Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
<   2018年 04月 ( 6 )   > この月の画像一覧
3・4月の読書本
a0118928_23234351.jpg
(2018年1月からの通し番号です)

44.『無の精神療法 薬によらない統合失調症の治し方』稲福薫著
45.『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹著
46.『新訳 原因と結果の法則』ジェームズ・アレン著
47.『これから「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル著
48.『思うとおりに歩めばいいのよ』ターシャ・テューダー
49.『新生地球の歩き方』川田薫、はせくらみゆき、山内尚子著
50.『空の扉を開く聖なる鍵』Mana著
51.『カルマからの卒業』はせくらみゆき著
52.『あなたの世界の終わり 「目覚め」とその“あと”のプロセス』アジャシャンティ著


******

1月・2月の読書量に比べ、この落差(笑)
一時期、全く文字が入ってきませんでした。
また少しずつ読めるようになってから、少し出会う本の質が変わってきました。
出会う本は自分に対するメッセンジャーであるという意識が強くなり、内容もよりやさしく、よりダイレクトに、そしてよりストレートなものに変化してきています。

出会うものの変化は、自分の状態が変わったということが分かる客観的なデータとなります。
自分が変われば出会うものが驚くほど変わる。
このことを、もっともっと突き詰めてみたいと思っています。

“こうなるべき”みたいな理想像がある訳では、どうやらないのではないかと思います。
それよりもむしろ、世界は私に即時即応しているという真実があるのではないかと思うのです。
(それを実感した時の記事はこちら→ 同時に別の私が存在している
つまり、どうありたいかは、自分で決めればいいのです。
まず、自分で決めることができるのだという感覚を、もっと確かなものにしたいと思います。

植物や鉱物などには、それぞれ固有の振動数があります。
それに対して、人間は振動数の幅がとても広い。
非常に低級な考えや行動をとることもあれば、非常に高尚なものに心を向け、質の高い行為をすることもできます。

だから、いろんな”わたし”が経験ができる訳です。
自分の選択次第で、様々な振動数になり、その振動数と近い対象物と共鳴する。
こんなに自由な生き物って、いるでしょうか。
自由だからこその苦しみや行き詰まりもある。
でも、それも人間だからこそできる経験。

さて。
今日から、意識的に振動数を変えていくことにチャレンジしてみます。
具体的に変えることは、身体に入れるもの(正確には入れる時の意識)と、発する言葉(正確には振動)です。
どんな展開になるかは、お楽しみ。



感謝と愛をこめて


[PR]
by ramram-yoga | 2018-04-30 00:22 | | Comments(0)
ベートーヴェンの第九
a0118928_19471286.jpg

今夜はテレビの特番で、熊本地震復興支援コンサートをやっていました。
有名な楽曲を地元の演奏家の方々が演奏されていて、復興への強い想いと人々の絆を感じました。

最後にはベートーヴェンの第九。
今さら私が言うまでもないですが、やはりベートーヴェンの曲は本当に素晴らしいですね。

ベートーヴェンは、曲の完成度もさることながら、生きるということに全くといっていいほど妥協の無かった人だったのではないかと思います。
人間的な苦悩を、ごまかすことなく、逃げることなく舐め尽くした人。

苦悩無しには生まれなかったであろう、ベートーヴェンの楽曲の数々。
例えばこの曲の出だしからは、絶望としかいいようのないものを感じます。

ベートーヴェン作曲 ピアノソナタ第8番 ハ短調 タイトルはその名も「悲壮」。
アシュケナージの演奏で。




そして、その苦悩を、群を抜いて美しく洗練された音楽にまで昇華していったところに、ベートーヴェンの偉大さがあります。
ちなみに、「悲壮」の第二楽章は本当に美しいです。
こちらも、アシュケナージの演奏。


この完成度の高い美しい音の重なりや和音進行は、極めて緻密に推敲を繰り返し繰り返し行うという、ベートーヴェンの作曲スタイルから出来上がったものです。

第九を聴いていると、もはや、人間的な苦しみや喜びとは明らかに次元の違う、万人の祈りや歓喜に圧倒されるような感覚を覚えます。
多分、ベートーヴェンは、人間的な苦悩を経験することを通して、最終的に高みに達していったのだと思います。

