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人生二度なし
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先日、ヨーガの生徒さんが、小さなノートを持ってきて見せてくださいました。
なんとその方は短大時代に、私が心から尊敬する教育者・哲学者、森信三先生から道徳の授業を受けられていたのだそうです。
森先生は学生たちから、親しみを込めて「森爺(もりじい)」と呼ばれていたのだとか…。
持ってきてくださった小さなノートというのは、道徳の授業で森先生が人生や女性としての極意を一人一人に清書させたもので、嫁入りの際にはタンスの中に入れておくようにというお達しがあったのだそう。

ノートの中身を見させていただくと、森先生が著作の中でも触れられていた、いかにも先生の教えというべき言葉の数々が、ぎっしりと詰まっていました。
後半には、仏教詩人である坂村真民の詩も何篇か書かれており、最後には森先生のご自宅の電話番号までもが記入されていました。
森先生がいかに教育者として一人一人に想いを込められ、そしていかに具体的に学生一人一人の後の人生までをも慮っておられたかが、ひしひしと伝わってくるものでした。

そして、ノートの裏表紙には、森先生の直筆で「人生二度無し」と書いてありました。
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小さいノートに小さい字で書かれた一言でしたが、この直筆の言葉には、静かではありますが深く心に響いてくるような感覚を覚えました。
学生一人一人のノートに「人生二度無し」という言葉を書き込むほどの、森先生の人生に対する覚醒の深さとは、どれほどだったのかと思わずにはいられません。

***

人生とは、本当に一度きりしかないのですね。
なぜ私たちはこの事実を、あたかも忘れたかのように毎日暮らしているのでしょうか。
時々ハッと我に返ります。
死は誰にも必ず訪れるし、私もいつかは死ぬ存在なのだと。
でも、また、目の前の雑事に奔走し、それを忘れてしまう…。
というよりも、もしかして目を逸らしていたのでしょうか?
もっともっと、ごまかさずに、生と死に向き合っていく必要があるのではないかと思いました。
このテーマは、時々ハッと我にかえって思い出す程度のものでは、ないのですよね。


***********


私たちは、いつかは死ぬ存在です。
私たちの人生は有限です。
私たちの時間は限られています。
私たちの可能性は制約されています。
こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。
死とは、そういったことをするように強いるものなのです。
ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

***

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問を出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。

        ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』




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# by ramram-yoga | 2017-04-01 00:42 | ことば・メッセージ | Comments(0)
生と死の自覚

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もうすぐ6歳になろうとする息子が、最近毎晩のように、私に死についての話をしてきます。
どこかの誰かの死といった”三人称の死”ではなく、身近な人の”二人称の死”や、そして自分自身の死という”一人称の死”について、です。
自分はやがて死ぬ存在なのだという自覚が、ある日突然彼に訪れたのです。

「僕は死んだらどうなるの?」
「お父さんとお母さんが死んだら、世界は終わっちゃうの?」
「死にたくないよ!ずっと生きていたいよ!」

死のことについて語り始めた同じ頃、息子は胎内記憶と、胎内に入る前の記憶(いわゆる中間生記憶)を、急に話し始めました。
私と息子との今後の関係において、大きな転機となりそうなインパクトがありました。
またの機会に、記事にしてみたいと思います。

このように、自分の生や死を言語を通して話し始めたということは、息子の中で、他の誰でもない我であるという認識、すなわち自我がある程度確立してきたと言えるのだと思います。
興味深いと思ったのは、”自分”という認識が出来てきたのと同時に、自分が死すべき存在であるという認識、そして時間の概念が確立されていったことでした。
これから息子は、生や死について、どのようにとらえていくのでしょう。
苦しむのを代わってあげたり、回答を与えたりすることはできないけれど、寄り添い見守っていける親でありたいと思います。

***

それにしても、死とはいったい何なのでしょうか。
私たちはなぜ生まれ、なぜ生きているのでしょうか。
このような問いに対し、求めればこの世界に沢山の答えがあふれています。
でも、教えられて頭で理解した回答では、やはり納得できないのです。
そのような意味では、私はやはりまだ探し求めています。

