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カテゴリ:最近のいろんなこと( 69 )
期待されなくても大丈夫
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心の反応の仕方の癖は、人それぞれあるものですが、本人は無自覚である場合が多い訳です。
なぜなら、その人にとって、それが当たり前だから。
苦しい時やしんどい時、必ずそこには、その人特有のこだわりが関係しています。

ですから、苦しみを手放そうとするときは、まずは自分の心の癖に気づき、自覚していく作業が必要となります。
自覚すると、手放すという次の段階に進むことができるのです。
でも、この自覚の作業は、案外ヘビーだったりします^^

私の場合も、自分の支配性を突き付けられ、自覚したあたりからいろんなことが変わり始めました。
前は、誰かに頼りにされたり求められたりされるように、いろんな役割を進んで引き受けていました。
でも、今はあまりそんなことはしません。
別に、誰かにとって頼りになる存在じゃなくても、よくなったのです。
「あなたのおかげで助かるわ!」と言われるのは嬉しいですけれど、それを過剰に求めて自分のよりどころにすることは、無くなりました。

「期待されない私はダメ」から、「期待されたら嬉しいけど、期待されなくても大丈夫」。
この変化が、不安感から、安心感へのシフトをもたらします。
ここのシフトができた時の、率直な感想は・・・
「あぁ、期待されなくてもいいって、なんてラク!」

こんな風に、実際の心の反応や行動の変化を実感すると、自分は変わったな、と思います。
以前は口が裂けても言いたくなかったことも、抵抗なく言えるようになってきていて、自分を苦しめていたこだわりを、少しずつ手放せていけているように感じます。

本当は、誰も自分のことを苦しめていなかったのだなぁ、自分で自分をがんじがらめに縛り付けていたんだなぁと、改めて思います。
浮き輪と同じで、手放して放っておけばぷかぷか浮いているものを、わざわざ押さえつけて沈めておいて「今どん底だー!浮上できない!苦しいよー!」ともがいているのですよね。
楽になるには、ただ、押さえつけている自分の手を放せばいいだけだったりする訳です。

今日はそんな話を一人の常連患者さんとしていました。
苦しみ真っただ中のその方に、浮き輪の話をして「で、どうします?」とお尋ねしたら、「もうちょっと沈んでおきます(笑)」と。
そうそう、苦しみにどっぷりはまり込むも良し。
苦しむのが悪いわけじゃない。
これは、いい悪いの問題ではなく、純粋に選択の問題です。
ただ、同じ沈むにしても、自己決断で沈んでいるのか、無自覚のうちに沈んでしまって混乱しているかでは、その間に歴然とした違いがあります。



愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2018-09-22 00:30 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
巧妙に働く支配性への気づき
もう10年ほど前のこと。
日本統合医療学会の研究総会が東京大学で開催され、ヨーガ療法学会がデモンストレーションをすることになりました。
そのメンバーになぜか私も選ばれ、安田講堂の舞台でヨーガの実演を行いました(真ん中の青い服が私、左がcocoroyogaの中島朋子さん、右がカルマヨーガスタジオ の生熊恵理さん、その後ろの白い服の男性はチャンドラ・スクール・オブ・ヨーガの古市先生と、大阪幹事長の澤先生)。

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ヨーガ療法士としてまだ駆け出しで、ヨーガを熱心に勉強していた頃です。
自分がメンバーに選ばれたと知った時、私の心の中の何かの波形が振りきれたかのように、過剰に反応したのを覚えています。
つまりは、嬉しかったのです。
心から尊敬し慕っていた師匠が、多数のヨーガ療法士の中から私を選んでくれたことが。
その嬉しさといったら、少し度を超えていて、自分自身でも少し驚いたほどです。
それから、どんどんヨーガ療法の世界にのめりこんでいきました。

それからの私は、いろんな場面で、そのコミュニティの中で良しとされることを熱心にやり、注目され、ほめられ、期待に応え、貢献することを繰り返していました。
それをすること自体、全く苦ではなく、喜びでもありました。
感謝され、頼りにされるポジションは、自分にとってとても心地の良いものでした。
一方で、どこかで「やってあげている」という感覚や、犠牲になっている感じも、あったのです。
でも、それらがどのようにして生じてくるのかについて、あまりはっきりと自覚できていませんでした。
自分にとっては、あまりに当たり前のやり方だったからです。

