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対人援助学の可能性
『対人援助学の可能性』
―「助ける科学」の創造と展開―
望月昭・サトウツタヤ・中村正・武藤崇 編

“対人援助”という言葉は知っていましたが、「対人援助学」という一つの学問として、ここまで考察が深められていたとは、知りませんでした。


(本文より)
対人援助学は、個別の直接的支援作業に始まり、その課題解決について、いわゆる医療モデル的に当事者の属性に帰したり、また社会体制や制度を“漠然と”批評するような社会モデルでもない。
個別の支援の作業過程についての作業事実の積み重ねから、その当事者に寄り添う形で、必要な環境設定を社会に向けて要請する「援護」(アドボカシー)を念頭においた新しい表現形式の追求なのである。


つまり、対人援助学には、臨床心理学でいうところの各学派や各種法のような具体的な援助理論や援助手法が提示される種類のものではなく、医療臨床・心理臨床・社会臨床において生じる援助のあり方や援助する側の姿勢について包括的な視点から論じられる学問であるということです。

対人援助学においては、“援助される側”が「客観的に」「外側から」眺められる対象なのではなく、絶えず“援助する側”と相互的に影響を及ぼし、時に“援助する側”と“される側”が入れ替わってしまうような状態をも範疇に入れられています。

でも、本当にそうだなぁと思います。
心という実態の捉えにくいものを扱う心理臨床の現場においても、最近は実証科学的な視点が求められますが、どこまでいっても自然科学で得られるような客観性を貫くことは、難しい。
人の心の変容は、セラピストとクライアントの関係性の中でなされるものであるし、そこには当然、きっと過去に多少の傷ついた経験をもち、よりよく生きようとする生身の人間としてのセラピストがいるのだから。

セラピーの過程において変容していくのは、クライアントだけではない。
セラピストもクライアントからの影響を大きく受け、変容していく。
願わくば、成長の方向へ。


もうひとつ、印象に残った言葉を。

・・・専門性を否定するものではないが、極度の細分化された専門性は、生きている人を切り刻み、サービスの対象とする部分を肥大化して見せる危険性がある。・・・


ドキッとしました。
視野の狭さというのは、目の前のケアを必要としている人を見失い、もしかして自己の保身や満足の方向へ向かっていくときに生じてくるものなのかもしれません。
常に心を柔軟に、視野を広く、目覚めた状態でいたいと思います。
by ramram-yoga | 2013-08-27 20:13 |
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