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12月の読書本
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130.『京都ぎらい』井上章一著
131.『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』渡邉格著
132.『人生を変える「声」の力』山崎広子著
133.『中動態の世界』國分功一郎著

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今年一年間、ブログを見ていただいて、ありがとうございました。
今年ほど、ブログを書く意義を感じた年は、ありませんでした。

私にとって文章を書くということは、瞑想にも似た作業です。
書くことで自己内省し、意識化の範囲が拡大していき、時にそれが飛躍します。
今年は特に、幾度となく飛躍が訪れました。
書くことって、すごいなぁと思いました。
理性的な作業であるにもかかわらず、書くことは理性を超えていく力をも持ち合わせています。

あまり大勢の方に見ていただきたいとか、共感してもらいたいとは思っていません。
誰かに向けて書いているというより、独り言のように、自分の所感を書きたいように書いています。
でも、誰かが見てくれているという意識を持って、書いています。
その証拠に、誰も見ないところには、ここで綴っているようなことは書きません。

何らかのご縁でこのブログを見つけ、読んでくださっている方の存在が、私にとってとてもありがたいのです。
この”見る”という行為には、特別な意味があると感じています。
見る、あるいは意識を向ける、ということは、その対象に光が当たるということです。
あなたがこのブログを読んでくださっているということは、そのことで私の文章、ひいては思考の過程や意識状態に、光が当てられているということなのです。
その光を受けることで、私の認識は深まり、拡大していきました。

今年は、ブログを見てくださっている方がちらほら、ラムラムルームを訪れてくださいました。
患者さんの中にも、ブログを読んでくださっている方がいます。
そういう方との交流が、私にとってこの上ない宝物です。
私が一番率直に考えていることを表現できるブログに、共感してくださっている方々だからです。
ですから、余分な言葉や社交辞令が要りません。
たちどころに深いところでつながることができる感覚があります。
今年交流させていただいた方も、まだお会いできていない方も、来年、どこかでご一緒できますように。

来年は、たくさんの人の意識が大きく変革する年になると思います。
まず、本当に欲しいものは何かを、自分の心に訊いてみてください。
妥協せずに。
あなたが「こうなりたいな」と憧れる人や状況があるとするなら、実はそれは外側にあるのではありません。
それはあなたがすでに有している可能性です。
あなたは、あなた自身の可能性を、外側に見ているのです。
そして、現実にその状況を手に入れることが、可能なのです。
心ゆくまで、享受してください。
そのためには、受け取ることをまず、自分に許可してください。
一度しかない人生です。
本当に欲しいものをしっかりと見定めて、全力でそれを求めてみてください。

手に入らないことへの言い訳をやめて、心の底から本当に欲しいものを全身全霊で求めた時、それまで見たことの無かった新たな世界が拓けていきます。
今まで自分で作っていた限界を超えて、新たな世界を見てみませんか。
来年は、みなさんと共有できるいろいろな場を展開していきます。
どこかで、ご一緒できればうれしいです。

それでは、よいお年を。




※写真は今月のラムラムルーム。
 木の葉がすっかり落ちて、冬仕様です。
 冬でも陽がよく入り、ポカポカとあったかいです^^


  心から愛と感謝をこめて








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by ramram-yoga | 2017-12-31 04:13 | | Comments(0)
”わたし”との対話
今年が終わる前に、ひとつ、書き留めておきたいことがあります。
今年、自分自身の認識が大きく転換した一番大きな転機となったのは何だったのかというと、ある日突然始まった不思議な”対話”でした。
7月中旬の夕方のことです。
ある論文の構想を練ろうと自室に座り、ノートを開いてペンを持ち、アイディアが浮かんでくるのを待っていました。
すると、胸の中心から頭に向かって、何か意識の流れのようなものが生じてきたのです。
その意識は次から次へと浮かんできました。
それを私なりに言葉に変換して、ノートに書き始めました。
なんだか、人格を持った何かが、私に語りかけてくるような文章が、どんどん出来上がっていきました。
こんな経験が初めてだった私は、ノートに向かってその存在に「あなたは誰?」と問いかけました。
すると一言、「わたしはあなた」という答えが返ってきます。

