Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
”わたし”を観ている
a0118928_06212901.jpg

前回の記事は少し奇妙だったかもしれません。
私も、自分で書いていて、「ヘンなこと書いてるな」と思いました(笑)
でも、そう感じるのですから仕方ありません。
考えて書いているというより、どんどん言葉が出てきてしまって止まらなかったのです…。

記事の最後に「今見ている世界は、まさに私の心そのもの」と書きましたが、そう書いた後から、また今まで感じたことの無かった感覚が突然やってきてしばらく呆然としてしまいました。

私がこれまで外の世界と思って眺めていたのは、私の心そのものだったのでした。
この感覚がやってきた時、子供と寝室にいたのですが、子供はまさに、私そのものだったのだということが分かりました。
”子供”が、私と分離して存在していたのではなかったのです。
子供の中に見ていた純粋さ、それは私の心の中にある純粋さだったのでした。
保育所で友達と喧嘩して悲しい気持ちになっている、その悲しみは私の心の中にあったのでした。
私の目を盗んでおやつを食べている、そのうしろめたさと盗みは、私の心の中にあったのでした。
なんでもかんでも「見て見て」と言う子供から感じた、見てほしいという思いは、私の心の中にあったのでした。
「ちょっと待って」ではなく、その時その時に子供しっかり見るということは、その時その時の私の心をしっかり見るということと同じ事だったのでした。

なんでしょう、この感覚は。
”わたし”が無限に大きく広がり、すべてが”わたし”になってしまいました。

この感覚がやってきた時、聞いていた曲。
大学時代に没頭した、西アフリカの音楽です。
Mamady Keitaという世界的なジャンべ奏者が率いるアフリカン・トラディショナル・バンド「Sewa Kan」の演奏。

西アフリカの音楽を、一言で表現するなら”円環”。
始まりとか終わり、区切りといった概念が、リズムの中にないのです。
リズムを聞いているだけで、既成概念がひっくり返ってしまいます。

この西アフリカの音楽の円環の響きは、私の心の中にあったのでした。
バッハの音楽の調和の響きは、私の心の中にあったのでした。

亡くなった祖母の実在を今でも感じることができるのは、祖母は”わたし”だったからです。
今は亡きヨーガの先代の師匠である、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師様に祈ると、いつも明確なヴィジョンを見せてくださるのは、大使様が”わたし”だったからです。

そうか、わたしは常に、わたしを観ている。
今、ここで。





[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-23 14:18 | music
<< ”わたし”とは何者か 問いを発すれば応答あり >>