しかし、だんだんと見えてきました。
それらの行動は、自分の居場所を確保するためだったということに。
周りから評価されることで、好意的に感じてもらうことで、また頼りにされることで、私は自分の価値を確認しようとしていたのだ、と。
そして、教育分析(自分自身がカウンセリングを受ける)によって見えてきたのは、その動機に”主導権”というキーワードが入っていたということです。
つまり、支配的な魂胆もあったのだ、ということです。

これは、一見、見えにくい構造ですが、人間関係で生じるコントロールという力は本当に巧妙です。
例えば、人が誰かを頼る時、そこには支配性が生じることがあります。
頼られる人が、頼る人に対してコントロールという力が働き始めるからです。
頼りない人と、頼れる人のどちらの言うことに耳を傾かるか?というと、やはり頼れる人ということになりますから。

私は実は、支配的な人間だったんだ。
これは本当に認めがたいことでした。
認めるまで、時間がかかりました。
ですが、心理の師匠から、そのことを幾度となく直面化させられ、認めざるを得なくなりました。

ですが、認めてしまったら意外と楽でした^^


長くなったので、続きは次の記事で。



愛と感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2018-09-22 00:04 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
からだに訊く
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最近のテーマは、「妥協しない」です。
これを、自分なりに突き詰めてみようと思っているのですが、何かを選択するときに妥協しないことを優先してみると、自分の選択や振る舞いが変わってきていて、面白いです。

言葉の感覚で言うと、選択や判断の基準が「これいい」から「これいい」へと、変わります。

今年の春ごろからかなり意識し始めたのが、自分のスケジュールの入れ方。
以前は、そのスケジュールを入れるのが可能かどうかで判断し、可能ならすぐに入れていたのですが、最近は新しくスケジュールを入れることに、慎重になりました。
結果、スケジュールにゆとりができ、バタバタすることが無くなりました。

今は、一つ一つのスケジュールを吟味して入れているので、日々の行事にとりかかる時に気が乗らないということもほとんどなくなりました。
また「これをやっておいた方が後々無難だから」とか「付き合いの手前」といった動機で行事に参加することも、減りました。
一度やろうと決めたスケジュールも、日が経って改めて「本当にやりたい?」と自分に訊き、あんまり気が進まなかったらやめます(迷惑にならない程度に^^)。

そして、結果的に、仕事を含めて”毎日好きなことしかやってない”という感覚が強くなってきています。
好きなことしかやっていないというと、少々我がままな感じもしますが、別の言い方をすると、自分がひとつひとつの作業を納得して能動的・主体的にやっている感覚が増してきている、という感覚です。

こんな風に、妥協せずにひとつひとつの選択をしていこうとするとき、頼りになるのはつくづく自分の身体感覚だなと思います。
からだが秘めている力には、心底敬服します。
まさに「からだは何でも知っている」。

ある事をするのかしないのか。何をするのか、どれを選ぶのか。
その時に、自分の身体感覚を静かに観察してみます。
すると、自分のからだが求めているときは、そのことを頭に思い浮かべると胸の奥がウキウキっとしたりします。
他にも、清々しくなったり、丹田が充実してくる感覚、地に足がつく感覚など、色々です。

からだこそが、頭でいろいろ考えることをよそに、私を予測もしなかった新しい世界に誘ってくれるのです。

「常識的にはこうした方がいい」、「誰々に言われたから」といった、既存の価値観や周囲からの評価からいかに離れ、からだの声を訊くことができるか。
難しいことではないのですが、結構勇気が要ったりします^^
そして、練習が必要です。
そういうことでいうと、ヨーガで長年身体感覚に繰り返し意識を向けてきた経験が、からだの声を訊くセンサーを鋭くさせることに役立ちました。

