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カテゴリ:music( 38 )
意識的領域と無意識的領域の狭間
普段の覚醒水準を少し落として、意識的領域と無意識的領域の狭間を漂いたい時に聴く、ラヴェルの曲。
去年後半あたりからバッハに代わり、一番よく聴いています。

今宵はSokolovのピアノで。
ハッとするほど垢ぬけたタッチ、そして情緒的。

最近繰り返し聴いている曲はこちら。
Le Tombeau de Couperin (V. Menuet)


ラヴェルの曲、他にもいろいろ。
同じくSokolovのピアノ。


愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2018-03-23 01:14 | music
春のラムラム・ルームより
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春がやってきましたね。
ラムラムルームの窓から見える木が、やっと何の木か判明!
梅の木でした。
ただ今、満開。
ヨーガに来てくださった方と、お花見をしています。
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花壇には椿。
咲き誇っています。
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いのちの息吹が一気に噴き出し躍動する、歓びの季節になりました。






愛と感謝をこめて 



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by ramram-yoga | 2018-03-16 21:39 | music
満月
今日は、美しい満月の夜ですね。


ドビュッシーの「月の光」。
大好きなアシュケナージの演奏で。



併せて、素敵な表現だなと思った言葉を。


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「幸せは深い海のようなものだと考えればいい。
水面は波立っていても、底はいつも穏やかだ。
同様に、とても幸せな人にも悲しく感じる日はある。
だが、その悲しみの下には、揺らぐことのない幸せの大きな深みがある。」

この美しいたとえは穏やかさと回復力にも当てはまる。
もし、自分の心の中の深い内面の穏やかさにアクセスできれば、
日常生活の浮き沈みがどれだけあっても、いつも回復力を保てる。
何があっても、長い間心が沈み続けることはない。

チャディー・メン・タン著
「サーチ・インサイド・ユアセルフ」より

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愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2018-03-02 22:58 | music

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生の歓喜

絶対的な今






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by ramram-yoga | 2018-02-08 17:39 | music
自我から大我へ
自我とは何か。
ヨーガではそれは”我執(ahamkara)”と呼ばれ、はっきりと非我であると述べられています。
つまり、自我とは自己の本質ではないというのです。

物心ついた頃から、「私は・・・」「私が・・・」「私の・・・」という感覚が当たり前で、疑うことすら知りませんでした。
しかしそれが絶対的なものでもなければ先天的なものでもないのだ、ということが、だんだんと分かってきました。
ここに来るまで、時間がかかりました。
まだまだ自我を取り払っていく必要があります。

思っていたより、難しいことではなさそうです。
自我は、後天的にできたものだとすれば、元に戻ればいいのではないでしょうか。

わたしが行為者であるという意識を薄め、万所に遍在する普遍的・根源的な意識(観照者)に、意識を合わせる。
極地へ昇り詰めるというよりは、溶け出して一体化する。

来年は、そんな年にしてみたいです。



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最近はラヴェルのピアノ曲がしっくりきて、よく聴いています。


フランス印象派の中でも、ラヴェルの曲は、意識の深みにいざなってくれる感じがします。
絵を描く時は、いつもラヴェルを聞きながら。
微細な情報が具現化していきやすいです。
無意識的領域と意識的領域の、橋渡しをしてくれています。


  愛と感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-23 17:18 | music
光へ
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光、  光、  光、  光。



昨日から、今まで感じたこともないような、強烈な光を感じるようになりました。
今まで、人や自然などを通して感じられていた光が、何者も介さずに光そのものとして、私の前に顕れています。
眩しくて眩しくて、今まで影になっていた部分も一瞬にして明るく照らし出すような光です。
もう、この強烈に眩しい光を前にして、迷いはありません。
なんとなく感じている、というのではなく、確かにはっきりと感じるのです。


時々電話で話す親しい友人と、昨日電話で話していました。
私が「また、想像もつかなかった展開になってきてる」と話すと、「最近電話で話すたびにそう言ってるよね」と、笑われてしまいました(笑)



光に向かって、まっしぐらに行きたいと思います。
一緒に行きませんか^^
光に満ち溢れる世界へ。




バッハ:カンタータ BWB61 "Amen(アーメン)”
バッハの音楽も、光に溢れています。







今年の7~9月に、どんどん浮かんできたことを言葉にして作った日めくりカレンダー。
この内容は、いわゆる”私”の考えではありません。
感覚的にキャッチしたものを翻訳した、というのが、しっくりくる感覚です。
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当時はただただ、その内容に驚いていました。
ですが、今、このカレンダーの世界観がそのまま私の世界観になっているような気がします。

