒に考え、人生の伴走者となることだと思っていました。
でも、もっとできることがあるような気がしています。

まだまだ私も分からないことだらけです。
このフェーズについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。
そして、さらに違うフェーズも、垣間見えています。
パラレルに存在しているこの世界の、いくつかのフェーズが少しずつ見えてきた。
そんな感覚でいます。



************

写真は、昨日小1の息子と訪れた奈良にて。
この酷暑に、鹿も人間もバテ気味でした。
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愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2018-07-17 13:36 | 摂食障害 | Comments(0)
アウトプットありきのインプット
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今日・明日と、いのちアカデミー の講座にスタッフとして参加しています。
今日は松原恵美さん の講座でしたが、アナウンサーをされているだけあって、言葉遣いの精度が高い。
さらに、情報の質が高く、そして膨大。
短時間の内にこんなに膨大な量の情報が発信できるものなのかと驚愕すると共に、人間の持つ底知れぬ能力を垣間見る気がしています。
受け取る側としては、とにかくそれを一身に浴びる。
そして、また日常に戻り、少しずつ少しずつ反芻し、自分なりの言葉と体感ができるまで落とし込んでいく。

前回、前々回の記事(「スゥーっとした世界」、「意識とは何か」)は、まだ自分の中で意識化できるかできないかのところで言葉にしたのですが、今日のえみさんの講座のお話は、もうすでにそれらが前提とされていて、さらにその先の内容でした。

それがよく分かったのは、インプットをする前に、言語化してアウトプットするというプロセスがあったから。
アウトプットをすることで今自分の中にある情報をどのように処理しているかを明確化しておくと、その後のインプットの精度が格段に上がります。
アウトプットありきの、質の高いインプット。


***********


さて、この夏、アウトプットする機会をいくつかいただいています。

8月4日 第47回日本女性心身医学会学術集会 に、シンポジストで登壇します。

9月2日 第27回ホリスティックナーシング研究会 で、ヨーガのワークショップをします。


7月21日(土)のRam-Ram's Room での研究会は、ほぼ定員に達しました。
あと若干名ご参加いただけますので、もしご興味ある方がいらっしゃいましたら、是非どうぞ^^

愛と感謝をこめて







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by ramram-yoga | 2018-07-14 23:28 | Infomation | Comments(0)
意識とは何か
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意識とはなにか。
元々、他と区別されるような個としての意識というものがある訳でないような気がしています。
上の絵のように、連続性の中で濃淡のようなものが出現し、ある程度密集して濃度の高まった部分が、まるで個の意思を持ったかのように自律的に方向性を持ち出す。
そんな感覚を持っています。

そんな風に感じるようになったのは、最近のある経験からです。
ある晩、なぜか寝付けず、しばらく手をつけていなかった論文のことが気になって仕方ありません。
布団から起きだし、久しぶりにその論文をひっぱりだすと、その論文自体が何か意思を持っているように感じられました。
しばらくその意思に意識を向けていると、その論文が論文化する方向性を持っていることを感じました。
そして、そこに、論文化されることで自己を発揮し、役立つという目的も感じられました。
この体験には、少し驚きました。

これまで、人間以外の動植物や物に意思や方向性のようなものがあることは感じていましたが、論文という、元々は実体のないものにまで方向性が生じうることを感じたのが初めてだったのです。
方向性や意思というのは、言い換えるとヨーガや東洋医学で言うところの”気(プラーナ)”と同じもののように思います。
この論文は大学院で修士論文に関係していたのですが、意思のようなものが生じたのは、人間という意識生命体がなんども同じところ(修士論文)に意識を向けたことで生じてきたのではないかと考えています。
つまり、人間がある一定の事柄に繰り返し繰り返し意識を集中することで、そこに密集して濃度が濃くなって意識体が出現し、それ自体が方向性を持ち出した。

そんな風に感じられてから、論文は論文としてすでに具現化という方向性を持っているので、その流れを手助けしてあげればいいのだと考えるようになりました。
私が一人でがんばって論文を書く、という感覚が減り、論文の方向性を読み取りながら共同作業をしているという感覚です。
その他のいろいろな事柄との付き合いも、いっぺんに変わりました。