バッハのような、人間離れした、天から大地に降りてくるような音色も美しいですが、ベートーヴェンの楽曲は逆に大地から光指す天に昇っていくようで、またバッハにはない美しさがある。

**************

よく、悩んでいる人に、「まぁまぁ、そんなに気にしないで」と言ったりして、深刻に悩むこと自体を悪い事のように捉えてしまうケースがありますが、悪いことでは全然ないのではないでしょうか。
でも、その人が悩んでいるのなら、今、その人には悩むという経験が必要なのです。
悩んで悩んで悩みぬいて、もがいて悶えて、納得するまでとことん苦しめばいいと思うのです。
きっと、苦しみ抜くという経験を通して、他の誰にも表現できない、唯一無二の美しさを表現していく人なのです。

ベートーヴェンの楽曲は、精神的にしんどいと感じる時に聴き、これまで何度も何度も助けられてきました。
聴いていると、今直面している苦しさから目をそらさず、その中に自ら入っていく勇気をもらえる気がするのです。

さて、こちらでは小澤征爾さん指揮のを貼り付けています。
ベートーヴェン作曲 交響曲第九番





愛と感謝をこめて


[PR]
by ramram-yoga | 2018-04-29 20:54 | music | Comments(0)
気づいたら終わる。光に還る。
a0118928_22190389.jpg
意識的に仕事や予定を減らしていくと、だんだんと静かな意識がたちあらわれてくるような感覚があります。
静寂。
空白。

でも、ともすると、すぐに何かしよう、何かを為そうと動き出す心に気づきます。
この心の働きはどのようにうごめき、これまでの実際の活発な行動へと繋がっていっていたのか。

活動的に動くこと、何かを為すことはいいことなのだという、今まで疑いもしなかった部分を、改めて見直す。
私は、自分が周りに映し出していた人の中に、何を見ていたのだろうか。

母がとてもよく動く人で、小さいころから休んでいるところを見たことがなかったこと。
ここ数年、自分が師事していた、あるいは目指していた人がなぜかすべて男性で、猛烈に仕事していく人だったということ。

なぜそんなに、忙しく、休みなく働いて業績を上げていく人ばかりが私の周りにいたのか?
これは、たまたまそうだった訳ではなく、自分が積極的に、その人に注目し、自分もそのようになることを選んでいたということが、だんだんとわかってきました。
では、何のために?
これについては、もう少し考えてみようと思います。

どんなに受動的と思える時でも、「させられていた」のではなく「自分でやっていた」のだということが、分かってきました。
この「させられている」という感覚、あるいは「〇〇のせいで私は…」という被害者意識。
この感覚とは、その人の受動的な態度によるものだということを、今年に入ってから徹底的に突きつけられた時期がありました。

「自分にはどうしようもない」と受動的でいる限りは、なすすべがない。
だって、そんな行動パターンを持っている自分にすら、そして受動的であることにすら気づいていないのだから。
まずは今の自分が、何らかの記憶や心の働きによるパターンに影響を受けていることに気づいた時にはじめて、「自分の意志でそこから抜け出ることができる」と思うことができる。
今まで絶対的だったものが相対化され、自分が主体的に在り方を決定できる。
自由自在とは、この状態を指すのかもしれません。

つまり、気づくことで、脱することができるのです。
今までどうしようもなく自分を支配していた思考や行動のパターンから。

**********


気づいたら終わる。光に還る。
また気づく。終わる。光へ還る。
そしてまた気づく。終わる。光へ還る。
こうして一歩一歩確実に、着実に光還元していきます。

私たちは本来光り輝く存在です。
何かあるたびに、どんどん内から発光していくのです。

    『カルマからの卒業』はせくらみゆき著

**********

はせくらみゆきさんの『カルマからの卒業』、今読んでいるのですが、面白いです。
やさしい言葉で書かれていますが、なかなかに論理的かつ本質的。
今の私の感覚・感性にとてもフィットします。

愛と感謝をこめて





[PR]
by ramram-yoga | 2018-04-28 10:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
「することモード」から「あることモード」へ
a0118928_10570537.jpg
最近、予定や仕事を入れることを意識的に減らしています。
減らすたびに、「え、これでいいの?」と思う自分がいます。
そして、今まで、何かをしようしようとしていたことに、気づきます。

