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情報の進化と”無”の概念
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先々週から、京都大学の広井先生の「現代社会論演習」の講義の聴講をさせていただいています。
現代において死生観というものを突き詰めて考える時、社会的な視点無しには本当の意味で扱うことができないと先生に教えていただき、新たな世界が開けつつあります。

今回は、生物が進化していく上で情報処理がどのような進化を遂げてきたか、ということが話題の一つとなりました。
進化の過程において、両生類のあたりまでは遺伝情報のみで済んでいた情報処理が、哺乳類以上になると脳情報を必要とするようになり、さらに現代はデジタル情報に頼るまで拡大してきている。
それでは今後はどうなるのか?
以前の記事で触れたように情報技術の拡大の方向に”離陸”するのか、それとも身体性、場所性、ローカル性といった方向に”着陸”するのか。
しかし、”離陸”すなわち情報の拡大といった、”有”をどんどん大きくしていく方向性は、もう限界にきているのではないか。
そうではなく、身体性、場所性、ローカル性といったような”着地”に向かっていくのではないか。
講義中はそういった議論になりました。

そしてそこから議論のターゲットは”無”というものについてへ展開していきました。
そもそも無とは何か。
宇宙物理学等でも最近の関心は無へと向かっていて、科学的に”無”は共通了解可能なものとなるのではないか。
一方で、”無”とは、人間の知性で把握できるものなのか。
しかし、”無”という概念を人間が作り出し、名付けた以上、人間は何か本質的に”無”というものを理解していることが前提となっているのではないか。
仏教における”無”について。

これらの議論に結論が出たわけではありません。
でも、これら”無”についての議論は、最近毎回のようにブログ記事に書いているように、私にとって今最も関心のある話題で、このことを正面切って議論し合える場に居合わせることができたことを嬉しく思いました。
そして、最近感じていた生と死に対する空虚感と恐れは、孤独感が大きくかかわっていたのかもしれないと思いました。

人間は、生きて死ぬ存在です。
死ぬことに気づいていようと、気づかないでいようと、死ぬことを受け入れていようが、全く受け入れられないでいようが、死ぬ時になったら死ぬというのが人間の宿命です。

でも。
問いがあるのなら、わかったふりをせずに、ごまかさずに、その回答を求めること。
頭でのみの理解では、わかったことになっていない。
自分が心の底から納得し、体得するまで、その問いをやめないこと。
そして、必ず回答が得られると、信じて疑わないこと。

なぜそう思うかというと、率直に問い始めた時から、どんどんと新しく世界が開けていくからです。
まるで何かが導いてくれているかのようです。


(写真は、大学構内から見上げた今日の空です。)





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# by ramram-yoga | 2017-05-17 20:19 | 社会的視点 | Comments(0)
禅病
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生まれた時からずっと、”私”という自我意識を主体として世界観を組み立ててきて、それを疑いもしていませんでした。
以前からヨーガでahamkara(自我意識)は被観照者、つまり客体だと学んでいましたが、それが体験として分かったのはつい最近のことです。
それがひっくり返ってしまった今、毎日のように、新鮮な驚きの毎日を送っています。

ここ数日間、考えれば考えるほど、この生きている世界が虚栄に満ちて見えてきて、日に日に空虚な感じに襲われるようになってきていました。
自我意識を前提とした世界観がガラガラと崩壊し、何もかもが頼りどころのないように思えてきて、途方に暮れてしまいました。
その感覚がピークに達した一昨日、非二元(ノンデュアリティ)に詳しい 親友のお母さま に相談したところ、それは禅病の一種ではないか、とのこと。

※非二元…直訳は「2つではない」。非二元によれば、主体と客体を前提とする二元論的な世界は幻想である。

一瞥体験(すべては一つの表れという体験)をした後、自我意識に戻り、その自我意識で世界を見るとそのような捉え方になってしまう、とのこと。
「途方に暮れ、無力感に襲われているのは誰ですか」と問われ、はっとしましたが、それも自我意識なのですよね。
観念的に頭で考えすぎると、このような状態に陥ってしまうようです。
あぁ難しい。
こういう事の追求は、一人でやっていると袋小路に入ってしまうので、先行く導き手が必要だと感じました。

この、理性で何もかもを理解してしまおうとする傾向自体を、見直す必要がありそうです。
理性は理性自体を、本当の意味で客体化することはできないし、理性を包含し超越しているものを理解することもできないのですから。
ならば、もっと別の”何か”で、真実を悟る必要があります。
それは何か。
分かったつもりをやめて、求め続けていきたいと思います。

