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カテゴリ:最近のいろんなこと( 60 )
スゥーっとした世界
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今年に入ってから、目の前に広がる世界がまた違ってきています。
住んでいる場所は変わらないのに、日々出会うものは変わらないのに、世界の見え方が留まることなく変化していきます。

特に、今週に入ってから、今まで入ったことのないフェーズに入ったように感じています。
一時的なものかと思いきや、数日間続いているので、この感覚を書き留めておこうと思います。

本題に入る前の前提として、私はこの世界はパラレルに存在しているという認識をしています。
実際に、そう感じるからです。
たとえ一緒の空間を共有していたとしても、その人がどのフェーズに起点をおいて存在しているかによって、見える世界とその後の展開がそれぞれ異なります。
触れ合うものの質感も、異なっていきます。

今回入ったフェーズから見える世界は、一言でいうと「スゥーっ」としています。
スゥーっとしか表しようがないほど、何もかもがスゥーっとして感じられます。

いわゆる”現実的”な感覚が薄いです。
といっても、非現実的で地に足がついていないというのではなく、今までガンとして存在するように感じられていた物質世界のリアリティが薄らぎ、より本質的なものがリアリティを帯びてきたと言った方が正確です。
今のフェーズから見ると、物質というのは、精妙なエネルギーの表現型であり、結果なんだなぁという風に感じられます。
10年以上前にヨーガ哲学を学び始めた当初に、より精妙になればなるほど把握しにくく、より強力な力を持つと学びましたが、そのとおりだと実感しています。



また、それに加え、以下のような感覚があります。


二極性の弱まり
私と対象者(物)があまり明確に区別されない。
「わたし」対「あなた」というような、自と他のはっきりした境界が、そんなにはっきりと感じられなくなっている。
両者の間の線引きがあいまいで、そこがまさに”スゥーっ”として感じられるのです。
”生”の対極に、断固としてあると感じられていた”死”の存在感も、薄らいでいる。
このフェーズからは、生と死は対極にあるというよりは、表裏一体もしくは連続性のあるものとして感じられます。


固定性の薄らぎ
物質世界がガンとしたゆるぎないものとしてそこにある、という感覚が弱まっています。
物質の”ガッチリ”とか”ゴツゴツ”という感じが薄らいで、スゥーっとして感じられます。
物質を精妙なエネルギー状態としてとらえると、それぞれ何らかの方向性もしくは意思のようなものを持っているように感じられます。
それら方向性をもっているのは、どうやら生物や物質だけでは無いようです。
そして、その意思をじっと感じてみると、これはまた驚きと感動なのですが、他者に貢献するために自己を十全に発揮することなのです。


”重さ”や”気負い”の消失
フェーズが変わると、世界を支配している法則が変化すると感じます。
何かを手に入れたり、達成したりするために、がんばって苦しんで努力する、という必要が、無くなります。
なぜなら、手に入れたいものも、達成する目標も、現在の自分とはっきり区別できるものではもはやないからです。
ですから、今までだと気合を入れて頑張って立ち向かおうとしてきたものが、今のフェーズに立った時には立ち向かうべきものではなくなっているので、重さや気負いというものがあまり無い。
ガツガツと努力するのではなく、”スゥーっ”と自然体でやっていけるのです。


**************


いつも、世界観の深まりには、日常で接するヨーガの生徒さんやクリニックの患者さんとのやりとりがリンクしています。
苦しんでいる患者さんを目の前にして、一体私に何ができるのか。
ずっとずっとこれが私のテーマであり、原動力である訳なのですが、繰り返し考えて行きつくところは、自分自身がどう在るか。
私ができることは、自分自身がより本質を理解し、体得し、本質そのものと合一していく以外にないのだという思いを強くしています。



