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2018年 05月 02日 ( 1 )
条件付けからの脱出
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最近、自分がこれまで感じていたよりももっともっと深い部分で、自分の心の動きや行動を規定付けていたものについて、考えています。

先日の記事(気づいたら終わる。光に返る。)では、生まれて物心ついてからの記憶や対人関係において作られてきた私の思考や行動の傾向について触れました。
しかし、そのような、個としての私の今回の生における経験に基づいて形成されてきた思考や行動の傾向は、どちらかというと割合としては少ないのではないかと、感じはじめています。

例えば、わが子を可愛いと思う親心。
これは、親なら当然でしょうと、それを疑うこと自体がタブー視されるほど、当たり前のことです。
でも最近、毎朝毎晩、息子の寝顔を見ながら、この無条件に湧き上がってくる愛着の想いとは何だろうと思うのです。
これは、ただ私が自発的に息子を愛しているというよりも、生物学的な本脳がそうさせている部分も多いのでしょう。

哺乳類は、個体として、身体全体における頭部の大きさが大きいほど、そして丸みを帯びているほど、その対象物をに愛着を感じるようにできています。
声は、低いより高い方が、その個体を擁護しようという動機が高まるように、できているのです。
極端な話、ひげを生やし、声の低い5歳児とかだったら、あんまりかわいがる気になりませんよね(笑)


***


また例えば、誰か特定の人に対して強く惹かれる心の動き。
誰もが経験するものと思いますが、そのさなかにいる時には、まるで有無をいわせない強力な力が働いているかのようです。
その力に、抗いようもありません。
その力に対して、完全に受動的になっているかのようです。
ある捉え方から見れば、それは運命的と言われるものなのかもしれません。
しかし、ある捉え方から見れば、それは、これまで人類が繰り返してきた相手への想いや行動の記憶を、今のその人の人生において再生しているようにも思えるのです。
そして、ある日突然その力が無くなってしまったかのようになる時が訪れます(訪れない人も、きっといますね^^)。
夢が覚めたかのようです。
なぜ、その人にそんなに惹かれていたのか、自分でも説明がつきません。

でもそれは、悲しむべき終結ではありません、きっと。
そこで初めて受動的な状態から脱することができ、その人の生き方が主体的になる可能性に開かれるからです。


***


また、例えば、栄光と堕落。
これはその人の人生において交互に訪れます。
なぜなら、堕落がなければ栄光はないからです。
栄光の形は人によって違います。
ある人にとっては大勢の人からの賞賛。
また、ある人にとっては特定の人からの特別な注目。
あるいは、達成感、すっきり感、感動、高揚感。
これらは、落差が大きいほど強い印象を残します。
つまり、それらの対極にある、堕落、絶望、苦しみ、疲労困憊が大きいほど、栄光を手にした時に強烈に高揚するのです。

高揚、堕落。高揚、堕落。
このジェットコースターのような急激なアップダウンは、非常にスリリングです。
このスリルを味わうことで、生きている感じがする。
もしくは、”存在することを許される”という感じ?
平坦な生活では、味わえない。
自分を貶めたり、ストイックになりすぎる人の中に、このような傾向を感じることがあります。


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タイトルに書いたように、思考や行動が、すでに”条件付け”されている部分が多々あるような気がしています。
他にも、まだまだ。
”条件付け”とは、カルマとでもいいかえれると思います。

今まで当たり前と思っていた自分の心の動きを、一度新鮮な驚きを伴って観察してみる。
「なぜ?」と問いかける。
気が付いたら、その”条件付け”から脱することができる。
有無を言わせず自分を駆り立てていた行動から、解放されるのです。
まるで、枯れて落ちていく花のように。
花は咲き終わると、途端にその植物全体の働きが、花に栄養を送るのをストップするのです。
それと同じように、条件付けされた行動に、もはやエネルギーが注がれなくなっていきます。

本当の意味で主体的に生きていくということは、どういうことなのか。
それは、その条件付けから脱した時に初めて俎上に乗せることができるテーマなのだと思います。



感謝と愛とこめて







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by ramram-yoga | 2018-05-02 21:48 | 最近のいろんなこと | Comments(0)