それから毎朝、その”わたし”と名乗る存在との対話が始まりました。
早朝に起き、呼吸法と瞑想をし、聖音のマントラを唱え、心を静めて待っていると、スーッと言葉がやってきます。
それをひたすら、ノートに書き留めていきました。
書き出さずに放っておくと、その言葉がおでこのあたりにぎゅうぎゅうに詰まってきて、書き出すまでずっとおでこに居座るのです。
私はその”わたし”から、色々なことを教わりました。
その内容は一貫して、愛に満ちたものでした。

この世界は愛なくしては成り立たないこと。
私たちは愛そのものであり、愛無しには存在し得ないこと。
生きているということは、愛されているということ。
愛について最初に学ぶべきことは、愛されていることに気づくこと。
愛を目いっぱい受け取って、満たされて歓ぶこと。
そして、安心感から動くこと。

その存在から、毎日毎日、まるでシャワーのように愛していますと言われました。
時には、あなたの細胞すみずみにまで行きわたっている愛を感じるようにと言われ、また別の時には、「あなたがどんなに愛されているか!どうやったらこの愛が伝わるのか!」と、もどかしく身悶えするような感じが、その”わたし”から伝わってくることもありました。
そして私はだんだん、自分がすでに絶対的な愛の中にいること、そして愛されると感じることがいかに心に平安をもたらすかに気づきました。

その対話が始まる直前、私は日々「なぜ生きているのか」「自分とは何なのか」という考えに圧倒され、寝ても覚めてもこの考えに取りつかれて、深刻な状態から抜け出せなくなってしまっていました。
しかし、その対話が始まってからというもの、それまで私の心を占領していた、深刻さ、欠乏感、虚無感、孤独感などが嘘のようになくなり、代わりに安心、愛、平和、穏やかさといった感覚に満たされていきました。


今年10月に自費出版した日めくりカレンダー。
このカレンダーも、”わたし”から作るように言われ、作りました。
そして、あれよあれよという間に、完成しました。
これは、その”わたし”から受け取ったメッセージをできるだけそのまま載せています。
そのままでは分かりにくいと感じた部分は、できるだけニュアンスを損なわない形で表現を変えています。
始めは、どのくらいの方が読んでくださるか、見当もつきませんでした。
ですが、ひとつひとつ、ご縁のある方の元へ届いています。
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Ram-Ram's Roomにヨガや個人セッションで来てくださる方が買ってくださったり、仲間の手から渡っていったり。
中には2冊、3冊と買って下さり、プレゼントとして大切な方に渡してくださったり。
ヨガの先生が、クラスの瞑想でこのカレンダーの言葉を題材にしてくださったり。
私の尊敬するいく人かの先生のクリニックや治療院などに、置いていただいたりもしています。

親しくさせていただいている書家の方が、カレンダーの中の一節を、美しい字体で書いてくださいました。
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カレンダーは、1冊1,000円です。
4冊までのご注文でしたら送料は164円、5冊以上ご注文の方は、送料は無料です。

日めくりカレンダーのご注文はこちらよりどうぞ↓

もちろん、普段お会いしている方でしたらお持ちいたしますし、ラムラムルームでも販売しています^^

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  愛と感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-30 00:48 | "わたし”との対話 | Comments(0)
わたしたちを惹きつけてやまない彼
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少し長い引用ではありますが、私たちを絶えず引き付けてやまないものの本質について、端的に文章に表しているヴィヴェーカナンダの文章を。


人が知性の段階よりさらに高く、単なる思考の段階よりも高くのぼるとき、彼が霊性の段階、神的霊感の段階に達するときには、彼はそこに至福の境地を見いだします。
それにくらべたらすべての感覚のたのしみは、いや知性のたのしみさえ、無にひとしいのです。
月が光りかがやくと星々のすがたはかすかになります。
そして太陽がかがやくと、月そのものがかすかになります。
ちょうと、もっとつよい光の前ではよわい光はつぎつぎにかすかになってゆき、ついには全部がきえてしまうようなものです。