感謝と愛をこめて








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by ramram-yoga | 2018-07-13 08:06 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
花と人間の関係
今日は、精妙なものに意識を合わせやすい日でした。
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庭で花々のお手入れをしていると、お花たちが普段は人間には見せることのない、自分たちの奥深い世界へとすぅーっと誘ってくれたような気がしました。
花と人間との関係について、今日感じたことを、書き留めておこうと思います。


****


お花の苗は、華やかな花が、たくさん、そして長く咲くように、実はかなり人工的に加工・改良されています。
最近、その生産過程を聴き、ちょっと驚いてしまうほどでした。

でも、花たちは(”花たち”というより、花を表現している意識体といった方がいいでしょうか)、自分たちが人工的に加工されることを嫌がっているのでは、どうやらないようなのです。
それよりもむしろ、人工的に加工されることを積極的に引き受け、より人間と親密になる、という道を選んでいる。
そんな風に感じました。

花は、人間に対してとても好意的に存在している。
人間に自分を加工されてまで、人間とともにあろうとするその姿に、感動を覚えます。
無防備に自分を差し出すということはこういうことなのか、と。

そんな、懐の深い愛の表現を私たちに見せてくれるお花たちですが、一方で可愛らしさもあってとってもキュートです。
お花は人間の手入れをとても喜びます。
人間に注目されること、「きれいだね」と愛でられることが、大好きです。
時々「私を見て!」とアピールしてくれる花も^^
そして、自分たちの美しさで、人が幸せになると、満ちたります。


******


庭に咲いている、なでしこのお花。
最近釘付けにされるのは、つぼみから開花するところです。

見てください・・・時計回りの渦。
まさに開かんとしています。
発散・放射のエネルギーが、一つ一つのちいさなつぼみにこうして形となって現れています。

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そして、数時間後には見事に開花していました。
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なでしこの花びらはやわらかくて、虫さんが大好き。
咲くたびに虫に食べられてしまいますが、次々と可憐な花を咲かせていきます。


ほら。
今日の夕方に撮影した、開こうとするつぼみ。
やっぱり、時計回りの渦巻き。

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明日には開花でしょうか^^




愛と感謝をこめて


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by ramram-yoga | 2018-05-25 22:12 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
心をひらき、影響を一身に受ける
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人間と動植物との関係性を、ヨーガでいうところのプラーナ(生気)の次元でみたときに、犬と花がもっとも人間のプラーナの影響を素直に受け入れているように感じます。
疎通性がいい、とでもいうのでしょうか。

野生で咲いている花と、プランターで手をかけられている花とは、発しているものが違う。
人の手がかかった花からは、その花本来の生気だけでなく、その手をかけた人の生気が感じられます。
同じ花でも、育てた人によって、咲き方が違う。
特に、丁寧に丁寧に手をかけられた花は、その花びらひとつひとつ、葉っぱの先にまで、その人の生気がぴっちりと行き渡っています。
犬も同じで、手をかけられている犬ほど、毛並みやしっぽの先にまでその人の生気が行きわたっている。

花と犬は、人間に対して非常に好意的に存在していて、人間の影響を一身に受けることをゆるしている。
その無防備さに、驚きます。
自分といものを、他者にこんな風に明け渡すということができるのですね。

そして、そのように花本来の生気に人の生気が合わさることによって、不純になるかといえば、全くそんなことはない。
むしろ合わさることによって、お互いがより幸せになり、周囲にとっては魅力的になるのです。
魅力が増すことが、生命がより十全に顕れ出ることと関連しているとすれば、生気が合わさることによってよりそのものが生命化していくと捉えてもいいのかもしれません。

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人をみていても、周囲の人によって変化する人と、しにくい人がいるように感じます。
周囲によって変化する人は、影響を受けやすいと少し否定的に評価されることがあります。

しかし、ゆるぎない人、自己を十全に発揮しながら進化成長を続けている人をよく見ていると、実に人から多くの影響を受け、変化し続けていることが分かります。
全く止まっておらず、絶えず新しく出会うものに心を開き、そのものの影響を一身に受け、そこからオリジナルの新しいものを生み出している。



