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自我から大我へ
自我とは何か。
ヨーガではそれは”我執(ahamkara)”と呼ばれ、はっきりと非我であると述べられています。
つまり、自我とは自己の本質ではないというのです。

物心ついた頃から、「私は・・・」「私が・・・」「私の・・・」という感覚が当たり前で、疑うことすら知りませんでした。
しかしそれが絶対的なものでもなければ先天的なものでもないのだ、ということが、だんだんと分かってきました。
ここに来るまで、時間がかかりました。
まだまだ自我を取り払っていく必要があります。

思っていたより、難しいことではなさそうです。
自我は、後天的にできたものだとすれば、元に戻ればいいのではないでしょうか。

わたしが行為者であるという意識を薄め、万所に遍在する普遍的・根源的な意識(観照者)に、意識を合わせる。
極地へ昇り詰めるというよりは、溶け出して一体化する。

来年は、そんな年にしてみたいです。



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最近はラヴェルのピアノ曲がしっくりきて、よく聴いています。


フランス印象派の中でも、ラヴェルの曲は、意識の深みにいざなってくれる感じがします。
絵を描く時は、いつもラヴェルを聞きながら。
微細な情報が具現化していきやすいです。
無意識的領域と意識的領域の、橋渡しをしてくれています。


  愛と感謝をこめて





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# by ramram-yoga | 2017-12-23 17:18 | music
苦しみのメカニズム
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國分功一郎著「中動態の世界」を読みながら、今までにない新たな理解が拓けていくような感覚があります。

”中動態”とは、かつてのインド=ヨーロッパ語にあまねく存在していた態であるといいいます。
受動態でも能動態でもない、もうひとつの態、中動態。

著者はまず、「私が何ごとかをなす」とはどういうことか、という問題提起から書き出しています。
例えば、歩くという行為は自分の意志でしているようであって、身体の中の何百もの骨や関節、骨格筋が自律的に連動しなければ実現し得ないことを挙げながら、私たち人間の普段の行動とは、顕在的意識のもとに行われる意思決定によるものであるという解釈に疑問を呈します。
そして、意志とは何か、果たして自由意志とは存在するのか等、いくつかの問題提起をしながら、中動態の本質について迫っていきます。

様々なトピックスの中で、印象に残ったのが、依存症者の受動・能動についての部分でした。
依存症者の依存状態とは、受動なのか能動なのか。
わたしは自分自身が摂食障害の症状を抱えていましたし、今でも摂食障害の患者さん方と接していますので、このことについて考える機会がよくあります。
過食嘔吐(食べ物を大量に食べて吐く)行為をどうしてもやめられない方が大勢いらっしゃいます。
その方々は、やめたくてもやめることができない、といいます。
自分で食べ物に手を伸ばして口に入れているにもかかわらず、まるで自分を圧倒する何かに食べさせられている感覚が少なからずあるのです。
そして、もう二度とこんなことはしたくないと思いながら、その後すぐ、あるいは翌日後には同じ行為を繰り返してしまうのです。

この「させられている」という感覚、これはまさに受動です。
セラピーでは、これを能動に変えていくというプロセスを、どこかの時点で入れていきます。
実は、過食嘔吐はさせられているのではなく自分の意志で行っている。
過食嘔吐という行為をすることによって、無自覚的に何をしようとしているのか。
これを、カウンセリングで見つめていきます。
これは、そんなにやさしい作業ではありません。

受動から能動に意識を転換していくプロセス、これが非常にセラピューティックなのです。
なぜかというと、症状を持っていることに対して受動的態度でいるということは、「~~だから私は病気なのです」と、現在の自分以外のものに病気の原因を求めている状態だからです。
現在の自分以外に、苦しみの原因のありかを見出している時、どこまでいってもその人は過去の出来事や環境の被害者であり、自己治癒力を奪われた状態にあります。
一方で当事者が、「この病気は私が作り出しています」という能動的態度に転換すると、病気に対して主体的にかかわることができます。
つまり、病気に限らず困難さに直面した時、それを乗り越えていくには受動的態度でいるより能動的態度でいる方が、その困難さに対してより主体的にかかわることができるという点で、能動的態度への転換は重要です。
しかしこれは、どちらが正しいという種類のものではありません。
能動的・受動的どちらの解釈がより、その人の全人的健康度を高めるために有用であるか、という観点に基づいたものです。