われわれにほんとうに必要なのは、うつくしいものへの渇望を神に向ける、ということです。
人の顔の、空の、星の、月のうつくしさは何ですか。
それは真の、いっさいを抱擁する神の美の、部分的な理解にすぎないのです。
「彼がかがやいて、あらゆるものは輝く。
 すべてのものがかがやくのは、彼の光によってである」
あなたにあなた方の小さな個体性のすべてをただちに忘れさせる、バクティのこの高い境地をおとりなさい。
すべての、この世の小さな利己的なしがみつきから、自分をおはなしなさい。
ときどきは小さな摩擦もおこります。
しかしそれはただ、もっと高い真の愛を成就するための努力の過程です。
ときどきは小さなたたかいや小さな堕落もあります。
しかしそれはすべて、途中のものにすぎません。
わきに立って、これらの摩擦を自由におこさせておやりなさい。
あなたは摩擦を、自分がこの世のながれの中にいるときだけ、感じるのです。
単に目撃者として、またまなぶ者としてそれのそとがわにいるときには、そこに、神が愛としてみずからをあらわしておられる幾百万の通路を、見ることができるでしょう。

「すこしでもよろこびのあるところにはかならず、たとえもっとも官能的なものの中であっても、そこには主おんみずからであるところの、かの不滅の至福のひらめきがある」もっともひくいたぐいの魅力の中にも、神の愛の芽があります。
実は彼の魅力が、人間のハートをひきつける唯一の魅力なのです。
誰がたましいを、ほんとうにひきつけることができますか。
彼だけです!

われわれはたえず彼にひきつけられており、すべてが、彼に到達しようともがいているのです。
この世におけるわれわれのこの奮闘はすべて、決して利己的な目的のものとにおこなわれているのではありません。
彼らの生涯の仕事は結局、かの巨大な磁力に近づくことなのです。
人生の膨大な努力とたたかいのすべては、われわれをして彼に近づかせ、ついには彼と一体にならせるためのものであります。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ「バクティ・ヨーガ」より



    愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2017-12-29 17:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)
至福をめざして
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先日の記事 でも触れましたが、今年は個としての幸せを、思う存分享受した一年でした。
いえ、正確には下半期ですね。
”足りない” ”もっと欲しい”という欠乏感から動くのをやめ、”すでに持っている” ”満たされている”という感覚から動くとはどういうことか、ということを学びました。

もっと端的にいうと、”受け取る”ということを選択した一年だったと思います。
それまでいかに、自分が受け取っていなかったか、ということに気づきました。
いつもいつも懐の深い豊かさに包まれていたにもかかわらず、それまで気が付かず、足りない、もっともっと、と思っていたのです。
その原因は、自分の意識にありました。
「自分はその恩恵を受け取るに値しない」と、無意識的に思っていたところがあったのですね。
言ってみれば、豊かさを享受することを、「受け取れない‼自分でやりますからっ‼」と、かたくなに防御していたのでした。

でも、なんでもかんでも自力で頑張るのではなく、力みを緩めて、助けてもらえばいいのですね。
周りに自分よりできる人がいると、「私も頑張らなきゃ」と思っていたものですが、最近は、私よりできる人にどんどん助けてもらうことにしています^^
そういうことでいえば、ポカをすることが多くなりました(笑)
しかし、自分ひとりで頑張ろうとしていた時より、格段に穏やかで和やかで、人の親切や愛情にいっぱい触れることができています。
あぁ、豊かだな~…と、しみじみ思うことが、本当に増えました。

自分には無限の可能性があり、物質・非物質共に無限の貯蔵庫から必要なものをいつでも引き出せることができる。
なぜなら、”わたし”とは実は、米澤紗智江という個人に限定されたものではなく、目に映る世界そのものだから。
そうやって、”わたし”というもののアイデンティティが個という垣根を越えて広がった上で動く。
すると結果として、個としての私において豊かさがもたらされる。
感覚としては、そんな感じでした。

