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個としての幸せ、ここに極まる
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大そうなタイトルにしてしまいました(笑)
が、さっきふと、この言葉が浮かんできて、妙に納得しました。

今日は幸せなクリスマス・イブでした。
子どもと一緒にケーキを作り、家族とお祝いをしました。
サンタさんからのプレゼントを心待ちにしている子どもの表情を眺めながら、満ち足りた気分でいます。
家庭生活においてこれ以上何も求めることは、もうありません。

今年は、幸せや豊かさといったものを、思う存分受け取った一年でした。
不足感や欠乏感から動くのではなく、幸せで満たされることを受け入れ、選択し続けました。
私たちは目の前の現実に対して無力で受動的ではなく、実は私たちの意識が現実を創り出しているのだということを、感じさせられました。
そして今、私は幸せで満ちたりています。
これは、「~~だから幸せ」「○○だから不幸」といった、条件付きの幸せではありません。
幸せを選択すると、どんな状況であれ、その人は幸せになることができると思っています。
幸せを選択したその瞬間から、幸せへの道がひらけていくのです。



その一方で、個人としての幸せとはまた違う幸せというものが、その存在感を大きくしはじめています。
そこはとても静かで、光と歓喜に満ちた世界が、広がっていきます。
普段世俗的・物質的な豊かさや幸福にフォーカスしているとなかなか感じられないような、精妙な幸福。

でもよく考えてみると、この幸福は、そういえば以前から感じ、求め続けていたものでもありました。
しかし以前とは、出発点が違います。
以前は、欠乏感から出発し、今自分にはないものをどこかに求めるような感覚を持っていました。
今は違います。
私はすでに、満たされているということを知っています。
そして、その精妙な幸福は、フォーカスのしどころを変えるとすぐにでも一体化できるような、実は私の一番近くにあるようなものなのではないかと思うのです。


私は今までずっと、この世界のたくさんのものに魅了され続けてきました。
日々目にする風景、木々や花々、日々接する人たち。
この世界が本当に好きで好きで、時々この愛おしい気持ちのもって行きどころが分からなくなるなるほどに、気持ちを抑えきれなくなりそうになることがありました。
でも、よくよく観察してみると、その対象物そのものに愛おしさを感じていたのではなかったのだ、ということが分かってきました。
私が絶えず引き付けられ、愛おしさを感じていたのは、それら目に映る対象物の背後に遍在している生命原理だったのでした。
ヨーガではこのことを”ブラフマン”と呼びます。
私はここでは、”いのち”と呼びたいと思います。

その、もともと一つの”いのち”が、個々の生命という様々な様相で、この現象世界に立ちあらわれている。
もう、私はこの個々の生命それぞれにではなく、ダイレクトにこの”いのち”を求めたい。
求めるという言い方も、語弊があるかもしれません。
なぜなら、私自身も、この”いのち”のひとつのあらわれなのですから。


個としての意思から大いなる”いのち”の意思へ。
個としての幸福から、大いなる”いのち”の至福へ。
個としての人生における楽しみや快楽、満足も、大いなる”いのち”の至高の歓びを前にすると、次第にその力を失っていくのではないか。
そんな気がしています。

来年は、個としての我から、大いなる”いのち”に自分のアイデンティティを転換させていく一年となりそうです。
そんなに難しいことでは、きっとありません。
なぜなら、私たちはすでに、その大いなる”いのち”そのものなのですから。
そこに還っていきさえすれば、いいのです。





それではみなさん、素敵なクリスマスを162.png


  愛と感謝をこめて




by ramram-yoga | 2017-12-24 20:09 | 死生観
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