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思考を放っておく
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先日の記事(どうにかしようとしない)でも書きましたが、湧き出てくる思考を”放っておく”という、今までの私にはない発想がなかなか良くて、繰り返しやってみています。
”放っておく”と思うだけで、フッと気が抜けて笑ってしまい、なんだか楽~になっていくのです。

別にどうこうしなくっても、いいんだ。
放っておけば、いいんだ。

それで初めて気づきました。
今まで、自分の頭の中に沸いて出てくる思考に、責任を持とうとしていたのだ、ということに。
だから、自分の思考を掴み、そして追いかけまわしていたのだなぁ、と。
そしてその責任感は、「思考は自分のもの」と思っていたところから来ていたのだなぁ、と。

そういう意味では、客観視という言葉だけでは、まだ思考を手放すことができていなかったのです。
正確には、客観視できる思考と、どうしても客観視できない思考とがあった。
その点、”放っておく”という言葉では、いとも楽にできてしまったのです、私の場合。
その言葉の持つニュアンスというのは、時に思いもかけないような働きをしてくれるのですね。

さて。
追いかけず、放っておき、観察していると、思考はスーッと流れて行ってしまいました。
まるで、葉っぱが川に流されて行ってしまうように、なんともあっけなく。
頭の中でぐるぐる回って止まらない、ということには、なりません。
思考が頭の中でぐるぐる回る状態というのは、私たちが無理やり思考を引っ掴んで握りしめていることから起こっていることなのだ、ということが分かりました。
今まで分かっていたようでいて分かっていなかったことが、腑に落ちた瞬間でした。

それからというもの、折に触れ、思考を放っておく、ということを繰り返していました。
ふと、あるタイの僧侶の講和を思い出しました。
皆さん一人一人、自分の頭の中に水洗トイレを持っておきましょう、というお話。
どういうことかというと、感情や思考を自分自身の力で流す術を、持っておきましょう、ということです。

今朝、イメージの中で水洗トイレのノブをひねり、自分の頭の中をジャージャー流していた時のこと。
ここ最近ずっとわだかまっていて、こびりついていたこだわりが、流れはじめようとしていることに気づきました。
どうしても、ガンとして譲れなかったこと、これだけは何が何でも守らねばと思っていたことが、ありました。
それが、意外とあっけなく流れようとしているのです。

「え~っ!ちょっとまってぇ~…」

と思いなら、無理に引き留める気にもならず。
そのこびりつきは、ほどなく行ってしまいました。
あんなにしがみついていたのに…、あれはなんだったんだろう。

そして、それらが流れ去った後、ふつふつと、なんともあたたか~いものが湧き出てくるのです。
それは、愛としか言いようのないものでした。
私が思考を引っ掴んで苦しんでもがいている間にも、愛はずっとベースにあって、ずっと私を包んでくれていたのでした。
なぁ~んだ、と、ほっとして、勝手に幻想と対戦していた私に、苦笑いしたのでした。

こうしていつも、私たちは愛の大海原の中にいたことに気づきます。
いくら離れてもまた、私たちが回帰していくところは、愛なんだなぁ。


******


先日読んだ『あなたの世界の終わり』で、エゴをわたしだと思っていることは、実はとても不自然なことなのだ、というくだりがありました。
つまり、思考を自分のものとしているということ自体、非常にエネルギーを消耗しているのだ、と。
そして、わたしの本質がエゴではなく「一(いつ)なるもの」の側にあることに目覚めた時、それまで背負われていた重荷は下り、言いようもない安堵感と開放感がやってくる、と。

今が不自然なら、自然に回帰したい。
今重荷を背負っているなら、重荷を降ろして身軽になりたい。

気づき、手放す。
また気づくたび、手放す。
これを、淡々とやっていく先に、安堵感と開放感があるのですね、きっと^^



愛と感謝をこめて






by ramram-yoga | 2018-05-06 18:44 | 最近のいろんなこと
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