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Scott Ross のバッハ
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音楽の評論ができるほどいろんな音楽を知っているわけではないのですが、ただただバッハの音楽が好きで、惹かれ続けています。
最近は特に、気づきの深まりと共に、いつもバッハの音楽が流れています。
人間的・世俗的なところが無くて、天空に響くようなメロディーで一貫されています。

最近好きで毎日聴いているのは、アメリカのチェンバロ奏者スコット・ロスのバッハ。
「瞬間的な音楽の霊感」を追求した演奏家。

冴え渡る高度な技巧を有していながら、奇をてらった表現はほとんどなく、端正な演奏を良しとしていた。
一方で、チェンバロ演奏にしばしば見られるような学問的興味に傾いた演奏様式とも一線を画しており、生き生きとしたリズムや和声によって音楽の本質に迫ろうとする特徴がある。(wikipediaより)


平均律クラヴィーア曲集第一巻。

平均律クラヴィーア曲集は、24の調性をハ長調から順に半音ずつ上がるようにして構成されています。
つまり、全曲を通して、調整がゆっくりと上昇していくのですね。


パルティータ。

最近の私のテーマ曲になってしまったBWV828-3”courante”は、1:14:45あたりから。


頭頂が開いて天と繋がっていくような感覚になる、Scottの演奏です。
バッハ自身は、どんな演奏をしていたのでしょう。
今はもう聴くことのできない響きに、想いを馳せる日々です。



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# by ramram-yoga | 2017-05-07 06:01 | music | Comments(0)
花とひとつに
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まだ、ヨーガの哲学を学びはじめて間もない20代の頃。
道端で見た真っ赤なチューリップの花に吸い込まれそうになり、”この花とひとつになりたい”という強い想いがわいてきました。
それを後日、ヨーガの師匠に思い切って尋ねてみました。
優しく慈愛に溢れていながら、一方で修行者の厳しい一面も持ち合わせている師匠は、うっかり愚問をしてしまおうものなら、まるで真剣でバッサリと切られるような鋭いお叱りのお返事が返ってくることもありました。
なので、いつも質問するときにはいつも張り詰めた思いでしていたものです。

「道端で出会った花とひとつになりたいと思ったとき、どうすればいいですか」
という質問に、師匠は優しい口調で、でもはっきりと諭すように、
「その花とひとつになりたいという心を、客観視しなさい。」
そして、その後
「いずれひとつになるからね」
と言ってくださいました。
その時の先生の顔も声も、なんとも言えず優しく愛情に満ち溢れていました。

短いやりとりでしたが、今でもはっきりと覚えています。
何か、私の存在の深い部分にまで届いていくような問答でした。

私は師匠の答えを、以下のように理解しました。

花には本質的なものが顕れ出ている一方で、そうではない性質も含まれている。
それは変化するという性質であり、これは本質ではない。
だから、今一つになろうとするのは、まだ早い。
なぜなら、今目の前の花とひとつになると、本質的ではない変化する性質とも合一することになるから。
本当の性質を見分けることができるようになったとき、その見出した本質と初めて一つになりなさい。
そして今あなたがどうであれ、いずれは必ずひとつになる時がくる。


*******

今日出会った、この黄色い花。
葉っぱの影に隠れて、人の目に映る事もないところにひっそりとですが、誇らしく咲いていました。
見ているとどうしても、歓喜の姿そのものとしか、思えませんでした。
与えられた場で、与えられた花という姿を表現し切って、いのちを謳歌している。
生命力が花びら一枚一枚に満ち溢れて、花びらの外側にまで溢れ出ているようでした。

今日は、気が付くとこの花と一つになってしまっていました。
ちょっと早まってしまったでしょうか?^^
でも、すべては一つのものの表現と、何の疑問もなくそう思えるのです。
つい先日までの私からは、まったく想像もつかないことですけれど。

花とひとつになったり、また離れたり。
面と向きあって迫っていくというよりは、する~っと横から心を重ね、波長を細かくして合わせていくという感じ。
10年という長い間願っていた分、とうとうひとつになれた時の歓びは大きいものでした。
ひとつになることの歓びのために、私たちはそれぞれの”個”として分離しているのでしょうか。

歓びに溢れる生き方というのは、与えられたこの身体に、生命力を隅々にまで溢れるほど満たしていくことなのだろうと、最近思います。
満ち満ちて溢れ出てくるものが、その人固有の表現となって、それを謳歌する。

私も35歳にして、ようやく人生をかけてやっていくことがはっきりとし始めました。
この世で与えられた役割に、自分の持っているものすべてを出し切って死ぬことができたら、幸せです。
今年は立命の年になりそうです。
さぁやることや課題は山積しています。
1日1日進歩しながら、楽しんでいきましょう^^