からだはすごい。
どんなすごい知識よりも、どんなに素晴らしい人の話よりも、私たちはこの自分のからだをこそ深く探求していくことで、そこに眠る計り知れない智慧の宝庫に出会うことができるのではないでしょうか。


愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2018-09-19 20:15 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
意識科学の時代へ
研究会三昧の3連休です。
昨日はRam-Ram's Roomにて、専門職向けの催眠ワークショップを開催し、みっちり実習をしました。

今日は京都にて「宗教と科学の対話研究会」に出席。
この研究会ではいつも、自分が見ている世界を広げてくれるような示唆に富んだ内容のお話を、時代の最先端を行く研究者の方々から直接聞くことができるので、今回も楽しみにしていました。

タイトルは ”物質と精神を統合する意識科学~宇宙は高次元意識場「意識が物質・現象を創る」~”。

今回話題提供してくださったのは、人間科学研究所所長の米田晃先生と、前田技術研究所所長の前田豊先生でした。
お二人とも科学者であり、『意識科学 意識が現象を創る』という著書の編著者でもいらっしゃいます。

私も、今回の研究会に参加するにあたり、その本を読みましたが、最近の量子力学や素粒子物理学の研究を極めていかれる先生方の世界観と、仏教やヨーガ、そして”気”という概念を含むいわゆる形而上学における世界観とは、驚くほど本質のところで一致している、と感じました。

著書の中で、元通産相電総研主任研究官で、日本意識工学会会長でいらっしゃった猪股修二博士の言葉が紹介されていますが、そこにそれが端的に顕れているように思いました。


”この宇宙の究極の要素は意識である。
 物質とエネルギーは意識から生ずる。”


お話の中で、特に印象に残ったキーワードが”ゼロポイント”でした。
潜象界、つまり物質になる前のエネルギーが現象の世界にポンとあらわれ出る時、それはゼロポイントを介してである、ということ。
実と虚とのちょうど境にあるゼロポイント、極みの1点。

目の前にあらわれている現象をより根源的本質的に理解しようとするとき、必然的に目に見えない、精妙な次元に意識を向けざるを得なくなっていきます。
例えば、目の前のクライアントさんを見るとき、表面的な言動や感情的反応にフォーカスするよりも、その奥にあるエネルギー状態や、向かっていこうとする方向性のようなものを感じ取る方がより本質的な理解になると思って、そうしています。
ですが、まだまだ自分の感じとっているエネルギー状態は粗雑で、もっと精妙な視点からクライアントさんを見ることができないかと思っていたところでした。
その究極的な視点が、きっとゼロポイントにあるのではないかと、思っています。
ゼロポイントから、クライアントさんを見ると、どんな風に見えるのだろうか?
そこは二極性を超えている場所であるはずです。


************


講師の先生は、お二人とも、人格的に素晴らしい方でした。
ゆったりとくつろいでいて、参加者のどんな質問にも真摯に耳を傾けて答えてくださいました。

私は特に米田晃先生に親しみを感じ、研究会終了後にご挨拶しましたが、ちょうど先生が1冊だけご著書を持参なさっていて、運よく購入させていただきました。
丁寧にサインもしてくださいました^^

いただいた言葉は、
「いのち輝かせて生きる!」
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愛と感謝をこめて










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by ramram-yoga | 2018-09-16 23:00 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
自分自身をケアする
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自己肯定感が低く、自信が無い状態に対し、いっそのこと”自分は役立たずで、誰からも期待されない”という状態からスタートしてみる、ということを、先日の記事で提案してみました。
しかし、役立たずだからといって、自分のことをないがしろにしたり、貶めたりするのとは、全く違います。

時々、自分自身をケアすることに対して、抵抗感や罪悪感を持っている方がいます。
例えば、家族を自死で亡くされていたりすると、自分も死んでしまいたいという思いがよぎる。
でも、実際に病気になると、たちまちの苦痛を治してもらいたくて医療機関にかかってしまう。
そして、死にたいはずなのに、楽になれるようなケアを行ってしまう自分を、責めてしまうのです。