この“しよう”という思考の動きに気づき、その思考の生じてきている過程を観察してみると、その背後にうっすらとした不安の感情があることが、分かってきました。
これは、新鮮な発見。
でも、驚きではありませんでした。
無意識的な部分でそれをちゃんと知っていたからだと思います。

見ようとしていなかった感情のありのままを観ることができた時、そこから逃れようとする意図が生じなくなる。
そして、今まで見えなかった他のものが目に映るようになり、感じられはじめる。

この、ヨーガでいうところの、理智(ブッディ:buddih)と意思(マナス:manas)のあり様の奥深さを、感じずにはいられません。
私は、私が思っていた以上に、主観的な世界の中で生きているのでした。

****

”することモード”、”あることモード”というのは、マインドフルネスの世界でよく使われる言葉です。
私の理解では、”することモード”とは、自我が全面に出ているとき、”あることモード”は、大我すなわち普遍的な大いなるいのちが顕れ出る時の状態なのではないかと思っています。

そのことを教えてくれるのは、いつも木々や花々。
”あることモード”を完全に体現している、いわば先生ですね^^
植物を見ていると”あることモード”は決して受動的でもなければ静的でもないことが分かります。
その躍動感あふれる生命力に、圧倒されます。
芽吹くときに芽吹き、葉を広げ、花を咲かせる時には、花びら一枚一枚の先にまでピチピチとほとばしるような生気をいきわたらせる。
散る時期には、潔く散り、実を落として次の新たな芽吹きに託す。
完全な循環と調和の中にあって、その身をもって生命力を最大限に発現させている。

人間も、”することモード”から”あることモード”に本当の意味で切り替わった時、そこにあらわれるのは停止状態ではなく、躍動感あふれる動的な状態がおのずと生じてくるのではないかと思います。

*******

理想的な人は、最も深い沈黙と孤独のさなかに最も強烈な活動を見出し、最も強烈な活動のさなかに砂漠の沈黙と孤独を見いだす人です。
その人は、抑制の秘訣を学んだのです。
彼は彼自身を支配したのです。
彼は、従来頻繁な大都会の街中を歩きながら、しかもその心はまるで、もの音ひとつとどかぬ洞窟の中にいるかのように静かです。
そして彼は、常時最も活動的に働いています。
もしそれができたら、その人は本当に働きの秘訣を学んだのです。

しかしわれわれは、最初から始めなければなりません。
来るにしたがって仕事を引き受け、毎日少しずつ、自分を非利己的にして行かなければなりません。
仕事をしつつ、自分をうながしている動機を見いださなければなりません。
するとほとんど例外なしに、初めの数年間はいつも、動機は利己的であることを発見するでしょう。
しかし根気よくつづけるうちにこの利己心は少しずつ消え、ついには、ほんとうに無私の心で働くことができるようになるときが来るでしょう。
われわれはみな、人生の道を歩みつつ努力するうちにいつかは、自分が完全に非利己的になる日が来る、と期待してよろしい。
そしてそうなった瞬間、われわれの持つすべての力は集約され、わがものであるところの知識が、表に現れるでありましょう。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ『カルマ・ヨーガ -働きのヨーガ-』より




愛と感謝をこめて

[PR]
by ramram-yoga | 2018-04-22 11:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)
ゆらぎ
a0118928_21292665.jpg
ブログの更新をあまりしていませんでした。

しばらく、大きく揺さぶりをかけられていました。
揺らぐということ自体に、今まであまりいいイメージを持っていませんでしたが、この“ゆらぎ”は、人が進化していくためには実は必要不可欠なのだと、今回感じました。

今回学んだのは、自分の足で立つ、自分のことに関する決定事項を人に委ねず、自己決定するということ。
つまり、人のせいにせず、自分で責任を負うということ。
自分がした選択の結末を、きちんと引き受けるということ。
まだまだ、自分にはそこが足りなかったということを、突きつけられました。

というより、本当は、自分がしたことの結末は、いつでも引き受けていたことに気づいたのです。
私がとってきた行動の果実は、他の誰でもない私が引き受けなければならなかったのです。

例えば、自分が選択をした結果、もしよくない事態が起こってしまった、ということを避けるために、人に決断を委ねる。
そうやって、人に決めてもらう。
人の評価の中で生き、人の言動によって自分が左右されることもそうです。
すると、歓迎しない事態に陥った時、他人のせいにして、自分は責任回避することができます。
「私が今不幸なのはあの人のせいだ、〇〇のせいだ」と。
でもその代わり、この態度には、自分のことをいつまでも他人任せにし、他人によって自分の状態が決まってしまうという、決定的な弱点があります。
つまるところ、人の不幸というのは、ここに集約されるのではないかと思うのです。