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ですが、個としての幸せを求め続けるのは、もういいかな、と、思い始めています。
個としての幸せは、どうしても物質的な諸条件と関連があります。
健康状態、人間関係、経済面。
そして、それら諸条件の先にある幸せとは、どこまでいっても状況依存的です。

段階としては、個としての幸せや満足を得ることは、必要だと思っています。
今幸せじゃないのに、今苦しいのに、今欠乏感でいっぱいなのに、その原因が我執(自我)や執着が強いために生じてきていて、そこから離れられないからだめなんだという風に捉えてしまうと、その人は一層自分の至らなさに苦しめられることになります。
何かを犠牲にしたり抑圧してがんばっているうちは、どこかで必ず無理が生じてきてしまいます。
今考えると、私は長い間このループにはまってしまっていたのではないかと思います。

でも本当は、そうじゃない。
そういう状態にある時こそ、満たされて安心する体験が、まず必要だと思うのです。
そうして、満たされて安心して、たくさんの豊かさをいっぱい享受して満たされた時に、自我意識に縛られていることがいかに自分を限定してしまっているかが分かり始めます。
そして、そうなってはじめて見えてくる次の世界があります。

それは、個としての人生における物質的・精神的な満足とは比べ物にならないほどの、強烈な至福の世界。
なんとも静かな、光と愛に満ち溢れた世界。
今ちょっと、垣間見ているだけです。
でも、そちらに強烈に、惹きつけられつつあります。
そっちに行きたい。
なぜか懐かしく、恋焦がれています。

個という意識を弱め、個を解放していくことに、以前のような恐れや気後れはありません。
個の意識は、もともとあったものではなく、後天的なものだったのだ、ということが、腑に落ちつつあります。


   愛と感謝をこめて






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by ramram-yoga | 2017-12-28 12:24 | 死生観 | Comments(0)
美構造®開脚システム指導者養成講座


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今日は、Ram-Ram in the Greenにて、美構造開脚システム指導者養成講座を開催しました。
チーム瑛の開脚システムマスター渡邉先生と私のW講師での開催。
今回は沖縄と岡山より、お二人の方に受講いただきました。

まずは、渡邉先生から美構造姿勢についてのレクチャーから(上の写真)。
身体のこと、気のことに関しては達人級の先生より、かなりコアな内容をたくさん学ぶことができました。

美構造メソッドは、古武術や礼儀作法など日本の伝統のエッセンスを元に開発されたからだの使い方メソッドです。
メソッドそのものの質が、上質なのです。
バストアップ、ヒップアップ、ウエストが上がる、肌がきれいになる、顔がリフトアップする…といった美容上の効果。
丹田が活性化し、重心が下に降りてバランスが良くなり、身体に一本軸ができるといった、身体的効果。
意識状態が変わる、平安や安心を感じる、相手と一体感を感じる等の、精神的効果。
人生が拓ける、出会いが変わる、ひいては運命が変わる…といった、運勢の変化。
人それぞれ、実感している効果は様々です。
それぞれが受けたい恩恵をそれぞれに享受できる、それが美構造の懐の深さだと思っています。

レクチャーの後は、実践。
やりあいっこをしながら、みっちり練習しました。
美構造姿勢をとると、たちどころに身体が変化していきます。
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また、丹田が活性化していきます。
これがとても面白いのですが、アシストしている側の丹田も、共鳴現象によって活性化し、どんどんする側とされる側の距離感が無くなっていくのですね。
受講されたお二人それぞれに、いろいろと体感し、感じてくださったことがあったようです。
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私自身も、美構造に出逢って3か月余り。
いろいろなことが変わりました。
というより、いろいろなことが変容している途上で美構造に出逢い、そのことでまた新たな世界がどんどん拓けていったという感じです。
身体が変われば意識が変わる。
意識が変われば現実が変わっていく。
そういうことを体験した一年でした。