購入されたい方はご連絡いただけたら、お送りいたします。
1冊1000円、送料は164円(5冊以上は無料)です。


  感謝と愛をこめて







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by ramram-yoga | 2017-11-01 11:30 | music
気づきはバッハの音楽とともに
昨日のブログ記事を書き終えた後、京大のゼミへ。
あの体験は、そのゼミに提出するレポートの内容を論考していた時に突然やってきました。

気づきというのは、最初は体験からやってくるものであるけれど、それを自分のものとして落とし込んでいく時に知的に理解する過程が必要となってくるのだと思います。
深い気づきの体験は身体感覚を伴います。
しかしそれは、理性的な働きによって考えを進めているときなのです、いつも。

昨日の気づきをもとに、今の私の真実を、簡潔に文章にしてみます。
それは…

*****

目に映る世界のすべてのものは、わたしの意識(こころ)に、即時即応的に応答している。
世界は、わたしの意識そのものである。

*****

この、世界と自分とに全く隔たりや距離の無い感じが、まさに ”わたしが世界” なのです。
だから、意識が変容すると、たちどころに目に映る世界が変化するのですね。
私は、世界を観ることで、実は私自身をみていたのです。


このことを何度も反芻するときに聴いていたのは、この音楽。
バッハのブランデンブルグ協奏曲第5番第1楽章ニ長調。
カラヤン指揮、ベルリンフィルの演奏で。


この音楽は、私が中学時代、生きていることにほとんど絶望していた時に、掃除の時間に毎日流れていました。
永久とも思える時間の流れの中で、瞬く間に消えていく自分の命のことを思うと、気が遠のいていったものです。
このことに気が付いてしまったことを後悔し、こんなことに考えが及んでしまう人間として生まれてしまったことを、憂いていました。
そんな自分の心境とは裏腹の、明るいこの曲の出だしが、そんな私の絶望感を余計に掻き立て、孤独感が増していきました。

でも。
この1楽章は、中盤から曲調が変わります。
チェンバロのソロの部分、この部分までは、確かあの掃除の時間には流れていなかったはず。
でも、そのソロの部分が、圧巻なのです。
躍動しながら迫ってくるように感じられる部分があります。
今回のこの気づきが、そのソロの部分にフィットしました。

チェンバロのソロの部分からはじまる動画も発見。



絶望感を感じていた頃から、こうしてある種の死生観ともいうべき見解に至るまでを、このバッハの1曲が包含してくれた、そんな不思議な音楽との関係です。



いつも思うのですが、バッハはなぜ、こんなすごい作曲ができたのでしょう。
それも、おびただしい曲数です。
その中に人間らしい感情に寄り添うメロディーは、ありません。
そうではなくて、常に天の高いところから降りてくるような、そして、本質的なものに気づく感性を呼び起こしてくれるような響きがあります。

振り返ってみると、私の形而上学的な気づきは、いつもバッハの音楽とともにあります。


溢れる愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2017-10-26 20:48 | music
AUM
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最近、空を見上げると、それがスカスカの何もない空間ではなく、ぎゅうぎゅうに遍満している何かがあるように感じていました。
そして、それを音で表すと「オーム」である、ということが分かってきました。
万所に遍在している響き、音なき音、それがオーム。
そういうことだったのですね。


自宅の窓から田んぼや山々、広がっていく空を、ぼーっと眺めていると、世界の側の方から、お誘いをいただきます。
「おいで」と、両手をいっぱいに広げて、待っていてくれているかのように、感じます。
あぁ、このまま、もう溶けてしまって、ひとつになってしまいたいなぁ…。
ひとつになってしまったら、この肉体は、どうなってしまうのかな。


今朝、バッハの Cello Suite を聴いていましたが、これも空から響いてくるオームと近い響きに感じました。
バッハはやっぱり、天とつながりながら作曲していたのですね。



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10月から新しく始まるヨーガクラスのご案内はこちら↓
まだ死にませんので、ご安心を(笑)



愛をこめて


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by ramram-yoga | 2017-09-11 16:17 | music
すべてが”わたし”である
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「”わたし”とは何者か」という問いを発した直後から、立て続けに応答がありました。
その日の内に、手にとった本の中から言葉が飛び込んできました。
翌日は京大の広井先生の授業の聴講後、皆さんとカフェでお茶をしていた時の話題として出てきました。
そして極め付けは、ふと録画していたNHKこころの時代のシリーズ「唯識に生きる」の第2回目を観ようと再生したら、その回のタイトルが「”自分”とは何者か」でした。
あまりに直球の応答だったので、タイトルを見た瞬間、ひとりで噴き出してしまいました(笑)