そうでなくても、親が不幸そうだったり、過去に誰かに言われた言葉が、自分をケアすることや幸せになろうとすることに対する強力なブレーキになっていることがあります。
正確に言えば、そのブレーキになっているものは実は原因ではなく、それを口実にしてその人が不幸であることを選んでいるのですけれど。

身体が不調の時に、楽になるように自分自身をケアをすることは、とても自然なことです。
これは個の意識を超えた、普遍的ないのちの流れが、そのように意を発し、人間の本能として備わったのでしょう。
この、自分自身をケアするというプログラムが備わっていなければ、人類はとうに絶滅しているはずです。
自分自身をいたわり、ケアをするというのは、いのちの営みなのですね。


**********


自我(エゴ)というと、苦しみを作り出す排除すべき悪者であるようなイメージがあるような気がしますが、実はこの自我が、個としての意識生命体を生かしめています。
ヨーガでいうと、自我は”ahamkara(アハンカーラ:我執)”という内的心理器官であると言われています。
ヨーゲシヴァラナンダ著『魂の科学』によると、この我執から、「私が…」とか「私の…」という意識(アハン・アスミ:aham asmi…)が生じてきます。

我執は、執着への苦しみの元凶となる一方で、解脱をするために最後の最後まで必要不可欠な働きをも持ち合わせています。
「これはなんだろう…?」という好奇心ともいえる意を発する役割を、実はこの我執が行うことにより、真我を識別する智慧に到達することができるのです。


自我は、いつも私たちを助け、いのちの大きな流れが発展するように、働いてもくれています。
要は、使いようによって多大なる苦悩の元ともなるし、いのちを大きく助け、調和に導く立役者でもある訳です。

自分のからだを愛おしみ、いたわる心を持っていたいものですね、お互いに。
あなたのからだは、あなたの私的な持ち物というよりは、個を超えたいのちのあらわれとして、今ここに存在しています。


愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2018-09-11 23:53 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
妥協しない
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昨日の記事の続きです。
自分の意識が、受け身から能動的・主体的なものへと変化すると、それから少し時差はありながらも、実際の現象もいろいろと変化してきています。
今日は、普段の持ち物の変化について。

最近、とある人に、私が仕事の時に持ち運んでいるリュックについて「一体中に何が入っているの?」と言われました。
いつもどうしてそんなに多くの荷物を持ち運んでいるのか?という率直な疑問をぶつけられた訳です。

言われた時は、あまりピンとこなかったのですが、よく考えるとその人の言う通り、自分はいつも多くの荷物を持って移動をしているということが分かってきました。
それも、ほとんど使わないものまで「あると安心だから」という理由で持ち歩いていたのです。

そこで、カバンの中のものを一度全部出して、その日その日で絶対に必要な物と、身に着けていてうきうきする物という基準で選んでみると、あら不思議。
びっくりするほど、荷物が軽くなりました(笑)

これがあった方が安心だから。
この人がいいと言ったから。こうした方が後々損しないから。
こういう想いが少しずつ少しずつ積み重なって、知らず知らずのうちに、心身ともにいろいろなものを抱え込み、ため込んでいたようです。

私の気質は、インドの伝承医学であるアーユルヴェーダによると、カパ(水)の性質が多いのですが、心理面でも物理面でも、ため込むのはこのカパの特徴でもあります。
自分自身がもっと身軽に、そしてこだわりを無くしていくためには、この”ため込む”ことによって生じてくるエネルギーの滞りや浪費をできるだけ減らしていくことにひとつのポイントがありそうだ、と感じました。

そのためのキーワードは、妥協しないこと。
最近これを、かなり意識するようになりました。

今、これは本当に必要か?
それを私は本当に気に入って使っているのか?
惰性でとか人からもらったからとか、もったいないからという理由で身に着けていないか?

