Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
カテゴリ:ことば・メッセージ( 79 )
永遠の生命
a0118928_19191062.jpg
今日はNHKこころの時代5月14日の「鈴木大拙先生と私」の録画を見ていました。
世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の側近で長年教えを受けていた岡村美穂子さんが、鈴木大拙について語っていました。
紹介されたたくさんのエピソードの中に、禅、そして生命についてのエッセンスが詰まっていました。
その中で、印象に残った言葉を。

意識は常に意識できるものの中にこたえを見つけようとする。

そうか、そうそう。
何か、袋小路に入り込んでしまっているときは、いつも今の意識レベルで答えを出そうとしているから、なのですよね。
真実は、主体と客体を前提とする”思考”では、とらえることはできない。


**********

キリスト教にとっても神は人間の外にあるだけはなく、自分の内にあって、自分を生かしてくれているものです。
今まで長い間、神は外にあるものとして人間がそれを仰ぎ見るという感じでしたが、そうじゃなくて、神は自分の中にもある大きな生命です。
そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。
それを復活というのです。
復活は蘇生ではないのです。
死んだ人間が突然息を吹き返したということではないのです。
大きな永遠の生命の中に戻って行くことなのです。

禅については、私はよくわかりませんが、執着や妄執から解脱して、いわゆる悟りをひらくということが、この永遠の生命に触れたということではないでしょうか。
お茶をやる方はご存じのように、お茶室のなかは静寂です。
しかしその静寂とは、何もない空虚な虚無ではありません。
そこに宇宙と生命とのふれあう接点があるのを茶人は感得しているのでしょう。
それと同じように、我々の人生の苦しみや我々の死に対して、神は沈黙しているように見えるけれど、それは必ずしも氷のような沈黙ではないかもしれません。

ひょっとすると、別世界の言葉を私たちは理解できないから、それが沈黙に見えるだけかもしれない。
それを日常の言葉では理解できないから、沈黙としか我々には思えないのかもしれない。
その理解できなかった世界へ、老年ののち死という通過儀式を経て入るのだというふうに、私は次第に思うようになりました。

遠藤周作著『死について考える』より



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-07 19:39 | ことば・メッセージ
人生の正午
a0118928_21501938.jpg
正常な人間が、
自分には生涯形而上学的事態が
およそ生じないなどという空想をするならば、
彼は形而上的事件を一つ忘れている。
それは自身の死である。

カール・グスタフ・ユング


35歳という年齢になって直面化した、自分にとっての”死”の問題は、しばらく解決しそうにありません。

どうにか納得しようと、落としどころをつけようとすればするほど、それが早合点であることに気がづきます。

まるで、泥沼に足をとられてどんどん沈んでいくようです。


日常の雑事や、直面している世俗的な問題が途切れた時、突如として表れてくるこの”わたしとは何か”という問題。

なぜ、私は私なのか。

この目の前に広がる巧妙な世界は、一体誰が作ったのか。

すべてを根底で支えているものとは、何なのか。

小さい頃に考えていた事と全く同じ疑問ではあるのですが、その時よりもっと差し迫った形で繰り返される毎日。

これまでたくさんの数えきれない人達が、この問いに挑んできた訳であって、納得して死ぬ人もいれば、全く納得することなく死んだ人もたくさんいたのだろうと思います。

でも、わかっていることはただ一つ。

どうであれ、例外なく全員に、いつか必ず死が訪れるということ。



******


そんな、行ったり来たりの、混乱気味の毎日を送っている中、あるユングの言葉に出逢いました。

ユングは35歳から40歳を「人生の正午」と呼び、人生の重要な転換期、また心理的危機の時期として取り上げたそうです。

人生の正午はその人らしい人生を作り上げていく個性化の契機でもある。と。


・・・人生の後半に足を踏み出すとき、人生の前半に属しているものを脱皮しなければならない。

人生の後半とは精神の元型と自己の元型に直面する時期である。

・・略・・

個性化を達成すると人格の中心はもはや自我ではなくなる。

意識と無意識を統合する自己との出会いによって人は平静を手に入れ、死を恐れなくなる。

ユングは『人生の自然な終点は老いではなく、叡智である』と弟子たちに述べた。

アンリ・エレンベルガ―著『無意識の発見(下)』より





人間はそんな境地に、到達することができるのですね。
中でも、個性化とは自我のなせる業というような印象を受けますが、ユングによるとそうではない。
真の個性化とは、自我を脱したところにある、ということ。

