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在り方ありきの発信
しばらく学校に行き渋っていた上の子が、何事もなかったようにまた学校に行き始めました。

ひと段落ついたな・・・と思っていた矢先、今度は私が携わっているとあるコミュニティ内でひと悶着。
そしてそれも、なんとか一件落着したところです。
今まで活動してきたベース自体が揺るがされるような今回の一件でした。



上の子のことも、今回の一件も。
毎日、自分自身が問われる気がしていました。
私はどの立ち位置から、どんな在り方を選ぶのか。



打撃というものは、いつも自分の立ち位置を定めていくだめなのだという感を強くした、今回の一件でした。
大きく揺らぐからこそ、自分がどう在るかについても、確信が深まる。

つまり、どうであれ変わらない自分のスタンスというものが、アクシデントがあるたびにはっきりとしてくるのだということです。



しばらく更新できない間、自分にとって発信とはなんぞやと、考えていました。
そしてそれが、だんだんとはっきりしてきたように思います。


私にとって発信とは、自分の立ち位置を定めていくこと。


発信のプロセスで、自分自身の中にあるまだ形になっていないものが、だんだんと輪郭を持つようになっていく。
それが私の求めているものであって、発信はその手段であり、本来の目的ではなかった。
発信することではっきりとしてくる、自分の在りかたの方が目的だった。


発信というのは外に向けての放射力によって行われますが、その時に発信源の中心がはっきりしていればいるほど、発信がぶれない。
ですが、発信を第一義的にしていると、中心が曖昧になってしまい、発信がブレてしまうというのが、私の実感です。

逆に、どこまでも発信源の中心点を究めていくと、それが結果的に爆発的な放射力となるのだと思います。
中心点ありきの放射力。
在り方ありきの発信。


私が今したいことは、自分自身に深く潜って、自分に集中していくこと。
奥に潜れば潜るほど、そのまた奥が見えてくる。


自分が自分の在り方をどこまで究めることができるのか、ということを掘り下げていきたいと思っています。



愛と感謝をこめて




バッハのパルティータを、グレングールドのピアノで。





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by ramram-yoga | 2019-10-06 23:34 | 最近のいろんなこと
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