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5月の読書本
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24.『学生・研究者のための学会ポスターのデザイン術』宮野公樹著
25.『依存と虐待』斎藤学編集
26.『響存的世界 (鈴木亨著作集第四巻)』鈴木亨著
27.『人類の未来ーAI、経済、民主主義』ノーム・チョムスキーほか著★
28.『「気」の死生観』河野十全著
29.『「気」で生きる』河野十全著(再読)
30.『河野十全の宇宙意識の言葉』心理生活研究所 人間社 編
31.『封印された叫びー心的外傷と記憶』斎藤学著
32.『生活保障ー排除しない社会へー』宮本太郎著★
33.『ヘンでいいー「心の病」の患者学ー』斎藤学・栗原誠子著
34.『唯識の心理学』岡野守也著
35.『続・ゆかいな仏教』橋爪大三郎・大澤真幸著
36.『シンナー乱用の治療と回復』小沼杏坪著
37.『あなたを変えるダウジング』堀田忠弘著
38.『薬物乱用と家族』斎藤学著
39.『幸福の政治経済学』ブルーノ・S・フライ、アロイス・スタッツァー著★
40.『ウニヒピリ』イハレアカラ・ヒューレン、KR著(再読)
41.『地方消滅 東京一極集中が招く人口減少』増田寛也編著★
42.『自分の居場所のみつけかた』斎藤学著
43.『仏の教え ビーイング・ピース』ティク・ナット・ハン著(再読)
44.『ホ・オポノポノ』イハレアカラ・ヒューレン著
45.『その後の不自由』上岡陽江、大嶋栄子著
46.『「家族神話」があなたをしばる』斎藤学著
47.『呼吸による気づきの教え』井上ウィマラ著
48.『ケア学ー越境するケアへー』広井良典著

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4・5月で、それまで狭かった視野が開けていく経験を多くしました。
中でも、京都大学で広井良典先生の「現代社会論演習」を聴講させていただいていることはひとつとても大きなきっかけとなりました。
★マークのついている4冊は授業のテキストでもあります。
これまで読んだこともないような政治経済についての本を、最初は恐る恐る手にとって読んでいました。
初めて見る言葉、視点、価値観、提言、そして、目をそむけたくなるような現代社会のリアルな問題。
しかし、テキストを読んで咀嚼し、何とか自分の考えとしてレポートにまとめ、他の方々の意見と共にディスカッションしていく中で、これは決して自分と無関係のことではないのだという実感がつかめてきました。
そして、この現代の社会経済を読み解いていくマクロな視点の中に、個人レベルのミクロな視点で読み取れる事と同じような現象を見ることができる、という感覚が出てきました。

このような感覚がつかめているのは、まさに広井先生の見識の深さと、様々な意見に耳を傾け、理解することのできる包括力なのだということが、だんだんとわかってきました。
本当の意味で学識が深い人とは、自分の専門分野について深さがあるだけでなく、他分野にまたがって幅広く、しかも深い。
それだけではなく、その隅々にまで自分の考察が行き届いている。
また、基礎教養が揺るぎなくしっかりとしている(ここをおろそかにしている専門家は案外多いのではないかと思うのです、自戒の念を込め)。
だから、どんな意見が出ても、カテゴリーエラーを起こすことなく、包含することができるのだと思います。
そして、そこには前提として、遍在する人間的な温かさがあります。


さて、ここからはお知らせ。
来月は京都で、シンポジウムがあります。
広井先生もシンポジストとしてご登壇されます。
私も受付でお待ちしております^^







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# by ramram-yoga | 2017-05-31 19:37 | | Comments(0)
死と再生のつながりを見つめる
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今日は『呼吸による気づきの教え』を読んでいました。
著者の井上ウィマラ先生は高野山大学で教鞭もとっておられ、学際的に研究をなさっている方でもあるので、学会のシンポジウム等でお話を拝聴したことはありました。
その一方でヴィパッサナー瞑想の実践者でもあります。
本を読んでいると、ご自身が瞑想によってかなり深い境地にまで達していらっしゃることが分かりました。
一貫して、丁寧で、清らかで、洞察の深い内容でした。

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その中で、輪廻思想についての記述がありました。

仏教には「天眼智」という智慧があり、これによって、死んでゆく過程や生まれ育つ過程を繰り返し見つめていると、心の思いや行動のエネルギーによってさまざまな生存領域に輪廻転生する業(カルマ)の法則性に気づくというのです。
それはまるで、観察力のある人が、目の前に行き交う人を見ながら「あの人たちは家に入った。あの人たちは家から出ていった。あの人たちは広場の真ん中に座っている」と観察しているようである、といいます。

そして、死の直前、死後に生まれ変わる世界の様子(Gati-nimitta)が予兆として見えることがあるのだそうです。
例えば、天からお迎えが来るのを見て歓喜にひたる、等。
それらのイメージは極めて明瞭であるため、実際に今ここでこれを実体験しているような意識作用が生じる。
すると、全身で体感した思いの力が時空のほころびを作り、業のエネルギーが瞬時に次の生涯へと転送されるのだというのです。

