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風土による自己の自覚
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先日の京都大学での鎮守の森ヨーガ・セラピーの記事を、さっそく広井先生が記事にしてくださっていました。
教室で椅子ヨガを行った後、吉田神社で神林(しんりん)浴を行った風景も紹介されています。


今回ヨーガ・セラピーの後に皆さんでお話をしていた時に、広井先生が土地の風土によって宗教観が異なってくるのではないか、というお話をされ、それがとても印象に残りました。
例えば、ヨーガを源流として、インドで始まった仏教は森林の中で行じられていたので、仏教の宗教観には自然との一体や調和といった指向性がある。
一方で、キリスト教が唯一神教であり、超越的な指向性を持ち合わせているのは、砂漠という風土からこそ生まれてきたものであろう、と。
この考察は非常に興味深いと思いました。
なぜなら、私たちの世界観や論理的指向性は、私たちが意識する・しないにかかわらず、住んでいる土地の風土によってあらかじめ限定されている、ということになるからです。
でも、よく考えてみるとそうですよね。
私たちのイマジネーションというのは、五感で取り込んで認識した表象をベースとして創造されていくわけですから。

今日は和辻哲郎の『風土』を読んでいたのですが、そこに、上記に深く関連するようなことが述べられていました。
例えば、インド哲学では”アートマン(真我)”という実在原理を想定します。
想定するというより、これはヨーガ行者が”三昧”と呼ばれる深い瞑想状態において直覚したのです。
和辻は、これが直覚され得たのはインドの風土においてだからである、と述べています。
一方で、仏教の根本的原理はというと”無我”そして”無常”。
ヨーガの”絶対的有”とは全く逆の、”絶対的無”が仏教の究極であるところにおいて、この両者は鋭く対立している訳です。

それらの部分について、和辻は下記のように記述しています。

仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の実相を見ようとする。
いわゆる法の如是閑、如実観である。
その根本直感は、「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。
和辻哲郎『風土』より

*****


それでは、結局私たちは、自分の生きる風土に世界観や指向性といったものをあらかじめ限定されていて、どうやってもその枠を超えることはできないのか?
何か、限定されているということは不自由であるという印象を持ってしまっていたのですが、和辻はその限定があるからこそ、人間は己れの存在の深い根を自覚できると述べています。
そして、限定を自覚することによってはじめて、限定を超えることができる、と。

我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。
人間が己の存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的のみならずまた風土的に限定せられている。
かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。
ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。
比喩をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。
もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官を優秀ならしめるのではない。
ちょうどそのように、牧場的風土において理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。
それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光を最もよく輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。
風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。
またかくすることのよって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。
風土を無視するのは風土を超えるゆえんではない。
それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるにすぎない。
しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。
否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。

和辻哲郎『風土』p143-144


(ただいま学会で北海道にいます。写真は飛行機の中より。)






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# by ramram-yoga | 2017-06-17 02:59 | ことば・メッセージ | Comments(0)
集中と気づき
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自分とは何か、死とは何かという考えが、ここ2~3か月ずっと頭にこびりついて離れなくなってしまっていました。
こういうことを考えてノイローゼになってしまう人もいるようですが、それも分からなくはない、と感じました。

あれからまたいろいろな死生観や言葉との出会いがあり、ひとつ気付いたことがあります。
それは、ある一点に”焦点付け”をしようとしていた自分と、物事の本質を悟りたい時にもしかして焦点付けは弊害なのかもしれない、ということでした。
なぜなら、焦点付けが成り立つのは、まず前提として、その焦点付ける対象が一定して不変であるという想定が必要であるからです。
そして、焦点付けそれ自体がこだわっているということであり、今の不安定な心境から抜け出したいという欲から生じてきている、ということ。
果たして私が悟りたい対象は、一定して不変であるのか?というと、そもそもの立ち位置が違っていたのではないかと思うようになりました。

今日はバンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス』を読んでいましたが、内容がとても深いものでした。
優しい言葉で書かれているにもかかわらず、驚くほど深かった。
そこに、同じようなことが書いてありました。