「問いを発すれば応答あり」
やはり、これは確かな事のようです。
得たい回答があるとするなら、宇宙に問いを投入しなければなりません。

この人生で、真理を得るための究極の問いを見出す。
そのために心身を極限まで研ぎ澄ましていく。
それが、人間に与えられた最大の難問かつ、これ以上無く面白くてエキサイトする挑戦なのかもしれません。

最近、生きることや死ぬこと、そして自分という存在について、考えに考え抜いた人たちと出会うことが多くなりました。
周りにそんな人はいないとつい最近まで思って孤独を感じていたのですが、それは単に、私がそのような人との交流に心を開いていなかっただけだったのでした。
私もやっと、満を持してその課題を正面から問える段階に入ることができたようです。

今私ができる最大限の認識力で、人間が到達しうる最高の境地について考えてみています。
それは「この世界のすべてが”わたし”である」という境地ではないかと思います。
”わたし”が、米澤紗智江というこの個人を超えて、無限に広がっていく。
ですから、個人としての私が死んでも、”わたし”が無くなることはない。
そもそも、よく洞察を深めると、個人としての私は、実はとても曖昧なものなのではないでしょうか。
このあたりのことは、これからもっと実体験と共に体認していきたいと思っているところです。


********


さて。
最近は大学時代によく聴いていたアフリカの音楽を毎日流しています。

西アフリカはマリ共和国の歌姫 Fanta Damba が唄う「Sekou Semega」。


ちなみに、この動画の女性はFanta Dambaではありません。
彼女はこんな人です↓(音声自体は上の方がいいので、下の彼女を観ながら上の音楽を聴いてみてくださいね)

通奏低音的にベースとして流れているG調のハーモニーが、自己の存在が絶対的に支えられていることを感じさせてくれるようです。








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by ramram-yoga | 2017-05-26 22:22 | music
”わたし”を観ている
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前回の記事は少し奇妙だったかもしれません。
私も、自分で書いていて、「ヘンなこと書いてるな」と思いました(笑)
でも、そう感じるのですから仕方ありません。
考えて書いているというより、どんどん言葉が出てきてしまって止まらなかったのです…。

記事の最後に「今見ている世界は、まさに私の心そのもの」と書きましたが、そう書いた後から、また今まで感じたことの無かった感覚が突然やってきてしばらく呆然としてしまいました。

私がこれまで外の世界と思って眺めていたのは、私の心そのものだったのでした。
この感覚がやってきた時、子供と寝室にいたのですが、子供はまさに、私そのものだったのだということが分かりました。
”子供”が、私と分離して存在していたのではなかったのです。
子供の中に見ていた純粋さ、それは私の心の中にある純粋さだったのでした。
保育所で友達と喧嘩して悲しい気持ちになっている、その悲しみは私の心の中にあったのでした。
私の目を盗んでおやつを食べている、そのうしろめたさと盗みは、私の心の中にあったのでした。
なんでもかんでも「見て見て」と言う子供から感じた、見てほしいという思いは、私の心の中にあったのでした。
「ちょっと待って」ではなく、その時その時に子供しっかり見るということは、その時その時の私の心をしっかり見るということと同じ事だったのでした。

なんでしょう、この感覚は。
”わたし”が無限に大きく広がり、すべてが”わたし”になってしまいました。

この感覚がやってきた時、聞いていた曲。
大学時代に没頭した、西アフリカの音楽です。
Mamady Keitaという世界的なジャンべ奏者が率いるアフリカン・トラディショナル・バンド「Sewa Kan」の演奏。

西アフリカの音楽を、一言で表現するなら”円環”。
始まりとか終わり、区切りといった概念が、リズムの中にないのです。
リズムを聞いているだけで、既成概念がひっくり返ってしまいます。

この西アフリカの音楽の円環の響きは、私の心の中にあったのでした。
バッハの音楽の調和の響きは、私の心の中にあったのでした。

亡くなった祖母の実在を今でも感じることができるのは、祖母は”わたし”だったからです。
今は亡きヨーガの先代の師匠である、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師様に祈ると、いつも明確なヴィジョンを見せてくださるのは、大使様が”わたし”だったからです。

そうか、わたしは常に、わたしを観ている。
今、ここで。





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by ramram-yoga | 2017-05-23 14:18 | music