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世界構造の弁証法的理解
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この世界が作られている根本的な原理を理解しようとするとき、どうしても一筋縄ではいかないのは、それが本質的に矛盾をはらんでいるものであり、また多重的・多層的だからなのだと思います。
多重的・多層的というのは、あるひとつの立場に立ってみては確かなことでも、別の立場から眺めるとそれとはまったく違った風景が広がっていく、ということです。
鈴木亨が、論考を進めていくのにヘーゲルの哲学が非常に役立ったと、著書の中で書いていました。
ヘーゲルの哲学そのものが、というより、弁証法的な論考の仕方が非常に役立ったそうです。

”AはAであるが、同時にAにあらず”といったような命題を経て、最終的には、存在の根源が絶対無であることを証明していくヘーゲルの弁証法的論理学。
私も勉強してみたいと思います。
著書の中で紹介されていたヘーゲルの名著『論理学』をそのまま読んでも理解できそうにないので、まずは放送大学の教材などで適当なものを探し、基礎的な部分から少しずつ学んでみようかと思います。

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無常すなわち一切のものが恒久的でないということは、世界構造そのものの弁証法的性格を示すのであって、この無常にたんに詠嘆的に即するかぎり、世界と自己との根本的な自己成立の事実の主体的な自覚はあり得ない。
一切が無常であることは、無常すなわち恒久的なものは一切存在しない、ということが恒常性であるということを意味する。
言いかえれば、いかなる絶対的なものもあり得ないのであって、世界の一切が矛盾するということだけが、絶対であるということに他ならない。
この世界の生存するものが逆説的に死ぬものであるという矛盾こそが唯一の絶対的なものである。
生死一如というのもこのことを指すに他ならない。
無常の本質は、たんなる恒常性の相対的な否定ではない、無常こそ唯一の恒常性なのである。
無常を絶対と悟るとは、絶対の愛の事実に生きるということである。
無常判断は、たんなる述語から出発する無限判断に対して有限的なる主語と述語がともに自己矛盾的に絶対的一者の自己否定的顕現として、述語即絶対主語の根源的弁証法的なる繁辞的世界に他ならぬことを悟るのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

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以前の私は、悟りとは感覚的なものなのだと考えていました。
これまでひたすら「わかった」という感じを求めていましたし、その感覚そこが悟りでありゴールだと思っていました。
しかし、それは違うのだと、最近思うようになりました。
「わかった感じ」というのはあくまでただの感覚であって、そのままにしておくと、そこで終わってしまうのです。
その体験を落とし込み、自分のものとしていく”体得”の作業が、その後に必要になっていくのだと思います。
それこそ、論考を通してある一定の枠組みからその体験を反芻することで「わかった感じ」を理知的に深める過程であり、日常生活の実際の経験においてその境地から物事を眺め、自分のものとして落とし込んでいく作業になるのではないでしょうか。

大いなるいのちの海原から、個の意識を持った生命を受け、その個の視点から、改めてもう一度大いなるいのちを観る。
それが、人間として生をこの世に受けたことを真の意味で自覚することであり、さらに、その自覚を出発点として与えられた生に存分に応答し、響かせながら生きていく。
真の意味で生きるということ、また鈴木亨の言う「響存的世界」の目指しているところとは、そのようなものなのではないかと思います。

すなわち、「本来的自己が、単なる死への存在として消極的に規定されるのではなく、積極的に存在の真理の光の中に出で立つもの」なのであるということを自覚し、そのように生きていく、ということ。


「目に映る現象はすべて、ひとつの大いなるいのちのあらわれである」
という先日の一瞥体験は、ゴールではなく、スタートだったのでした。



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# by ramram-yoga | 2017-05-02 06:47 | ことば・メッセージ | Comments(0)
3・4月の読書本
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11.『赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア: 自分を愛する力を取り戻す〔心理教育〕の本』白川美也子著
12.『インナーマザーは支配する:侵入する「お母さん」は危ない』斎藤学著
13.『子別れレッスン:「おっぱい男」と「わがまま妻」』斎藤学、久田恵著
14.『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル著
16.『夜と霧』V・E・フランクル著(再読)
17.『生活世界の存在論:生きる根拠を求めて』鈴木亨著作集第5巻より 鈴木亨著
18.『医学・医療原論ーいのち学&セルフケアー』渡邉勝之編著(再読)
19.『医療学総論ーケアを科学するー』広井良典編
20.『はじめての「密教的生き方」入門』藤崎雅好著
21.『死生観を問い直す』広井良典著
22.『「自分のために生きていける」ということ』斎藤学著
23.『男の勘ちがい』斎藤学著