さて。
今年は自分の認識が大きく変容した一年でした。
来年は、自分だけでなく、皆さんとそんな場を共有する方に活動の場をシフトしていきたいと思います。
こちらでも、順次お知らせいたしますね。
どこかでご一緒できればうれしいです^^


※本日開催した美構造開脚システム指導者養成講座は、リクエスト開催です。
 受講をご希望の方は、下記をご覧の上、お申し込みください。


養成講座を受けるより、まずは開脚システムのセッションを受けてみたいという方は、こちらよりどうぞ。







    感謝と愛をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-27 21:04 | 美構造メソッド | Comments(0)
個としての幸せ、ここに極まる
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大そうなタイトルにしてしまいました(笑)
が、さっきふと、この言葉が浮かんできて、妙に納得しました。

今日は幸せなクリスマス・イブでした。
子どもと一緒にケーキを作り、家族とお祝いをしました。
サンタさんからのプレゼントを心待ちにしている子どもの表情を眺めながら、満ち足りた気分でいます。
家庭生活においてこれ以上何も求めることは、もうありません。

今年は、幸せや豊かさといったものを、思う存分受け取った一年でした。
不足感や欠乏感から動くのではなく、幸せで満たされることを受け入れ、選択し続けました。
私たちは目の前の現実に対して無力で受動的ではなく、実は私たちの意識が現実を創り出しているのだということを、感じさせられました。
そして今、私は幸せで満ちたりています。
これは、「~~だから幸せ」「○○だから不幸」といった、条件付きの幸せではありません。
幸せを選択すると、どんな状況であれ、その人は幸せになることができると思っています。
幸せを選択したその瞬間から、幸せへの道がひらけていくのです。



その一方で、個人としての幸せとはまた違う幸せというものが、その存在感を大きくしはじめています。
そこはとても静かで、光と歓喜に満ちた世界が、広がっていきます。
普段世俗的・物質的な豊かさや幸福にフォーカスしているとなかなか感じられないような、精妙な幸福。

でもよく考えてみると、この幸福は、そういえば以前から感じ、求め続けていたものでもありました。
しかし以前とは、出発点が違います。
以前は、欠乏感から出発し、今自分にはないものをどこかに求めるような感覚を持っていました。
今は違います。
私はすでに、満たされているということを知っています。
そして、その精妙な幸福は、フォーカスのしどころを変えるとすぐにでも一体化できるような、実は私の一番近くにあるようなものなのではないかと思うのです。


私は今までずっと、この世界のたくさんのものに魅了され続けてきました。
日々目にする風景、木々や花々、日々接する人たち。
この世界が本当に好きで好きで、時々この愛おしい気持ちのもって行きどころが分からなくなるなるほどに、気持ちを抑えきれなくなりそうになることがありました。
でも、よくよく観察してみると、その対象物そのものに愛おしさを感じていたのではなかったのだ、ということが分かってきました。
私が絶えず引き付けられ、愛おしさを感じていたのは、それら目に映る対象物の背後に遍在している生命原理だったのでした。
ヨーガではこのことを”ブラフマン”と呼びます。
私はここでは、”いのち”と呼びたいと思います。

その、もともと一つの”いのち”が、個々の生命という様々な様相で、この現象世界に立ちあらわれている。
もう、私はこの個々の生命それぞれにではなく、ダイレクトにこの”いのち”を求めたい。
求めるという言い方も、語弊があるかもしれません。
なぜなら、私自身も、この”いのち”のひとつのあらわれなのですから。


個としての意思から大いなる”いのち”の意思へ。
個としての幸福から、大いなる”いのち”の至福へ。
個としての人生における楽しみや快楽、満足も、大いなる”いのち”の至高の歓びを前にすると、次第にその力を失っていくのではないか。
そんな気がしています。

来年は、個としての我から、大いなる”いのち”に自分のアイデンティティを転換させていく一年となりそうです。
そんなに難しいことでは、きっとありません。
なぜなら、私たちはすでに、その大いなる”いのち”そのものなのですから。
そこに還っていきさえすれば、いいのです。