以上の、普段身の回りにある物との付き合い方は、そのまま人間関係における自分の在り方にも影響しています。
愛想笑いをしたり無理に人と合わせたりせず、淡々と接する(親切・丁寧は忘れずに)。
人に好感を持ってもらえるように、または人から批判されないようにすることにエネルギーを浪費しない。
本音を隠したり、オブラートに包んで伝えたりせず、率直に伝える。付き合いたいと思っていない人とは、無理に付き合わない。

こういうことを意識しはじめて、自分が今までいかに、余分なことにエネルギーを浪費していたかということを、ひしひしと感じています。本当に、莫大なエネルギーを、使っていたのでした。

自分が何にエネルギーを注ぎたいのか。
妥協せずに選び取るセンサーを、鋭くしていきたいと思います。


*********


小学校1年生の息子と買い物に行くと、時々そこで、直感を磨く楽しい練習タイムがはじまります。

この日はスナック菓子売り場で、どれがいいかと迷っていた息子。
これは高いし、あれはお母さんがダメって言うだろうし・・・。

そこで、「今一番食べたい!って幸せな気持ちになるものを選んでおいで」というと、走って和菓子コーナーへ。
頭でいろいろ考えてた時と、妥協せず直感で選んだ時と、まったく違うものをチョイスしたのでした。
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ちなみに甘党なのは、母譲りです(笑)


(上の写真は、現在お気に入りの持ち歩きアイテム。
 Laura ashleyのペンケース、Desiner Guildのスケジュール帳、そして今日新しく仲間入りしたsybillaのポーチ。)

愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2018-09-08 22:00 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
揺さぶりがもたらした転換
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今年は明けてから間もなく、大きな揺さぶりをかけられました。
私にとっては青天の霹靂ともいえるような出来事で、大いに動揺し、大いに迷いました。
それにやっと区切りがついたので、今こうやって書くことができています。

簡潔に言うと、ある身近な目上の人との関係が、悪くなったのです。
それまで数年間にわたって尊敬し、本当にたくさんのことを教えていただき、そして一緒に仕事をしてきた人です。
これからもずっと、この人とはかかわりながら色々な仕事をしていくだろうと思っていました。

考えてみれば、私がその人の言うことを素直に聞き入れようとしているときは、うまくいっていました。
しかし、相手の提案に対する疑問や違和感を感じはじめ、それを相手に言い出した頃から、関係がギクシャクし始めました。

そして、それが度々の言い合いにまで発展してしまうにまでになってしまいました。
私が怒ったことに相手も驚いたと思いますが、なにより人に声を荒げて怒る自分に、私自身がびっくりしました。
怒っている自分を、妙に面白がって観察している自分もいたりして(笑)
でも、怒るということは、それだけ大きな期待を相手にしていたのですね、きっと。

あぁ、これまで私が付き合っていたつもりでいたのは、私が勝手にその人に対して描いていたイメージであって、その人自体は私のイメージとは全然違う場所にいたんだなぁ‥!
ということに、気が付きました。

そして、その人から離れていく、ということに決めました。
そう決まれば、後はシンプルです。



********


何を隠そう、この決心に至るまでが正念場でした。
今まで思ってもいなかった、自分のある部分を突き付けられたからです。
その”ある部分”とは、人の価値観の中で生きている自分です。
自分がそんな、人の価値観の中で生きている人間だとは、思ってもいませんでした。
それほど、物心ついた頃から、誰かの、あるいは既存の価値観に合わせて行動することが、当たり前になっていたのだと思います。

「この人がこう言ったから」とか「世間的には」とか、そんな基準で、今の自分のやっていることを絶えず評価していたのです。
裏を返すと、既存の価値観において自分を評価していないと、不安だったということですね。

これまで既存の価値観や誰かからの評価によって自分のとる行動を決定してきた人にとって、”自分で決める”ことは怖いことです。
なぜなら、失敗した時に、人のせいにしたり、言い訳したりできないからです。
全責任を自分で負わなければならない。
でも、本当は、人のせいにしていても、自分の行為がもたらした結末は、いつでも自分が引き受けているのですよね。
この半年あまりの間、繰り返し繰り返し突きつけられたテーマでした。

人からの評価や既存の価値観の中で生きる人生から、自己決断と自己責任の中で生きる人生へ。
もう少し端的に言うと、受け身の人生から能動的・主体的な人生へ。
この転換が起こった時、「させられた」「された」と思っていたことが、全部「自分がした」に置き換わっていきました。

