Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
カテゴリ:瞑想( 21 )
個人において大我があらわれ出る生き方とは
a0118928_23274027.jpg
12月31日の早朝、瞑想をしていた時のこと。
その前の晩から、何か起こりそうな予感はしていました。
瞑想に入ると、間もなく頭部で、大きな力が生じてきました。


アジュナ・チャクラ(眉間)に抗えないような力がかかり、ザザザザーと後ろに押されていきます。
眉間の何が押されているのかというと、主体となっている視点が、です。
その力はしばらく、有無を言わせず眉間にかかり続け、だんだんと視点が後ろへ後ろへと押されていきます。
思わず後ろにのけぞってしまうほどの、強い力です。
ひとしきり押された後、その力は、嵐が過ぎ去ったように止みました。
静けさが戻ってきた頭の内部を観察してみると、なんと、いつも眉間にあり、これまでいつも視点がそこから発現していた主体の位置が、後頭部に移動していました。

それから数日たちますが、それまではいつも様々な物事を見ていた主体が、その機能は保ったまま客体化している状態が続いています。
つまり、それまでいつも主体の側だったものを観ているもうひとつの主体が浮かび上がってきて、その視点から物事を見ているという状態です。
いろいろなことがあると、それに対して直接感じてあれこれ思っている意識もあるのですが、それを少し離れて俯瞰しているもうひとつの意識の方が、今までになく強くなってきている、そんな感じです。

**************

私たち一人ひとりが当たり前のように「私」と感じている”個としての我(自我意識)”と、全てに遍在する”大きな我”。
”個としての我”から自らを解放して、そこに”大きな我”が顕れ出る時、実際にどんな風になるのでしょうか。
わたし自身はこれまでのイメージは、もうそこまで来ると肉体を持っていないだろうとか、もっていたとしても生前解脱のようにごく限られた人にしかもたらされない状態だというものでした。
そして、何か自分が自分でなくなってしまうような不安にも似た感情を覚えていました。

でも。
実際は、そんなに大そうなことでも、難しいことでもないのではないでしょうか。
なぜなら、すでに私たちは、もともと大いなる”いのち”のあらわれなのですから。
”私”という枠を緩めて、その枠から溶け出して、大いなる”いのち”の流れと合流する。
一滴の水が大海に落ちて、海と一滴とが不可分になるように。

大海と不可分になってしまうことで、その一滴が消滅してしまうわけではない。
その大海原と一体になって、ずっとあり続ける。
それと同じように、この意識が、大きな我と合一することでなくなってしまうわけではない。
むしろ、今私たちが普段”意識”と呼んでいる意識が、もっともっと範囲を広げ、すべてのものに明瞭に気づいている意識にまで拡大していくのではないか。

あぁ、そういうことか。
今、書きながら気づきました。
10年以上前からヨーガの師にずっと言われ続けてきた「意識化の範囲の拡大」とは、こういうことなのか。
ヨーガにおいて”個の意識を無くす”と言われることの意味。
それは、実際に無くなってしまうということではなかったんだ。
この限定的な意識の枠を取り外して、どんどん広げていく、ということなのですね。
だから、どんどん意識が清明になり、よりいろんなことに対して明瞭に気づくことができるようになるのですね。

a0118928_00374324.jpeg
今日の”わたし”との対話です^^


   感謝と愛をこめて





[PR]
by ramram-yoga | 2018-01-04 23:27 | 瞑想 | Comments(0)
微細な光が粗雑化する過程を観察する
a0118928_12371871.jpg

私の方から瞑想に入っていくというよりは、瞑想の方から私を呼んでくれる感覚の時があります。
昨晩もそうで、次の日の瞑想が楽しみでわくわくしながら眠りにつきました。

次の日の早朝、瞑想に入ると、目を閉じているのに明かりがついているように明るい。
過去に経験した残存印象が去来して、それをただ観察していると過ぎ去っていく。
そしてふと静寂が訪れた時に、精妙な光の泡のようなものが見えてきました。
その泡を、しばらく観察していました。
すると、だんだんその形を変え、粗雑化していくのです。

