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カテゴリ:死生観( 5 )
私に即時即応している世界

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昨日の気づきから一晩明け、まだ少し腑に落ちていなかったことが今朝腑に落ちていました。
世界は、自分の在り方に、即時即応的に対応して、今ここにある。
世界とは自分。
以前、”わたし”を観ている という記事で書いた時の気づきが、もう一段階深まった感覚です。
その時の感覚は、まだ受動的な要素が多かったように思います。
より主体的な感覚を伴って、世界とは自分なのだと思いました。

そうか。
真実というのは、繰り返し繰り返し立ち戻るたびに、こうして深まっていくのだな、と思いました。
だから、今回の深まりはまだ途中であって、これからまだまだ、深まっていく。
そういう意味では、悟りとは固定した状態ではなく、動的なものなのでしょう。


そして、そのような感覚を持つとき、物事を捉える基点が、眉間から後頭部になっているのです。
初めてそのような感覚になった時のブログ記事はこちら
これは不思議な感覚。


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今、しだれ桜が満開です。
色も大きさも可愛らしいけれど、可愛らしいだけでは到底終わらない、この圧巻の風景。
余すところなく生命力を噴き出し、そこには全く、出し惜しみというものがありません。

自然には迷いが無いですね。
そして、自己を体現する時期をわきまえ、時がくれば、全存在をかけてその生命を爆発させる。
私もこんな風に、生きていきたいです。


感謝と愛をこめて


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by ramram-yoga | 2018-03-25 08:06 | 死生観 | Comments(0)
同時に別の私が存在している
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最近、これまでに体験したことのない、少し奇妙な体験をしました。
先日、ある大きな決断を迫られました。

奇妙な体験というのは、その決断する直前のことです。
両方の選択肢、それぞれを選んだ先に何があるのかを、ありありと見せられたのです。
つまり、2種類の未来を見たことになります。

それにしても、後から思い返して不思議に思ったのですが、なぜ私は未来を見ることができたのでしょうか。
未来が、現在の延長線上にあって、まだ存在しないのなら、私は未来を見ることはできなかったはずです。
ということは、未来は現在と同時にすでに今ここに存在している、ということになります。
しかも、その未来は1つではなく、複数存在していました。

もう一度、同じような体験をしました。
瞑想中に、2種類の自分が同時に存在しているのが見えたのです。
一方は、解決すべき問題を抱えていて、克服する課題が山積している状態の自分。
もう一方は、全く問題の無い、今の状態で完全性を体現できる自分。
どちらが本当?と思いました。
でもその後に気づきました。
どちらが正しいとか間違っているという問題ではない、ということに。
どちらの自分もいるのです。

幾通りもの”私”が、今ここに同時に存在しているのです。
そして、自分が「こっちにしよう」と決めて、選んだほうの自分にフォーカスしたから、それが現実となったのです。

例えるなら、何通りものフィルムが無数に存在し、その中から自分が「これ」と思うものを選んで、それをスクリーンに映し出しているような感覚ではないでしょうか。
そして、私は自分でそのフィルムを映し出しながら、同時にそれを鑑賞し、体験しているのです。
このように考えた時、私たちに何一つ受動的な要素が無くなってしまいます。
つまり、現実に起きてくることは、全て自分が選んだ上で体験しているということになります。

私たちはもしかしてものすごいことをやっているのかもしれません。
なぜなら、運命というのはあらかじめ決まっているのではなく、自分のあり様によって変わってくる可能性があるからです。
ということは、私たちは運命や宿命にただ従って生きる存在ではない。
もう少し、この、今まで水面下で知り得なかった”台本”とも言えるものについての理解を深めていく必要がありそうです。

それにしても…。
今、この世界で何かが大きく変わろうとしている気がしてなりません。
今まで疑いの余地もなく信じられてきたこの世界の大前提が、ガラガラを音を立てて崩れ始めているように思えるのです。
でもそれはきっと、怖いことでも憂うことでもありません。