「縛られている」のではなく「自分で自分を縛っている」ことがわかりました。
「させられた」のではなく「相手がどうであれ、自己決断の上自分がした」のだということが分かりました。

この転換は、強烈なインパクトを伴いました。
まるで、世界が360度ひっくり返ってしまったような気分でいます。

この変化の過程で、実は今年の春から夏にかけて、3日断食を計6回しました。
すると、あら不思議。
持ち物や人間関係までもが、色々とすっきりしていくではないですか。
今まで必要と思っていたものが意外となくても大丈夫だということに気が付いたり。
どうやらいろいろと抱え込んでいたものがあったようです。
まだまだ、その変化の途上ですが、いろんなものが、シンプルに見えつつあります。


感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2018-09-07 23:32 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
帰省
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12~16日の間、岡山県倉敷市にある実家に帰っていました。
実家に帰ると、普段は緩まない奥深い部分が緩んでいき、自分でも驚くほどよく寝ました。
また、周囲で耳に入る岡山弁の馴染みある響きによって、最近眠っていたからだの深層部分が目覚め、反応しているのが分かりました。
幼いころから親しんだ音の響きには、ものすごい威力があるものなのですね。
あぁ、記憶とはからだそのもの、もっと言えば細胞に刻み込まれているのだと感じました。

ちょうど帰省前、11日の研究会にて、イメージ動作法の踏みしめのポーズ(グラウンディング:心身ともに地に足をしっかりつける)の練習をしました。
そのポーズでは、身体的に地に足をつけことで心理的にも地に足をつけることを意図するのですが、帰省して家族と思い出話をして過去の自分を振り返ったり、お墓参りをして自分のルーツを再確認することで、どんどん身体の重心が下に降り、地に足がついていくのを感じました。
つまり、心理的なグラウンディングによって、身体的にグラウンディングしていったということですね。

もうひとつ、お墓参りをしていて気づいたことがあります。
お墓参りをしてご先祖様に思いを馳せ、手を合わせるという行為は、気(プラーナ)の流れのレベルで観ると、ご先祖様と自分との気の通りを良くするプロセスなのだということ。
お墓の前で手を合わせる度に、スゥーっと気が通っていくのを感じました。

もし、ご先祖や血縁関係での”うまくいかなさ”のようなものがある時、それは怨念というおどろおどろしいものというよりは、単に気のレベルで通りが滞っているのではないかと感じました。

それでは、どうやってご先祖との滞りを解消するのか。
それはもう、ただ受け取ることなのだと思います。
業績をあげたり名声を得たりして喜ばせたり、恩返しするといったような、いわゆるこちらが何かしてあげることなんて、何もないように思います。
また、許しを請ったり、償ったりする必要もありません。
ただ、その愛を受け取る。
見返りの一切ない愛というのは、私たちが普段の生活で体験する愛とちょっと次元が違います。
無条件で、価値のあるなしといった相対性の一切を超えた、絶対的な愛。

ただひたすら、その愛を受け取る。両親を通して、先祖を通して。
ここに生きているこのわたしにまで、こうして連綿といのちを繋がれてきたことに対して、ただただそのことを歓び、謳歌すればいいと思うのです。
そもそも、生きていること自体、どうしようもなく愛の大海原に抱かれているのですよね。

16日は、ヨーガニケタン関西支部で、先代の師匠への護摩供養(グル・プージャ)を行いました。
そこでもまた、ヨーガというアイデンティティにおけるルーツを感じ、先代の師匠とのしっかりとした絆を再確認しました。

そして、同日夜は、京都・嵐山へ。
初めて生でみる大文字焼き、そして渡月橋から見る灯篭流し。
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さて、今朝は雰囲気が一変して、秋らしいですね。
こころもからだも心機一転、新たな一歩を踏み出したいですね。



(上の写真は、子どもの頃よく遊びにいった”酒津のプール”。
 今は私が親の立場になり、プールで遊ぶ子どもを眺める側です。)