外に敵はいなかったし、私を苦しめるものもなかった。
そして、私は独りではなかった。
最初からずっと。


それが今の実感です。


愛と感謝をこめて







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by ramram-yoga | 2018-07-14 01:09 | drawing | Comments(0)
スゥーっとした世界
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今年に入ってから、目の前に広がる世界がまた違ってきています。
住んでいる場所は変わらないのに、日々出会うものは変わらないのに、世界の見え方が留まることなく変化していきます。

特に、今週に入ってから、今まで入ったことのないフェーズに入ったように感じています。
一時的なものかと思いきや、数日間続いているので、この感覚を書き留めておこうと思います。

本題に入る前の前提として、私はこの世界はパラレルに存在しているという認識をしています。
実際に、そう感じるからです。
たとえ一緒の空間を共有していたとしても、その人がどのフェーズに起点をおいて存在しているかによって、見える世界とその後の展開がそれぞれ異なります。
触れ合うものの質感も、異なっていきます。

今回入ったフェーズから見える世界は、一言でいうと「スゥーっ」としています。
スゥーっとしか表しようがないほど、何もかもがスゥーっとして感じられます。

いわゆる”現実的”な感覚が薄いです。
といっても、非現実的で地に足がついていないというのではなく、今までガンとして存在するように感じられていた物質世界のリアリティが薄らぎ、より本質的なものがリアリティを帯びてきたと言った方が正確です。
今のフェーズから見ると、物質というのは、精妙なエネルギーの表現型であり、結果なんだなぁという風に感じられます。
10年以上前にヨーガ哲学を学び始めた当初に、より精妙になればなるほど把握しにくく、より強力な力を持つと学びましたが、そのとおりだと実感しています。



また、それに加え、以下のような感覚があります。


二極性の弱まり
私と対象者(物)があまり明確に区別されない。
「わたし」対「あなた」というような、自と他のはっきりした境界が、そんなにはっきりと感じられなくなっている。
両者の間の線引きがあいまいで、そこがまさに”スゥーっ”として感じられるのです。
”生”の対極に、断固としてあると感じられていた”死”の存在感も、薄らいでいる。
このフェーズからは、生と死は対極にあるというよりは、表裏一体もしくは連続性のあるものとして感じられます。


固定性の薄らぎ
物質世界がガンとしたゆるぎないものとしてそこにある、という感覚が弱まっています。
物質の”ガッチリ”とか”ゴツゴツ”という感じが薄らいで、スゥーっとして感じられます。
物質を精妙なエネルギー状態としてとらえると、それぞれ何らかの方向性もしくは意思のようなものを持っているように感じられます。
それら方向性をもっているのは、どうやら生物や物質だけでは無いようです。
そして、その意思をじっと感じてみると、これはまた驚きと感動なのですが、他者に貢献するために自己を十全に発揮することなのです。


”重さ”や”気負い”の消失
フェーズが変わると、世界を支配している法則が変化すると感じます。
何かを手に入れたり、達成したりするために、がんばって苦しんで努力する、という必要が、無くなります。
なぜなら、手に入れたいものも、達成する目標も、現在の自分とはっきり区別できるものではもはやないからです。
ですから、今までだと気合を入れて頑張って立ち向かおうとしてきたものが、今のフェーズに立った時には立ち向かうべきものではなくなっているので、重さや気負いというものがあまり無い。
ガツガツと努力するのではなく、”スゥーっ”と自然体でやっていけるのです。


**************


いつも、世界観の深まりには、日常で接するヨーガの生徒さんやクリニックの患者さんとのやりとりがリンクしています。
苦しんでいる患者さんを目の前にして、一体私に何ができるのか。
ずっとずっとこれが私のテーマであり、原動力である訳なのですが、繰り返し考えて行きつくところは、自分自身がどう在るか。
私ができることは、自分自身がより本質を理解し、体得し、本質そのものと合一していく以外にないのだという思いを強くしています。



感謝と愛をこめて








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by ramram-yoga | 2018-07-13 08:06 | 最近のいろんなこと | Comments(0)