普段、私たちは、様々な情報を感じ取りながら生きています。
虫の知らせとか勘といったような、非言語的・非科学的な感覚も、多かれ少なかれ持ち合わせています。
中にはそれが声やイメージなど、比較的はっきりと感じ取れる人もいます。
これは、微細なエネルギーもしくは波動のようなものを取り込む過程で、その人に親和性のある表象に落とし込み、認識可能なものとして汲みあげる作業を行っているから可能なのではないかな、と思っています。

私自身は、それは言葉や映像として感じます。
言葉の場合、普段自分がこのブログを書く文章とは少し違う、簡潔で短い文章として、出てきます。
人格を持った存在が、話しかけてくるように感じます。
私はこの存在との対話が、とても好きです。
普段の思考回路では到底たどり着くことのできないような深み・あるいは高みに達することができるからです。

あの光の泡は、そのエネルギーがイメージや言葉になる前の微細な状態だったのではないかと思います。
その泡のようなものがだんだんと粗雑化して、イメージとなり、そして言葉となる過程を、瞑想の中で微細な視覚を通して観察しました。

へぇ、こういう風になっていたんだな、と、思いました。

いつも瞑想のカテゴリの文章は、不思議な内容になってしまいますが、今朝の瞑想はそんな瞑想でした。

愛と感謝をこめて


[PR]
by ramram-yoga | 2017-12-18 13:01 | 瞑想 | Comments(0)
祈り
a0118928_11215463.jpg

近所にある甲東教会に以前いらっしゃった同年代の牧師さんと、今朝久しぶりにfacebookでやりとりをしていました。
やりとりの最後に「お祈りしています」と送ってくださり、なんとも幸せな気持ちになりました。
誰かが自分のことを想ってくれている、祈ってくれている。
それを感じるということで、どこからともなく力が湧いてくる。
祈りには、不思議な力があります。

実際、欧米では祈りに関する研究も進んでいて、祈られる人は、自分が祈られていると知っているいないにかかわらず、祈られていない人よりも病気の快復がいいという報告まであります。
つまり、祈られている側が気づいていなくても、祈りはその人に確実に影響を及ぼしているわけです。

私も最近、毎朝行っている瞑想が、祈りのようになってきています。
自分のためにいくら瞑想しても集中できたりできなかったりとムラがあるのに、人のことを祈っていると、すーっと瞑想状態に入っていくことができるのです。
同じことを、自分自身の成長や勉学に当てはめても、同じです。
自分の好奇心で勉強して成長しようとする時よりも、目の前にいる辛い人に何かできることはないかとか、一緒に切磋琢磨して学び合いたいとしている時の方が、学びが深まり、成長できるのです。
自分ひとりだけよくなることや、自分だけの利益を求めるというのは、本当は不可能なことではないでしょうか。
一緒にみんなで利益を得、幸せになっていこうという気持ちを持ったり、人に何かを与えようと思った時に、実はその与える側の人が恩恵を受けている。

それでは一体、与える側の人は、何から恩恵を受けるのか。
それは、敢えて言葉にするなら、無条件の愛の大海原からなのだと思います。
愛を与えるという行為は、そもそも自分自身が絶対的な愛の中にいなければ成しえないことであり、与えるという行為がそのことに気づかせてくれる。
そんなことを感じている、今日この頃です。

毎朝瞑想時に、ヨーガの生徒さんおひとりおひとりのことを、お祈りしています。
今日一日を穏やかに過ごすことができますように。
何か困難に遭遇しても、それに対峙し乗り越えていく力がすでに与えられていることに、気づくことができますように。







[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-19 11:31 | 瞑想 | Comments(0)
Who am I ?

a0118928_00114074.jpg
私は、誰?
ヨーガでは、aham asmi (私は…である)という自我意識を生じさせるのは ahamkara(我執)という内的心理器官であるとされています。
この ahamkara は自己の本質ではないのだと、ヨーガで学び、何度も確認して理解していたつもりでした。
なのに、これまでずっとずっと、自我意識本位で物事を見聞きしていた…。
数日前に、視点が突然ガラッと変わる体験をして、そのことに気付きました。
自分の心臓が鼓動する大元である chaitanya (純粋意識)に向けて、ひたすらマントラを唱えながら瞑想をしていた時のことでした。

