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ゆらぎ
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ブログの更新をあまりしていませんでした。

しばらく、大きく揺さぶりをかけられていました。
揺らぐということ自体に、今まであまりいいイメージを持っていませんでしたが、この“ゆらぎ”は、人が進化していくためには実は必要不可欠なのだと、今回感じました。

今回学んだのは、自分の足で立つ、自分のことに関する決定事項を人に委ねず、自己決定するということ。
つまり、人のせいにせず、自分で責任を負うということ。
自分がした選択の結末を、きちんと引き受けるということ。
まだまだ、自分にはそこが足りなかったということを、突きつけられました。

というより、本当は、自分がしたことの結末は、いつでも引き受けていたことに気づいたのです。
私がとってきた行動の果実は、他の誰でもない私が引き受けなければならなかったのです。

例えば、自分が選択をした結果、もしよくない事態が起こってしまった、ということを避けるために、人に決断を委ねる。
そうやって、人に決めてもらう。
人の評価の中で生き、人の言動によって自分が左右されることもそうです。
すると、歓迎しない事態に陥った時、他人のせいにして、自分は責任回避することができます。
「私が今不幸なのはあの人のせいだ、〇〇のせいだ」と。
でもその代わり、この態度には、自分のことをいつまでも他人任せにし、他人によって自分の状態が決まってしまうという、決定的な弱点があります。
つまるところ、人の不幸というのは、ここに集約されるのではないかと思うのです。

どこまでいっても、自分がどうあるか、なのだなぁと、思いました。


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いつもこれは本当に不思議なのですが、今回のようにある起点に立った時、同じキーワードを持っている人が目の前にあらわれます。
友人や家族というより、患者さんや生徒さんと対するときにそう感じることが多いです。
彼女たち(女性の方が多いので総称してそう呼びます)は、大げさでなく、全存在をかけて私の前にいるので、私も真っ裸になって真剣勝負のつもりで向き合わないと、とてもではないけれど対峙することはできません。
鋭い洞察力を持った彼女たちを目の前に、私もごまかしがきかない。
いのちといのちが激しくこすれ合うかのように、場が緊迫することもあります。
そうすることで、自分の生き方、態度は本当にこれでいいのか?と、いつも問われているような気になります。
そういう意味では、これまで私は患者さんや生徒さんに育てられてきた、といって間違いありません。
同志といってもいいと思います。

まだまだ渦中にいる人、何度這い上がろうとしても突き落とされ、絶望しかけながらも、また這い上がっていく。
そんな彼女たちの純粋さと誠意に、敬意を感じずにはいられません。
そして、もう彼女たちはすでに知っているのではないかな、と思っています。
何を知っているのかというと、自分が向かおうとしている先がどんな世界なのかを、です。
もう、分かっている。
なぜかというと、知らないのに求めることはできないのですから。
知っているから、求めることができるのです。
妥協せずに真摯に自分の納得できるものを求めてやまない、そんな姿は本当に美しい。

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私も妥協せず、自分の求めるものにまっしぐらに向かっていきたいと思います。
有難いことに、以前よりはっきりと道筋が見えています。
前回のブログにも書きましたが、やっぱり、何かに呼ばれている気がします。
意識状態をこまやかにしていくと、一層その”何か”がはっきりと私に迫ってくるのを感じます。
あえて何か、というと、とても精妙な光に。
もしくは、精妙で広大な”意識”とも呼ぶべきものに。

もっともっと、それらをよりはっきりとつかめる状態に、自分をもっていくべく、試行錯誤しています。
キーワードは”浄化”。
自分自身をできるだけ透明にしておくことです。



愛と感謝をこめて







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by ramram-yoga | 2018-04-20 22:30 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
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