中動態とは、それらの解釈から離れ、より中立的に現象を説明する言葉なのではないでしょうか。
苦しみというのは例外なく、現象に対する解釈から起こってきています。
例えば、ここでは食べて吐くという行為。
当事者も、それを目撃している人の目にも、悲惨に感じられるかもしれません。
しかし、過食嘔吐という現象自体は、苦しみではありません。
ただ、やっていて疲れはしますが。
苦しみの中核とは、過食嘔吐という行為に対するネガティブなイメージと、にも関わらずやってしまう自分に対する罪悪感や嫌悪感です。
つまり、過食嘔吐に限らず、私たちが苦しみを感じる時、現象そのものが苦しいのではありません。
それに対する解釈で苦しんでいるのです。


過食嘔吐をやめられないで苦しんでいる患者さんに対して、時々言うことがあります。
「しないでおこうと思っても、思わなくても、症状は無くなる時に無くなるから、あまりそこを努力しなくていいかもしれませんよ。」
「過食嘔吐は必要なくなったらいずれ無くなるんだから、今のうちしかできない‼と思って、しっかりやっておきましょう」とか(笑)
このコメント摂食障害皆さんに共通して適当というわけでは決してなく、信頼関係がしっかりでき、その方の今の状態を見たうえで言っていることではありますが。
こんなことを言うと、大抵の患者さんは、ちょっと拍子抜けた感じで、思いつめた表情が緩んで明るくなります。
ここに、苦しみのメカニズムが垣間見える気がします。
つまり、本当は、「~~があるから苦しい」のでは、ありません。
苦しみが最初にあって、もっと言えば、苦しむことを選択したその人に、苦しむに足る現象がもたらされ、その人は苦しむのです。

そうであるならば、苦しみを終わらせたいのであれば、現象に対処するのはナンセンスということになります。
目の前の病状や困難さを克服しようと努力すればするほど、克服への努力を助長させるように困難がますます立ちはだかります。

苦しみを終わらせたいのであれば、苦しみを終わらせると決意することが必要です。
決意すれば、苦しみを終わらせるために必要なことが、決意した人のもとに少しずつ訪れるようになります。
苦しみを終わらせるというのは、実は少し勇気のいることです。
なぜなら、苦しむことでカモフラージュしていること、見ないように誤魔化していることが、あるからです。
苦しみが無くなると、それまで見ないようにしていた本当の課題に直面することになります。

でも、もう、終わりにしませんか。
わたし個人としては、そういう思いでいます。
もう、人類は、これまでいっぱいいっぱい苦しんできました。
もう十分味わったのではないでしょうか。

今まで目をそらし続け、見ないようにしていた本当の課題。
直面するには勇気とエネルギーがいるかもしれません。
でも、その直面は、本来の自分に立ち戻るための扉を開くことでもあると、思っています。


 愛と感謝をこめて














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# by ramram-yoga | 2017-12-22 22:48 | 摂食障害
わたしはあなた
今日は、西宮市の段上公民館での、今年最後のヨーガレッスンでした。
2009年6月から始めたこのクラスも、来年で10年目を迎えます。

会員さんの入れ替わりは若干ありながらも、クラスを始めた当初からずっと通ってくださっている会員さんも、何人かいらっしゃいます。
中には、「ヨボヨボになって通えなくなるまで通い続けます!」と宣言してくださっている方もいらっしゃり、必要とされていることのありがたさを感じています。
私にとってもこのクラスはかけがえのないもので、今通ってくださっている方の最後の一人がご自分から退会されるまで、末永く続けることが目標です。

ここ数年は男性の会員さんが少しずつ増え、嬉しい限り。
今日も男性の方が体験レッスンにいらっしゃり、入会をご希望ということで、男性会員さんは5名となりました。

今日は一年の締めくくりということで、一年を振り返り、来年を展望する瞑想を行いました。
この変化する世界で、その背後にある変化しない観照者に意識を合わせ、二極の対立的価値観から自由な境地を目指す、それがヨーガです。


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最近感じていること、それは、わたしとあなたとは切っても切り離せない存在なのだということ。

あなたを喜ばせようとしてとるわたしの行為によってあなたが喜ぶと、同時にわたしが喜んでいることに気づきます。

あなたの中に悲しみを見出した時、わたしの中に悲しみがあることに気づきます。

あなたをないがしろにしたり、少しぞんざいに接してしまったことに気づいた時、わたしは自分の内に、自分自身をぞんざいに扱う心があることに気づきます。

あなたを愛している時、わたしはわたし自身を愛しています。


これら、わたしとあなたとに起こっていることは、何の違いもありません。

あなたにしていることは、実はわたし自身にしていること。

そこには何の違いもなかったのだと、理解しつつあります。

これが本当の意味で自分の腑に落ちると、すごい意識の転換が起こりそうな気がします。

これから自分が向かいたい場所へ行くためには、このあたりに突破口がありそうです。




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久しぶりに、HIRO珈琲へ。

西宮で一番好きなカフェです。

「中動態の世界」、面白い。

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愛と感謝をこめて





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# by ramram-yoga | 2017-12-21 20:47 | YOGA
信じること
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今回、あることについて、決断を迫られました。
あるお方がこれからやろうとしていることに、心から同意できなかったのです。
いつまでたっても胸がざわざわと不穏で落ち着かないでいました。
疑問に思うことがあり、それを本人に伝えようかどうか、迷っていました。

