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愛着の見直し
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前回の記事(「思考を放っておく」)でも書いた、起こってくる思考を”放っておく”、というやり方を覚えてからというもの、それが面白くて面白くて、暇をみつけてはやってみています。
”放っておく”ことを”やる”、というのは、少しおかしな表現です(笑)
ですが、これまで、それほどまでに無意識的に思考を掴んでいたのですね。

例えば、「あのとき、ああした方がよかったな」と思ったとします。
すると、これまではその思考を引っ掴まえて、”そんなことを思う自分って、まだまだこだわっているなぁ”なんて思いながら、そのような心の反応をしたことについて、地味にネガティブな感情的反応をし、されにいろいろと思いを巡らせていました。
「なんでそんな風に思ったんだろう」とか、「あらあら過去に引きずられてしまってる~!」とか。

でも、放っておくやり方だと、”「あのとき、ああした方がよかったな」っていう思考が今出てきているな~”と、いわば無責任に、まるで他人事のように眺めていることができるのです。
そのような思考が起こってきたことに対する感情的反応が、あまり起こりません。
そして、そのようにニュートラルに眺めていると、その思考は間もなくすーっと行ってしまい、今ここに立ち戻ってくるのです。

こういう視点でみてみると、苦しみというのはどうやら、思考を掴んでいることから生じてきていたようです。
分かっているようで、分かっていなかった。
できているようで、できていなかった。

さて。
それでは今までなぜ、そんなにも思考を引っ掴まえ、フォーカスしてしまっていたのか。
それを改めて考えていたのですが、そこで、これまであまり目を向けようとしてこなかった自分の傾向に目を向けざるを得なくなりました。

それは、自分が”好き”と思うものを追い求める傾向です。
例えば、瞑想中に経験する静かで深い意識状態では、思考の働きがほとんど感じられなくなります。
それは確かに魅力的な意識状態ではありますが、それを追い求めるあまり、そうでない意識状態を知らず知らずのうちに否定的に捉えていたところがあるように思います。

それ以外でも、自分が過去において高揚した体験、感動した体験、やった!と思った体験、アハ体験。
そのような、過去の”よかった”印象(記憶)を握りしめ、それらを知らず知らず再体験したいと追い求める傾向にあったことを認識しました。

私たちは、嫌なものとかシチュエーション、ネガティブな気分など、歓迎しないものについては、どうにかそれらを遠ざける努力をするものです。
しかし、自分が愛着を感じているものについては、意外と無防備。
だって、好きだから。
だって、もっともっと欲しいから。
でも、好きという愛着の感情も、嫌いなものと同じか、時にそれ以上、非常に強い煩悩になりうるのですね。

そう、だから、手放すというのは、ただ単にネガティブな記憶や感情だけではない。
ポジティブな記憶や感情も、同様に手放していく。
正確にいうと、好き嫌い、ネガ・ポジ、といった判断を手放していく。
ただただ、一過性のものとして、眺めて放っておく。

そのためには、”思考は自分のもの”という考えを、まずは横に置いておく必要があります。
空を流れていく雲と同じように、思考を眺めるのです。
雲がどこから来てどこへ行くかなんて、全く私の責任の範疇にはないし、ましてや掴めもしない。
それと同じように、思考に対しても責任を持とうとせず、ゆったりと傍観しておくのです。


*******


”好き”という愛着の感情は、それが強ければ強いほど、苦しみを引き起こす。
それを失うことの苦しみ、実際に失った時の苦しみ、得られなかった時の苦しみ、変化してしまった時の苦しみ。

今まで強力にしがみついていたたくさんの”好き”なものを、再点検するときが、やってきたようです。



愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2018-05-07 23:08 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
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