それに対し、輪廻から解脱する智慧を完成させると、どんなイメージが浮かんできても、それが記憶を介して作られたものであることに気づいて、自覚していることができるのだそうです。
そのおかげで、死の間際にどんなイメージが出てきても、それをありのままに見つめ、それが消えていくことを自覚できる、と。
つまりそれが輪廻転生からの解放(解脱)ですね。

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物事に対する洞察が深まっていくというのは、このようなことなのかと、感動を覚えました。
そのように物事が修行者によって観察される様子を、ブッダは長部経典の『修行者となる成果についての教え(Samannaphala-Sutta)』で下記のように述べています。


そのように、修行者は集中して、澄み切り穢れなく柔軟で揺るぎない心を、生き物たちの死と誕生を知る智慧に向ける。
彼は、超人的に清らかな天眼智で、生き物たちが死んでゆく様子、生まれてくる様子を遍(あまね)く知る。
卑しいものも高貴なものも、美しいものも醜いものも、幸福なものも不幸なものも、業に従って生まれてくる生き物たちのことを遍く知るのである。
               井上ウィマラ『呼吸による気づきの教え』より


偉大なる覚者・ブッダの教えを、改めて学んでみたいと思います。



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# by ramram-yoga | 2017-05-30 18:57 | ことば・メッセージ | Comments(0)
心は燃えている
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今日は、母校の兵庫教育大学大学院にて、来月の心身医学会(札幌)で発表する演題の予演と、事例検討会への事例提出をさせていただきました。
院生時代の指導教員の冨永良喜先生と、ゼミの先輩、そして現在在学中の院生の方々も駆けつけてくださいました。
特に事例検討会では、自分では持てない視点や鋭い考察をいろいろといただき、とても勉強になりました。
こうして発表のために経過をまとめていると、大きな正念場があり、今振り返るとそこがターニングポイントとなっていました。
相手の方にとっても、そして私にとっても。


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一見きれいに取り繕っていて平気そうでも、それとも反対に無表情で無気力に装っていても、きっと本当は、見せかけ。
表向きの分厚い皮が少しはがれて、その奥を垣間見た時に、ハッとする。
そこに、躍動しながら燃えている心がある。
思わず息をのむほど、鮮やかな色彩の光を放っている。
純粋であるために、脆くもある、生の心。
そこに触れる。
こちらも皮を脱いで、無防備になって、生の心と心で触れる。

あぁそうか。
あなたはこんなに、豊かな感情を持っていたんだね。
そんなあなたのことを、私は心から魅力的に思います。
でも…。
そうだよね、こんなに繊細な心、むき出しではやってられなかったよね。
むき出しだと、すぐに傷ついてしんどくなってしまうね。
今まで、辛かったね。
悲しかったね。
寂しかったよね。
いっぱい、傷ついていたんだね。
そして、心の中で、泣いていたんだね。
それなのに、感じていないふりをして、平気そうにしてたんだね。

でもね…。
あなただけは、感じてあげてね。
自分がとっても、悲しかったこと。
寂しかったこと。
笑っていても、本当はたくさん傷ついて、心の中で泣いていたこと。
あなたが感じてあげなかったら、その感情たちは、誰からも気づいてもらえないから…。

感じることに、”いい”とか”悪い”は、無い。
だって、いくら感じたくないと思ったって、もう感じている。
だから、否定しなくていい。
どんな感情でも。
誰かや何かを大好きだという想いも。
今あなたの周りで認めてくれる人がいなくても。

あなただけは、自分が今感じていることを認めてあげてね。





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# by ramram-yoga | 2017-05-27 21:07 | ことば・メッセージ | Comments(0)
すべてが”わたし”である
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「”わたし”とは何者か」という問いを発した直後から、立て続けに応答がありました。
その日の内に、手にとった本の中から言葉が飛び込んできました。
翌日は京大の広井先生の授業の聴講後、皆さんとカフェでお茶をしていた時の話題として出てきました。
そして極め付けは、ふと録画していたNHKこころの時代のシリーズ「唯識に生きる」の第2回目を観ようと再生したら、その回のタイトルが「”自分”とは何者か」でした。
あまりに直球の応答だったので、タイトルを見た瞬間、ひとりで噴き出してしまいました(笑)

「問いを発すれば応答あり」
やはり、これは確かな事のようです。
得たい回答があるとするなら、宇宙に問いを投入しなければなりません。

この人生で、真理を得るための究極の問いを見出す。
そのために心身を極限まで研ぎ澄ましていく。
それが、人間に与えられた最大の難問かつ、これ以上無く面白くてエキサイトする挑戦なのかもしれません。