でも…。
その時の自分と、その時の自分がその方に対してどのようなまなざしを向けているかを、ふと客観的に観察した時、あることに気づきました。
それは、疑心暗鬼になっている自分でした。
そして、その人が私から疑心暗鬼を感じたとすると、出鼻をくじきこそすれ、その方が生き生きと輝く方向にはならないと思いました。

それでは、私はどうすればいいのか。
何日間か、ずっと考えていました。
そして、思いました。
あぁ私は、この方がどういう決断をしようと、その方の選択を尊重しよう、と。
この方のことだから、どうであれ、最終的に最善の道を選んでいくに違いない。
たとえそれで失敗したとしても、それを含めて私はその方のもたらした結末を一緒に引き受けていこうと、決めることができました。
数日後、結局その方は、ご自身の意思で、方向性を修正されたのでした。

とてもほっとして心が軽くなった自分に気づき、驚きました。
それくらい、違和感を自分でもはっきり意識化できていなかったのです。


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アドラー心理学では、信用と信頼とは、似て非なるものととらえます。
信用とは例えば「~~だからあなたを信じます」というように、信じるために先行する何らかの条件があります。
それに対して信頼は、他者を信じるにあたって一切の条件をつけないという態度を指します。

以前受けた、アドラー心理学の子育てプログラムpassageに、今でも一番印象に残っている部分があります。



「子どもの味方でいる」
どんなときでも子どもの味方でいる決心をしましょう。
特に、子どもが学校や世間から責められているときに、見方でいる決心をしてあげてください。
親まで敵に回ってしまっては、子どもにはこの世に居場所がなくなってしまいます。



「味方でいる」これこそが、信頼ですね。
自分の経験からしても、他者から信頼されていると感じると、なんと勇気づけられることか。
信頼されていると感じて初めて、前に一歩踏み出してみようという勇気がでてくる経験を、これまで何度もしてきました。

そして、今回発見したこと。
それは、人を信頼するということが、私を大きく勇気づけたということです。
人を信頼すること、それは他でもない自分自身を信頼することでも、あったのですね。


愛と感謝をこめて



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# by ramram-yoga | 2017-12-20 20:55 | ことば・メッセージ
微細な光が粗雑化する過程を観察する
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私の方から瞑想に入っていくというよりは、瞑想の方から私を呼んでくれる感覚の時があります。
昨晩もそうで、次の日の瞑想が楽しみでわくわくしながら眠りにつきました。

次の日の早朝、瞑想に入ると、目を閉じているのに明かりがついているように明るい。
過去に経験した残存印象が去来して、それをただ観察していると過ぎ去っていく。
そしてふと静寂が訪れた時に、精妙な光の泡のようなものが見えてきました。
その泡を、しばらく観察していました。
すると、だんだんその形を変え、粗雑化していくのです。

普段、私たちは、様々な情報を感じ取りながら生きています。
虫の知らせとか勘といったような、非言語的・非科学的な感覚も、多かれ少なかれ持ち合わせています。
中にはそれが声やイメージなど、比較的はっきりと感じ取れる人もいます。
これは、微細なエネルギーもしくは波動のようなものを取り込む過程で、その人に親和性のある表象に落とし込み、認識可能なものとして汲みあげる作業を行っているから可能なのではないかな、と思っています。

私自身は、それは言葉や映像として感じます。
言葉の場合、普段自分がこのブログを書く文章とは少し違う、簡潔で短い文章として、出てきます。
人格を持った存在が、話しかけてくるように感じます。
私はこの存在との対話が、とても好きです。
普段の思考回路では到底たどり着くことのできないような深み・あるいは高みに達することができるからです。

あの光の泡は、そのエネルギーがイメージや言葉になる前の微細な状態だったのではないかと思います。
その泡のようなものがだんだんと粗雑化して、イメージとなり、そして言葉となる過程を、瞑想の中で微細な視覚を通して観察しました。

へぇ、こういう風になっていたんだな、と、思いました。

いつも瞑想のカテゴリの文章は、不思議な内容になってしまいますが、今朝の瞑想はそんな瞑想でした。

愛と感謝をこめて


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# by ramram-yoga | 2017-12-18 13:01 | 瞑想