私の年齢は、まさにユングの言う「人生の正午」にさしかかったところです。
心理的危機が訪れているなら、じっくり腰を据えて向き合っていきたいと思います。
もう、わかったフリと平気なフリは、しないように…。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-04 22:44 | ことば・メッセージ
死と再生のつながりを見つめる
a0118928_14454022.jpg
今日は『呼吸による気づきの教え』を読んでいました。
著者の井上ウィマラ先生は高野山大学で教鞭もとっておられ、学際的に研究をなさっている方でもあるので、学会のシンポジウム等でお話を拝聴したことはありました。
その一方でヴィパッサナー瞑想の実践者でもあります。
本を読んでいると、ご自身が瞑想によってかなり深い境地にまで達していらっしゃることが分かりました。
一貫して、丁寧で、清らかで、洞察の深い内容でした。

************


その中で、輪廻思想についての記述がありました。

仏教には「天眼智」という智慧があり、これによって、死んでゆく過程や生まれ育つ過程を繰り返し見つめていると、心の思いや行動のエネルギーによってさまざまな生存領域に輪廻転生する業(カルマ)の法則性に気づくというのです。
それはまるで、観察力のある人が、目の前に行き交う人を見ながら「あの人たちは家に入った。あの人たちは家から出ていった。あの人たちは広場の真ん中に座っている」と観察しているようである、といいます。

そして、死の直前、死後に生まれ変わる世界の様子(Gati-nimitta)が予兆として見えることがあるのだそうです。
例えば、天からお迎えが来るのを見て歓喜にひたる、等。
それらのイメージは極めて明瞭であるため、実際に今ここでこれを実体験しているような意識作用が生じる。
すると、全身で体感した思いの力が時空のほころびを作り、業のエネルギーが瞬時に次の生涯へと転送されるのだというのです。

それに対し、輪廻から解脱する智慧を完成させると、どんなイメージが浮かんできても、それが記憶を介して作られたものであることに気づいて、自覚していることができるのだそうです。
そのおかげで、死の間際にどんなイメージが出てきても、それをありのままに見つめ、それが消えていくことを自覚できる、と。
つまりそれが輪廻転生からの解放(解脱)ですね。

************

物事に対する洞察が深まっていくというのは、このようなことなのかと、感動を覚えました。
そのように物事が修行者によって観察される様子を、ブッダは長部経典の『修行者となる成果についての教え(Samannaphala-Sutta)』で下記のように述べています。


そのように、修行者は集中して、澄み切り穢れなく柔軟で揺るぎない心を、生き物たちの死と誕生を知る智慧に向ける。
彼は、超人的に清らかな天眼智で、生き物たちが死んでゆく様子、生まれてくる様子を遍(あまね)く知る。
卑しいものも高貴なものも、美しいものも醜いものも、幸福なものも不幸なものも、業に従って生まれてくる生き物たちのことを遍く知るのである。
               井上ウィマラ『呼吸による気づきの教え』より


偉大なる覚者・ブッダの教えを、改めて学んでみたいと思います。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-30 18:57 | ことば・メッセージ
心は燃えている
a0118928_21175027.jpg

今日は、母校の兵庫教育大学大学院にて、来月の心身医学会(札幌)で発表する演題の予演と、事例検討会への事例提出をさせていただきました。
院生時代の指導教員の冨永良喜先生と、ゼミの先輩、そして現在在学中の院生の方々も駆けつけてくださいました。
特に事例検討会では、自分では持てない視点や鋭い考察をいろいろといただき、とても勉強になりました。
こうして発表のために経過をまとめていると、大きな正念場があり、今振り返るとそこがターニングポイントとなっていました。
相手の方にとっても、そして私にとっても。


********


一見きれいに取り繕っていて平気そうでも、それとも反対に無表情で無気力に装っていても、きっと本当は、見せかけ。
表向きの分厚い皮が少しはがれて、その奥を垣間見た時に、ハッとする。
そこに、躍動しながら燃えている心がある。
思わず息をのむほど、鮮やかな色彩の光を放っている。
純粋であるために、脆くもある、生の心。
そこに触れる。
こちらも皮を脱いで、無防備になって、生の心と心で触れる。