夜中、寝ている時は、自我の殻が少し緩むのでしょうか。
よく、ハッとするような驚きと共に、目が覚めます。
そして、自分は死ぬ存在なのだという強烈な自覚に圧倒されそうになります。
「我に返る」というのは、このことを言うのでしょうか。
小学生の頃からずっと、続いているのに、この驚きの鮮度は全く褪せることがありません。

ただ、少しずつ、実感していることもあります。
生きることと考えることとは、違うということ。
自他の区別や空間・時間とは、絶対的なものではないということ。
これらは自我によって作り出している概念であり、そこ枠組みから外れた時、生と死や分離といったものは意味をなさなくなってしまうのではないか、ということ。


ここで一曲、ご紹介。
バッハのブランデンブルグ協奏曲第5番。

中学校1年生の時、清掃の時間に毎日流れていました。
入学してすぐ別の学校に引っ越したので、3か月も聴いていないのですが、やけに覚えています。
その時流されていたのは原曲ではなくもうちょっと軽快なポップ調にアレンジしてありました。
当時、自分は死ぬのだという事実に気が遠くなるような毎日を過ごしていたのですが、先生も友人も、まるで死のことなど忘れてしまっているように思えて仕方なく、孤独感ばかり増していきました。
おまけに、軽快にアレンジされたこの曲が、当時の心情を逆なでするような明るさでもって、私の孤独感をますます助長させていたのでした・・・。
バッハのブランデンブルグ協奏曲シリーズは好きですが、この曲だけは今聴いていても当時の憂鬱な気分を思い起こさせます。






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# by ramram-yoga | 2017-03-28 20:32 | 出産・子育て | Comments(0)
夜明け

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前回の記事でも書きましたが、教育分析(カウンセラー自身が自己理解を深めていくために指導者から受けるカウンセリング)を受けて、自分のこれまでの人生が一本の線でつながっていった体験をしてから、3週間が経ちました。
どのようにつながったかというと、今までずっと「母のように生きてきた」自分に気がついたのです。
このことは、私にとっては見当もつかなかったことで、教育分析の落とし所がこんなところにあったことが、心底意外でした。
でも、改めてそのような視点から今までの自分のやってきたことを振り返ると、まるでそれが方程式であるかのように、思い当たる全てのことに当てはまっていきました。

私にとって母親は、完璧な存在でした。
幼い頃からずっと、母親の価値基準で物事を判断し、進路や入部した部活、職業、仕事のスタイル等、母親の辿ってきたのと同じように自分の道を選択してきたことに気付きました。
そして、母親より劣ると感じた分野では、自分からそのステージを降りることで、その劣等性への直視を避けてきたことにも気づきました。
この中で特に母親に劣ると主観的に感じていたのは、女性性でした。
小さい頃から”女らしさ”になぜか嫌悪感を感じて、ボーイッシュな髪形や服装を好んでいた訳も、理解できました。
思春期から摂食障害になったのも、そのことと深く関連していたことに気付きました。
当時、摂食障害で急激に太っていったことが自分にとって最大の屈辱でしたが、その時奪われたと感じたのがまさに、女性らしさでした。
ですが本当は、それは奪われたのではなく、自分で剥ぎ取っていたのですね。

長い間ずっと苦しめられていた、周囲からネガティブな注目をされることへの怖れについても、その正体が分かりました。
なぜか、隠し事をしているわけでもないのに、ことあるごとに相手から疑われているのではないかと感じていたのです。
その怖れは、実は私には自分のアイデンティティというものが無く、全てが母の借り物であるということを見破られることに対して生じていたのだということが、分かりました。
母のようでないと周囲から歓迎されず、期待されないという信念を持っていた私にとって、偽りを暴かれ本当の自分があらわになることは、死活問題だったのですね。

「自分は母のように生きてきた」ということを突き付けられた時に初めて、自分の中にぽっかりと大きな空洞が空いているのを感じました。
自分というものがまるでなく、とても、空虚でした。
そして思いました。
私は、必死にこの空虚さから目を背けようとして、個性的になることに多大な労力を費やし、様々な外的活動にしがみついてきたのだと。
このことを突き付けられた時は一時期、抜け殻のようになりました。
実際に、これまで私を支えてきた芯のようなものがごそっと背中から抜けて、肩が軽くて軽くてしょうがないのです。
肩ってこんなに軽いものなのかと驚きました。
そして一方で、大きな虚しさが襲ってきました。
いったい私はこれまで、何をしてきたんだろうと。