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  愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2017-12-24 20:09 | 死生観 | Comments(0)
自我から大我へ
自我とは何か。
ヨーガではそれは”我執(ahamkara)”と呼ばれ、はっきりと非我であると述べられています。
つまり、自我とは自己の本質ではないというのです。

物心ついた頃から、「私は・・・」「私が・・・」「私の・・・」という感覚が当たり前で、疑うことすら知りませんでした。
しかしそれが絶対的なものでもなければ先天的なものでもないのだ、ということが、だんだんと分かってきました。
ここに来るまで、時間がかかりました。
まだまだ自我を取り払っていく必要があります。

思っていたより、難しいことではなさそうです。
自我は、後天的にできたものだとすれば、元に戻ればいいのではないでしょうか。

わたしが行為者であるという意識を薄め、万所に遍在する普遍的・根源的な意識(観照者)に、意識を合わせる。
極地へ昇り詰めるというよりは、溶け出して一体化する。

来年は、そんな年にしてみたいです。



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最近はラヴェルのピアノ曲がしっくりきて、よく聴いています。


フランス印象派の中でも、ラヴェルの曲は、意識の深みにいざなってくれる感じがします。
絵を描く時は、いつもラヴェルを聞きながら。
微細な情報が具現化していきやすいです。
無意識的領域と意識的領域の、橋渡しをしてくれています。


  愛と感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-23 17:18 | music | Comments(0)
苦しみのメカニズム
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國分功一郎著「中動態の世界」を読みながら、今までにない新たな理解が拓けていくような感覚があります。

”中動態”とは、かつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態であるといいいます。
受動態でも能動態でもない、もうひとつの態、中動態。

著者はまず、「私が何ごとかをなす」とはどういうことか、という問題提起から書き出しています。
例えば、歩くという行為は自分の意志でしているようであって、身体の中の何百もの骨や関節、骨格筋が自律的に連動しなければ実現し得ないことを挙げながら、私たち人間の普段の行動とは、顕在的意識のもとに行われる意思決定によるものであるという解釈に疑問を呈します。
そして、意志とは何か、果たして自由意志とは存在するのか等、いくつかの問題提起をしながら、中動態の本質について迫っていきます。

様々なトピックスの中で、印象に残ったのが、依存症者の受動・能動についての部分でした。
依存症者の依存状態とは、受動なのか能動なのか。
わたしは自分自身が摂食障害の症状を抱えていましたし、今でも摂食障害の患者さん方と接していますので、このことについて考える機会がよくあります。
過食嘔吐(食べ物を大量に食べて吐く)行為をどうしてもやめられない方が大勢いらっしゃいます。
その方々は、やめたくてもやめることができない、といいます。
自分で食べ物に手を伸ばして口に入れているにもかかわらず、まるで自分を圧倒する何かに食べさせられている感覚が少なからずあるのです。
そして、もう二度とこんなことはしたくないと思いながら、その後すぐ、あるいは翌日後には同じ行為を繰り返してしまうのです。

この「させられている」という感覚、これはまさに受動です。
セラピーでは、これを能動に変えていくというプロセスを、どこかの時点で入れていきます。
実は、過食嘔吐はさせられているのではなく自分の意志で行っている。
過食嘔吐という行為をすることによって、無自覚的に何をしようとしているのか。
これを、カウンセリングで見つめていきます。
これは、そんなにやさしい作業ではありません。

受動から能動に意識を転換していくプロセス、これが非常にセラピューティックなのです。
なぜかというと、症状を持っていることに対して受動的態度でいるということは、「~~だから私は病気なのです」と、現在の自分以外のものに病気の原因を求めている状態だからです。
現在の自分以外に、苦しみの原因のありかを見出している時、どこまでいってもその人は過去の出来事や環境の被害者であり、自己治癒力を奪われた状態にあります。
一方で当事者が、「この病気は私が作り出しています」という能動的態度に転換すると、病気に対して主体的にかかわることができます。
つまり、病気に限らず困難さに直面した時、それを乗り越えていくには受動的態度でいるより能動的態度でいる方が、その困難さに対してより主体的にかかわることができるという点で、能動的態度への転換は重要です。
しかしこれは、どちらが正しいという種類のものではありません。
能動的・受動的どちらの解釈がより、その人の全人的健康度を高めるために有用であるか、という観点に基づいたものです。