あぁそうか。
あなたはこんなに、豊かな感情を持っていたんだね。
そんなあなたのことを、私は心から魅力的に思います。
でも…。
そうだよね、こんなに繊細な心、むき出しではやってられなかったよね。
むき出しだと、すぐに傷ついてしんどくなってしまうね。
今まで、辛かったね。
悲しかったね。
寂しかったよね。
いっぱい、傷ついていたんだね。
そして、心の中で、泣いていたんだね。
それなのに、感じていないふりをして、平気そうにしてたんだね。

でもね…。
あなただけは、感じてあげてね。
自分がとっても、悲しかったこと。
寂しかったこと。
笑っていても、本当はたくさん傷ついて、心の中で泣いていたこと。
あなたが感じてあげなかったら、その感情たちは、誰からも気づいてもらえないから…。

感じることに、”いい”とか”悪い”は、無い。
だって、いくら感じたくないと思ったって、もう感じている。
だから、否定しなくていい。
どんな感情でも。
誰かや何かを大好きだという想いも。
今あなたの周りで認めてくれる人がいなくても。

あなただけは、自分が今感じていることを認めてあげてね。





[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-27 21:07 | ことば・メッセージ
”わたし”とは何者か
a0118928_12401196.jpg
昨日突然やってきた、見るものすべてが”わたし”であるという感覚。
以前の時と同じく、数分間で過ぎ去り、また通常の感覚に戻ってきました(以前の体験の記事はこちら)。

以前のは、一言でいうと”わたし”が述語的というか受動的になり、絶対者の一表現形態としての”わたし”を感じた体験でした。
今回はそれとは全く違うものでした。
”わたし”の範疇ががどんどん広がり、目に入るものすべてが実は”わたし”の内側にあった、という体験でした。
この体験から丸一日経ちましたが、目に映る世界が全く変わってしまいました。

まず、目の前にいる生徒さんや患者さんに良くなってもらいたいという思いを持つことは、”私”と”あなた”という主観ー客観の関係性を超え、主客が合一して”わたし”だけになった時、意味をなさなくなってしまうというのではないかと感じました。
なぜなら、私が患者さんの中に苦しみを見た時、それは私の心の中に苦しみがあるということだからです。
ということは、私は患者さんの苦しみを取り除くことは不可能であるということになります。
患者さんの中に苦しみを見なければならない自分の心をこそ、よくよく省みなければなりません。
目や耳を通して入ってくる暴力や悲しみ、自己卑下、絶望的なものも、これは決して自分と無関係ではない。
私がなぜ、それらを外に見なければならないのか、それを探る方向性でしか、これらは解決していかないのではないかと感じました。

そして、私が問わなければならないのは、先日までずっと考えていた「なぜ生きているのか」とか「死んだらどうなるのか」ではなかったのだ、ということが、わかり始めました。
なぜなら、それは、自我意識を主体とした”私”からしか発し得ない問いだからです。
そうではなく、下記のように問わなければなりません。

目に映るものすべてを内側に有しているこの”わたし”とは一体何者なのか。


*********


賢者たちがあらゆる方向にさがしもとめてきた彼は、われわれ自身のハートの中にいるのです。
あなたのきいた声は正しかったが、その声がくると見た方向がまちがっていた、とヴェーダンタは言います。
あなたが見たあの自由の理想は正しかった。
しかしあなたはそれを、あなた自身の外にあると見た、それがまちがいでした。
それをもっともっと近くに持ってらっしゃい。
それはつねにあなたのうちにあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたにわかるまで。

あの自由は、あなた自身の本性だったのです。
そしてこのマーヤー(迷妄)は、決してあなたをしばったことはありません。
自然は決して、あなたの上に猛威をふるうことはありません。
おびえた子供のように、あなたが、自然が自分のくびをしめるというゆめを見ていたのです。
この恐怖から解放されることが目標なのです。
それを知的に理解するだけでなく、まのあたりにそれを見ることです。
この世界を見るよりももっと確実にそれを認識することです。
そのときにわれわれは、自分が自由であることを知るでしょう。
その時にはじめて、すべての困難は消滅し、心のまどいは解決し、まがりはただされるでしょう。
そして多様性と自然というまどわしは消えるでしょう。
そしてマーヤーは、いまのようなおそろしい絶望的なゆめではなくて、うつくしいものになり、この大地は牢獄ではなくて、われわれの遊園地になるでしょう。
そして危険や困難はすべての不幸までもが神聖なものとなり、われわれの前にその本性を示すでしょう。
いっさいのものの背後に、いっさいのものの実態として彼が立っているということを、そして彼が唯一の真の自己である、ということを示すでありましょう。

        スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より

********

(写真は今朝近所で撮ったあじさい。もうすぐ開花ですね。)




[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-23 20:56 | ことば・メッセージ
禅病
a0118928_10090744.jpg
生まれた時からずっと、”私”という自我意識を主体として世界観を組み立ててきて、それを疑いもしていませんでした。
以前からヨーガでahamkara(自我意識)は被観照者、つまり客体だと学んでいましたが、それが体験として分かったのはつい最近のことです。
それがひっくり返ってしまった今、毎日のように、新鮮な驚きの毎日を送っています。

ここ数日間、考えれば考えるほど、この生きている世界が虚栄に満ちて見えてきて、日に日に空虚な感じに襲われるようになってきていました。
自我意識を前提とした世界観がガラガラと崩壊し、何もかもが頼りどころのないように思えてきて、途方に暮れてしまいました。
その感覚がピークに達した一昨日、非二元(ノンデュアリティ)に詳しい 親友のお母さま に相談したところ、それは禅病の一種ではないか、とのこと。

※非二元…直訳は「2つではない」。非二元によれば、主体と客体を前提とする二元論的な世界は幻想である。

一瞥体験(すべては一つの表れという体験)をした後、自我意識に戻り、その自我意識で世界を見るとそのような捉え方になってしまう、とのこと。
「途方に暮れ、無力感に襲われているのは誰ですか」と問われ、はっとしましたが、それも自我意識なのですよね。
観念的に頭で考えすぎると、このような状態に陥ってしまうようです。
あぁ難しい。
こういう事の追求は、一人でやっていると袋小路に入ってしまうので、先行く導き手が必要だと感じました。

この、理性で何もかもを理解してしまおうとする傾向自体を、見直す必要がありそうです。
理性は理性自体を、本当の意味で客体化することはできないし、理性を包含し超越しているものを理解することもできないのですから。
ならば、もっと別の”何か”で、真実を悟る必要があります。
それは何か。
分かったつもりをやめて、求め続けていきたいと思います。

******

ここ数日バタバタとしていましたが、今朝は少しゆっくりできたので、布団を干して部屋を片付けて掃除をしていました。
そうすると、自分自身も整っていく。
ちょうど自然農をしている知り合いから野菜が届き、水で丁寧に泥を落として料理をする。
生命力いっぱいの青々とした野菜に触れ、淡々と手を動かして生きるための動作をする。
観念から離れ、動作に集中している時、”私”という意識も薄れ、心が静かになっていく。

「真実は、生活の只中にあり」 森信三



(写真は、先日息子のボーイスカウトの活動に同行し、武田尾廃線を歩いた時に撮ったものです。)


[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-16 10:49 | ことば・メッセージ
「気」の死生観
a0118928_10382815.jpg
またまた、運命的な本との出合いがありました。
ずっと自分の根底にあった、一度しかない自分の生命に関する悲哀や恐怖が、一挙に逆転して客体化され、なんだか訳もないのに愉しく、心から安心するような感覚をもたらしてくれました。
先日の記事でも触れましたが、あの客観と主観の逆転はあながち間違っていなかったようです。
ちょっと言葉遊びのようですが、あそこで述べた主観というものこそ、観られるもの(つまり客体)だったのです。
悲哀も恐怖も、自分の心が作り出したもの。
なぜ生きているかという問い自体も、自分の心が作り出したもの。
問いに回答をもたらしたいという欠乏感も、自分の心が作り出したもの。
そして、そもそもそれらを作り出している自分の心そのものが、客体だったのです。
主体は別のところにある…というより、主体の表現形態として、”私”が存る。
これが西田哲学でいうところの、”述語的”ということなのでしょうか。

ここまで来た時に、自分という存在が無になってしまうということに対する恐れが、起こらなくなってしまいました。
なぜなら、それは本質的なものと無関係だからです。
大いなるいのちが作り出した小さな客体の中で起こっていることだからです。
もしかしたらまた、恐れるのかもしれませんし、今たどり着いた境地にもしかしたら間違いがあるのかもしれません。
でも、それでもいいのです。
間違ってたら、また新たな境地を見つけ出せばいいのですから。

