私は、誰?
ヨーガでは、aham asmi (私は…である)という自我意識を生じさせるのは ahamkara(我執)という内的心理器官であるとされています。
この ahamkara は自己の本質ではないのだと、ヨーガで学び、何度も確認して理解していたつもりでした。
なのに、これまでずっとずっと、自我意識本位で物事を見聞きしていた…。
数日前に、視点が突然ガラッと変わる体験をして、そのことに気付きました。
自分の心臓が鼓動する大元である chaitanya (純粋意識)に向けて、ひたすらマントラを唱えながら瞑想をしていた時のことでした。
私たちは、「私」という個人が他の生命と分離して存在しているということに、何の疑いも持たず暮らしています。
しかし、それが、自分の想念が作り上げた幻想だったとしたら?
常に欠乏感を持ち、到達したいと渇望しながら終わりのない探求を続け、個の意識を強め続けることにならないだろうか。
逆に、「こうありたい」「よりよく変化したい」という想いを手ばなし、個の意識を弱めていく先に広がる世界に、行ってみたい。
力を緩め、委ねて、任せきる。
あなたの源を探し求めなさい。「私」という想念が湧き上がってくるところを発見しなさい。どんなものをわれわれはより確かだと思うことができますか、またわれわれの真我よりいっそう確かなものを知ることができますか。これは直接的な経験であり、それ以上説明することができません。
もし今の「私」が消え去ると、心はそれが神話に過ぎないということがわかります。残っているものが純粋な真我です。深い眠りの中では真我が身体や世界を知覚することなしに存在しており、そして幸福が君臨しています。
『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話―』より