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カテゴリ:最近のいろんなこと( 55 )
愛しています
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先日フラクタル心理学で学んだ「思考は100%現実化する、一切の例外なく」という言葉が折に触れて頭に浮かび、そのたびに繰り返し心の中で唱える日々です。

そのような目で世界を見れば見るほど、今目の前にある現象は、自分の心の中の印象を映し出しているということが分かります。
すべて、そうなのです。
何一つ例外は、ないのです。
そう考えた時、今直面しているいかなる現象に対しても、弁解のしようがありません。
自分の不幸や不運を、周りの人のせいにすることは、もうできない。
すべて、自分で作り出しているのです。

そして、自分の周りに苦しんでいる人を見るとき、それは私と無関係ではないのです。
ネガティブなものをみるとき、それは自分の内にあるものに対してネガティブな印象が必ずあるのです。
最近、自分の目の前に苦しむ人たちがいることに対して、疑問を持つようになりました。
特に、職業柄、苦しむ人と対面することがよくあります。
死にたい、消えてなくなりたいと思うほど苦しみ、そこから這い上がろうとするたび引きずり降ろされる、ということを長い間繰り返している人たち。
私はなぜ、そのような人達を外側にみなければならないのか。
もしかしてその要因は、私の中にあるのではないか。
そうでなければ、私は外側に、苦しみを見ることはないはず。
すべて、自分が作り出しているのです。

すべては自分次第。
例外は一切ない。
このことを中途半端にではなく、徹底的に落とし込んでいったとき、ものすごい意識の転換が起きるのではないでしょうか。

************

一昨日、ある方が本をプレゼントしてくださいました。
『心が楽になる ホ・オポノポノの教え』
ホ・オポノポノについての本はすでに読んでいましたが、このタイミングでこの本がやってくるということは、ここに何か自分に必要なメッセージがあるはずだ、と思い、読んでみました。
やはりこれは深い。
ホ・オポノポノでは、人が思うように生きることができないのは、「潜在意識の中にある記憶が原因」だと考えています。
思考は100%現実化する、というのと、私には同じことのように思えました。
ホ・オポノポノでは、それに対して、「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」と、繰り返し言って、その記憶をクリーニングしていくのです。
そして、中でも「愛しています」は、4つの言葉すべてを含んでいるので、この言葉だけを唱えていてもいいのだ、と。

なんとシンプルなのでしょう。
そして、この「愛している」という言葉は、なんて力があるのでしょう。

世界は自分の心の合わせ鏡であると、ヨーガの師匠から学んだのはもう13年前のこと。
それから、様々な経験を重ねる度、この言葉がより真実味を帯び、重みを増していきます。

そう、いつも同じ結論に達するのです。
今目に映る世界は、自分の心そのものだということ。
すべてはわたしだということ。
そして、愛そのものだということ。

何を見聞きしても、いつもここに、立ちかえるのです。
でも、立ち返るたび、感じる深みが違います。
どんどん、深まっていきます。

何が起こっても、「愛しています」と、唱える。
原因が何であろうと、今の状況がどうであれ。
自分の欠点に対して、外に見る苦しみに対して、病気や不調に対して、嫌悪する対象に向けて、望まない状況にむけて。
そしてもちろん、愛すべき人に対して、周りの物や植物に対しても。


愛しています

愛しています

愛しています

愛しています

愛しています


もしよかったら、一緒にやりましょ^^



愛と感謝をこめて






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by ramram-yoga | 2018-02-21 18:03 | 最近のいろんなこと
あなたの内なる声
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あなたの内なる声に 耳を澄ましてください
自分を信じて
あなたの内なる声に したがってみてください
いま 外側にみている現実は あなたの心の反映なのです
あなたは あなたの心を 外側にみているのです

常識にとらわれないこと
「でも…」と 理由をつけて 立ち止まる必要もありません
つじつまを合わせることで 安心しようとしても
それは 頭の中で作り上げた幻想にすぎません
つかの間の安心にはなるかもしれないけれど
実際は 何もあなたを守ってくれはしない

外側にネガティブな印象をみるのなら
それはあなたの心の内にあるものを投影しているのです
日々 一瞬一瞬 心の中で何を思うのか
どのような意識状態で過ごすのかに 責任を持ってください
あなたが 世界を創り出しているのです
この世界は あなたが創っているのです
あなたは まだあまり自覚していない
あなたにどれだけ大きな力が備わっているかを
あなたは 力ある存在なのです

