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社会的枠組みという視点
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死生観を求めて最近出会い、影響を受けた『死生観を問い直す』『ケア学』という2冊の本があるのですが、なんとこれらの本を執筆された広井良典先生に直接ご教授いただけるという大変ありがたいご縁を知り合いの先生からいただき、今週から毎週、先生が教鞭をとられる京都大学へ学びにいくことになりました。
求めているものに出会えることのありがたさと、いつも学び続けることの大切さを感じています。

哲学的考察から公共政策の研究まで非常に幅広い分野で活動されている先生の今回の講義の大きなテーマは「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」という今まで全く耳にしたことのない言葉でした。

※ ソーシャル・キャピタルとは
社会学、政治学、経済学、経営学などにおいて用いられる概念。
人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。(wikipediaより)

普段、ヨーガ療法士や臨床心理士として臨床を行っている際、いつも相手のパーソナルな部分と向き合い、もう少し幅を広げたとしても家族や職場の人間関係といった、狭い視野でしか物事をとらえていなかった私にとって、ソーシャル・キャピタルの概念は今までほとんど意識したことのない視点でした。
特に伝統的なヨーガでは、どこまでいってもその人個人の内での調和をはかることで、周囲と調和し、そして全体と調和していく、といったものですので、社会的包括的な視点とは全く正反対の観点から物事をとらえているということになると思います。
私自身も、まずは自己を知り、自分との調和を保つことが重要であり、社会情勢やシステム等に個人の幸福はあまり左右されないと考えていた節があり、それだけにこの枠組みから何かを考えることの必要性を感じたことはありませんでした。

講義後広井先生に、今まで自分は個人レベルでしか物事を考えていなかったので、今回の授業でまったく新しい視点をいただいたことを、お伝えしました。
すると、先生は、まっすぐ私の方を見て、”個人の死生観やケアというものも、突き詰めるところ社会組織といった大きな視点からとらえることができなければ、本当の意味で扱っていくことができないのです”と言ってくださいました。
死生観やケアというものを突き詰めて考えていくことと、社会組織や医療経済の在り方を追求していくことと、これまで全くつながらなかった私ですが、その先生のお言葉をいただいて、これは自分に欠けていた視点だったのだということに気付きました。
そのような、優しく静かでありながら、でもしっかりと心に響いてくるような、先生の真摯なご姿勢が、印象的でした。

講義にいらっしゃっていた方々は、政治家を目指す学部生さんや疫学を研究している院生さん、大手メーカーの研究職の方、行政の方、神職の方々、医療関係の方々など多様で本当に刺激的でした。
これからまた、新しい視点が開けていきそうです。





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# by ramram-yoga | 2017-04-28 02:34 | 社会的視点 | Comments(0)
世界観の逆転
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全ての現象は、その存在を絶対的に支えている何かがなければあり得ないのだ、ということを、身体感覚を伴って体験してから、丸2日が経とうとしています。
この体験が私にとってどんな意味を持つのかについては、後になって振り返ってみないと分からないことでもあると思います。
気付いたからといって私が変化してしまった訳ではなく、至っていつも通りです。
”人が何かを悟る”ということは、悟りがある瞬間突然に訪れて、その前とその後ではその人は決定的な変化を遂げて別人のようになってしまう、というのでは、実際は無いのかもしれません。
そのような人もいるのでしょうが、ほとんどの人にとって”悟り”とは、気づきが深まる体験を日常生活の中で繰り返し反芻し、だんだんと自分の体認として落とし込んでいく過程のことを言うのかもしれません。
また、その過程は、ただただ知覚による体験だけで成り立つのではなく、必ず何らかの形で客観的にとらえなおすという理性的な作業が必要なのだと思います。

今から4,000年以上も前に編纂されたとされるウパニシャッド聖典群のひとつ「ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド」の中に記されている瞑想手順にも通じていて、改めてそうなんだなぁと思いました。
そこに記されている瞑想法は以下の4段階に分かれます。

 1.シュラヴァナ(聴聞)…まずは智慧や進むべき方向性を学び、ヴィジョンを持っておく
 2.マナナ(熟考)…それについて熟考し、内省する
 3.ニディディヤーサナ(深い瞑想)…日常生活に即して熟考し続ける
 4.ギャーナ(悟り)

