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みるということ
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セラピストという仕事をすればするほど、今目の前の人が直面している課題は、私とは無関係なものではないという認識が強くなっていきます。
そして、その人が私の目の前に現れていることに偶然はなくて、私を映す鏡として存在しているように感じています。

私は目の前のその人を通して、実は自分自身をみている。

セラピーの本質を突き詰めていく時、それは究極的には”みる”、”みられる”という行為のように思います。
”みる”というのは、意識の光を当てるということ。
例えば、カウンセリングで困りごとを話す時、話しているのをお聞きしているだけで、解決してしまうことがあります。
それまでは暗みの中にあった問題に意識の光が当てられたことで、その問題が質的に変化していくのです。

また、カウンセリングの経過の中で、相手が変容していこうとする時。
そこで大切なのは、その相手をみている、つまり意識の光を当てることです。
その人は、みられることによって変容していく。
それほど、みるという行為にはすごいものがある。

最近、相手をみているとき、みているのは実は私ではなかったという認識が強まりつつあります。
いわゆる、個としての私がみているのではない。
意識が、私という個人を通して、その人をみている。

ここでいう意識とは、個人の意思とか思考ではなく、根源的普遍的なものを指します。
ヨーガで、アートマンが純粋意識(chaitannya)と呼ばれているように、すべてを包括している普遍的な”それ”とは、まさしく意識なのだと思うようになりました。
だから、私がするべきは、その意識ができるだけ純粋な状態であらわれ出ることができるよう、自分を透明にしておくことだと思っています。

そして、私に起こっていたのは、みるだけではなかった。
同時にみられてもいたのです。
意識が、相手を通して私をみていた。

そうか、私はみられていた。
普遍的な意識から、静かにずっとみられていた。


愛と感謝をこめて



by ramram-yoga | 2018-09-23 00:25 | "わたし”との対話
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