愛しいあなた 目覚めるのです
自分は小さく限定的で 無力な存在であるという幻想から
目を覚まして 閉じているその目をひらいて
あなたの本当の姿を 思い出してください

愛しいあなた
あなたを愛しています

日めくりカレンダー「愛しいあなたへ」より


***************



"わたし”から受け取ったメッセージ綴った日めくりカレンダー。
最近、買ってくださる方が、増えてきました。
自分用に買ってくださった方が、また何冊かまとめて購入し、知人にプレゼントしてくださったり。
クリニックに飾っているのを見た患者さんが買ってくださったり。
嬉しい感想も、いろいろいただいております^^
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↓こちらよりご購入いただけます。
1冊1000円、送料164円です(5冊以上送料無料です)。
ご注文はこちらからどうぞ。


感謝と愛をこめて



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by ramram-yoga | 2018-02-20 00:01 | 最近のいろんなこと
二元性を超えて
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今日は息子のボーイスカウト活動に同行し、十方山へ。
すがすがしく神聖な山でした。
歩いているとどんどん心が静かになっていき、自然と自分との境が無くなっていくようでした。

孤独や自己卑下というのは、自然界にはあり得ない。
本当にたった独りなら、生命を維持させるということ自体が成り立たない。
自己卑下というのは、自分を評価する側と評価される側とがないと成り立たない。
でも、主客は本当は分離していない。
ただ、理性が自と他を区別しているだけ。

主客を合一していくのでもない。
だって、今までもこれからも一つでしかあり得ず、分かれていたことは一度も無かったのだから。


愛と感謝をこめて








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by ramram-yoga | 2018-02-04 21:10 | 最近のいろんなこと
美肌氣功講座


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昨日は、ゆるセラピストふみさん が開催する「美肌気功講座」なるものに行ってきました。
元々美容業界で働いていたというふみさん。
肌に関する知識がとっても豊富でした。

去年の12月、初めてお会いした時に綺麗な方だなと思っていたのですが、その後、それがノーファンデだったことに衝撃を受けました。
私の中では、お化粧をしない=美をちょっとだけ妥協するといったイメージがあったのですが、彼女はそうではありませんでした。
それだけではなく、なんとノースキンケア。
つまり、顔はお水で洗うだけで、他はなーんにもしない。
なぜそれがお肌にベストなのか、ということも、納得のいく講座でした。
その後、美肌気功も習い、お肌がピカピカに。

いろんな意味で、常識が1日で大きくひっくりかえりました。
ひっくり返ったものをまた戻してしまうのはもったいないので、私も今日からノーファンデ、ノースキンケアに切り替えています。

さぁ、効果のほどは、いかに!?
次にお会いしたときにご確認くださいませ(笑)
お楽しみに^^

おやつに、おいしい小豆麹のスイーツもいただきました。
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ご興味ある方は、こちらよりどうぞ^^







   愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2018-01-25 21:23 | 最近のいろんなこと
物も目的を持っている
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まだ、こま付き自転車に乗っていた頃。
誤って、道路脇の田んぼに自転車ごと落ち、私も自転車も泥だらけになりました。
母に泥だらけの身体を洗ってもらいながら「自転車さんがかわいそう」と泣いた記憶があります。
あの頃は、身の回りのいろんな物にも魂が宿っているような世界観の中で生きていました。

それから成長し、大学で受けた発達心理学の講義で、”アミニズム”という概念を学びました。
アミニズム(aminism)とは、全てのものの中に霊魂が宿っているという考え方で、その講義ではそれは幼児に特有であり、成長するにしたがってアミニズム的感覚は無くなっていくという風に学びました。
つまり、すべてのものに霊魂が宿っているという考え方は稚拙だというのです。
実際そのように習ったかは定かではありませんが、私自身はそのように感じ、ある種のインパクトを伴った記憶として残っています。
それ以降、自分の中に生じてくる、例えば植物や物に対し擬人化してしまう自分の傾向を、知らず知らずのうちに恥じ、否定してしまっていました。
確かに、近代科学の立場からすれば、このような世界観は非科学的なものの最たる類のものであり、批判の的でもあります。