******

ここ数日バタバタとしていましたが、今朝は少しゆっくりできたので、布団を干して部屋を片付けて掃除をしていました。
そうすると、自分自身も整っていく。
ちょうど自然農をしている知り合いから野菜が届き、水で丁寧に泥を落として料理をする。
生命力いっぱいの青々とした野菜に触れ、淡々と手を動かして生きるための動作をする。
観念から離れ、動作に集中している時、”私”という意識も薄れ、心が静かになっていく。

「真実は、生活の只中にあり」 森信三



(写真は、先日息子のボーイスカウトの活動に同行し、武田尾廃線を歩いた時に撮ったものです。)


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# by ramram-yoga | 2017-05-16 10:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
社会経済のパラダイム・シフトと日本人の感性
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一昨日は先々週に引き続き、広井良典先生の授業を聴講させていただくため、先生が教鞭をとられる京都大学へ。
ここで、死生観を社会経済の枠組みから包括的に捉えなおすという今まで持たなかった視点をいただき、新たな世界が開けてきています。

今回のテーマは、AI(人工知能)すなわちテクノロジーが、今後どのように人間に影響を及ぼしているのかについて、『人類の未来』という書籍の「シンギュラリティは本当に近いのか?」という章を題材にして検討していきました。
この章の著者はレニー・カーツワイルという人工知能研究の世界的権威ですが、カーツワイルによるとAIは、映画『ターミネーター』のような人間と敵対する関係性の中で発展していくのではなく、AIが人間の中に組み込まれていき、人間はAIすなわちテクノロジーと一体化していくというのです。

テクノロジーと人間が一体化した先には何があるのか、という論点については、カーツワイルははっきりと「進化には目的がある」と述べています。
そしてそれは、「超越性(transcendence)を高めて、情報の中から何か超越的なものを生み出す、昇華するということです」と。
私自身はそれを読んだ時、何でも情報という枠組みでとらえようとするカーツワイルが、価値観とか指向性といったような範疇に収まるであろう”超越性”という言葉を使ったことを不思議に感じました。
後で広井先生の説明を聞いて納得したのですが、カーツワイルはイスラエル生まれのユダヤ系で、自然に対する超越や支配といった態度に親和性があるということでした。
ということはつまり、AIが今後発展していくとしても、その方向性には、AIを開発している人の指向や価値観がどうしても反映されてしまうわけであり、その意味でどうしても、進化の範囲は限定的にならざるを得ないのではないかと思いました。

また、物質(17世紀)→エネルギー(19世紀)→情報(現代)と世界経済のパラダイム・シフトが起こってきた中で、これからの時代はどのようなパラダイムなのか。
カーツワイルのように、”有”をどんどん拡大していく指向性に対し、”無”をどのように捉えるのか。
際限なく発展していくという発想は、地球の資源が有限であるという前提を忘れてしまってはいないか。
またそこには、適度に・調和をはかりながら、という感覚が欠如していないか。
これらの議論は、”無”とか”和”といった、日本人独特の感性(これも指向性でしょうか)であるからこそ持てる視点から出てくるのだということは、新たな発見でした。

授業に参加し始めて、今までの自分が見ていた世界は限定的だったことに気づかされます。
いつも新しい視点や価値観に心を開いておくことの大切さと、それこそが何かを追求していく上での真摯な態度であるということを感じています。






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# by ramram-yoga | 2017-05-12 10:12 | 社会的視点 | Comments(0)
「気」の死生観
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またまた、運命的な本との出合いがありました。
ずっと自分の根底にあった、一度しかない自分の生命に関する悲哀や恐怖が、一挙に逆転して客体化され、なんだか訳もないのに愉しく、心から安心するような感覚をもたらしてくれました。
先日の記事でも触れましたが、あの客観と主観の逆転はあながち間違っていなかったようです。
ちょっと言葉遊びのようですが、あそこで述べた主観というものこそ、観られるもの(つまり客体)だったのです。
悲哀も恐怖も、自分の心が作り出したもの。
なぜ生きているかという問い自体も、自分の心が作り出したもの。
問いに回答をもたらしたいという欠乏感も、自分の心が作り出したもの。
そして、そもそもそれらを作り出している自分の心そのものが、客体だったのです。
主体は別のところにある…というより、主体の表現形態として、”私”が存る。
これが西田哲学でいうところの、”述語的”ということなのでしょうか。

