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2018年 01月 04日 ( 1 )
個人において大我があらわれ出る生き方とは
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12月31日の早朝、瞑想をしていた時のこと。
その前の晩から、何か起こりそうな予感はしていました。
瞑想に入ると、間もなく頭部で、大きな力が生じてきました。


アジュナ・チャクラ(眉間)に抗えないような力がかかり、ザザザザーと後ろに押されていきます。
眉間の何が押されているのかというと、主体となっている視点が、です。
その力はしばらく、有無を言わせず眉間にかかり続け、だんだんと視点が後ろへ後ろへと押されていきます。
思わず後ろにのけぞってしまうほどの、強い力です。
ひとしきり押された後、その力は、嵐が過ぎ去ったように止みました。
静けさが戻ってきた頭の内部を観察してみると、なんと、いつも眉間にあり、これまでいつも視点がそこから発現していた主体の位置が、後頭部に移動していました。

それから数日たちますが、それまではいつも様々な物事を見ていた主体が、その機能は保ったまま客体化している状態が続いています。
つまり、それまでいつも主体の側だったものを観ているもうひとつの主体が浮かび上がってきて、その視点から物事を見ているという状態です。
いろいろなことがあると、それに対して直接感じてあれこれ思っている意識もあるのですが、それを少し離れて俯瞰しているもうひとつの意識の方が、今までになく強くなってきている、そんな感じです。

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私たち一人ひとりが当たり前のように「私」と感じている”個としての我(自我意識)”と、全てに遍在する”大きな我”。
”個としての我”から自らを解放して、そこに”大きな我”が顕れ出る時、実際にどんな風になるのでしょうか。
わたし自身はこれまでのイメージは、もうそこまで来ると肉体を持っていないだろうとか、もっていたとしても生前解脱のようにごく限られた人にしかもたらされない状態だというものでした。
そして、何か自分が自分でなくなってしまうような不安にも似た感情を覚えていました。

でも。
実際は、そんなに大そうなことでも、難しいことでもないのではないでしょうか。
なぜなら、すでに私たちは、もともと大いなる”いのち”のあらわれなのですから。
”私”という枠を緩めて、その枠から溶け出して、大いなる”いのち”の流れと合流する。
一滴の水が大海に落ちて、海と一滴とが不可分になるように。

大海と不可分になってしまうことで、その一滴が消滅してしまうわけではない。
その大海原と一体になって、ずっとあり続ける。
それと同じように、この意識が、大きな我と合一することでなくなってしまうわけではない。
むしろ、今私たちが普段”意識”と呼んでいる意識が、もっともっと範囲を広げ、すべてのものに明瞭に気づいている意識にまで拡大していくのではないか。

あぁ、そういうことか。
今、書きながら気づきました。
10年以上前からヨーガの師にずっと言われ続けてきた「意識化の範囲の拡大」とは、こういうことなのか。
ヨーガにおいて”個の意識を無くす”と言われることの意味。
それは、実際に無くなってしまうということではなかったんだ。
この限定的な意識の枠を取り外して、どんどん広げていく、ということなのですね。
だから、どんどん意識が清明になり、よりいろんなことに対して明瞭に気づくことができるようになるのですね。

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今日の”わたし”との対話です^^


   感謝と愛をこめて





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by ramram-yoga | 2018-01-04 23:27 | 瞑想