愛を感謝をこめて


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by ramram-yoga | 2018-08-17 12:33 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
一点集中、みるみる
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先日29日は、沖縄でいなふくクリニックを開業されている、精神科医の稲福薫先生の大阪での治療・体験会に行ってきました。
この会に行こうと思ったきっかけは、先生のご著書である『無の精神療法』を読んだことです。
稲福先生によれば、すべての精神病は、親の不調和波動に影響されて起こっています。
ですから、病気を治そうと思えば、まず本人か、本人にかかわる誰かがその不調和波動から抜け出すことが必要であるということです。
医療者自身が不調和波動から抜け出した状態で、病の人を見る。
そうすることで、精神病は必ず治すことができるのだと。
これには、衝撃を受けました。

また、文章もさることながら、たびたび登場するイラストにも衝撃を受けました。
そこには、不調和波動に侵されている人と、そこから抜け出した人のイラストが何度も登場するのですが、見るだけでドキっとするのです。
まさに、不調和波動に侵されている人のイラストは、普段かかわる患者さんの悩み苦しむ姿そのものであり、自分が悩み苦しんでいる状態の時そのものであったのです。
この先生は、病というものの本質を見抜いておられるのだな、と思いました。

その後、今年に入って脳梗塞で死をさまよった後、生還され、いよいよ確信が深まったという稲福先生。
先生によると、私たちの正体は、”ぽっかり穴”なのだそうです。
すべての苦しみは、私たちが”個人”だと思っていること。
苦しみから抜け出すには、ぽっかり穴を見つめ、そして、最終的に自分がぽっかり穴そのものであったことに気づく以外にないのだ、ということです。
それが本当なら、ぽっかり穴を見てみたい。
そしてできることなら、そのぽっかり穴そのものであるという体験をしたい。
そんな思いで、今回の治療会に参加しました。

*********

名前を呼ばれ、診察ルームに入ると、初めて見る稲福先生の顔は何とも優しく、ひと目見て深い親しみを感じました。
今回、個人的要望として、「ぽっかり穴を見る、ぽっかり穴そのものになる」ことと、「日々出会う患者さんの苦しみをどうしたら解消できるかを知りたい」ということを紙に書き、先生にお渡ししました。
先生はそれを見て笑顔で、「そうです。できますよ。」と頷いた後、「あなたがこれまで勉強してきた心理学の知識なんて全く役に立たない!」とおっしゃいました。
それを聴いて思わず苦笑いしてしまった私ですが、稲福先生に「あなたもそれが分かってるから、ここに来たんでしょ?」と言われ、「はい、そうです」と素直に返答しました。

そして、”ぽっかり穴”への誘導へ。
「僕の左目を見ておいて、一点集中、みるみる」と言われ、そこをずーっと見ていると、思考が停止して何も考えることができなくなってきました。
「そうそう、それそれ」と、しばらくその状態でいると、「これが、ぽっかり穴」と、言われました。
へっ?こんなにすぐなれるものだったの?
…というのが正直な感想です。
とても懐かしい、そして安堵した感じがしました。

「この状態で、患者さんを見ておくの。
 あなたがただ、この状態でいればいいの。
 あなたがこの状態でいれば、患者さんの苦しみは無くなるから」

と先生に言われ、その後この状態をからだにしみこませるために、別の部屋で20分休ませていただきました。


**********


あれから、あのぽっかり穴になった時の状態を、繰り返し思い出していました。
そうやって思い返してみると、ぽっかり穴は、初めての経験ではなかった。
幾度となく体験していたような気がする、特に、子どもの頃に。

そして、ぽっかり穴の状態で私を見ている稲福先生のまなざし。
あのまなざしで、今までにも何度も見られたことがあったことを思い出しました。
何よりも…自我意識とは別の、もう一人の自分がこのまなざしで絶えず自分のことを見ていた、ということに気づきました。
もう少し、この感覚を、自分の中で深めていきたいと思います。

*********

稲福先生の治療・体験会は、今度は9月23日にあるそうです。
1回5000円で受けられますので、ご興味のある方は、行ってみられてはいかがでしょう。
ホームページの「治療会のお知らせ」に、詳細が掲載されています。
Facebookでの稲福先生の記事も、かなり頻回に更新されています。