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鈴木亨著作集第5巻の『生活世界の存在論:生きる根拠を求めて』は、私がこれまで出会った本の中で最も深く魂に響き、影響を受けた著作のひとつとなりました。
鈴木亨は難解だとされる西田哲学の継承者でありますし、著作集自体も重厚感に溢れているので、最初はとっつきにくいかもしれませんが、中身はその印象とは違うものでした。
哲学者や専門家に向けて書かれたものではなく、根源的な思索への志を持つ人々に向けられて、書かれたものだったのです。


(前書きより)
わたしが12,3歳のころ、突然に「わたしは何のために生きているのであろうか」という疑問にとりつかれ、強度のノイローゼになるまで悩んだ。
むろん、何の解決も得られなかったが、その後は、あらゆるものを犠牲にして、この問いに向かって突き進んだ。
わたしは、自分のためにのみ思索し、(中略)…、その結果、世界のいかなる哲学とも異なる自分だけの思想的核心を、その思想の大小・深浅を別にすれば、持つことができたと考えている。
わたしの望むところは、根源的な思索への志を持つ読者が、わたしの思索との対話を通じて、ゆらぎつつ苦悩しながら、自分自身の世界観・人生観の基礎を得て、自己の人生に核心をもって生きるための一つの根拠を提供することである。


まだご存命の鈴木亨氏。
数年前までは、大阪経済大学の学長もなさっていました。
願わくば、ぜひ一度お目にかかりたいものです。








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# by ramram-yoga | 2017-04-30 12:20 | | Comments(0)
社会的枠組みという視点
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死生観を求めて最近出会い、影響を受けた『死生観を問い直す』『ケア学』という2冊の本があるのですが、なんとこれらの本を執筆された広井良典先生に直接ご教授いただけるという大変ありがたいご縁を知り合いの先生からいただき、今週から毎週、先生が教鞭をとられる京都大学へ学びにいくことになりました。
求めているものに出会えることのありがたさと、いつも学び続けることの大切さを感じています。

哲学的考察から公共政策の研究まで非常に幅広い分野で活動されている先生の今回の講義の大きなテーマは「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」という今まで全く耳にしたことのない言葉でした。

※ ソーシャル・キャピタルとは
社会学、政治学、経済学、経営学などにおいて用いられる概念。
人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。(wikipediaより)

普段、ヨーガ療法士や臨床心理士として臨床を行っている際、いつも相手のパーソナルな部分と向き合い、もう少し幅を広げたとしても家族や職場の人間関係といった、狭い視野でしか物事をとらえていなかった私にとって、ソーシャル・キャピタルの概念は今までほとんど意識したことのない視点でした。
特に伝統的なヨーガでは、どこまでいってもその人個人の内での調和をはかることで、周囲と調和し、そして全体と調和していく、といったものですので、社会的包括的な視点とは全く正反対の観点から物事をとらえているということになると思います。
私自身も、まずは自己を知り、自分との調和を保つことが重要であり、社会情勢やシステム等に個人の幸福はあまり左右されないと考えていた節があり、それだけにこの枠組みから何かを考えることの必要性を感じたことはありませんでした。

講義後広井先生に、今まで自分は個人レベルでしか物事を考えていなかったので、今回の授業でまったく新しい視点をいただいたことを、お伝えしました。
すると、先生は、まっすぐ私の方を見て、”個人の死生観やケアというものも、突き詰めるところ社会組織といった大きな視点からとらえることができなければ、本当の意味で扱っていくことができないのです”と言ってくださいました。
死生観やケアというものを突き詰めて考えていくことと、社会組織や医療経済の在り方を追求していくことと、これまで全くつながらなかった私ですが、その先生のお言葉をいただいて、これは自分に欠けていた視点だったのだということに気付きました。
そのような、優しく静かでありながら、でもしっかりと心に響いてくるような、先生の真摯なご姿勢が、印象的でした。

講義にいらっしゃっていた方々は、政治家を目指す学部生さんや疫学を研究している院生さん、大手メーカーの研究職の方、行政の方、神職の方々、医療関係の方々など多様で本当に刺激的でした。
これからまた、新しい視点が開けていきそうです。