*****


さて、こちらに引っ越してきてから、生まれて初めてお花を育てています。
私が手をかけたお花たちは、どんな生気を放ちながら育っていくのでしょうか^^



愛と感謝をこめて


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by ramram-yoga | 2018-05-17 16:22 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
結婚10周年
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今日は結婚10周年記念日でした。

10年前の2008年5月10日は、その日に限って大雨。
がっかりを通り越して笑ってしまうほどの、ざんざん降りでした。

そんなこんなでスタートさせた結婚生活。
振り返ってみると、今やっているいろいろな活動は、結婚後にスタートしたものばかりです。
インドに行き、チベットに行き、ヨーガを本格的に学び始め、そして挙句の果てには大学院にも。

そう考えると、夫は間違いなく私のヨーガ人生の立役者となってくれています。
「これだ!」と思うとわき目もふらず突っ走ってしまうところがある私に、よくぞここまで付き合ってくれました。
夫に言わせると、私は「激情型イノシシ」なのだとか(笑)

結婚10周年を皮切りに、これから10周年記念がいくつか続きます。
聖名を拝受してヨーガの伝統に入って10周年。
ヨーガを教え始めて10周年。
来年には、このブログも10周年を迎えます。

10年というのは、やはりひとつの大きな区切りですね。


結婚式のウェルカムボードの画像が、ひょっこり出てきました。
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愛と感謝をこめて

(大山崎のレストラン タガミ にて。)





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by ramram-yoga | 2018-05-10 22:54 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
愛着の見直し
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前回の記事(「思考を放っておく」)でも書いた、起こってくる思考を”放っておく”、というやり方を覚えてからというもの、それが面白くて面白くて、暇をみつけてはやってみています。
”放っておく”ことを”やる”、というのは、少しおかしな表現です(笑)
ですが、これまで、それほどまでに無意識的に思考を掴んでいたのですね。

例えば、「あのとき、ああした方がよかったな」と思ったとします。
すると、これまではその思考を引っ掴まえて、”そんなことを思う自分って、まだまだこだわっているなぁ”なんて思いながら、そのような心の反応をしたことについて、地味にネガティブな感情的反応をし、されにいろいろと思いを巡らせていました。
「なんでそんな風に思ったんだろう」とか、「あらあら過去に引きずられてしまってる~!」とか。

でも、放っておくやり方だと、”「あのとき、ああした方がよかったな」っていう思考が今出てきているな~”と、いわば無責任に、まるで他人事のように眺めていることができるのです。
そのような思考が起こってきたことに対する感情的反応が、あまり起こりません。
そして、そのようにニュートラルに眺めていると、その思考は間もなくすーっと行ってしまい、今ここに立ち戻ってくるのです。

こういう視点でみてみると、苦しみというのはどうやら、思考を掴んでいることから生じてきていたようです。
分かっているようで、分かっていなかった。
できているようで、できていなかった。

さて。
それでは今までなぜ、そんなにも思考を引っ掴まえ、フォーカスしてしまっていたのか。
それを改めて考えていたのですが、そこで、これまであまり目を向けようとしてこなかった自分の傾向に目を向けざるを得なくなりました。

それは、自分が”好き”と思うものを追い求める傾向です。
例えば、瞑想中に経験する静かで深い意識状態では、思考の働きがほとんど感じられなくなります。
それは確かに魅力的な意識状態ではありますが、それを追い求めるあまり、そうでない意識状態を知らず知らずのうちに否定的に捉えていたところがあるように思います。

それ以外でも、自分が過去において高揚した体験、感動した体験、やった!と思った体験、アハ体験。
そのような、過去の”よかった”印象(記憶)を握りしめ、それらを知らず知らず再体験したいと追い求める傾向にあったことを認識しました。