ここまで来た時に、自分という存在が無になってしまうということに対する恐れが、起こらなくなってしまいました。
なぜなら、それは本質的なものと無関係だからです。
大いなるいのちが作り出した小さな客体の中で起こっていることだからです。
もしかしたらまた、恐れるのかもしれませんし、今たどり着いた境地にもしかしたら間違いがあるのかもしれません。
でも、それでもいいのです。
間違ってたら、また新たな境地を見つけ出せばいいのですから。

この『「気」の死生観』は、河野十全という方が93歳の時に書かれた著書です。
私はこの方の死生観が、一番しっくりきました。
人間には死後の世界や天国や地獄、輪廻転生など、いろいろなものを想定する豊かな世界観があります。
実際に、私の息子も私のお腹に入る前は天国で黄金色の神様と一緒にいたみたいですから。
私自身も、死後の魂の存在をはっきりと感じたことは、これまでに何度かあります。
でも、”時間”が客体であるという認識に立った時、これら死後の世界は絶対的というよりは、フォーカスすればあるし、しなければないというような類の、何か相対的な性質を帯びたものになってしまうような気がしています。
このあたりのことは、私にも、まだよくわかりません。

では、真理はどこにあるのか。
それは、今ここで起こっていることを、よくよく感じてみることから始まるのではないでしょうか。
生まれた時から一時も休まずに動いているこの心臓は、誰が動かしているのでしょう。
呼吸という作用は、いったいどこから起こってくるのでしょう。
考えてみると、私たちが今ここに生きているといことは、本当に不思議です。
このことを感じた時、生きているのではなく、生かされているのだということに、本当の意味で気づきます。
自分の意志とは無関係に、何か絶対的なものに支えられ、”私”という存在が、ここにある。
これだけは、確かな真実です。


***********


生に徹すれば、死の恐怖はなくなってしまう。
しかし、死をも一応の計算に入れると、その生がより楽しく、尊いものになってくるのである。
これは、生死一如の原則を知ればよくわかる。
生と死というものは、一続きのもので、境はない。

生死一如という言葉は、仏教や悟りの人だけがいう言葉ではない。
生きているということと、死んでいくということは、一続きのものであるから、いとうべきことでもなく、不安もなく、不吉もなく、むしろ喜びであろう。

そういう悟りの境地に至れば、人生は生きているうち、非常に楽しいものとなる。
老人の心境も、いつ死んでもよいという安心立命が得られれば、生きているということがどれほど楽しくなるか。
生と死というものが本当にわかれば、生も楽しく、死もまた楽しい。
心頭を滅却すれば火もまた涼し、という境地と同じである。

私たち人間は、一日一日に生き一日ずつ死んでいるのである。
刻々にである。
人生には誕生と死があるが、実際は毎日に生きて、毎日死んで、一生涯を生き続け、死に続けているのである。
生と死は、今の中で一如同時に行われているのであるから、今を平凡に過ごしてはならぬ。

            河野十全著『「気」の死生観』まえがきより
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# by ramram-yoga | 2017-05-09 11:31 | ことば・メッセージ | Comments(0)
Scott Ross のバッハ
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音楽の評論ができるほどいろんな音楽を知っているわけではないのですが、ただただバッハの音楽が好きで、惹かれ続けています。
最近は特に、気づきの深まりと共に、いつもバッハの音楽が流れています。
人間的・世俗的なところが無くて、天空に響くようなメロディーで一貫されています。

最近好きで毎日聴いているのは、アメリカのチェンバロ奏者スコット・ロスのバッハ。
「瞬間的な音楽の霊感」を追求した演奏家。

冴え渡る高度な技巧を有していながら、奇をてらった表現はほとんどなく、端正な演奏を良しとしていた。
一方で、チェンバロ演奏にしばしば見られるような学問的興味に傾いた演奏様式とも一線を画しており、生き生きとしたリズムや和声によって音楽の本質に迫ろうとする特徴がある。(wikipediaより)


平均律クラヴィーア曲集第一巻。

平均律クラヴィーア曲集は、24の調性をハ長調から順に半音ずつ上がるようにして構成されています。
つまり、全曲を通して、調整がゆっくりと上昇していくのですね。


パルティータ。

最近の私のテーマ曲になってしまったBWV828-3”courante”は、1:14:45あたりから。


頭頂が開いて天と繋がっていくような感覚になる、Scottの演奏です。
バッハ自身は、どんな演奏をしていたのでしょう。
今はもう聴くことのできない響きに、想いを馳せる日々です。



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# by ramram-yoga | 2017-05-07 06:01 | music | Comments(0)