この『「気」の死生観』は、河野十全という方が93歳の時に書かれた著書です。
私はこの方の死生観が、一番しっくりきました。
人間には死後の世界や天国や地獄、輪廻転生など、いろいろなものを想定する豊かな世界観があります。
実際に、私の息子も私のお腹に入る前は天国で黄金色の神様と一緒にいたみたいですから。
私自身も、死後の魂の存在をはっきりと感じたことは、これまでに何度かあります。
でも、”時間”が客体であるという認識に立った時、これら死後の世界は絶対的というよりは、フォーカスすればあるし、しなければないというような類の、何か相対的な性質を帯びたものになってしまうような気がしています。
このあたりのことは、私にも、まだよくわかりません。

では、真理はどこにあるのか。
それは、今ここで起こっていることを、よくよく感じてみることから始まるのではないでしょうか。
生まれた時から一時も休まずに動いているこの心臓は、誰が動かしているのでしょう。
呼吸という作用は、いったいどこから起こってくるのでしょう。
考えてみると、私たちが今ここに生きているといことは、本当に不思議です。
このことを感じた時、生きているのではなく、生かされているのだということに、本当の意味で気づきます。
自分の意志とは無関係に、何か絶対的なものに支えられ、”私”という存在が、ここにある。
これだけは、確かな真実です。


***********


生に徹すれば、死の恐怖はなくなってしまう。
しかし、死をも一応の計算に入れると、その生がより楽しく、尊いものになってくるのである。
これは、生死一如の原則を知ればよくわかる。
生と死というものは、一続きのもので、境はない。

生死一如という言葉は、仏教や悟りの人だけがいう言葉ではない。
生きているということと、死んでいくということは、一続きのものであるから、いとうべきことでもなく、不安もなく、不吉もなく、むしろ喜びであろう。

そういう悟りの境地に至れば、人生は生きているうち、非常に楽しいものとなる。
老人の心境も、いつ死んでもよいという安心立命が得られれば、生きているということがどれほど楽しくなるか。
生と死というものが本当にわかれば、生も楽しく、死もまた楽しい。
心頭を滅却すれば火もまた涼し、という境地と同じである。

私たち人間は、一日一日に生き一日ずつ死んでいるのである。
刻々にである。
人生には誕生と死があるが、実際は毎日に生きて、毎日死んで、一生涯を生き続け、死に続けているのである。
生と死は、今の中で一如同時に行われているのであるから、今を平凡に過ごしてはならぬ。

            河野十全著『「気」の死生観』まえがきより
******



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-09 11:31 | ことば・メッセージ
生きること
a0118928_11342461.jpg
先日、上智大学名誉教授の渡部昇一氏が、逝去されました。
10年数前から愛読している月刊致知に、毎号のように、現在の経済情勢をとらえる鋭い視点と、日本の行く先をはっきりと見据えた展望とを持ち合わせた評論は、読んでいると人生の薫陶を受けているようで、読むたびに背筋が伸びるような思いでした。
この人がいれば日本という国家は大丈夫だと、頼もしく感じていていたものですが、そのような方が、亡くなられました。

その他にも、心のよりどころとしていたような人の訃報を、最近立て続けに聞きました。
この世に生きているどんな人にも、例外なく必ず死は訪れる。
改めて考えてみるまでもなく、これまで地球上に生を受けた人間の中で、現在生きている人間より、すでに亡くなった人の方が圧倒的に多いわけです。

私の個人的な感覚かもしれませんが、人は死後、影響力がだんだんと増していくように感じられます。
ジャーナリストの筑紫哲也さんが生前、21世紀のキーワードは「生きることです」とおっしゃっていました。
当時私は大学生でしたが、参加した講演の一番最後に言われた筑紫さんのこの言葉がとても印象に残りました。
その「生きること」をキーワードとおっしゃった本人の筑紫さんは、もうこの世にはいません。
そのような奇妙な矛盾を感じる一方、だからこそ生きることは本当に尊いことなのだと、筑紫さんの死後一層、その言葉の重みがどんどん増していきます。