でも、ヨーガや気功等に触れるようになり、”氣(プラーナ)”というものの威力を実感すればするほど、再びこのアミニズムの世界観が立ち戻ってくるのを、感じています。
そのような感性をひらいていくと、確かに物は、何かを発しています。
これは一方で素粒子物理学の見地からも事実でもあって、全ての物質は振動することによって何か発している訳です。
時には物から話しかけられているように感じます。
きっと、私が人間であることによって、本来人格でないものに対しても人格という枠組みを通して認識をしているのです。
人に働きかけると返事が返ってくるように、物に意識を開くと、物からの働きかけがどんどん増えていくのを感じています。
そして、その物とのやりとりが、始まります。

このようにして、物に耳を傾ける、ということをしていると、物にも目的のようなものがあるということが分かってきました。
人間に生きる目的があり、役割を果たすことで生きがいを感じるのと同じように、物にも持って生まれた目的があり、それを果たすと満足するようです。
というのも、物が発する波動を感じていると、ある状態になると波動が良くなる(ノイジーな感じや不穏さが無くなり、柔らかみのある細かい波動になる)、ということが感じられるからです。
それは、ひとつは使っている人の役に立つこと。
特に、自分を使ってもらうことでその人に喜んでもらえると、物はとても嬉しく満足するようです。
もうひとつは、あるべき場所にあるということ。
そして、美しく綺麗な状態を保っておくということ。

例えば、ドア。
ドアは、開けっ放しだと、少しだけ不穏な波動を発しています。
開けた後は閉めてあげると、ホッとしたように波動が落ち着きます。

ゴミは、道端に捨てられていると、悲しそう、または寂しそうに感じられます。
まだ、道半ばなのです。
拾って、「ありがとう」と言ってゴミ箱に捨ててあげると、安心した波動になります。

持ち主のところに戻れていない物。
知人が私のサロンにヨガマットを置きっぱなしにしていたら、なんだかずっとそのヨガマットが気になります。
しばらくそのヨガマットに意識を向けていると、あぁこのヨガマットは、持ち主のところに帰りたいんだ、ということが分かりました。
その方に、自宅に持って帰って使ってあげてくださいとお伝えしました。

家にある、あまり使っていない食器も、使ってもらうのを待っています。
時々は「今日はあなたを使わせてね」と、使ってあげると、食器棚に並ぶ食器たちがピチピチとした生気を帯び、光の粒子をまとって生き生きとしてくるように感じられます。


でも、これらは結局、掃除や整理整頓といった、日々の行いをきちんとやっておくことなのですよね。
それが、物から発する波動を良いものにするということであり、昔から大事にされている”整理整頓”は本当に大切なんだなぁと再確認しました。


**************


以上、物について最近感じていることでした。
それが本当なのか嘘なのか、という問題は置いておくとして、このアミニズムの世界観の中で生きることが、生活をとても豊に彩ってくれています。
物をただの物として時にぞんざいに扱うよりよっぽど、心が穏やかです。
そういうことでいえば、世界をどのように解釈するかという点で大切なのはきっと、それが正しいかどうかではなく、豊かさをもたらすかどうか、です。
最近は、一人でいても物と対話しているので、静かで好意的な友達に囲まれているような感じがします。
何かしようとすると協力してくれ、困った時は一生懸命助けようとしてくれるように感じます。
それは、やっぱり、私たちはどこかですべてつながっているからです。

そういう意味では、私たちは実は、とても好意的な世界の中で生きているのではないでしょうか。
苦しい時、しんどい時、辛い時というのは、自分を他者や自然と断絶してしまっている状態の時に起こってきます。
それはイコール、自分自身との断絶でもある訳です。

目に映るすべてのものが自分に好意的である世界に、一緒に心を開きませんか^^
たくさんのいのちのあらわれと触れ合いながら、存分に謳歌したいものです。
せっかくこんな美しい世界に、生きているのですから。



   愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2018-01-13 21:52 | 最近のいろんなこと
幸せになる覚悟
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今、苦しんでいます。
先日、大切に思っている人に自分がとってしまった行為について。
珍しくぶっきらぼうに接しました。
確かに、私なりの相手への要求がありました。
感情とは、相手なにか要求がある場合の非言語的表現なのですよね。
普段カウンセリングを学び、育成側にも携わっている自分としては、よくよく分かっているのですが^^;