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# by ramram-yoga | 2017-05-06 00:01 | 心願 | Comments(0)
生きること
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先日、上智大学名誉教授の渡部昇一氏が、逝去されました。
10年数前から愛読している月刊致知に、毎号のように、現在の経済情勢をとらえる鋭い視点と、日本の行く先をはっきりと見据えた展望とを持ち合わせた評論は、読んでいると人生の薫陶を受けているようで、読むたびに背筋が伸びるような思いでした。
この人がいれば日本という国家は大丈夫だと、頼もしく感じていていたものですが、そのような方が、亡くなられました。

その他にも、心のよりどころとしていたような人の訃報を、最近立て続けに聞きました。
この世に生きているどんな人にも、例外なく必ず死は訪れる。
改めて考えてみるまでもなく、これまで地球上に生を受けた人間の中で、現在生きている人間より、すでに亡くなった人の方が圧倒的に多いわけです。

私の個人的な感覚かもしれませんが、人は死後、影響力がだんだんと増していくように感じられます。
ジャーナリストの筑紫哲也さんが生前、21世紀のキーワードは「生きることです」とおっしゃっていました。
当時私は大学生でしたが、参加した講演の一番最後に言われた筑紫さんのこの言葉がとても印象に残りました。
その「生きること」をキーワードとおっしゃった本人の筑紫さんは、もうこの世にはいません。
そのような奇妙な矛盾を感じる一方、だからこそ生きることは本当に尊いことなのだと、筑紫さんの死後一層、その言葉の重みがどんどん増していきます。

最後に、渡部昇一氏が月刊致知最後の記事になった2017年6月号「20代をどう生きるか」で述べられていた言葉をご紹介し、心よりご冥福をお祈りいたします。

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若いうちに何になりたいかという強い意志を持つこと。
その願望を思い描き、頭の中で鮮明に映像化し、信念にまで高めることが重要であると思う。
脊髄の奥で沸々と願望を燃やしていると、天の一角からチャンスが下りてくるものである。

逆境に処する態度が運を掴む上で極めて重要であること。
英語の諺に、「a blessing in disguise.(仮装した祝福)」とあるように、一見不幸な出来事も仮装しているだけで、実は天の祝福、恩恵なのである。
どんな逆境に遭っても、決して天を怨(うら)まず人を咎めず、自らを信じて心穏やかに道を楽しむ。
「これは天命だ」と受け入れる。
そうすると、霧が晴れ渡るように視界が開け、天から梯子(はしご)が下りてきて、思いも寄らない幸運に恵まれるのです。

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# by ramram-yoga | 2017-05-05 11:19 | ことば・メッセージ | Comments(0)
段上公民館ヨーガ・セラピーのご感想
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段上公民館でのヨーガ・セラピークラスは、来月でまる8年になります。
先月、毎年恒例のアンケート調査を行い、皆様からヨーガ・セラピーのクラスに通うことで実感されている効果を書いていただきました。
おひとりおひとりが書いてくださったアンケートを、有難く読ませていただきました。
今年度も一回一回のレッスンを丁寧に行っていきたいと思います。

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【身体の筋力・バランス向上、血流改善】
・ヨーガを続けてきて、筋肉がつき、身体バランスが柔軟に保てているので、ヨーガに出会えてよかったと思っています。
・病気のリハビリ的な運動を目的として入会しました。この一時間半のヨーガが、私にとって適度な運動量であり、またその運動の強さも心地よく受け入れられています。
・今まで使っていない筋力を使用しているので、体力に自信が出てきました。
・普段から姿勢に気を付けるようになりました。
・体全体の血行が良くなっていると、ヨーガをやった日には感じる。

【リラックス・リフレッシュ効果】
・レッスン後には、身体は心地よい疲れを感じ、精神面ではとてもスッキリして気持ちがいいです。
・ヨガをしているとリフレッシュし、頭も体もリラックスできるのです。
・クラスの途中でどんどん身体がゆるんでいく実感があります。
・レッスン中に先生から「無理しないで」「できるところまででいいですよ」とかけていただく言葉に癒されています。
・休んで次の週に参加できたら、本当に体がすっきりとします。
・無理をしない、ゆ~っくりとした動きがとてもここちよいです。

【症状の軽減・健康維持】
・首・肩・上腕など痛みが出なくなりありがたいです。
・体調が良い状態を保てることができています。
・日ごろ使わない筋肉やポーズなどで、肩こりや腰の痛みもあまり感じなくなりました。
・肩こりや腰の違和感などたまにありますが、あまり長引かなくなりました。
・ヨーガを続けることで、心身ともに良い健康状態を維持できていると思います。

