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今ここに在るということ
昨日の午後、ふと気づくと憂うつな気分になっていた。


そこで、ゆったりとソファに座り、生じてきている憂うつな感じに意識を向けてみることにした。
憂うつの中に入って浸り、じっくり味わってみる。

憂うつを嫌ったりごまかそうとするのではなく、親しみを持って関心を向け、味わってみようという態度をとるとき、すでにそれは憂うつではなくなっている。


憂うつな感じというのは、心への気づきが鈍くなっている時に生じるものだと、今では理解している。


**********


過去の私は、憂うつになるべきではないと考えていた。
憂うつを否定し、避けようとしていたので、そのの正体をよく理解しないまま、感じないようにしていたと思う。

でもその結果、憂うつは無くなるところかどんどん大きくなり、それに翻弄され、コントロール感覚を失ってしまうまでになってしまっていた。
そして長い間、そのコントロールできない”何か”を、怖いと感じていた。


本当は、見ないように背を向けていたその”何か”にこそ意識を向け、よく観察してみればよかったんだなぁと、今になって思う。




自分に生じてくるネガティブな感情を観察している中で、結局私は何を一番譲りたくないのかを繰り返し考えていた。
そしてそれは、まさに今ここに存在している、ということへの気づきであるということがはっきりしてきた。

反対に、今ここにいるということへの気づきを失い、今に自己が不在であることを、私はもうやめていきたいと思う。
もう二度と、今を見失いないながら生きるということを、したくない。


まだまだ、気づきが鈍ることはある。
だけど今は、その状態に陥りそうになった時、もしくは陥ってしまった時に、そんな自分に気づき、今ここに立ち戻ることができるという感覚があり、その術も知っている。






気づきという行為は、深めれば深めるほど奥深い。
気づきは主体的な感覚を伴った行為であり、今この時を生きている自分という存在の主人は自分自身であるという決意表明である。

私は他の何でもなく、これをこそ求めていたのだ、と。



何かを成し遂げることではなく、毎瞬今ここにいることに気づくこと。
未来でもなく過去でもない、まさに今ここに在り、それを充実させていくということ。


その感覚を長い間、後回しにしてきたのだと思う。
人生で成し遂げたいことに向かっていくことに、コミットしようとするあまり。


でも今、はっきり言えることは、今ここへの気づきをないがしろにしてまで、やるべきことは何もなかったのだ、ということ。


そしてこれは、周りの何にも依存しない。
周りがどうであれ、私が気づきを失いさえしなければ、常に立ち戻ることが可能なのだ。


わたしが、まさに今ここに実在しているという真実に。




愛と感謝をこめて




ショパンの舟歌。
アシュケナージのピアノで。








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# by ramram-yoga | 2019-10-12 16:25 | 最近のいろんなこと
存在の原点
今月から段上公民館クラスのレッスンに復帰しました。
産前産後で4か月間お休みをいただいていました。


復帰当日の朝、起きた時からウキウキしていることに気がついて、自分は本当にヨーガのレッスンが好きなんだなぁと、改めて思いました。

レッスンの翌日、筋肉痛になりました(笑)
自分のやるレッスンで、当の本人が筋肉痛になるとはね・・・。
日々の体へのケアの積み重ねって、大きいです。


*************



この産休の間、今後の自分の方向性について、繰り返し考えていました。
私はこれから何を指針にして活動をしていくのか。



そんな中、日々ひたすら、赤ちゃんのお世話をしながら思ったことがあります。
求められることに応じる、それが存在の原点であり、指針にするとすればこれ以外に無いのでははないかと。

赤ちゃんは絶対的に、自分の命を私に預けている。
必死で私のおっぱいを吸う赤ちゃんは、そうすることで生命を存続させていく。

その一方で、お世話する私の方は、求められることによって、今ここに存在しているという事が際立っていく。
赤ちゃんがいることによって、私の中にあるものが現れ出る。



この感覚だな、と思いました。


求められ、それに応じる。
そうすることで存在が際立ち、いのちが展開していく。


求められたことに対応する、ということは、その人が内側に秘めているものが、そこからひらいていく、ということ。
もっというと、そういった自分以外との関わりの中でしか、自分はあらわれてこない。


個としての生命体は、それ以外のものに完全に依存してしか存在し得ない。
逆説的であるけれど。



私は何にどんな風に求められているのか。
それを意識してみると、ものごとがシンプルに見えてくる。


何かの基準に合わせるのでもなければ、誰かのおめがねにかなうように背伸びするのでもない。
ありのままの私で、かざらずにいたときに、その私めがけて向かってくるものもまたはっきりとしてくる。
そこに対応していく。
存在をかけて。


そうすることで、自分の内側から何が展開していくのか。
それが、楽しみでもある。


私にとって、ヨーガのクラスはその大切な場のひとつになっています。



愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2019-10-10 23:07 | 最近のいろんなこと
わたしは今ここにいる
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最近、日々感じていること。