先生によると、ぽっかり穴がどういうものかを一度体験しておくと、今の状態がぽっかり穴なのかそうでないのかを判別することができるから、体験しておくことは大事だ、ということですよ^^



愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2018-07-31 16:32 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
スゥーっとした世界
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今年に入ってから、目の前に広がる世界がまた違ってきています。
住んでいる場所は変わらないのに、日々出会うものは変わらないのに、世界の見え方が留まることなく変化していきます。

特に、今週に入ってから、今まで入ったことのないフェーズに入ったように感じています。
一時的なものかと思いきや、数日間続いているので、この感覚を書き留めておこうと思います。

本題に入る前の前提として、私はこの世界はパラレルに存在しているという認識をしています。
実際に、そう感じるからです。
たとえ一緒の空間を共有していたとしても、その人がどのフェーズに起点をおいて存在しているかによって、見える世界とその後の展開がそれぞれ異なります。
触れ合うものの質感も、異なっていきます。

今回入ったフェーズから見える世界は、一言でいうと「スゥーっ」としています。
スゥーっとしか表しようがないほど、何もかもがスゥーっとして感じられます。

いわゆる”現実的”な感覚が薄いです。
といっても、非現実的で地に足がついていないというのではなく、今までガンとして存在するように感じられていた物質世界のリアリティが薄らぎ、より本質的なものがリアリティを帯びてきたと言った方が正確です。
今のフェーズから見ると、物質というのは、精妙なエネルギーの表現型であり、結果なんだなぁという風に感じられます。
10年以上前にヨーガ哲学を学び始めた当初に、より精妙になればなるほど把握しにくく、より強力な力を持つと学びましたが、そのとおりだと実感しています。



また、それに加え、以下のような感覚があります。


二極性の弱まり
私と対象者(物)があまり明確に区別されない。
「わたし」対「あなた」というような、自と他のはっきりした境界が、そんなにはっきりと感じられなくなっている。
両者の間の線引きがあいまいで、そこがまさに”スゥーっ”として感じられるのです。
”生”の対極に、断固としてあると感じられていた”死”の存在感も、薄らいでいる。
このフェーズからは、生と死は対極にあるというよりは、表裏一体もしくは連続性のあるものとして感じられます。


固定性の薄らぎ
物質世界がガンとしたゆるぎないものとしてそこにある、という感覚が弱まっています。
物質の”ガッチリ”とか”ゴツゴツ”という感じが薄らいで、スゥーっとして感じられます。
物質を精妙なエネルギー状態としてとらえると、それぞれ何らかの方向性もしくは意思のようなものを持っているように感じられます。
それら方向性をもっているのは、どうやら生物や物質だけでは無いようです。
そして、その意思をじっと感じてみると、これはまた驚きと感動なのですが、他者に貢献するために自己を十全に発揮することなのです。


”重さ”や”気負い”の消失
フェーズが変わると、世界を支配している法則が変化すると感じます。
何かを手に入れたり、達成したりするために、がんばって苦しんで努力する、という必要が、無くなります。
なぜなら、手に入れたいものも、達成する目標も、現在の自分とはっきり区別できるものではもはやないからです。
ですから、今までだと気合を入れて頑張って立ち向かおうとしてきたものが、今のフェーズに立った時には立ち向かうべきものではなくなっているので、重さや気負いというものがあまり無い。
ガツガツと努力するのではなく、”スゥーっ”と自然体でやっていけるのです。


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いつも、世界観の深まりには、日常で接するヨーガの生徒さんやクリニックの患者さんとのやりとりがリンクしています。
苦しんでいる患者さんを目の前にして、一体私に何ができるのか。
ずっとずっとこれが私のテーマであり、原動力である訳なのですが、繰り返し考えて行きつくところは、自分自身がどう在るか。
私ができることは、自分自身がより本質を理解し、体得し、本質そのものと合一していく以外にないのだという思いを強くしています。



感謝と愛をこめて








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by ramram-yoga | 2018-07-13 08:06 | 最近のいろんなこと | Comments(0)