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幸せな神様
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この土日は、上智大学で人体科学会第27回大会が行われ、参加・発表してきました。
この学会は尊敬する素敵な先生方がたくさん集まる大好きな学会で、今回も本当に収穫の大きな会でした。
台風が心配だったのでお昼すぎ早々に東京を出ましたが、京都まで帰ったちょうどその時に在来線が全線ストップ。
家族が駅に迎えに来てくれて、無事に帰宅することができました。


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さて、今日は早く寝たいところですが、最近思っていることを言葉にしたくって、パソコンに向かっています。

この一週間余り、ほとんど動き回っていて息をつく間もなかったのですが、不思議としんどくなりません。
やる事が山積み、でもそれをする時間がない・・。
でも、憂鬱になったり、混乱したりはしないのです。
何が違うのかな…と考えましたが、思い当たるのはひとつ。
自分の心の状態です。

私は今、毎日が幸せで満ちたりています。
そして、1日1日と、その幸せ感が増していくのです。
人の思いやりに対する感度が、何十倍も上がったと思います。
それまで何気なく感じていた、例えばコンビニでスーパーで店員さんが丁寧に接客をしてくれた、エレベーターでドアを開けて待っていてくれた、等の人の親切を受ける度に、胸がいっぱいになります。
歩いているだけで、幸せがいっぱいになって、涙が出てくることもあります。

私は今まで、人の心は放っておくと、自然とネガティブな方向にいってしまうのだと思っていました。
だから、繰り返し繰り返し自分の心を客観視して、ネガティブな思考回路の軌道修正をしていかなければならない、と。
確かにそれも、一理あるでしょう。
でも、本当はそうではない。
むしろ、正反対です。
きっと、人というのは放っておくと、幸せにしかなりようがないのです。
そして、満たされているのです、すでに。
並大抵の満たされ具合では、ありません。
充満して満ち満ちて、溢れて止まらなくなるくらいの、満ち足り方です。
今、幸せでないとしたら、満ち足りていないとしたら、それは自分が閉ざしているからです。

もう一つ。
生きているということは、何かを失っていくことではない、ということ。
生まれた時から死に向かっていると憂いたり、大切な人やものを無くしたと絶望したりする必要もないのだと思います。
なぜなら、それは、人間の限定された理性で現象を捉え、そして、固定化した視点で物事を捉えているからです。
私自身は小さい頃からずっと、諸行無常のこの世界に対する”憂い”のような感情を持っていました。
今はそのような情感はありません。
ある時を境に、無くなってしまいました。
情感というのは、変化します。
ある現象に対してその人が付け加えた意味づけの世界に生じてくるものですから。
そして情感は主体ではありません、客体です。

失っていくという気がしないのです。
特に、死ぬことに対しての憂いの感情というのには、強烈なものがありました。
でも、もうそれも、あまり感じることはありません。
自分が無くなる、という気がしないのです。
もちろん、個としての”私”は、いずれ死ぬでしょう。
でも、そんなこと言うのなら、”私”はたった35年前にはいなかったではないですか。
そんなちっぽけな限定された”私”が、私の本質なのでしょうか。
それは、違うはずです。
むしろ、どんどん得て満たされていく…というか、私はいつもすでに満たされていて、完全なのだということを、思い出していく過程にいることに気づくのです。


そんな実感が深まっていくと共に、夫がとても神々しく思えてくるということがありました。
これらは、同時でした。
夫は、私がこんなに休みの日に家を空けまくっても、嫌な顔をたったの一度もしたことがありません。
いつも「いいよ」と機嫌よく送り出してくれ、子どもの面倒を見てくれ、家事もすべてやってくれます。
出会った頃、「一途にひとりの人を思い続けることと、思いやりを絶やさないことには自信があります」と言っていて、その時にはそんなに気にも留めず、へぇそんな人がいるんだなと思っていたのですが、本当にその通りのことをしてくれています。
夫があまりに私に対していろいろなことをしてくれることに、以前は「悪いなぁ」負い目を感じていました。
でも、今はその好意を存分に受け取って、喜んで、幸せでいることにしています。
遠慮するよりそうした方が、お互いがとっても幸せなのです。
そしてつくづく、あぁ、夫って、私の神様だなぁと思いました。
そんなことをはっきりと意識した今日、6歳の息子が突然、私にびっくりするようなことを言いだしました。



 息子「ねぇねぇ、僕が神様だって、知ってる?」

 私「?!」


突然の発言に少し驚きながらも、本当にそうだなと思ったので同意しました。



 私「うん。知ってるよ。」

 息子「神様がもう一人いるって、知ってる?それはねお父さんなんだよ。」

 私「うん、そうだね。知ってるよ。」

 息子「この家にもう一人神様がいるよ。それはね、お母さんだよ。」

 私「そうだね。この家には、神様が3人いるね。」

 息子「うん、そうだよ。」



…そうか。
人の内に神性を見出すということは、そういうことなのか。
で、思いました。

ちょっと、まてよ。
神様って、本当は一体、何者⁈
”わたし”って一体、誰?

このような死生観やアイデンティティに関する問いには直接の回答はありません。
なぜなら、問いに答える術がないのです。
問いというのは、分離や限定を前提にした世界からしか、出てこないのですから。
でも、求めている人には、問いへの直接の答えがもたらされない代わりに、世界観の広がりがもたらされます。
視点が変わり、価値観が変わります。
そして、問いそのものが変容していきます。
終着点があるとするなら、そこにはきっと問いへの回答はありません。
問いそのものが生じないのです、きっと。
そこは完全に満ちたりているのですから。


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今晩は、京都駅まで雨の中迎えに来てくれた夫と息子と3人で、回転寿司へ。
写真は最後にチョコレートケーキを幸せそうにほおばる小さな神様です^^
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愛と感謝をこめて



by ramram-yoga | 2017-10-23 00:41 | 最近のいろんなこと
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