今こそ、私たちが本当は何者なのかを、思い出す時が来たのではないでしょうか。

そんな気がしています。


(写真は、今朝の離宮八幡宮。)


感謝と愛をこめて






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by ramram-yoga | 2018-03-24 22:58 | 死生観 | Comments(0)
至福をめざして
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先日の記事 でも触れましたが、今年は個としての幸せを、思う存分享受した一年でした。
いえ、正確には下半期ですね。
”足りない” ”もっと欲しい”という欠乏感から動くのをやめ、”すでに持っている” ”満たされている”という感覚から動くとはどういうことか、ということを学びました。

もっと端的にいうと、”受け取る”ということを選択した一年だったと思います。
それまでいかに、自分が受け取っていなかったか、ということに気づきました。
いつもいつも懐の深い豊かさに包まれていたにもかかわらず、それまで気が付かず、足りない、もっともっと、と思っていたのです。
その原因は、自分の意識にありました。
「自分はその恩恵を受け取るに値しない」と、無意識的に思っていたところがあったのですね。
言ってみれば、豊かさを享受することを、「受け取れない‼自分でやりますからっ‼」と、かたくなに防御していたのでした。

でも、なんでもかんでも自力で頑張るのではなく、力みを緩めて、助けてもらえばいいのですね。
周りに自分よりできる人がいると、「私も頑張らなきゃ」と思っていたものですが、最近は、私よりできる人にどんどん助けてもらうことにしています^^
そういうことでいえば、ポカをすることが多くなりました(笑)
しかし、自分ひとりで頑張ろうとしていた時より、格段に穏やかで和やかで、人の親切や愛情にいっぱい触れることができています。
あぁ、豊かだな~…と、しみじみ思うことが、本当に増えました。

自分には無限の可能性があり、物質・非物質共に無限の貯蔵庫から必要なものをいつでも引き出せることができる。
なぜなら、”わたし”とは実は、米澤紗智江という個人に限定されたものではなく、目に映る世界そのものだから。
そうやって、”わたし”というもののアイデンティティが個という垣根を越えて広がった上で動く。
すると結果として、個としての私において豊かさがもたらされる。
感覚としては、そんな感じでした。

**************


ですが、個としての幸せを求め続けるのは、もういいかな、と、思い始めています。
個としての幸せは、どうしても物質的な諸条件と関連があります。
健康状態、人間関係、経済面。
そして、それら諸条件の先にある幸せとは、どこまでいっても状況依存的です。

段階としては、個としての幸せや満足を得ることは、必要だと思っています。
今幸せじゃないのに、今苦しいのに、今欠乏感でいっぱいなのに、その原因が我執(自我)や執着が強いために生じてきていて、そこから離れられないからだめなんだという風に捉えてしまうと、その人は一層自分の至らなさに苦しめられることになります。
何かを犠牲にしたり抑圧してがんばっているうちは、どこかで必ず無理が生じてきてしまいます。
今考えると、私は長い間このループにはまってしまっていたのではないかと思います。

でも本当は、そうじゃない。
そういう状態にある時こそ、満たされて安心する体験が、まず必要だと思うのです。
そうして、満たされて安心して、たくさんの豊かさをいっぱい享受して満たされた時に、自我意識に縛られていることがいかに自分を限定してしまっているかが分かり始めます。
そして、そうなってはじめて見えてくる次の世界があります。

それは、個としての人生における物質的・精神的な満足とは比べ物にならないほどの、強烈な至福の世界。
なんとも静かな、光と愛に満ち溢れた世界。
今ちょっと、垣間見ているだけです。
でも、そちらに強烈に、惹きつけられつつあります。
そっちに行きたい。
なぜか懐かしく、恋焦がれています。

個という意識を弱め、個を解放していくことに、以前のような恐れや気後れはありません。
個の意識は、もともとあったものではなく、後天的なものだったのだ、ということが、腑に落ちつつあります。