私たちは、「私」という個人が他の生命と分離して存在しているということに、何の疑いも持たず暮らしています。
しかし、それが、自分の想念が作り上げた幻想だったとしたら?
常に欠乏感を持ち、到達したいと渇望しながら終わりのない探求を続け、個の意識を強め続けることにならないだろうか。

逆に、「こうありたい」「よりよく変化したい」という想いを手ばなし、個の意識を弱めていく先に広がる世界に、行ってみたい。
力を緩め、委ねて、任せきる。




あなたの源を探し求めなさい。
「私」という想念が湧き上がってくるところを発見しなさい。
どんなものをわれわれはより確かだと思うことができますか、
またわれわれの真我よりいっそう確かなものを知ることができますか。
これは直接的な経験であり、それ以上説明することができません。

もし今の「私」が消え去ると、
心はそれが神話に過ぎないということがわかります。
残っているものが純粋な真我です。
深い眠りの中では真我が身体や世界を知覚することなしに存在しており、
そして幸福が君臨しています。

『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話―』より





[PR]
by ramram-yoga | 2016-08-13 00:09 | 瞑想 | Comments(0)
ヨーガの智慧に収束していく
a0118928_21151090.jpg


9月。
世間より1ヶ月遅い、夏休みを過ごしています。
4月に大学院に入学してから8月まで、怒涛の毎日でした。
自分としてはあまり無理している感じもせず、とても精力的に過ごしていたのですが、8月後半に最後のイベントを終えたあたりから心身ともにどんどん緩んでいき、それに伴って心身ともに“排出”がありました。
やはり、緩みは必要だな、と思いました。
日々充実してフル回転という状態でこそ、自分の思っていた限界を超えていくことができる一方で、家庭を持つ身としてはそのような状態ばかりなく、余裕を持っていることは、家族への愛情でもあるのだと、つくづく感じています。
息子は私の休みに合わせるようにして、先週から高熱を出し、保育園をお休みして毎日一緒に過ごしています。
子どもは本当に、よく分かっていますね。

ひとしきり排出を終え、静かな気持ちで迎えた今朝。
瞑想中に精妙な意識状態へと入っていきました。
それを境に、今まで私をひきつけていたいろいろなものが急に力を失い、自分がとても力強くなったような気がしました。
でも、本当は、ひきつけられていたのではなく、私が力を与えていたのですね。
それほど、魅力的な出会いがいくつかあったということですが、そのために少し迷い込んだ感じもしていたのです。
しかし、今朝の瞑想で、自分の立ち戻るべき場所が、はっきりと見えたような気がしました。
それは他の何でもない、ヨーガなのだと。

起こってくる出来事をヨーガの智慧を通して見る、自己の立ち位置を確かめ自己コントロールしていく。
そして、瞑想は深まっていくと、普段体験する出来事を全て包括して有り余るほどの、包容力のあるものなのだと、感じました。
心理学を学び始めた当初、現代心理学でヨーガを説明してみようという魂胆は無残に砕かれ、ヨーガが現代心理学をはるかに凌駕している事実を突きつけられた時のことを、思い出していました。
今日も明日もあさっても、ヨーガをやっていこう。
一日も休まず、あせらず、脇目をふらず、淡々と。

気づかせていただき、ありがとうございます。
[PR]
by ramram-yoga | 2014-09-07 22:52 | 瞑想 | Comments(0)
明るみに出た記憶
a0118928_1754091.jpg

今朝は瞑想を始めるとまもなく、自分の内側で自動的な作用が生じ始めたので、しばらく観察していました。
真っ暗な中かすかに浮かび上がった光が次第に鋭く輝きだし、一筋にある過去の記憶へと注がれていきました。
その光がしばらくの間その記憶を照らし出している間、私は当時起こった出来事、そのときの状況、その時の自分の気持ち、相手の状態を詳細に見て取ることができました。

自分としては何の変哲もない、無数にある記憶のうちのひとつでした。
なぜ、この記憶に?と、疑問に思いました。
でも、その記憶を調べているうちに、自分がその時の自分について後悔し、今でも自責していることがわかってきました。
そして、その自責の念があることによって、自分のエネルギーが現在も少しずつその記憶に漏れ出し、今目の前に投入するべきエネルギーが削がれてしまっていることに気づきました。
もう5年以上前に過ぎ去った出来事が、自分の中では過去になり切っていなかったのです。