私たちは、嫌なものとかシチュエーション、ネガティブな気分など、歓迎しないものについては、どうにかそれらを遠ざける努力をするものです。
しかし、自分が愛着を感じているものについては、意外と無防備。
だって、好きだから。
だって、もっともっと欲しいから。
でも、好きという愛着の感情も、嫌いなものと同じか、時にそれ以上、非常に強い煩悩になりうるのですね。

そう、だから、手放すというのは、ただ単にネガティブな記憶や感情だけではない。
ポジティブな記憶や感情も、同様に手放していく。
正確にいうと、好き嫌い、ネガ・ポジ、といった判断を手放していく。
ただただ、一過性のものとして、眺めて放っておく。

そのためには、”思考は自分のもの”という考えを、まずは横に置いておく必要があります。
空を流れていく雲と同じように、思考を眺めるのです。
雲がどこから来てどこへ行くかなんて、全く私の責任の範疇にはないし、ましてや掴めもしない。
それと同じように、思考に対しても責任を持とうとせず、ゆったりと傍観しておくのです。


*******


”好き”という愛着の感情は、それが強ければ強いほど、苦しみを引き起こす。
それを失うことの苦しみ、実際に失った時の苦しみ、得られなかった時の苦しみ、変化してしまった時の苦しみ。

今まで強力にしがみついていたたくさんの”好き”なものを、再点検するときが、やってきたようです。



愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2018-05-07 23:08 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
思考を放っておく
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先日の記事(どうにかしようとしない)でも書きましたが、湧き出てくる思考を”放っておく”という、今までの私にはない発想がなかなか良くて、繰り返しやってみています。
”放っておく”と思うだけで、フッと気が抜けて笑ってしまい、なんだか楽~になっていくのです。

別にどうこうしなくっても、いいんだ。
放っておけば、いいんだ。

それで初めて気づきました。
今まで、自分の頭の中に沸いて出てくる思考に、責任を持とうとしていたのだ、ということに。
だから、自分の思考を掴み、そして追いかけまわしていたのだなぁ、と。
そしてその責任感は、「思考は自分のもの」と思っていたところから来ていたのだなぁ、と。

そういう意味では、客観視という言葉だけでは、まだ思考を手放すことができていなかったのです。
正確には、客観視できる思考と、どうしても客観視できない思考とがあった。
その点、”放っておく”という言葉では、いとも楽にできてしまったのです、私の場合。
その言葉の持つニュアンスというのは、時に思いもかけないような働きをしてくれるのですね。

さて。
追いかけず、放っておき、観察していると、思考はスーッと流れて行ってしまいました。
まるで、葉っぱが川に流されて行ってしまうように、なんともあっけなく。
頭の中でぐるぐる回って止まらない、ということには、なりません。
思考が頭の中でぐるぐる回る状態というのは、私たちが無理やり思考を引っ掴んで握りしめていることから起こっていることなのだ、ということが分かりました。
今まで分かっていたようでいて分かっていなかったことが、腑に落ちた瞬間でした。

それからというもの、折に触れ、思考を放っておく、ということを繰り返していました。
ふと、あるタイの僧侶の講和を思い出しました。
皆さん一人一人、自分の頭の中に水洗トイレを持っておきましょう、というお話。
どういうことかというと、感情や思考を自分自身の力で流す術を、持っておきましょう、ということです。

今朝、イメージの中で水洗トイレのノブをひねり、自分の頭の中をジャージャー流していた時のこと。
ここ最近ずっとわだかまっていて、こびりついていたこだわりが、流れはじめようとしていることに気づきました。
どうしても、ガンとして譲れなかったこと、これだけは何が何でも守らねばと思っていたことが、ありました。
それが、意外とあっけなく流れようとしているのです。