   愛と感謝をこめて






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by ramram-yoga | 2017-12-28 12:24 | 死生観 | Comments(0)
個としての幸せ、ここに極まる
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大そうなタイトルにしてしまいました(笑)
が、さっきふと、この言葉が浮かんできて、妙に納得しました。

今日は幸せなクリスマス・イブでした。
子どもと一緒にケーキを作り、家族とお祝いをしました。
サンタさんからのプレゼントを心待ちにしている子どもの表情を眺めながら、満ち足りた気分でいます。
家庭生活においてこれ以上何も求めることは、もうありません。

今年は、幸せや豊かさといったものを、思う存分受け取った一年でした。
不足感や欠乏感から動くのではなく、幸せで満たされることを受け入れ、選択し続けました。
私たちは目の前の現実に対して無力で受動的ではなく、実は私たちの意識が現実を創り出しているのだということを、感じさせられました。
そして今、私は幸せで満ちたりています。
これは、「~~だから幸せ」「○○だから不幸」といった、条件付きの幸せではありません。
幸せを選択すると、どんな状況であれ、その人は幸せになることができると思っています。
幸せを選択したその瞬間から、幸せへの道がひらけていくのです。



その一方で、個人としての幸せとはまた違う幸せというものが、その存在感を大きくしはじめています。
そこはとても静かで、光と歓喜に満ちた世界が、広がっていきます。
普段世俗的・物質的な豊かさや幸福にフォーカスしているとなかなか感じられないような、精妙な幸福。

でもよく考えてみると、この幸福は、そういえば以前から感じ、求め続けていたものでもありました。
しかし以前とは、出発点が違います。
以前は、欠乏感から出発し、今自分にはないものをどこかに求めるような感覚を持っていました。
今は違います。
私はすでに、満たされているということを知っています。
そして、その精妙な幸福は、フォーカスのしどころを変えるとすぐにでも一体化できるような、実は私の一番近くにあるようなものなのではないかと思うのです。


私は今までずっと、この世界のたくさんのものに魅了され続けてきました。
日々目にする風景、木々や花々、日々接する人たち。
この世界が本当に好きで好きで、時々この愛おしい気持ちのもって行きどころが分からなくなるなるほどに、気持ちを抑えきれなくなりそうになることがありました。
でも、よくよく観察してみると、その対象物そのものに愛おしさを感じていたのではなかったのだ、ということが分かってきました。
私が絶えず引き付けられ、愛おしさを感じていたのは、それら目に映る対象物の背後に遍在している生命原理だったのでした。
ヨーガではこのことを”ブラフマン”と呼びます。
私はここでは、”いのち”と呼びたいと思います。

その、もともと一つの”いのち”が、個々の生命という様々な様相で、この現象世界に立ちあらわれている。
もう、私はこの個々の生命それぞれにではなく、ダイレクトにこの”いのち”を求めたい。
求めるという言い方も、語弊があるかもしれません。
なぜなら、私自身も、この”いのち”のひとつのあらわれなのですから。


個としての意思から大いなる”いのち”の意思へ。
個としての幸福から、大いなる”いのち”の至福へ。
個としての人生における楽しみや快楽、満足も、大いなる”いのち”の至高の歓びを前にすると、次第にその力を失っていくのではないか。
そんな気がしています。

来年は、個としての我から、大いなる”いのち”に自分のアイデンティティを転換させていく一年となりそうです。
そんなに難しいことでは、きっとありません。
なぜなら、私たちはすでに、その大いなる”いのち”そのものなのですから。
そこに還っていきさえすれば、いいのです。