中動態とは、それらの解釈から離れ、より中立的に現象を説明する言葉なのではないでしょうか。
苦しみというのは例外なく、現象に対する解釈から起こってきています。
例えば、ここでは食べて吐くという行為。
当事者も、それを目撃している人の目にも、悲惨に感じられるかもしれません。
しかし、過食嘔吐という現象自体は、苦しみではありません。
ただ、やっていて疲れはしますが。
苦しみの中核とは、過食嘔吐という行為に対するネガティブなイメージと、にも関わらずやってしまう自分に対する罪悪感や嫌悪感です。
つまり、過食嘔吐に限らず、私たちが苦しみを感じる時、現象そのものが苦しいのではありません。
それに対する解釈で苦しんでいるのです。


過食嘔吐をやめられないで苦しんでいる患者さんに対して、時々言うことがあります。
「しないでおこうと思っても、思わなくても、症状は無くなる時に無くなるから、あまりそこを努力しなくていいかもしれませんよ。」
「過食嘔吐は必要なくなったらいずれ無くなるんだから、今のうちしかできない‼と思って、しっかりやっておきましょう」とか(笑)
このコメント摂食障害皆さんに共通して適当というわけでは決してなく、信頼関係がしっかりでき、その方の今の状態を見たうえで言っていることではありますが。
こんなことを言うと、大抵の患者さんは、ちょっと拍子抜けた感じで、思いつめた表情が緩んで明るくなります。
ここに、苦しみのメカニズムが垣間見える気がします。
つまり、本当は、「~~があるから苦しい」のでは、ありません。
苦しみが最初にあって、もっと言えば、苦しむことを選択したその人に、苦しむに足る現象がもたらされ、その人は苦しむのです。

そうであるならば、苦しみを終わらせたいのであれば、現象に対処するのはナンセンスということになります。
目の前の病状や困難さを克服しようと努力すればするほど、克服への努力を助長させるように困難がますます立ちはだかります。

苦しみを終わらせたいのであれば、苦しみを終わらせると決意することが必要です。
決意すれば、苦しみを終わらせるために必要なことが、決意した人のもとに少しずつ訪れるようになります。
苦しみを終わらせるというのは、実は少し勇気のいることです。
なぜなら、苦しむことでカモフラージュしていること、見ないように誤魔化していることが、あるからです。
苦しみが無くなると、それまで見ないようにしていた本当の課題に直面することになります。

でも、もう、終わりにしませんか。
わたし個人としては、そういう思いでいます。
もう、人類は、これまでいっぱいいっぱい苦しんできました。
もう十分味わったのではないでしょうか。

今まで目をそらし続け、見ないようにしていた本当の課題。
直面するには勇気とエネルギーがいるかもしれません。
でも、その直面は、本来の自分に立ち戻るための扉を開くことでもあると、思っています。


 愛と感謝をこめて














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by ramram-yoga | 2017-12-22 22:48 | 摂食障害 | Comments(0)
わたしはあなた
今日は、西宮市の段上公民館での、今年最後のヨーガレッスンでした。
2009年6月から始めたこのクラスも、来年で10年目を迎えます。

会員さんの入れ替わりは若干ありながらも、クラスを始めた当初からずっと通ってくださっている会員さんも、何人かいらっしゃいます。
中には、「ヨボヨボになって通えなくなるまで通い続けます!」と宣言してくださっている方もいらっしゃり、必要とされていることのありがたさを感じています。
私にとってもこのクラスはかけがえのないもので、今通ってくださっている方の最後の一人がご自分から退会されるまで、末永く続けることが目標です。