集中力とは心を一点に集中させ、一つの固定した対象に強引に心をとどめておくこと。
一方、気付きは繊細な働きであり、鋭敏で、様々な現象に気づくことができる。
そして瞑想では、集中と気づきは共同して働くのだ、と。

”集中”にばかり偏って、”気付き”が少しおろそかになっていたようです。

それにしても、ですね。
今まで疑いもしなかった「私」が、実は実体のないものだなんて。
思い出すたびに、新鮮な驚きを感じます。
驚き、というより、驚愕と言った方が近いような気もします。
だって、35年間そう信じて疑わずに生きてきたのですから。
驚愕しているのは他でもない、「私」なのですけれど…。

また、本書には人間が病気、老い、死のほうへ進んでいくことについて”おぞましい”と表現されていました。
確かに、事実とは時に、おぞましい。
でも、気づきとは、それらは本当は別におぞましいことではなく、ありのままの現実であることを学ぶことなのだ、と後に続きます。

最後に、気づきによってもたらされる境地について書かれている終盤の文章を。

**********


私たちは「私」と呼ばれる実体を探しています。
しかし見つかるものといえば身体-骨と皮でできている袋と、その袋を「私」と見なしていることです。
さらに探求していくと、感情や思考、意見などあらゆる種類の心の現象が見つかり、これら一つ一つにたいしても「私」と考えていることがわかるでしょう。
……
どこにも「私」というものは見つかりません。
絶え間なく変化し、終わりなく流れている心の集合体に見つかるものは、前の諸々の現象から引き起こされ、条件づけられた、おびただしい変化の流れのみです。
そこに実体は見つかりません。
流れだけなのです。
思考は見つかりますが、思考する人は見つかりません。
感情は見つかりますが、感情を抱く人はいないのです。
家(心と身体の集合体)の中は空っぽです。
そこには誰もいないのです。

鋭い気づきをもって自分自身を凝視するとき、「私」や「私がいる」などの「私という感覚」は、その個体性を失い、分解してなくなります。
そして智慧の瞑想の核である存在の三つの特徴-無常・苦・無我-がありありと家(心と身体の集合体)に現れるのです。
このとき鮮明に、生は無常であること、存在の本質は苦であること、「私」という実体はない、という真理を体験します。

この明晰で純粋な深い目覚めの瞬間、意識は変革します。
固定的な「私」という概念が消えてしまうのです。
残っているものといえば、相互に関係し合う実体のない無数の現象のみです。
それらは条件によって成り立ち、変化し続けているものです。
欲は消え、重い荷物は降ろされます。
抵抗も緊張もなくなり、苦も楽もない流れだけが残ります。
心に大きな安らぎが現れます。
つくられたものではない究極の幸福、涅槃(Nibbana)が実現するのです。

     バンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス 気づきの瞑想』より





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# by ramram-yoga | 2017-06-15 00:13 | ことば・メッセージ | Comments(0)
鎮守の森ヨーガ・セラピー
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この4月から聴講させていただいている、京都大学の「現代社会論演習」の授業のうちの一コマで、今日はなんと!ヨーガ・セラピーをさせていただきました。

この授業を担当されている広井良典教授が、「鎮守の森コミュニティ研究所」の所長でもいらっしゃり、その研究活動の一環も兼ねて、このような機会へのお声がけをいただいたのです。


鎮守の森コミュニティ研究所のHPで、広井先生が今日の活動を掲載してくださっています↓


毎回様々な分野の専門家が集まるのこの授業。
今日も、京大で社会経済や福祉制度を学ぶ学部生さん、医学研究科の院生さんをはじめとして、こころの未来研究所や日立製作所の研究員さん、神職の方、鍼灸師さん、身体的技法の専門家の方々など、様々な方が出席してくださり、皆さんと一緒にヨーガの時間をご一緒させていただきました。