それではみなさん、素敵なクリスマスを162.png


  愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2017-12-24 20:09 | 死生観 | Comments(0)
トラウマと死の恐怖
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今日は仕事の後、R-TEP(直近トラウマエピソードプロトコル) の研修会に参加しました。
そこでの説明でありましたが、何かの体験というのは大体半年で記憶として定着するのだそうです。
また、人の記憶は「場面記憶(エピソード記憶)」「意味記憶」「手続き記憶」等に分類できますが、このうち「場面記憶」は結構変化するものだということが分かっています。
場面記憶というのは”あの日あの時あの人と…”と、具体的に思い出すことの記憶なのですが、実際は赤い車を見たのに”青い車を見た”とか、変わってしまうことも多々あるのです。
そう考えると、人間の記憶というのは実はとても曖昧なものなのですよね。

死の恐怖でパニック発作をよく起こしていた私ですが、何とかパニックを克服して振り返ってみると、あれはトラウマ反応とよく似ていたのだということが分かってきました。
最初に感じた死への恐怖があまりに強かったために、トラウマティックな記憶となっていたようです。
通常の記憶から隔離され”冷凍保存”された恐怖を伴う記憶は、私自身では全く制御不能なものとなってしまっていました。
そして、時々何の前触れもなくやってきては、私を激しい恐怖で圧倒して、パニックに陥らせてしまっていました。
まだまだ、死に関しての恐怖心が消え去ったわけではないので、自分自身でトラウマ処理を試してみてもいいかもしれないと思っています。
つまり、恐怖を感じた記憶というのは、出来事そのものが恐怖なのではない。
恐怖心は、出来事に何等かの”意味づけ”を行うことで生じてくるものであり、また、恐怖を突き詰めてみていくと強い罪悪感や無力感が伴っていることが分かっていきます。
それら強力にセットになっている出来事と感情・情動のセットを、少しずつ解きほぐしていく。
それがトラウマ処理の過程なのだと思います。


さて。
私はといえば、自我意識が主体ではなく客体だったのだと気づいてから、まったく見る世界が変わってしまいました。
たった35年前に生まれ、”自分”という意識が確立して、そこから築いてきた世界。
今さらながら、なんてちっぽけな、狭い世界観に住んでいたのだろうと思う日々です。
そんな自我意識が、「なぜ生まれてきたんだろう」とか「死ぬのが怖い」とか、あれこれ言ったり探求したりしています。
元々そんな自我意識自体が無かったのにね…なんだか笑えてしまいます^^

そして毎日、今まで私はいったい何をしてきたのだろうと、思ってしまいます。
ヨーガでは、この世界はマーヤー(迷妄)と言われますが、その意味がこんなに実感を伴ったのは初めてです。

結局、私たちは自由であるようで、根本的なところで全く受動的でしかありえないのです。
生まれてくることも、死ぬことも、自分で決めた訳ではありません。
気が付いたら生まれていて、そしていつか必ず死んでいくのです。
心臓を動かし呼吸しているのも、自分ではありません。
なんて、なんて、私たちは無力なのでしょうか。

この”無力”を感じた時、2つの感覚が沸き起こってきます。
ひとつは、虚無感や恐怖。
これは、自我意識を主体として感じる感覚、でしょうか。
自分の意識が無くなるということが、どうしてこんなに怖いのでしょうね。
そしてもう一つは、安心感というのか、なぁ~んだ、という感覚。
なぜか、こんな感覚があるのです、面白いですけれど。
人間は生きて死ぬ、それが宿命だと思うと。

現に、意識は毎日無くなっているのですよね。
寝ている時に。
全く、何も怖くない。
むしろ、安心している。
あぁ、一日が終わったなぁと、安心しきって身体を緩めます。
死ぬというのも、これに近いのでしょうか?

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という訳で、相変わらず驚きと混乱の日々を送っています。
”わかったつもり”は、もうしないことにしています。
気が済むまで、混乱しておくことにします(笑)

その一方で別のところで自分の感覚が大きく変わりました。
人との壁がどんどん取り払われていくのです。
心と心の深いところで人と触れ合える感覚が、日に日に増していきます。
その意味でも、これまでとはまったく別の世界が、見え始めてきています。








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by ramram-yoga | 2017-05-20 21:34 | 死生観 | Comments(0)