でも。
アイデンティティとはそもそも個と個を区別するものであり、ヨーガで言うところの”非我”なのですよね。
アイデンティティの本質である ”私は~~” という感覚こそが、執着を強めていくのですから。
今回の気づきがあってから、そのヨーガの教えがスーッとしみ込んできました。
空虚な感じのしたぽっかり穴も、周りをアイデンティティという名の柵で囲っていたから空洞ができていたのであって、その柵をとっぱらってしまい、もっともっと大きな”いのちの根源”ともいうべき大いなるものに自分を重ね合わせていけばいいのだと、思いました。
本当の自分である真我は、これまでも誰からも気づ付けられたことは無く、低められたり高められたりすることは決してないのですから…。


ー禅の教えでもあるように、まるで水のように、四角い容器にはいったら四角くなり、丸い容器に入ったら丸くなるように、自分を固定化しないことー


これは、以上のようなことを、現在の主治医である齋藤クリニックの齋藤先生にお話ししたところ、いただいた言葉です。
教育分析をしてくださった私の心理の師匠もそうですし、このように全人的な変容をすっぽりと包み込んでくれる器の大きな医療者とご縁をいただけているのは本当にありがたいことです。
涙ながらに語る私にティッシュを取ってくださいながらも、
「アメーバのように、自在に形を変えていけるようになればいいんですわ。わぁっはっはっはー!」
と笑い飛ばされ、最後まで残っていた深刻さもスーッと抜けていきました。


その後。
ここ最近、自分というものが自分の肉体だけにとどまらず、広がっていくような感覚を感じています。
感じたことのない、不思議な感覚です。
ここからまた、新たな世界が開けてくるのかどうかは、私次第ですね。
そして、目の前にいる人に、いつも最善を尽くすことができますように。
自分の存在価値を確かめるためにではなく、純粋に人のために尽くすとはどういうことかを、これからもっと考えていきたいと思っています。


「新たな始まり」という感じがしているこの頃の心境に、フィットしてくれる一曲を、最後にご紹介。
人はいつでも、決意した時に、生まれ変わることができるのですね。

バッハ管弦楽組曲第4番ニ長調


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# by ramram-yoga | 2017-03-14 01:25 | music | Comments(0)
12・1・2月の読書本
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2016年12月
31.『医学・医療原論-いのち学&セルフケア』渡邉勝之著

2017年1月・2月
1.『逝きし日の面影』渡辺京二著
2.『深美意識の時代』天下司朗著
3.『世界は祈りでひとつになる』白鳥哲著
4.『白鳥式ヒーリング(DVD)』白鳥哲
5.『ギフト』白鳥哲著
6.『真理の探究-仏教と宇宙物理学の対話』佐々木閑、大栗博司著
7.『10秒でこころの悪循環を断ち切る方法』矢場田勲著
8.『ブッダ真理のことば』佐々木閑著
9.『ブッダ最期のことば』佐々木閑著
10.『インナーチャイルドー本当のあなたを取り戻す方法』ジョン・ブラッドショー著

******

特筆すべきは渡辺京二著『逝きし日の面影』。
江戸時代に日本にやってきた西洋人の、日本についての膨大な記録を著者がまとめたもので、読んでいると当時の日本人の様相がイキイキと目の前に広がるようです。

その時代の日本人はとても陽気で幸福であったこと、死を恐れていなかったこと。
どんなに貧乏でも、他の諸外国の貧困層とは違い、清潔であったこと。
礼儀正しく、親切であったこと。
今の日本の様子からすると少し信じがたいのですが、私たちの祖先は本当によく笑う(どんなことにでもとにかく笑い転げるほど笑う)陽気な民族だったようです。



印象に残った本をもう一冊挙げるとすれば『インナーチャイルド』。
教育分析(カウンセラー自身が自己理解を深めていくために指導者から受けるカウンセリング)を受けて、自分の核心部分にいよいよ迫っていこうとするときに読みました。
そして間もなく、自分のこれまでの人生が一本の線でつながって見えはじめました。
いわば、これまで自分のやってきたことの「方程式」のようなものが見つかった瞬間でした。
その時から涙が止まらず、その日の夜も、翌日も、これまでの人生の様々な自分のエピソードにその方程式を当てはめては涙・涙。
あんなに泣いたのは久しぶりです。
これまで「私はなんであの時あのような状態に陥ったんだろう」と、不可解だったことも、その本当の意味が分かっていきました。