最後に、渡部昇一氏が月刊致知最後の記事になった2017年6月号「20代をどう生きるか」で述べられていた言葉をご紹介し、心よりご冥福をお祈りいたします。

*************

若いうちに何になりたいかという強い意志を持つこと。
その願望を思い描き、頭の中で鮮明に映像化し、信念にまで高めることが重要であると思う。
脊髄の奥で沸々と願望を燃やしていると、天の一角からチャンスが下りてくるものである。

逆境に処する態度が運を掴む上で極めて重要であること。
英語の諺に、「a blessing in disguise.(仮装した祝福)」とあるように、一見不幸な出来事も仮装しているだけで、実は天の祝福、恩恵なのである。
どんな逆境に遭っても、決して天を怨(うら)まず人を咎めず、自らを信じて心穏やかに道を楽しむ。
「これは天命だ」と受け入れる。
そうすると、霧が晴れ渡るように視界が開け、天から梯子(はしご)が下りてきて、思いも寄らない幸運に恵まれるのです。

*************

[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-05 11:19 | ことば・メッセージ
主観と客観の逆転
a0118928_09101577.jpg
世界観が新たに開け、今まで見えていなかったものが見えることによって、また新たな疑問点が次々と湧いてくる今日この頃です。
”なぜ生きているのか”、”死んだらどうなるのか”といった実存的な問いに対する着地点を、私は一体どこに求めているのかが、はっきりわからなくなってしまいました。
「本当のことを知りたい」と、ずっと思っていましたが、では、事実を知識として知るということで満足するのかというと、必ずしもそうではないことが、わかってきました。
なぜなら、この”私”という存在に対する実存的な問い自体が主観性を帯びたものであり、それは客観的な事実とは本質的に異なるものだからです。
”問い”というもの自体は論理的に、すなわち客観的な枠組みでとらえることのできる種類のものですが、よく考えてみるとそこに必ず好奇心が伴っていることが分かります。
好奇心、あるいは回答を得ることへの渇望や、現状に対する何か不足した感じや耐え難い不安・恐怖などであるかもしれませんが、これらは客観性の範疇ではなく、感性すなわち主観の範疇に入るものだといえます。
そして、その問いに対して回答を得ることで満たされるであろうものもまた、納得感や、喜び、欠乏感からの解放等、主観の範疇に入るものであることが分かります。
ということは、問うことも、それに対する回答を得る目的も、どちらも主観的な範疇の中で生じてくるものなのだということになります。

というようなことを考えていると、今まで求めていたものは客観的であると思っていたものが実は主観的であったのだ、ということがはっきりとしてきました。
客観と主観の逆転ともいうべきでしょうか。
アインシュタインの特殊相対性理論で、ブラックホール付近ではあたかも空間が時間のようにふるまい、両者の立場が全く逆転してしまうそうですが、なぜかそれを思わせるような転換が自分の中で起こっていました(大げさ?)。

この問い自体が、”私”という限定された存在の意識を前提として発せられているものなのですよね。
問いに対する回答を探し回る前に、その問いが生じてくる主体とはそもそも何なのかについて、もっとよくみていく必要がありそうです。
人間の精神そのものがまず、元々自然史的に物質から生命を経て歴史的に形成されてきたものなのですから。
また、主観と客観は区別してとらえることが可能ですが、おそらくその先にはその区別を超えた主客合一の世界があるのだと思います。

でも、私にはまだわかりません。
わかることがゴールなのかも、よくわかりません。
ただ、日々強くなる”問い”から、もう目を背けることができないのです。
そして、不思議なのですが、このような自分の変化と同時に、心は今までになく静かで、頭の中は青空のように澄み渡り、日々歓びが増していっているのも、事実です。



*************

事実の領域における「このもの」としての今・此処に在る者は瞬間、瞬間に生まれかつ消えゆくものとして本来有限性を脱しない存在者に他ならないが、この全存在者のうちにあって他の存在者たる物質的存在・生物的生命と異なって、人間存在は等しく有限的存在でありながら、独りこの有限性そのものを自覚する存在者である。
今・此処における瞬間的存在としての自己を自覚的に知るものである。
しかし自己の有限性を真に自覚するとは、決してたんに自己自身から起こって来るのではない。
有限を自覚するとは、絶対の自己ならぬ者として超越において自己を見ることに他ならない。
無限なるものに対して始めて有限であり得るのである。
しかも無限なるものはたんに有限に対立することによって無限なるのではない。
自己の内に有限を否定的に映すことによってはじめて真に無限なのである。
このことは言い換えれば、有限なるものは絶対無限なるものの前に自己を無として自覚することによってはじめて、真に有限なることを知るのである。