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# by ramram-yoga | 2017-04-28 02:34 | 社会的視点 | Comments(0)
世界観の逆転
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全ての現象は、その存在を絶対的に支えている何かがなければあり得ないのだ、ということを、身体感覚を伴って体験してから、丸2日が経とうとしています。
この体験が私にとってどんな意味を持つのかについては、後になって振り返ってみないと分からないことでもあると思います。
気付いたからといって私が変化してしまった訳ではなく、至っていつも通りです。
”人が何かを悟る”ということは、悟りがある瞬間突然に訪れて、その前とその後ではその人は決定的な変化を遂げて別人のようになってしまう、というのでは、実際は無いのかもしれません。
そのような人もいるのでしょうが、ほとんどの人にとって”悟り”とは、気づきが深まる体験を日常生活の中で繰り返し反芻し、だんだんと自分の体認として落とし込んでいく過程のことを言うのかもしれません。
また、その過程は、ただただ知覚による体験だけで成り立つのではなく、必ず何らかの形で客観的にとらえなおすという理性的な作業が必要なのだと思います。

今から4,000年以上も前に編纂されたとされるウパニシャッド聖典群のひとつ「ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド」の中に記されている瞑想手順にも通じていて、改めてそうなんだなぁと思いました。
そこに記されている瞑想法は以下の4段階に分かれます。

 1.シュラヴァナ(聴聞)…まずは智慧や進むべき方向性を学び、ヴィジョンを持っておく
 2.マナナ(熟考)…それについて熟考し、内省する
 3.ニディディヤーサナ(深い瞑想)…日常生活に即して熟考し続ける
 4.ギャーナ(悟り)

*********

今日、目的地に向かう道中、雨の中傘をさしてゆっくり歩いていたのですが、その時にふと、自分の見ている世界が全く変化していることに気付きました。
以前は、目に映る者は全て諸行無常で変化するために、そこに本質は無いという風に見ていました。
でも今日は、目に映るもの全てを、根源的ないのちともいうべき絶対者が多様な様相で現象しているものであると、見ていたのです。
どこを見回しても、それまで感じていた空虚さは無く、それと全く正反対の、充足・充満と形容すべき感覚に満たされていました。


この、自分の内側で、また目に映る全てのものの内側で、大地から天に向かって躍動感を伴って振動しながら上昇する”響き”。
鈴木亨が、「これを極限的に表現するものは、例えばモーツァルトの「交響曲第40番」や、K・514の「管弦五重奏曲第4番」」であると著書の『響存的世界』で書いていますが、私にとっては、最近いつも聴いているバッハのパルティータも、まさにそれを表しているように感じられます。
以前のブログでは、グレングールド演奏のを貼り付けましたが、今回はいつも聴いているグスタフ・レオンハルトのチェンバロ。
(courante は10:36~です。)


バッハも、この”いのちの響き”とも言える響きを、感じながら作曲していたのでしょうか。












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# by ramram-yoga | 2017-04-26 20:00 | music | Comments(0)
響存的理性
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昨日、感じたこと。
頭での理解としてではなく、体感として。

この現象世界が成り立つ大前提として、それを支える絶対的な包摂者がいるということ。
それ無しには、いかなる現象も成り立ち得ないということ。
まるで、映画がスクリーン無しでは決して映し出されないように。
そして、この私という存在も、それに絶対的に支えられ、ここに生かされているということ。

突如としてやってきた、今まで全く感じたことのなかった感覚に驚き、とっさに窓を開けて外の景色を眺めていました。
自分の身体に満ち満ちてあふれるほどの何かを感じ、それが振動しながらゆっくりと、大地から天へと上昇していくのを感じていました。
そして、それが私の身体にだけでなく、目に映る全てのものの内で起こっているのを見て取ることができました。

あの感覚はなんだったのだろうと昨晩から振り返っていたのですが、
今朝、あれは、鈴木亨の言う「響存的理性」なのではないかと、ふと思いました。
「絶えず私に働きかけてくる、絶対に私の内ではない、同時に私と離し難く一つである」ものが、私を貫いて響いている感覚だったということに思い至りました。




すべて、この世界に存在する者としての有限的存在者は、
無限・絶対・永遠な空の自己否定即他者(存在者)肯定として、
空の大悲によって光被されて初めから存在させられている。

それは、存在者が存在するとは空が非在することを意味し、
この空の大悲、キリスト教的には精霊の息吹によって、
人間が初めから存在することを許され、
また祝福されていることを意味しているのである。

ただ、ほとんどの人間は、
そのことを自我中心的であることによって気づかず、
自らを物や生物や世界の主であると錯覚しているのにすぎない。

鈴木亨著作集第4巻『響在的世界』より



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# by ramram-yoga | 2017-04-25 20:01 | ことば・メッセージ | Comments(0)