そんな記憶が、光に照らされ明るみに出ることによって、自分の中で過去の出来事となって現在と切り離されていきました。
そこでなされたのは、その出来事に対して「もう、終わったことなのだ」と理解し、許せなかった過去の自分に対しても「あの時はそうでしかなかったのだ」とその未熟さを認める、理性的な作業でした。

何かに注目すること、何かをトピックとして扱うことを、“光を当てる”と表現することがありますが、まさにそうで、それは光を当てる作業なのですね。
今朝光が当たった記憶はひとつでしたが、今回の瞑想で、他にもたくさんの“未完了”の記憶があることがわかりました。

今朝のように3時台させていただく瞑想は、格別なように思います。
目を閉じたときの自己内部の精妙さ、集中の具合などが、4時台、5時台とは格段に違うように感じられるので、少しずつ増やしていきたいと思っています。
3時台にすっきり目覚めるのは、なかなか難しいのですが・・・^^;
[PR]
by ramram-yoga | 2014-04-30 10:19 | 瞑想 | Comments(0)
不断の努力と離欲によって
今日は、ヨーガの聖典学習の会に参加させていただきました。

今日のテーマはヴァイラーギャ(離欲・無執着)についてでした。
私たちが何かに集中しようとするとき、または心を落ち着かせようとするとき、それを妨害するのが執着・欲望・嫌悪であり、それらは過去の記憶にまつわる想念から形成されているということ。
心は常に、そこにとどまろうとしたとしても、その人が執着しているものに向かって“逃げ出す”回路を作ってしまっているということ。
そして、そのような心の暴走を制御していくのが、不断の努力(アビャーサ)と離欲(ヴァイラーギヤ)だということ。

これらの講話の後、自分は普段の生活の中で何を好意的に感じ、何に嫌悪を感じるかを調べていく瞑想を行いました。
要するに「好き」「嫌い」といった、自分の好みに関しての瞑想です。
なぜそれが「好き」と感じるのか、「嫌い」と感じるのか。
好き嫌いを突破口にして、自分の心が何に執着しているのかを探っていきました。

私はといえば、思い通りに物事が進まないときにストレスを感じる自分を再確認。
でも、考えてみれば、思い通りにいかないことの方が多いので、もうちょっと現実を受け入れないとなぁ・・と思い直しました。

心をコントロールすることはほとんど不可能である。
それは確かに非常に難しい。
しかし、不断の努力(アビャーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)に確立することによって、それは可能となる。
              (スワミ・チダナンダ「至福への道より」)



と、これはバガヴァッドギーターでクリシュナ神が言うセリフですが、どんなに心がかき乱されても、いろんな感情に翻弄されたとしても、とにかく不断の努力をしつづけることが大切だというメッセージに勇気付けられます。
何度失敗しても、つまづいても、また立ち上がって進んでいこう。
そんな気持ちになりました。

****************

今日はうちの破壊の大魔王(息子)が、早くに就寝してくれたので、ゆったりパソコンに向かえています。
最近は家にいるとき聴くのはもっぱら放送大学の講義ばっかなのですが(なにしろ今期は10科目履修したので、聴きまくらないと間に合わないのです)、今夜は久しぶりに大好きなショパンのノクターン全集を。
演奏はアシュケナージです。


こちらは中でも大好きな8番(辻井伸行さん演奏)。



↑あっ今日やった瞑想のテーマの「好き」「嫌い」が、早速でました!
[PR]
by ramram-yoga | 2012-10-22 21:20 | 瞑想 | Comments(0)
変化するものと、しないもの
昨日の段上公民館のヨーガレッスンでは、毎月おなじみのヨーガ療法の教本読み合わせを行いました。
毎月少しずつ読み合わせ、やっと第一部が今回終わりました。
第一部に書かれてあった内容は、古代の聖典の引用も多かったので難しくもありました。
しかし、一貫して言われていることがあります。