私たちは、普段いろんな"意図”を持って、要所要所で意識的に意思決定をし、人生を生きています。
ですが、自分でも不本意な状態に甘んじてしまっていたり、よく陥ってしまう悪循環があったりします。
その時に、”意識的な意図”の他に、そのもっと奥にある”隠された意図”があるのです。
”隠された意図”は、普段、無自覚です。
なぜ無自覚なのかというと、それを自覚してしまうと、自分のアイデンティティが危うくなるのですね。

かくいう私も、必死にアイデンティティにしがみついていたわけですが、そのアイデンティティというものがガラガラと崩壊していったわけです。
その時は、まるで抜け殻になったような、非常に空虚な気持ちに支配されました。

でも。
その後、アイデンティティなど、そもそも幻想だったことに気付きました。
アイデンティティとは通常、「自分は〇〇だ」と固定させてしまう、まさにヨーガの言うところの非我だったのですね。
”私”という個の意識としてのアイデンティティから離れ、もっと普遍的なものへ結びつけようとする、それがヨーガです。
理論では学んでいましたが、頭ではなく実際の体験での理解が、これから少しずつ深めてみたいな、と思っています。








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# by ramram-yoga | 2017-02-28 23:11 | | Comments(0)
相手を知ることは、自分を知ること
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昨年の春に大学院を卒業し、本格的にカウンセリングの勉強を始めています。
カウンセリングをしていてつくづく思うのは、自分が達していない境地には相手を導くことができないということ。
自分にとって大きな気づきがあった時に、患者さんにも同じ気づきが起こるということもあります。
理性よりもっと深いいのちの部分で、共鳴のような現象が起きる。
そういう意味では、ごまかしのきかない世界だと思います。

思い返してみると、私はずっと以前からこの仕事をしたいと思っていたのだと思います。
ただ、高校・大学時代に進路を決めようとするときには、まだ私には覚悟ができていませんでした。
人の心と真剣に対峙していき、そうすることで自分自身の運命までも変わっていく、ということに対しての覚悟です。

カウンセリングの実際の指導を受けるようになってから半年あまりが経とうとしていますが、カウンセリングでどうしても躓いてしまう私独特のパターンが、見えてきました。
誰に対するカウンセリングでも、ある地点から深まっていかないのです。
周辺ばかりに話が広がって、問題の核心に突っ込んでいくことができない。
私自身にはその自覚が無く、まるでベールに阻まれてその奥に何があるのかがよく見えないという感覚がありました。
でも、指導を受けながらその問題を少しずつ掘り下げていくと、自分自身の問題が見えてきた瞬間がありました。
それは、核心に触れることで、相手が傷つき苦しむことへの恐れでした。

その恐れにはっきりと気づいた時、同時に、自分自身が傷つくことを恐れていることに気付きました。
傷つけることへの恐れは結果としての現れであって、その根本に傷つくことを回避し、自己保身しようとしている自分がいたのです。
これに気付いた時は、愕然としました。
結局私は、自分のことしか考えていないじゃないか、と。
心理士には専門職として自己理解を深めていく“教育分析”を受けるシステムがあるのですが、その教育分析の当面のテーマとなりそうです。

指導を受けている先生から言われた言葉が、胸深くに響きました。
「相手が自分の目の前で苦しんでいるのを、ちゃんと見ていられるか?」

そして、この言葉も。
「どんどん傷つけばいい。
 本当は何も傷ついていないんだから。」
傷ついていると思っているのは私のちいさな我であって、本当の自分(真我)は誰にも傷つけることができない。

相手を知ることは、自分を知ること。
自己理解が深まるほど、相手への理解が深まる。
相手に対して、自分に対して、今年も真摯に向き合っていきたいと思わせてくれた気づきでした。



(写真は先日、息子のボーイスカウト活動で中山寺奥の院へ初詣に行った時の道中です)







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# by ramram-yoga | 2017-01-24 09:17 | 心理学とヨーガ | Comments(0)