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主観と客観の逆転
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世界観が新たに開け、今まで見えていなかったものが見えることによって、また新たな疑問点が次々と湧いてくる今日この頃です。
”なぜ生きているのか”、”死んだらどうなるのか”といった実存的な問いに対する着地点を、私は一体どこに求めているのかが、はっきりわからなくなってしまいました。
「本当のことを知りたい」と、ずっと思っていましたが、では、事実を知識として知るということで満足するのかというと、必ずしもそうではないことが、わかってきました。
なぜなら、この”私”という存在に対する実存的な問い自体が主観性を帯びたものであり、それは客観的な事実とは本質的に異なるものだからです。
”問い”というもの自体は論理的に、すなわち客観的な枠組みでとらえることのできる種類のものですが、よく考えてみるとそこに必ず好奇心が伴っていることが分かります。
好奇心、あるいは回答を得ることへの渇望や、現状に対する何か不足した感じや耐え難い不安・恐怖などであるかもしれませんが、これらは客観性の範疇ではなく、感性すなわち主観の範疇に入るものだといえます。
そして、その問いに対して回答を得ることで満たされるであろうものもまた、納得感や、喜び、欠乏感からの解放等、主観の範疇に入るものであることが分かります。
ということは、問うことも、それに対する回答を得る目的も、どちらも主観的な範疇の中で生じてくるものなのだということになります。

というようなことを考えていると、今まで求めていたものは客観的であると思っていたものが実は主観的であったのだ、ということがはっきりとしてきました。
客観と主観の逆転ともいうべきでしょうか。
アインシュタインの特殊相対性理論で、ブラックホール付近ではあたかも空間が時間のようにふるまい、両者の立場が全く逆転してしまうそうですが、なぜかそれを思わせるような転換が自分の中で起こっていました(大げさ?)。

この問い自体が、”私”という限定された存在の意識を前提として発せられているものなのですよね。
問いに対する回答を探し回る前に、その問いが生じてくる主体とはそもそも何なのかについて、もっとよくみていく必要がありそうです。
人間の精神そのものがまず、元々自然史的に物質から生命を経て歴史的に形成されてきたものなのですから。
また、主観と客観は区別してとらえることが可能ですが、おそらくその先にはその区別を超えた主客合一の世界があるのだと思います。

でも、私にはまだわかりません。
わかることがゴールなのかも、よくわかりません。
ただ、日々強くなる”問い”から、もう目を背けることができないのです。
そして、不思議なのですが、このような自分の変化と同時に、心は今までになく静かで、頭の中は青空のように澄み渡り、日々歓びが増していっているのも、事実です。



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事実の領域における「このもの」としての今・此処に在る者は瞬間、瞬間に生まれかつ消えゆくものとして本来有限性を脱しない存在者に他ならないが、この全存在者のうちにあって他の存在者たる物質的存在・生物的生命と異なって、人間存在は等しく有限的存在でありながら、独りこの有限性そのものを自覚する存在者である。
今・此処における瞬間的存在としての自己を自覚的に知るものである。
しかし自己の有限性を真に自覚するとは、決してたんに自己自身から起こって来るのではない。
有限を自覚するとは、絶対の自己ならぬ者として超越において自己を見ることに他ならない。
無限なるものに対して始めて有限であり得るのである。
しかも無限なるものはたんに有限に対立することによって無限なるのではない。
自己の内に有限を否定的に映すことによってはじめて真に無限なのである。
このことは言い換えれば、有限なるものは絶対無限なるものの前に自己を無として自覚することによってはじめて、真に有限なることを知るのである。

人間存在は自己の無の内にその存在の理由を有つのである。
自己が生きるとともに死にゆくことにその存在の理由をもつのである。
けれどもそれは先に言ったように、たんなる無なのではない。
絶対の消滅点即絶対の生産点としての空なる場所むしろ空なる反転作用というべきであろう。
世界が生起するとは空の運動であり、空動において世界が成るのである。
すなわち現成するのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

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by ramram-yoga | 2017-05-03 10:00 | ことば・メッセージ
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