苦しみは、無知から生まれるのだということ。

無知とは、変化するものを不変なるものと見間違えること。


普段、どのような対象物に心を結び付けているかを調べる瞑想を、行いました。


***************


今日は、今年カイラスに行かれた素敵なヨーガのお友達からいただいた聖地ティルタプリの温泉の湯の花を、お風呂に入れて入りました。

しばらくの間、遠くチベットの地に思いを馳せていました。


a0118928_23463021.jpg


(写真はティルタプリの温泉にて。
 隣にいるのはガイドのカイラさん。
 お互い湯の花を塗りたくっておふざけ中)
[PR]
by ramram-yoga | 2012-10-05 22:24 | 瞑想 | Comments(0)
自分への非暴力
ヨーガのクラスでは月に1回、ヨーガ療法の本の読み合わせを行い、ヨーガにおける人間観や価値観を少しずつお勉強する時間を設けています。
今回は、伝統的なヨーガの瞑想法の段階について、お勉強しました。

そして本の読み合わせを行った後、レッスンの最後にヨーガのヤーマ(禁戒)のひとつ「非暴力」についての瞑想を行いました。

ヨーガでいう非暴力というのは、思い・言葉・行動の3つのレベルでの非暴力ということで、単に他人を傷つけることだけでなく、誰かを軽蔑すること、偏見を抱くこと、陰口をたたくこと、怒りの感情を抱くことも、暴力に入ります。

今日は、自分に対しての非暴力について、瞑想をしました。

普段、自分に対して、傷つけるようなことを行っていないか。

a0118928_2225554.jpg例えば、体に無理強いをしていないか、疲れているのに酷使していないかどうか。

あるいは、心の中で、自分に対して、自分が傷つくような言葉かけをしていないか、例えば何か悪い状況に陥ったときに「私の馬鹿」とか「自分ってだめだなぁ」というようなことを心の中でつぶやいてむやみに自分を責めたりしていないかどうか、ということを、瞑想の中で調べました。

***

人のことが許せないときって、実は、自分のことが許せてなかったりしますね。
何か、自分の中にどうしても受け入れられないことがあったり、ストイックになり過ぎていたり・・・。
そういう自分に気づいて、凝り固まった気持ちを緩めてあげること。
そうしてはじめて、周りの人に思いやりが持てる気がします。


今日は、徳島からはるばるお友達がヨーガのクラスを受けに来てくれました。
とても嬉しい一日でした。



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2012-03-29 23:31 | 瞑想 | Comments(0)
2極の対立感情からの脱却
1部のクラスにて10回シリーズで行ってきた瞑想コースも、最終回の心理アセスメントを残して全過程終了しました。
試験的に行ってきた瞑想コースでしたが、私自身とても学びの多い機会となりました。

さて、最後の瞑想のテーマは「2極の対立感情について」でした。

a0118928_1239687.jpg2極の対立感情とは、何か起こってくることに対して私達が自分の立場で加える判断のことで「善い・悪い」「好き・嫌い」「好都合・不都合」といったようなものをいいます。

例えば、運動会を前日に控えている子供にとって当日雨が降ることは嫌なことですが、雨を待ち焦がれている農家の方にとっては雨は嬉しく恵みです。

このように、何かに対して下される2極の対立感情による判断はすべて、その人の置かれている立場や時代、社会の成熟度によって違ってくるわけで、本当は起こってくることはすべてニュートラルである、ということ。

そして、今ある苦しみや葛藤は、そのような自分の下した2極の対立感情による判断によって、生じてはいないか?

そのようなことを調べる瞑想を行いました。

今回も、参加者の皆様からは本当に貴重なお話を聞かせていただきました。

************

ヨーガのレッスンや瞑想を皆様と一緒にさせていただいてよく思うのですが、いつもその「場」に私の意志とは無関係にやってくる「働き」のようなものがあると感じます。

もちろん指導は私がさせていただいているのですが、時々、私なんかが到底誘導できないような高みに、皆様と一緒に連れていってもらえる気がします。

それはきっと、古代よりヨーガに携わってきた沢山の方々の魂が、ヨーガが行われる場にはいつもあるからなのだ、と、感じています。


OUM Shantih Shantih Shantih


(写真は、昨日生徒さんからいただいた素敵なプレゼントです)



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2011-03-09 12:50 | 瞑想 | Comments(0)