「え~っ!ちょっとまってぇ~…」

と思いなら、無理に引き留める気にもならず。
そのこびりつきは、ほどなく行ってしまいました。
あんなにしがみついていたのに…、あれはなんだったんだろう。

そして、それらが流れ去った後、ふつふつと、なんともあたたか~いものが湧き出てくるのです。
それは、愛としか言いようのないものでした。
私が思考を引っ掴んで苦しんでもがいている間にも、愛はずっとベースにあって、ずっと私を包んでくれていたのでした。
なぁ~んだ、と、ほっとして、勝手に幻想と対戦していた私に、苦笑いしたのでした。

こうしていつも、私たちは愛の大海原の中にいたことに気づきます。
いくら離れてもまた、私たちが回帰していくところは、愛なんだなぁ。


******


先日読んだ『あなたの世界の終わり』で、エゴをわたしだと思っていることは、実はとても不自然なことなのだ、というくだりがありました。
つまり、思考を自分のものとしているということ自体、非常にエネルギーを消耗しているのだ、と。
そして、わたしの本質がエゴではなく「一(いつ)なるもの」の側にあることに目覚めた時、それまで背負われていた重荷は下り、言いようもない安堵感と開放感がやってくる、と。

今が不自然なら、自然に回帰したい。
今重荷を背負っているなら、重荷を降ろして身軽になりたい。

気づき、手放す。
また気づくたび、手放す。
これを、淡々とやっていく先に、安堵感と開放感があるのですね、きっと^^



愛と感謝をこめて






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by ramram-yoga | 2018-05-06 18:44 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
条件付けからの脱出
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最近、自分がこれまで感じていたよりももっともっと深い部分で、自分の心の動きや行動を規定付けていたものについて、考えています。

先日の記事(気づいたら終わる。光に返る。)では、生まれて物心ついてからの記憶や対人関係において作られてきた私の思考や行動の傾向について触れました。
しかし、そのような、個としての私の今回の生における経験に基づいて形成されてきた思考や行動の傾向は、どちらかというと割合としては少ないのではないかと、感じはじめています。

例えば、わが子を可愛いと思う親心。
これは、親なら当然でしょうと、それを疑うこと自体がタブー視されるほど、当たり前のことです。
でも最近、毎朝毎晩、息子の寝顔を見ながら、この無条件に湧き上がってくる愛着の想いとは何だろうと思うのです。
これは、ただ私が自発的に息子を愛しているというよりも、生物学的な本脳がそうさせている部分も多いのでしょう。

哺乳類は、個体として、身体全体における頭部の大きさが大きいほど、そして丸みを帯びているほど、その対象物をに愛着を感じるようにできています。
声は、低いより高い方が、その個体を擁護しようという動機が高まるように、できているのです。
極端な話、ひげを生やし、声の低い5歳児とかだったら、あんまりかわいがる気になりませんよね(笑)


***


また例えば、誰か特定の人に対して強く惹かれる心の動き。
誰もが経験するものと思いますが、そのさなかにいる時には、まるで有無をいわせない強力な力が働いているかのようです。
その力に、抗いようもありません。
その力に対して、完全に受動的になっているかのようです。
ある捉え方から見れば、それは運命的と言われるものなのかもしれません。
しかし、ある捉え方から見れば、それは、これまで人類が繰り返してきた相手への想いや行動の記憶を、今のその人の人生において再生しているようにも思えるのです。
そして、ある日突然その力が無くなってしまったかのようになる時が訪れます(訪れない人も、きっといますね^^)。
夢が覚めたかのようです。
なぜ、その人にそんなに惹かれていたのか、自分でも説明がつきません。

でもそれは、悲しむべき終結ではありません、きっと。
そこで初めて受動的な状態から脱することができ、その人の生き方が主体的になる可能性に開かれるからです。


***


また、例えば、栄光と堕落。
これはその人の人生において交互に訪れます。
なぜなら、堕落がなければ栄光はないからです。
栄光の形は人によって違います。
ある人にとっては大勢の人からの賞賛。
また、ある人にとっては特定の人からの特別な注目。
あるいは、達成感、すっきり感、感動、高揚感。
これらは、落差が大きいほど強い印象を残します。
つまり、それらの対極にある、堕落、絶望、苦しみ、疲労困憊が大きいほど、栄光を手にした時に強烈に高揚するのです。