どこまでいっても、自分がどうあるか、なのだなぁと、思いました。


************

いつもこれは本当に不思議なのですが、今回のようにある起点に立った時、同じキーワードを持っている人が目の前にあらわれます。
友人や家族というより、患者さんや生徒さんと対するときにそう感じることが多いです。
彼女たち(女性の方が多いので総称してそう呼びます)は、大げさでなく、全存在をかけて私の前にいるので、私も真っ裸になって真剣勝負のつもりで向き合わないと、とてもではないけれど対峙することはできません。
鋭い洞察力を持った彼女たちを目の前に、私もごまかしがきかない。
いのちといのちが激しくこすれ合うかのように、場が緊迫することもあります。
そうすることで、自分の生き方、態度は本当にこれでいいのか?と、いつも問われているような気になります。
そういう意味では、これまで私は患者さんや生徒さんに育てられてきた、といって間違いありません。
同志といってもいいと思います。

まだまだ渦中にいる人、何度這い上がろうとしても突き落とされ、絶望しかけながらも、また這い上がっていく。
そんな彼女たちの純粋さと誠意に、敬意を感じずにはいられません。
そして、もう彼女たちはすでに知っているのではないかな、と思っています。
何を知っているのかというと、自分が向かおうとしている先がどんな世界なのかを、です。
もう、分かっている。
なぜかというと、知らないのに求めることはできないのですから。
知っているから、求めることができるのです。
妥協せずに真摯に自分の納得できるものを求めてやまない、そんな姿は本当に美しい。

*************


私も妥協せず、自分の求めるものにまっしぐらに向かっていきたいと思います。
有難いことに、以前よりはっきりと道筋が見えています。
前回のブログにも書きましたが、やっぱり、何かに呼ばれている気がします。
意識状態をこまやかにしていくと、一層その”何か”がはっきりと私に迫ってくるのを感じます。
あえて何か、というと、とても精妙な光に。
もしくは、精妙で広大な”意識”とも呼ぶべきものに。

もっともっと、それらをよりはっきりとつかめる状態に、自分をもっていくべく、試行錯誤しています。
キーワードは”浄化”。
自分自身をできるだけ透明にしておくことです。



愛と感謝をこめて







[PR]
by ramram-yoga | 2018-04-20 22:30 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
すべてを手放し、委ねる
a0118928_16502489.jpg
昨日は、個人セッションを受けに、あるお方のところへ。
自分の立ち位置、そしてこれから進むべき道を、見出しました。

このお方のセッションを受ける度、いつも不思議な感覚に見舞われます。
もたらされるものが、ただの改善ではないし、ただの癒しでもない。
フェーズが変わってしまうのです。
誤解を恐れずに言えば、神の視点から”わたし”が観られている。
神のまなざしから発せられる光によって、抱えている問題が包まれ、昇華されていく。
それが感覚的なもので終わらず、実生活に根差し、地に足のついたものでもある。

セッションにいただいた言葉。

”すべてを手放し、委ねる。”


セッション後、とてつもなく大きな何かが、私をひきつけようとしているのを感じました。
とても精妙な次元の力であるため、意識が粗雑だと気づかない類の力。
何かに絶えず呼ばれているようにも感じられます。
意識を精妙にすると、それはそれは強力な力が、私に向かって働いていることに気づきます。

そう、何かが私を呼んでいるのです。
私だけではありません。
誰もが、絶えず呼ばれ続けている。
では、何に?
それを知りたい。
想像ではなく、明確に分かりたい。

もっともっと、センサーを研ぎ澄ませ、感性を研ぎ澄ませ、正確に分かりたい。
今、私に必要なのは、キャッチするのに不必要なものを、捨て去ることのようです。

a0118928_18124569.jpeg
Ram-Ram Room にエピクテトスの言葉を飾りました。
クリエイターの 小林真心 さんに、デザインを手掛けていただきました。
”R”のロゴは、Ram-Ram の頭文字です^^





愛と感謝をこめて

[PR]
by ramram-yoga | 2018-04-15 21:06 | ことば・メッセージ | Comments(0)