人間存在は自己の無の内にその存在の理由を有つのである。
自己が生きるとともに死にゆくことにその存在の理由をもつのである。
けれどもそれは先に言ったように、たんなる無なのではない。
絶対の消滅点即絶対の生産点としての空なる場所むしろ空なる反転作用というべきであろう。
世界が生起するとは空の運動であり、空動において世界が成るのである。
すなわち現成するのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

************
















[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-03 10:00 | ことば・メッセージ
世界構造の弁証法的理解
a0118928_06213643.jpg

この世界が作られている根本的な原理を理解しようとするとき、どうしても一筋縄ではいかないのは、それが本質的に矛盾をはらんでいるものであり、また多重的・多層的だからなのだと思います。
多重的・多層的というのは、あるひとつの立場に立ってみては確かなことでも、別の立場から眺めるとそれとはまったく違った風景が広がっていく、ということです。
鈴木亨が、論考を進めていくのにヘーゲルの哲学が非常に役立ったと、著書の中で書いていました。
ヘーゲルの哲学そのものが、というより、弁証法的な論考の仕方が非常に役立ったそうです。

”AはAであるが、同時にAにあらず”といったような命題を経て、最終的には、存在の根源が絶対無であることを証明していくヘーゲルの弁証法的論理学。
私も勉強してみたいと思います。
著書の中で紹介されていたヘーゲルの名著『論理学』をそのまま読んでも理解できそうにないので、まずは放送大学の教材などで適当なものを探し、基礎的な部分から少しずつ学んでみようかと思います。

******

無常すなわち一切のものが恒久的でないということは、世界構造そのものの弁証法的性格を示すのであって、この無常にたんに詠嘆的に即するかぎり、世界と自己との根本的な自己成立の事実の主体的な自覚はあり得ない。
一切が無常であることは、無常すなわち恒久的なものは一切存在しない、ということが恒常性であるということを意味する。
言いかえれば、いかなる絶対的なものもあり得ないのであって、世界の一切が矛盾するということだけが、絶対であるということに他ならない。
この世界の生存するものが逆説的に死ぬものであるという矛盾こそが唯一の絶対的なものである。
生死一如というのもこのことを指すに他ならない。
無常の本質は、たんなる恒常性の相対的な否定ではない、無常こそ唯一の恒常性なのである。
無常を絶対と悟るとは、絶対の愛の事実に生きるということである。
無常判断は、たんなる述語から出発する無限判断に対して有限的なる主語と述語がともに自己矛盾的に絶対的一者の自己否定的顕現として、述語即絶対主語の根源的弁証法的なる繁辞的世界に他ならぬことを悟るのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

******

以前の私は、悟りとは感覚的なものなのだと考えていました。
これまでひたすら「わかった」という感じを求めていましたし、その感覚そこが悟りでありゴールだと思っていました。
しかし、それは違うのだと、最近思うようになりました。
「わかった感じ」というのはあくまでただの感覚であって、そのままにしておくと、そこで終わってしまうのです。
その体験を落とし込み、自分のものとしていく”体得”の作業が、その後に必要になっていくのだと思います。
それこそ、論考を通してある一定の枠組みからその体験を反芻することで「わかった感じ」を理知的に深める過程であり、日常生活の実際の経験においてその境地から物事を眺め、自分のものとして落とし込んでいく作業になるのではないでしょうか。

大いなるいのちの海原から、個の意識を持った生命を受け、その個の視点から、改めてもう一度大いなるいのちを観る。
それが、人間として生をこの世に受けたことを真の意味で自覚することであり、さらに、その自覚を出発点として与えられた生に存分に応答し、響かせながら生きていく。
真の意味で生きるということ、また鈴木亨の言う「響存的世界」の目指しているところとは、そのようなものなのではないかと思います。

すなわち、「本来的自己が、単なる死への存在として消極的に規定されるのではなく、積極的に存在の真理の光の中に出で立つもの」なのであるということを自覚し、そのように生きていく、ということ。


「目に映る現象はすべて、ひとつの大いなるいのちのあらわれである」
という先日の一瞥体験は、ゴールではなく、スタートだったのでした。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-02 06:47 | ことば・メッセージ