当初は、大学の近くにある吉田神社の中で行う予定だったのですが、境内の中で大勢でヨーガはちょっとダメかな…ということで、急きょ教室内で行うことに。
皆さんで円になって、椅子ヨガを行いました。
皆さんから具体的な感想はお聞きできませんでしたが、私の印象では、開始後すぐに皆さんの意識状態が集中していくのが雰囲気として感じられました。


********


その後は、いいお天気の中、皆さんで吉田神社を参拝。
ちょうど、森林セラピーならぬ「神林(しんりん)セラピー」を開発された神職の本間裕康さんがファシリテートしてくださり、参拝や木々からのエネルギーのいただき方などを教えていただきました。

普段のクラスとは違うヨーガの機会は、新たな発見がたくさんあり、とても新鮮です。
このような機会を与えてくださった広井先生に、心から感謝いたします。




広井先生もご登壇される公開シンポジウムのご案内は、こちらです↓





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# by ramram-yoga | 2017-06-14 20:07 | 活動記録 | Comments(0)
永遠の生命
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今日はNHKこころの時代5月14日の「鈴木大拙先生と私」の録画を見ていました。
世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の側近で長年教えを受けていた岡村美穂子さんが、鈴木大拙について語っていました。
紹介されたたくさんのエピソードの中に、禅、そして生命についてのエッセンスが詰まっていました。
その中で、印象に残った言葉を。

意識は常に意識できるものの中にこたえを見つけようとする。

そうか、そうそう。
何か、袋小路に入り込んでしまっているときは、いつも今の意識レベルで答えを出そうとしているから、なのですよね。
真実は、主体と客体を前提とする”思考”では、とらえることはできない。


**********

キリスト教にとっても神は人間の外にあるだけはなく、自分の内にあって、自分を生かしてくれているものです。
今まで長い間、神は外にあるものとして人間がそれを仰ぎ見るという感じでしたが、そうじゃなくて、神は自分の中にもある大きな生命です。
そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。
それを復活というのです。
復活は蘇生ではないのです。
死んだ人間が突然息を吹き返したということではないのです。
大きな永遠の生命の中に戻って行くことなのです。

禅については、私はよくわかりませんが、執着や妄執から解脱して、いわゆる悟りをひらくということが、この永遠の生命に触れたということではないでしょうか。
お茶をやる方はご存じのように、お茶室のなかは静寂です。
しかしその静寂とは、何もない空虚な虚無ではありません。
そこに宇宙と生命とのふれあう接点があるのを茶人は感得しているのでしょう。
それと同じように、我々の人生の苦しみや我々の死に対して、神は沈黙しているように見えるけれど、それは必ずしも氷のような沈黙ではないかもしれません。

ひょっとすると、別世界の言葉を私たちは理解できないから、それが沈黙に見えるだけかもしれない。
それを日常の言葉では理解できないから、沈黙としか我々には思えないのかもしれない。
その理解できなかった世界へ、老年ののち死という通過儀式を経て入るのだというふうに、私は次第に思うようになりました。

遠藤周作著『死について考える』より



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# by ramram-yoga | 2017-06-07 19:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
維摩経
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今月のNHK100分de名著でピックアップされているのは、「維摩経」。
サブタイトルには、このような言葉が。

「自分」の枠をばらし、あらたな「私」を組み立てる。

なんてタイムリー。

紹介してくださったのは、私のかかりつけ医である斉藤クリニックの斉藤先生です。
心・身体・魂をも含めて深~い視点から診てくださる先生。
初めて診察を受けた時は、静かな衝撃を受けました。
まるで大海の中に放流されて自由に泳ぎ回る魚になったかのような感覚を覚えました。
治療者としての器が、とても、広く深いのです。
まだ、私には、その底が見えません。

先生のクリニックには本棚がたくさんあって、ぎっしりと本が詰まっていて、毎回のように本を貸し出してくださいます。
ものすごい読書家。
70歳を超えていらっしゃるのに、本当に真摯な追求をされていて、私も大いに触発されています。

さて。
第1回目の再放送は、明日の早朝です。



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# by ramram-yoga | 2017-06-06 19:38 | | Comments(0)