最近、生きることや死ぬこと、そして自分という存在について、考えに考え抜いた人たちと出会うことが多くなりました。
周りにそんな人はいないとつい最近まで思って孤独を感じていたのですが、それは単に、私がそのような人との交流に心を開いていなかっただけだったのでした。
私もやっと、満を持してその課題を正面から問える段階に入ることができたようです。

今私ができる最大限の認識力で、人間が到達しうる最高の境地について考えてみています。
それは「この世界のすべてが”わたし”である」という境地ではないかと思います。
”わたし”が、米澤紗智江というこの個人を超えて、無限に広がっていく。
ですから、個人としての私が死んでも、”わたし”が無くなることはない。
そもそも、よく洞察を深めると、個人としての私は、実はとても曖昧なものなのではないでしょうか。
このあたりのことは、これからもっと実体験と共に体認していきたいと思っているところです。


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さて。
最近は大学時代によく聴いていたアフリカの音楽を毎日流しています。

西アフリカはマリ共和国の歌姫 Fanta Damba が唄う「Sekou Semega」。


ちなみに、この動画の女性はFanta Dambaではありません。
彼女はこんな人です↓(音声自体は上の方がいいので、下の彼女を観ながら上の音楽を聴いてみてくださいね)

通奏低音的にベースとして流れているG調のハーモニーが、自己の存在が絶対的に支えられていることを感じさせてくれるようです。








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# by ramram-yoga | 2017-05-26 22:22 | music | Comments(0)
”わたし”とは何者か
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昨日突然やってきた、見るものすべてが”わたし”であるという感覚。
以前の時と同じく、数分間で過ぎ去り、また通常の感覚に戻ってきました(以前の体験の記事はこちら)。

以前のは、一言でいうと”わたし”が述語的というか受動的になり、絶対者の一表現形態としての”わたし”を感じた体験でした。
今回はそれとは全く違うものでした。
”わたし”の範疇ががどんどん広がり、目に入るものすべてが実は”わたし”の内側にあった、という体験でした。
この体験から丸一日経ちましたが、目に映る世界が全く変わってしまいました。

まず、目の前にいる生徒さんや患者さんに良くなってもらいたいという思いを持つことは、”私”と”あなた”という主観ー客観の関係性を超え、主客が合一して”わたし”だけになった時、意味をなさなくなってしまうというのではないかと感じました。
なぜなら、私が患者さんの中に苦しみを見た時、それは私の心の中に苦しみがあるということだからです。
ということは、私は患者さんの苦しみを取り除くことは不可能であるということになります。
患者さんの中に苦しみを見なければならない自分の心をこそ、よくよく省みなければなりません。
目や耳を通して入ってくる暴力や悲しみ、自己卑下、絶望的なものも、これは決して自分と無関係ではない。
私がなぜ、それらを外に見なければならないのか、それを探る方向性でしか、これらは解決していかないのではないかと感じました。

そして、私が問わなければならないのは、先日までずっと考えていた「なぜ生きているのか」とか「死んだらどうなるのか」ではなかったのだ、ということが、わかり始めました。
なぜなら、それは、自我意識を主体とした”私”からしか発し得ない問いだからです。
そうではなく、下記のように問わなければなりません。

目に映るものすべてを内側に有しているこの”わたし”とは一体何者なのか。


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賢者たちがあらゆる方向にさがしもとめてきた彼は、われわれ自身のハートの中にいるのです。
あなたのきいた声は正しかったが、その声がくると見た方向がまちがっていた、とヴェーダンタは言います。
あなたが見たあの自由の理想は正しかった。
しかしあなたはそれを、あなた自身の外にあると見た、それがまちがいでした。
それをもっともっと近くに持ってらっしゃい。
それはつねにあなたのうちにあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたにわかるまで。

あの自由は、あなた自身の本性だったのです。
そしてこのマーヤー(迷妄)は、決してあなたをしばったことはありません。
自然は決して、あなたの上に猛威をふるうことはありません。
おびえた子供のように、あなたが、自然が自分のくびをしめるというゆめを見ていたのです。
この恐怖から解放されることが目標なのです。
それを知的に理解するだけでなく、まのあたりにそれを見ることです。
この世界を見るよりももっと確実にそれを認識することです。
そのときにわれわれは、自分が自由であることを知るでしょう。
その時にはじめて、すべての困難は消滅し、心のまどいは解決し、まがりはただされるでしょう。
そして多様性と自然というまどわしは消えるでしょう。
そしてマーヤーは、いまのようなおそろしい絶望的なゆめではなくて、うつくしいものになり、この大地は牢獄ではなくて、われわれの遊園地になるでしょう。
そして危険や困難はすべての不幸までもが神聖なものとなり、われわれの前にその本性を示すでしょう。
いっさいのものの背後に、いっさいのものの実態として彼が立っているということを、そして彼が唯一の真の自己である、ということを示すでありましょう。

        スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より

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(写真は今朝近所で撮ったあじさい。もうすぐ開花ですね。)




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# by ramram-yoga | 2017-05-23 20:56 | ことば・メッセージ | Comments(0)