高揚、堕落。高揚、堕落。
このジェットコースターのような急激なアップダウンは、非常にスリリングです。
このスリルを味わうことで、生きている感じがする。
もしくは、”存在することを許される”という感じ?
平坦な生活では、味わえない。
自分を貶めたり、ストイックになりすぎる人の中に、このような傾向を感じることがあります。


****


タイトルに書いたように、思考や行動が、すでに”条件付け”されている部分が多々あるような気がしています。
他にも、まだまだ。
”条件付け”とは、カルマとでもいいかえれると思います。

今まで当たり前と思っていた自分の心の動きを、一度新鮮な驚きを伴って観察してみる。
「なぜ?」と問いかける。
気が付いたら、その”条件付け”から脱することができる。
有無を言わせず自分を駆り立てていた行動から、解放されるのです。
まるで、枯れて落ちていく花のように。
花は咲き終わると、途端にその植物全体の働きが、花に栄養を送るのをストップするのです。
それと同じように、条件付けされた行動に、もはやエネルギーが注がれなくなっていきます。

本当の意味で主体的に生きていくということは、どういうことなのか。
それは、その条件付けから脱した時に初めて俎上に乗せることができるテーマなのだと思います。



感謝と愛とこめて







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by ramram-yoga | 2018-05-02 21:48 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
ゆらぎ
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ブログの更新をあまりしていませんでした。

しばらく、大きく揺さぶりをかけられていました。
揺らぐということ自体に、今まであまりいいイメージを持っていませんでしたが、この“ゆらぎ”は、人が進化していくためには実は必要不可欠なのだと、今回感じました。

今回学んだのは、自分の足で立つ、自分のことに関する決定事項を人に委ねず、自己決定するということ。
つまり、人のせいにせず、自分で責任を負うということ。
自分がした選択の結末を、きちんと引き受けるということ。
まだまだ、自分にはそこが足りなかったということを、突きつけられました。

というより、本当は、自分がしたことの結末は、いつでも引き受けていたことに気づいたのです。
私がとってきた行動の果実は、他の誰でもない私が引き受けなければならなかったのです。

例えば、自分が選択をした結果、もしよくない事態が起こってしまった、ということを避けるために、人に決断を委ねる。
そうやって、人に決めてもらう。
人の評価の中で生き、人の言動によって自分が左右されることもそうです。
すると、歓迎しない事態に陥った時、他人のせいにして、自分は責任回避することができます。
「私が今不幸なのはあの人のせいだ、〇〇のせいだ」と。
でもその代わり、この態度には、自分のことをいつまでも他人任せにし、他人によって自分の状態が決まってしまうという、決定的な弱点があります。
つまるところ、人の不幸というのは、ここに集約されるのではないかと思うのです。

どこまでいっても、自分がどうあるか、なのだなぁと、思いました。


************

いつもこれは本当に不思議なのですが、今回のようにある起点に立った時、同じキーワードを持っている人が目の前にあらわれます。
友人や家族というより、患者さんや生徒さんと対するときにそう感じることが多いです。
彼女たち(女性の方が多いので総称してそう呼びます)は、大げさでなく、全存在をかけて私の前にいるので、私も真っ裸になって真剣勝負のつもりで向き合わないと、とてもではないけれど対峙することはできません。
鋭い洞察力を持った彼女たちを目の前に、私もごまかしがきかない。
いのちといのちが激しくこすれ合うかのように、場が緊迫することもあります。
そうすることで、自分の生き方、態度は本当にこれでいいのか?と、いつも問われているような気になります。
そういう意味では、これまで私は患者さんや生徒さんに育てられてきた、といって間違いありません。
同志といってもいいと思います。