以前より、目に映るものの輪郭がはっきりとしてきたように感じる。
それぞれが、いきいきとしたみずみずしい躍動感にあふれている。


日々出会う色々な出来事。
テレビのニュースやワイドショーで話題になる事件、問題。
SNSなどで繰り広げられている様々な日常や動向。


それらからいろいろと感じる自分もいるのだけれど。
でもその一方で"どうであれ、私は他のどこでもなく、今ここにいる”という感覚がはっきりとある。


「わたしは今ここにいる」



ヨーガでわたしたちの本性を表す言葉にこんな表現があります。

サット(実在)・チット(純粋意識)・アーナンダ(至福)



この中のひとつ、サット(実在)。
今まであまりピンと来ていなかったこの感覚が、日に日に深まっていくように感じています。





わたしは

過去でも未来でもなく、今ここにいる。

ここではないどこかではなく、今ここにいる。





A Bach Book for Harriet Cohen
ラローチャのピアノで。





# by ramram-yoga | 2019-10-09 15:51 | 最近のいろんなこと
在り方ありきの発信
しばらく学校に行き渋っていた上の子が、何事もなかったようにまた学校に行き始めました。

ひと段落ついたな・・・と思っていた矢先、今度は私が携わっているとあるコミュニティ内でひと悶着。
そしてそれも、なんとか一件落着したところです。
今まで活動してきたベース自体が揺るがされるような今回の一件でした。



上の子のことも、今回の一件も。
毎日、自分自身が問われる気がしていました。
私はどの立ち位置から、どんな在り方を選ぶのか。



打撃というものは、いつも自分の立ち位置を定めていくだめなのだという感を強くした、今回の一件でした。
大きく揺らぐからこそ、自分がどう在るかについても、確信が深まる。

つまり、どうであれ変わらない自分のスタンスというものが、アクシデントがあるたびにはっきりとしてくるのだということです。



しばらく更新できない間、自分にとって発信とはなんぞやと、考えていました。
そしてそれが、だんだんとはっきりしてきたように思います。


私にとって発信とは、自分の立ち位置を定めていくこと。


発信のプロセスで、自分自身の中にあるまだ形になっていないものが、だんだんと輪郭を持つようになっていく。
それが私の求めているものであって、発信はその手段であり、本来の目的ではなかった。
発信することではっきりとしてくる、自分の在りかたの方が目的だった。


発信というのは外に向けての放射力によって行われますが、その時に発信源の中心がはっきりしていればいるほど、発信がぶれない。
ですが、発信を第一義的にしていると、中心が曖昧になってしまい、発信がブレてしまうというのが、私の実感です。

逆に、どこまでも発信源の中心点を究めていくと、それが結果的に爆発的な放射力となるのだと思います。
中心点ありきの放射力。
在り方ありきの発信。


私が今したいことは、自分自身に深く潜って、自分に集中していくこと。
奥に潜れば潜るほど、そのまた奥が見えてくる。


自分が自分の在り方をどこまで究めることができるのか、ということを掘り下げていきたいと思っています。



愛と感謝をこめて




バッハのパルティータを、グレングールドのピアノで。





ウェブサイトはこちら
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# by ramram-yoga | 2019-10-06 23:34 | 最近のいろんなこと
どうであれ
前回の投稿から2週間以上も空いてしまいました。

結局息子は、あれから1週間学校を休み、翌週から通い始めました。

毎朝「今日は行けるかな?」と、様子を見ていますが、やっぱりだめ。
それを繰り返しながら、本当にいろんなことを考えました。



このまま学校に行かなくなったら?
この子の勉強は?
この子の将来は?
社会とのつながりは?
私の仕事復帰は?


そして毎回、最終的にたどりつく結論がありました。
それは、どうなったとしても、それを引き受けていくということ。
そして、どんな状況であれ、いつでも自分の心の状態は自分で選択できるのだということ。
日々を楽しむことができるということ。


歓迎しない出来事に遭遇したときに
「あぁこれはいつも自分の覚悟が問われているんだぁ」
と感じました。

それと同時に、人のあたたかさ、仲間の大切さを有難く思いました。

学校を休んだ時、担任の先生が夕方訪問してくれました。
先生は息子の顔を見るなり玄関にしゃがみこんで、息子と目線をしっかり合わせ、手を握って
どんなことがあっても息子のことが大好きだと言ってくれました。
先生が帰った後、息子は文字通り水を得た魚のように、からだ中に元気をみなぎらせて、家の中を飛んだり跳ねたりしていました。


1週間ぶりに課外授業に一緒に顔を出すと、クラスメイトと先生が息子の名前を叫びながら走り寄ってきてくれました。
それを見て、照れくさそうに、でも嬉しそうに、その輪の中に入っていった息子。
次の日から、学校に行くことができるようになりました。


登校渋りはまだ続いていて
今は車で送り迎えしています。
私も今はしっかりそんな息子に対応しようと思っています。


もう大分お兄ちゃんになったといっても、まだ小学2年生。
まだまだこれからたくさんたくさん手をかけられるのだと思うと、それが有難くも感じます。


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下の子は3か月になりました。

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元気いっぱい。



お兄ちゃんが学校に行けるようになったら、今度は下の子が日中寝なくなってしまいまして・・・
YouTube配信「こころのレッスン」の更新は少し遠のきそうです。

リクエストあれば、おっしゃってくださいね^^



愛と感謝をこめて

# by ramram-yoga | 2019-09-24 16:17 | 出産・子育て