ここ数年は男性の会員さんが少しずつ増え、嬉しい限り。
今日も男性の方が体験レッスンにいらっしゃり、入会をご希望ということで、男性会員さんは5名となりました。

今日は一年の締めくくりということで、一年を振り返り、来年を展望する瞑想を行いました。
この変化する世界で、その背後にある変化しない観照者に意識を合わせ、二極の対立的価値観から自由な境地を目指す、それがヨーガです。


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最近感じていること、それは、わたしとあなたとは切っても切り離せない存在なのだということ。

あなたを喜ばせようとしてとるわたしの行為によってあなたが喜ぶと、同時にわたしが喜んでいることに気づきます。

あなたの中に悲しみを見出した時、わたしの中に悲しみがあることに気づきます。

あなたをないがしろにしたり、少しぞんざいに接してしまったことに気づいた時、わたしは自分の内に、自分自身をぞんざいに扱う心があることに気づきます。

あなたを愛している時、わたしはわたし自身を愛しています。


これら、わたしとあなたとに起こっていることは、何の違いもありません。

あなたにしていることは、実はわたし自身にしていること。

そこには何の違いもなかったのだと、理解しつつあります。

これが本当の意味で自分の腑に落ちると、すごい意識の転換が起こりそうな気がします。

これから自分が向かいたい場所へ行くためには、このあたりに突破口がありそうです。




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久しぶりに、HIRO珈琲へ。

西宮で一番好きなカフェです。

「中動態の世界」、面白い。

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愛と感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-21 20:47 | YOGA | Comments(0)
信じること
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今回、あることについて、決断を迫られました。
あるお方がこれからやろうとしていることに、心から同意できなかったのです。
いつまでたっても胸がざわざわと不穏で落ち着かないでいました。
疑問に思うことがあり、それを本人に伝えようかどうか、迷っていました。

でも…。
その時の自分と、その時の自分がその方に対してどのようなまなざしを向けているかを、ふと客観的に観察した時、あることに気づきました。
それは、疑心暗鬼になっている自分でした。
そして、その人が私から疑心暗鬼を感じたとすると、出鼻をくじきこそすれ、その方が生き生きと輝く方向にはならないと思いました。

それでは、私はどうすればいいのか。
何日間か、ずっと考えていました。
そして、思いました。
あぁ私は、この方がどういう決断をしようと、その方の選択を尊重しよう、と。
この方のことだから、どうであれ、最終的に最善の道を選んでいくに違いない。
たとえそれで失敗したとしても、それを含めて私はその方のもたらした結末を一緒に引き受けていこうと、決めることができました。
数日後、結局その方は、ご自身の意思で、方向性を修正されたのでした。

とてもほっとして心が軽くなった自分に気づき、驚きました。
それくらい、違和感を自分でもはっきり意識化できていなかったのです。


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アドラー心理学では、信用と信頼とは、似て非なるものととらえます。
信用とは例えば「~~だからあなたを信じます」というように、信じるために先行する何らかの条件があります。
それに対して信頼は、他者を信じるにあたって一切の条件をつけないという態度を指します。

以前受けた、アドラー心理学の子育てプログラムpassageに、今でも一番印象に残っている部分があります。



「子どもの味方でいる」
どんなときでも子どもの味方でいる決心をしましょう。
特に、子どもが学校や世間から責められているときに、見方でいる決心をしてあげてください。
親まで敵に回ってしまっては、子どもにはこの世に居場所がなくなってしまいます。



「味方でいる」これこそが、信頼ですね。
自分の経験からしても、他者から信頼されていると感じると、なんと勇気づけられることか。
信頼されていると感じて初めて、前に一歩踏み出してみようという勇気がでてくる経験を、これまで何度もしてきました。

そして、今回発見したこと。
それは、人を信頼するということが、私を大きく勇気づけたということです。
人を信頼すること、それは他でもない自分自身を信頼することでも、あったのですね。


愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2017-12-20 20:55 | ことば・メッセージ | Comments(0)