まだまだ渦中にいる人、何度這い上がろうとしても突き落とされ、絶望しかけながらも、また這い上がっていく。
そんな彼女たちの純粋さと誠意に、敬意を感じずにはいられません。
そして、もう彼女たちはすでに知っているのではないかな、と思っています。
何を知っているのかというと、自分が向かおうとしている先がどんな世界なのかを、です。
もう、分かっている。
なぜかというと、知らないのに求めることはできないのですから。
知っているから、求めることができるのです。
妥協せずに真摯に自分の納得できるものを求めてやまない、そんな姿は本当に美しい。

*************


私も妥協せず、自分の求めるものにまっしぐらに向かっていきたいと思います。
有難いことに、以前よりはっきりと道筋が見えています。
前回のブログにも書きましたが、やっぱり、何かに呼ばれている気がします。
意識状態をこまやかにしていくと、一層その”何か”がはっきりと私に迫ってくるのを感じます。
あえて何か、というと、とても精妙な光に。
もしくは、精妙で広大な”意識”とも呼ぶべきものに。

もっともっと、それらをよりはっきりとつかめる状態に、自分をもっていくべく、試行錯誤しています。
キーワードは”浄化”。
自分自身をできるだけ透明にしておくことです。



愛と感謝をこめて







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by ramram-yoga | 2018-04-20 22:30 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
あなたの内なる声
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あなたの内なる声に 耳を澄ましてください
自分を信じて
あなたの内なる声に したがってみてください
いま 外側にみている現実は あなたの心の反映なのです
あなたは あなたの心を 外側にみているのです

常識にとらわれないこと
「でも…」と 理由をつけて 立ち止まる必要もありません
つじつまを合わせることで 安心しようとしても
それは 頭の中で作り上げた幻想にすぎません
つかの間の安心にはなるかもしれないけれど
実際は 何もあなたを守ってくれはしない

外側にネガティブな印象をみるのなら
それはあなたの心の内にあるものを投影しているのです
日々 一瞬一瞬 心の中で何を思うのか
どのような意識状態で過ごすのかに 責任を持ってください
あなたが 世界を創り出しているのです
この世界は あなたが創っているのです
あなたは まだあまり自覚していない
あなたにどれだけ大きな力が備わっているかを
あなたは 力ある存在なのです

愛しいあなた 目覚めるのです
自分は小さく限定的で 無力な存在であるという幻想から
目を覚まして 閉じているその目をひらいて
あなたの本当の姿を 思い出してください

愛しいあなた
あなたを愛しています

日めくりカレンダー「愛しいあなたへ」より


***************



"わたし”から受け取ったメッセージ綴った日めくりカレンダー。
最近、買ってくださる方が、増えてきました。
自分用に買ってくださった方が、また何冊かまとめて購入し、知人にプレゼントしてくださったり。
クリニックに飾っているのを見た患者さんが買ってくださったり。
嬉しい感想も、いろいろいただいております^^
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感謝と愛をこめて



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by ramram-yoga | 2018-02-20 00:01 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
二元性を超えて
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今日は息子のボーイスカウト活動に同行し、十方山へ。
すがすがしく神聖な山でした。
歩いているとどんどん心が静かになっていき、自然と自分との境が無くなっていくようでした。

孤独や自己卑下というのは、自然界にはあり得ない。
本当にたった独りなら、生命を維持させるということ自体が成り立たない。
自己卑下というのは、自分を評価する側と評価される側とがないと成り立たない。
でも、主客は本当は分離していない。
ただ、理性が自と他を区別しているだけ。

主客を合一していくのでもない。
だって、今までもこれからも一つでしかあり得ず、分かれていたことは一度も無かったのだから。


愛と感謝をこめて








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by ramram-yoga | 2018-02-04 21:10 | 最近のいろんなこと | Comments(0)