その後数日間、苦しんでいます。
相手がそれで傷ついたのかは、分かりません。
そもそも私が苛立っていたことにも、気づいていないでしょう。
にもかかわらずかなり、堪(こた)えています。
愛のない行為が、その行為をした本人にこんなにもダメージを与えるものだったとは。

当初は苛立ちとしてしか感じられなかった感情。
この感情は一体どこから来ているのか、時間をかけてよくよく、観察してみました。
すると、ついに核心に行き当たりました。
それは、劣等感でした。
「キャー。まだ、あったか‼」と、思いました。

自分に対する自信の無さが、相手と接する中で苛立ちという感情にすり替わり、結果としてぶっきらぼうという行為となって顕れていたのでした。
劣等感の根深さを、改めて感じました。

でも、本当にそうですね。
満ちたりている人が、相手の言動に傷ついたり苛立ったり、しないですから。
あらゆるネガティブな感情の根底には、劣等感が横たわっていると、感じます。


さて。
もう少し苦しむことにします。
敢えて積極的に苦しみます(笑)
もう、自分がこのようなことに陥らないように。
私が体現したいのは、苦しみや恐怖ではなく、愛なのです。

私と接したすべての人が、幸せな気持ちになるような人になろう。
と、最近結構本気で思っています。
そして、そのためにはどうすればいいのか、具体的に考えています。
まずは、自分が幸せでいること。
満ちたりていること。

幸せでいるということは、覚悟のいることだなと感じます。
ミリオンセラーとなった「幸せになる勇気」とも共通しているかもしれません。
幸せでいるということは、どんな状況の中であっても、与えられたものを引き受けて立つ覚悟が必要です。

でも。
覚悟を決めたら、その後は意外とカンタンなんじゃないでしょうか^^



愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2017-12-15 20:41 | 最近のいろんなこと
完全とは
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「あなたは今のままで完全ですよ」

というような言葉を時々見聞きしますが、いまいち理解できるようなできないような。
だって、完全と言われても、まだまだ成長の余地があるし…。
と思っていたのですが、今日ひとつ気づいたことがあるので、言語化しておきます。

今日は福井で初級ダルシャナ(カウンセリング)の自主研修会があり、ファシリテーターとしてお伺いしました。
参加者は交互にセラピスト役とクライアント役とに分かれ、カウンセリング・トークの練習を行っていきます。
ファシリテーターや導き手がいるこのような場では、セラピスト役が行き詰っても、ヘルプサインを出せば、そこで助け舟があります。

でも、実際のカウンセリングの場では、そういうわけにはいきません。
30分なら30分のカウンセリングの間、クライアントと一対一。
逃げ場はありません。
クライアントからどんな話が出てくるか、本当に分かりません。
当然、ヘビーな話題も出てきます。
でも、カウンセリングが始まったら最後、誰にも頼ることなく、その与えられた30分を自力で終えなければなりません。
これは、ある意味苛酷な状況です。

でも、このように誰にも頼れない状況になってはじめて、セラピストは今自分が持っているものをフル活用します。
この際、理論がどうとか、技法がどうのとか、あれこれ考えている場合じゃありません。
とにかく、技法あの手この手、そして自分のこれまでの人生経験から使えるものは何でも引っ張り出してきて、目の前のクライアントさんに最善のことができるように、最大限の努力を払います。

この経験が、セラピストとしての器を、大きくしてくれるように感じています。
「自分が未熟で申し訳ない」というような思いを持つことは、一見謙虚なようでいて、お金を払って期待して来てくださっているクライアントさんに対しては、失礼です。

私が最近セラピーにおいて意識していることは、一回一回のセッションにおいて、完結させること。
クライアントさんが楽になりたくて来られているのなら、何回か来ていただいた上で楽になることを想定するのではなく、今日このセッションで、楽を体験していただく。
もしくは楽になることへの希望を持って帰っていただく。

この変化する世の中で、完全性というものを体現することができるとするなら、そのような形で可能なのではないか、そんな風に思いました。
つまり、その時その時に、自分の持つ力を余すことなく発揮すること。
その時その時を、完結させること。

私たちは、そのひと時ひと時に全力投球し、完結させることによって、いつも、完全性をあらわすことができるのだと思います。
これは、非常に能動的要素を伴うことです。

「今のままでいいから」と、好き放題するのとは違います。
与えられた宿命に対して受動的だからです。
一見好き放題しているように思えて、実は翻弄されている訳です、与えられたものに。