【心の持ち方の変化】
・心豊かな日々が増えてきていると思います。
・日々晴れの日ばかりで無く、いろいろと思い悩むことも有りますが、俯瞰(ふかん)で物事を見ると良い事も教室で教えていただき、ヨガ教室が生活に欠かせないようになりました(身心共に健康維持ができている)。
・クヨクヨ考え込みすぎない自分になってきていると思う。
・物事の損得(金銭的な事も)あまり意識しなくなった。
・焦る事とかがあまり無くなって、呑気になってきた気がする。
・日々の生活の中でストレスを感じることも多々あるのですが、気持ちの切り替えがスムーズにできるようになったと思います。
・物事には色々な面からの見方もありついつい一方通行になりがちな時にも、冷静にブレーキをかけ見直しができるような余裕を持てるようになったと思います。





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# by ramram-yoga | 2017-05-04 16:52 | YOGA | Comments(0)
主観と客観の逆転
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世界観が新たに開け、今まで見えていなかったものが見えることによって、また新たな疑問点が次々と湧いてくる今日この頃です。
”なぜ生きているのか”、”死んだらどうなるのか”といった実存的な問いに対する着地点を、私は一体どこに求めているのかが、はっきりわからなくなってしまいました。
「本当のことを知りたい」と、ずっと思っていましたが、では、事実を知識として知るということで満足するのかというと、必ずしもそうではないことが、わかってきました。
なぜなら、この”私”という存在に対する実存的な問い自体が主観性を帯びたものであり、それは客観的な事実とは本質的に異なるものだからです。
”問い”というもの自体は論理的に、すなわち客観的な枠組みでとらえることのできる種類のものですが、よく考えてみるとそこに必ず好奇心が伴っていることが分かります。
好奇心、あるいは回答を得ることへの渇望や、現状に対する何か不足した感じや耐え難い不安・恐怖などであるかもしれませんが、これらは客観性の範疇ではなく、感性すなわち主観の範疇に入るものだといえます。
そして、その問いに対して回答を得ることで満たされるであろうものもまた、納得感や、喜び、欠乏感からの解放等、主観の範疇に入るものであることが分かります。
ということは、問うことも、それに対する回答を得る目的も、どちらも主観的な範疇の中で生じてくるものなのだということになります。

というようなことを考えていると、今まで求めていたものは客観的であると思っていたものが実は主観的であったのだ、ということがはっきりとしてきました。
客観と主観の逆転ともいうべきでしょうか。
アインシュタインの特殊相対性理論で、ブラックホール付近ではあたかも空間が時間のようにふるまい、両者の立場が全く逆転してしまうそうですが、なぜかそれを思わせるような転換が自分の中で起こっていました(大げさ?)。

この問い自体が、”私”という限定された存在の意識を前提として発せられているものなのですよね。
問いに対する回答を探し回る前に、その問いが生じてくる主体とはそもそも何なのかについて、もっとよくみていく必要がありそうです。
人間の精神そのものがまず、元々自然史的に物質から生命を経て歴史的に形成されてきたものなのですから。
また、主観と客観は区別してとらえることが可能ですが、おそらくその先にはその区別を超えた主客合一の世界があるのだと思います。

でも、私にはまだわかりません。
わかることがゴールなのかも、よくわかりません。
ただ、日々強くなる”問い”から、もう目を背けることができないのです。
そして、不思議なのですが、このような自分の変化と同時に、心は今までになく静かで、頭の中は青空のように澄み渡り、日々歓びが増していっているのも、事実です。



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事実の領域における「このもの」としての今・此処に在る者は瞬間、瞬間に生まれかつ消えゆくものとして本来有限性を脱しない存在者に他ならないが、この全存在者のうちにあって他の存在者たる物質的存在・生物的生命と異なって、人間存在は等しく有限的存在でありながら、独りこの有限性そのものを自覚する存在者である。
今・此処における瞬間的存在としての自己を自覚的に知るものである。
しかし自己の有限性を真に自覚するとは、決してたんに自己自身から起こって来るのではない。
有限を自覚するとは、絶対の自己ならぬ者として超越において自己を見ることに他ならない。
無限なるものに対して始めて有限であり得るのである。
しかも無限なるものはたんに有限に対立することによって無限なるのではない。
自己の内に有限を否定的に映すことによってはじめて真に無限なのである。
このことは言い換えれば、有限なるものは絶対無限なるものの前に自己を無として自覚することによってはじめて、真に有限なることを知るのである。

人間存在は自己の無の内にその存在の理由を有つのである。
自己が生きるとともに死にゆくことにその存在の理由をもつのである。
けれどもそれは先に言ったように、たんなる無なのではない。
絶対の消滅点即絶対の生産点としての空なる場所むしろ空なる反転作用というべきであろう。
世界が生起するとは空の運動であり、空動において世界が成るのである。
すなわち現成するのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

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# by ramram-yoga | 2017-05-03 10:00 | ことば・メッセージ | Comments(0)