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宗教的体験の諸相
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『宗教的経験の諸相(上・下)』ウィリアム・ジェイムズ著

主にキリスト教圏の人達の宗教的体験やそれに基づく生活のあり様について、膨大な資料やインタビュー内容が紹介され、考察されていきます。
中には驚くような体験も。
信仰生活に生涯をささげた人々の心的世界のあり様と相まって、読み進めるごとに意識の深い部分に印象を残すような著書でした。

内容は、ただ単に超常現象を紹介しているに決してとどまりません。
宗教の、そして人間の意識の本質的な部分に迫る洞察の鋭さが、今もなお読み継がれる名著であるゆえんなのでしょう。


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私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目覚めているときの意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔たてられて、それとはまったく違った潜在的ないろいろな形態の意識がある、という結論である。
私たちはこのような形態の意識が存在することに気づかずに生涯を送ることもあろう。
しかし必要な刺激を与えると、一瞬にしてそういう形態の意識がまったく完全な姿で現れてくる。
それは恐らくどこかにその適用と適応の場をもつ明確な型の心的状態なのである。
この普通とは別の形の意識をまったく無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものでありえない。
問題は、そのような意識形態をどうして観察するかである。

――というのは、それは正常意識とは全然つながりがないからである。
けれども、そのような意識は、はっきりした形を備えることはできなくても、人間の態度を決定することができるし、また、その位置を固定することはできなくても、ある領域を開拓することができる。

いずれにしても、そのような意識形態は私たちの実在観が性急に結論を出すことを禁ずるのである。
私自身の経験をふり返ってみても、それらの経験はすべてが相寄って、私が何か形而上学的な意義を認めずにはいられないような種類の洞察に集中するのである。
その基調はきまって和解である。
世界にはさまざまな対立があって、この対立するものの矛盾と葛藤から私たちのあらゆる困難や苦労が生まれてくるのであるが、その世界における対立物がまるで融け合って一体となってしまったかのような気がするのである。
それら対立物は、相対する種として、同一の類に属しているばかりでなく、それらの種のうちの一つ、つまり、より高くより良い種は、それ自身が類であって、かくして、その対立者を吸い取り込んでしまう。(下巻本文より)


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一番衝撃を受けたのは、ウィリアム・ジェイムズが宗教的体験に関する研究にこんなにも手を広げていたということ。
ウィリアム・ジェイムズと言えばプラグマティズム(実用主義)という、その後さまざまな学問において科学的なもののとらえ方の基礎となる考え方を提唱した人であるというのに、この本はいわばその正反対のイメージの内容でした。

演繹的推論と帰納的推論とは別に飛躍的推論ともいえるアブダクションという推論概念を提唱した哲学者のパースと同じクラブに所属し、いろいろな研究や啓蒙を行っていたようですから、彼らは何かその時代を先導していくような天才的な思想家だったのでしょう。
本を通してその世界に触れられることは、ありがたくもあり、とてもエキサイティングです。

早速、ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』も注文しました。

愛と感謝をこめて

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by ramram-yoga | 2018-10-06 01:08 | | Comments(0)
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