完全性というのは、むしろその対極にあるのではないでしょうか。
どのような場であれ文句や言い訳を口にせず、与えられているものを引き受けて立つ。
そして、全力投球して、完結させる。
そういう風に考えてみると、冒頭の言葉は、納得できます。
でももっとしっくりくる表現に変えると、こんな感じかな。

「わたしたちはいつも、自己の中に完全性を見出し、体現することができます」


***************


自主研修会前に、深緑(ふかみどり)というヴィーガンカフェで、ランチをごちそうになりました。
いつもお招きくださる、福井のヨーガ療法士の素敵ご夫婦に、心から感謝。
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そして、本日の自主研修会も、涙あり、笑いありで、とても濃密な素敵な時間でした。



感謝と愛をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-10 23:55 | 最近のいろんなこと
個を超えた記憶と向き合う

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何か自分の前に壁が立ちはだかっているとすれば、その壁は現実に存在しているのではなく、自分の心の中に存在しているのだ、ということを、最近特に強く感じるようになりました。
当たり前と思って疑いもしなかった常識や世間的な価値観も、それは果たして本当にそうなのだろうか?
前回の記事でも少し触れましたが、現実を解釈するために無自覚的に用いている認知的枠組みは、自分が思っているよりもっともっと根深いのではないか?
そんなことを、感じています。

先週の土曜日は、京都にて開催された「宗教と科学の対話研究会」と「いのちの医療哲学研究会」の合同研究会に参加しました。
講師は柴 正太郎先生(高エネルギー加速器研究機構 博士研究員、素粒子物理学)で、演題は「物理学は意識を表現できるか」。
素粒子物理学の見地から悟りや絶対者といった概念をも含んだ意識状態の変容についての解説があり、普段から関心を持っている事柄と通底するとても興味深い講義内容でした。
その中で時間に関しても触れられた部分が印象的でした。
私たち人間にとっては、時間というものがあたかも過去から未来へと流れるように感じられますが、それは人間がそう認識しているだけであって、実際そうではない。
柴先生の説明によると、それは一瞬一瞬の点のようなものなのだそうです。
しかし、私たちは時間をあたかも実在するもののように感じ、その抗えない流れの中で生きているように思っている訳です。

後のディスカッションで、「時間の流れの中で生きているという感覚から脱出するには、どうしたらいいですか?」という質問をしたところ、それに対していただいたお答えが、印象に残りました。
時間の感覚の認識というのは個人的な範疇で扱えるものではなく、集合的無意識にかかわっている、というものでした。

集合的無意識とは、ユングが提唱した概念ですが、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な認知的枠組みのことを指します。
つまり、私たちが時間の流れというものを絶対的なもののように認識するのは、個人を超えた人類の普遍的な体験様式に基づくものであり、それだけにそこから抜け出すのは容易なことではないというのです。

時間に関してだけではありません。
最近、自分の感情や記憶の動きを観察していると、ネガティブな心の働きが”ポンっ、ポンっ”と浮き上がってくるのです。
外側では何もストレス刺激が無いにもかかわらず、自動的に浮かび上がってくるのを何とも不思議に思っていました。
これは何なのだろうと考えた時、個を超えた民族的な、または集団の集合的な記憶から生じているのではないかと思うことがあります。
人類がこれまで経験してきた苦しみや恐怖の記憶を、今に生きる私たちも、個人的経験に加えて引き受けているのではないかと思います。

それでは、私たちは、その人類のこれまでの苦しみや恐怖の記憶を甘んじて引き受けて生きていくしかないのでしょうか?
そうではないと思います。
私たちはいつも、選択していくことができるのだと思います。
そうしていくためには、無意識的に持っている常識や価値観に気づき、それを手放していくことに他ならないのではないでしょうか。
そして、そのような人が増えていった時、人類の集合的な記憶自体が、塗り替えられていくのだと思います。

個人的には、もう、人類は苦しみをもう充分味わってきたので、もうこのあたりで終わりにしてもいいのではないかな?と思っています。
目の前で苦しむ患者さんを見ていても、もう、その苦しみを終わらせていいのではないかな?と思います。
そして、そのために何ができるかを、考えています。
もちろん、苦しむか、幸せになるかを最終的に選択するのはご本人です。
でも、その選択をその人の顕在意識に迫るにはあまりにも、この問題は膨大です。
私たちは、ひとりひとり別個に存在しているように思えて、底辺では不可分につながっているわけですから、本当の意味では、一人だけで幸せになんて、きっとなれないのです。


   愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2017-11-29 23:36 | 最近のいろんなこと
世界に対する応答者としてのわたし
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思いの持つ力がどれだけ大きいか、そしてヨーガでいうところのサムスカーラが、その思いにどれだけ大きく影響しているかを感じている今日この頃です。
サムスカーラとは、日本語では”行”とか、”残存印象”と言う風に訳されます。
それは何かを経験した時に、意識の深い部分(ヨーガでいうところの”チッタ”)に刻み込まれる心の印象であると、ヨーゲシヴァラナンダ著『魂の科学』には説明されています。
その人の持って生まれた天性、体質、遭遇する出来事、運命、その総てが結果とした場合、その因となるもの。
本当にそうなのだと、改めて実感しています。
この世界のあらゆる現象は、このサムスカーラによって生じている。

そういうことでいえば、この世界は、まさに自分の心が創り出しているのです。
誰にとっても共通の世界を生きているようでいて、実は一人一人、見えている風景や経験している事が、全く違うのですね。
これはとても面白いのですが、光や愛にフォーカスをすると、それまで意識していなかった自分のこの”残存印象”というものの根深さを感じています。
純粋さに意識を向けることで、自分が如何に多くのものを色眼鏡を通してみているのか、ということに、気づかされるのですね。


****************


土曜日は京都の明覚時にて、東洋医学治療院すばるα の藤原先生のワークショップがあったので参加させていただきました。
藤原先生とは、「いのちの医療哲学実践会」や「いのちを元気にする会」というプロジェクトでご一緒させていただいている先生です。
詳しくはHPを見ていただければお分かりいただけますが、心理畑ご出身ですが、気診や祈祷、整体、鍼灸など、幅広い治療を行っていらっしゃいます。
心理を専門とする私にとって、先行く先輩として、たくさんの可能性を見せてくださる先生です。

その先生のワークショップを繰り返し受ける中で、私がこれまで感じていた以上に大きな力を持っているものに気づきました。
それは、思いの持つ力と、同じ思いを持つ人が集まった”場”で働く力の威力です。
「○○には効果がある」「この手法で結果が出せる」と施術側が確信していること、そしてそのことで実際に功を奏した経験をしていること、これらの手法・治療法には非常に大きい治療効果が出てくる。
そして、施術者が相手に「この人は治る」という思いを持っていると、実際に治癒の方向に向かう。
怖いことに、逆もまた然り。
つまり施術者が「この人は無理だ」「治る見込みはない」と感じながら施術することは、クライアントにとっていい効果をもたらさないばかりか場合によっては不利益をもたらす可能性すらあります。

そして、もう一つ。
普段、主に五感を使って生活している現代では感じ取りにくい、五感以外の感覚。
例えば気感、目の前の相手のどこが悪い、なんかここが気になるといったような直感的感覚。
それらの感覚をしっかり持っている人と場を共有することで、はっきりと「ここだろうな」と、分かる。


昨日は、鹿児島で神経内科をやっていらっしゃる山野医院の山野先生に「チ楽」という次世代の医療・セルフケアの養成講座を受講していたのですが、そこでも同じことを感じました。
その場に集まった人たちと場を共有し、山野先生のファシリテートの元、思考を停止し、感覚をゼロにする。
その中で、数人が、自分に合った生薬(漢方薬)を飲んで、身体状態が良くなった時のことをイメージをする。
すると、その瞬間に、そばにいる私の身体状態がはっきりと変わったのです。
肩が驚くほど軽くなり、その鮮明な変化に驚きました。

人の思い、そして印象の持つ力が、こんなにもはっきりと、周りの人にまで大きな影響を及ぼすとは。
事実がどうであるかは、この際あまり重要ではありません。
重要なのは、その事実に対してどのような印象を持つのかということです。
どのような意識状態で日々を過ごすか。
それは最近の私の大きなテーマでもあります。
自分の意識状態によって、目に映る世界、出会う人、起きてくる事が、全く違ってくるからです。


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本当に、毎日が面白い。
挑戦する、そして新たな世界がパッと拓ける。
その拓けた世界で新たな課題が見えてきて、また挑戦。
まるで神様になぞなぞを出され、それに対する答案を書いているようです。
自分の持っているものをフル回転させながら、楽しみながら。
毎回、なんとも奥深いなぞなぞを、神様はくださるものです。

以前このブログに書いた、「問いを発すれば応答あり」という記事を書いた頃は、”問う側”としての自分をよく意識していましたが、今日ここに書いたことでいうと、私たちは世界に問いを発する存在であると同時に、世界に対する”応答者”でもあるわけです。

”私”という限定された個の意識が生まれた時、その”私”に対して世界(超越者)が対象化されます。
その時に、世界と私との間で、やり取りが生じます。
私からは、世界に投入する”問い”が発せられ、それは同時に応答でもあるわけです。
世界からも絶えず”問い”と”応答”が返ってくる。
すなわち、世界と私は、絶えず応答し合っている。
私たちが今ここに存在している秘密があるとすれば、そのあたりに隠れているような気がします。
もし私が存在しなくなれば、世界も存在しないのではないでしょうか。

そういうことでいうと、世界は私を必要しています。
お互いがお互いを必要としているのです。
私が死んでも世界は世界だけ残って存在していて、永久に流転するという考えは、時間と空間を前提として人間の脳や自我意識が創り出した幻想なのではないかと思うのです。
私とは、そんなちっぽけな存在ではないのではないでしょうか。

今日の結論。
私たちが今ここに存在している目的とは何か。
それは、世界に応答するため。
私たちが存在してはじめて、世界は世界として存在することができる。
十全にいのちを生き切るとは、その世界に全身全霊で応答していくこと。



愛と感謝を込めて











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by ramram-yoga | 2017-11-20 13:47 | 最近のいろんなこと
お金も愛のあらわれ
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昨日は、いきなり常識が覆るような価格の講座をご紹介したので、びっくりした方も、いるかもしれません^^

今、私がお金に対して抱いている感覚で一番しっくりくるのは、お金とは、ひとつのエネルギーの流れのようなものだということです。
”ドドドド~!!!”と、大きな音を立てながら勢いよく流れ、この世界を循環しているように、感じられます。

そういうことでいうと、お金は本当の意味では、所有することはできないのではないでしょうか。
貯金やなんかで所有している感覚がありますが、それは、そういう感覚を持っているだけ。
実は、お金はただ、流れている。
問題は、その人において、勢いよく流れているか、小川のようにちょろちょろ流れているか、もしくは滞っているのか、等の違いなのではないかと、思っています。


そして、お金も、愛のあらわれです。
お金があまり全面に出てくると、あまりいい気がしなかったり、汚いと感じることも多いかもしれません。
でも、本来、お金はきれいも汚いもない。
ただ、私たちの心の内にあるイメージを、お金に投影しているだけなのではないかと思うのです。

お金にも、愛の側面があり、そこに目を向け付き合うようにしたら、もっともっと私たちは幸せになれるのではないかと思っています。
今世の中を見ていると、お金が人々の恐れや不安から動いていることがとても多いと感じています。
恐れや不安は、貪りの意識と行為を生じさせます。
貯金も、節約も、大切なことですけれど、それが大きな不安や恐れから出ている行為だとすれば、そのお金は出ていくときも苦しみに結びついてしまうように感じています。
私の過去の経験からも、周りを見ていても。

歓びから使う、愛を持って使う。
例えば、スーパーで買い物をする時、頭の中が家計簿の数字や支払いのことでいっぱいになっているか。
それとも、家族の笑顔や幸せが、浮かんでいるか。
別に構える必要は何もなく、日々の小さな行為や選択が、何を出発点としているか。
すべては、ここにかかっていると思います。

自分から愛や歓びをともなって出ていくお金は、きっと出ていった先でも歓びや幸せのために使われます。
そして、愛や歓びをともなって、また自分のところに入っていきます。
私たちは、そのお金という愛の流れの通り道です。
そして、私たちの本質である愛を体現していくことが、お金を受け取る、使うといった行為によっても可能だと、感じています。

すべては、どこを出発点として動くか。
どういった意識状態で、判断や行為を行うか。
私は、いつも、愛から出発したいと思っています。


  感謝と愛をこめて






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by ramram-yoga | 2017-11-13 09:44 | 最近のいろんなこと