*********

今日、目的地に向かう道中、雨の中傘をさしてゆっくり歩いていたのですが、その時にふと、自分の見ている世界が全く変化していることに気付きました。
以前は、目に映る者は全て諸行無常で変化するために、そこに本質は無いという風に見ていました。
でも今日は、目に映るもの全てを、根源的ないのちともいうべき絶対者が多様な様相で現象しているものであると、見ていたのです。
どこを見回しても、それまで感じていた空虚さは無く、それと全く正反対の、充足・充満と形容すべき感覚に満たされていました。


この、自分の内側で、また目に映る全てのものの内側で、大地から天に向かって躍動感を伴って振動しながら上昇する”響き”。
鈴木亨が、「これを極限的に表現するものは、例えばモーツァルトの「交響曲第40番」や、K・514の「管弦五重奏曲第4番」」であると著書の『響存的世界』で書いていますが、私にとっては、最近いつも聴いているバッハのパルティータも、まさにそれを表しているように感じられます。
以前のブログでは、グレングールド演奏のを貼り付けましたが、今回はいつも聴いているグスタフ・レオンハルトのチェンバロ。
(courante は10:36~です。)


バッハも、この”いのちの響き”とも言える響きを、感じながら作曲していたのでしょうか。












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# by ramram-yoga | 2017-04-26 20:00 | music | Comments(0)
響存的理性
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昨日、感じたこと。
頭での理解としてではなく、体感として。

この現象世界が成り立つ大前提として、それを支える絶対的な包摂者がいるということ。
それ無しには、いかなる現象も成り立ち得ないということ。
まるで、映画がスクリーン無しでは決して映し出されないように。
そして、この私という存在も、それに絶対的に支えられ、ここに生かされているということ。

突如としてやってきた、今まで全く感じたことのなかった感覚に驚き、とっさに窓を開けて外の景色を眺めていました。
自分の身体に満ち満ちてあふれるほどの何かを感じ、それが振動しながらゆっくりと、大地から天へと上昇していくのを感じていました。
そして、それが私の身体にだけでなく、目に映る全てのものの内で起こっているのを見て取ることができました。

あの感覚はなんだったのだろうと昨晩から振り返っていたのですが、
今朝、あれは、鈴木亨の言う「響存的理性」なのではないかと、ふと思いました。
「絶えず私に働きかけてくる、絶対に私の内ではない、同時に私と離し難く一つである」ものが、私を貫いて響いている感覚だったということに思い至りました。




すべて、この世界に存在する者としての有限的存在者は、
無限・絶対・永遠な空の自己否定即他者(存在者)肯定として、
空の大悲によって光被されて初めから存在させられている。

それは、存在者が存在するとは空が非在することを意味し、
この空の大悲、キリスト教的には精霊の息吹によって、
人間が初めから存在することを許され、
また祝福されていることを意味しているのである。

ただ、ほとんどの人間は、
そのことを自我中心的であることによって気づかず、
自らを物や生物や世界の主であると錯覚しているのにすぎない。

鈴木亨著作集第4巻『響在的世界』より



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# by ramram-yoga | 2017-04-25 20:01 | ことば・メッセージ | Comments(0)
絶対的に包まれている
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癒しというものは、いつも”包まれる”という現象の中で起こる事であるような気がしています。
癒す側が人であっても自然であっても、芸術的な何かであっても、そこに”包むー包まれる”という関係性が生じた時、包まれた側は自我の殻を緩め、無防備になって癒し手に身を委ね切り、そこから深い癒しが生じてくるのだと思います。

これは、自分が癒す側になっている時も、癒される側になっている時も、感じていることです。
というより、突き詰めていくところ、癒しが起こる時、癒す側・癒される側という区別は意味をなさなくなっているとさえ、思います。

最近のヨーガクラスでいつもイメージしていることがあります。
クラスに来られている生徒さんを、子宮という小宇宙ですっぽりと包み込んで密閉し、その場の気の密度をどんどん高めていくのです。
もはや何を言っているのか訳が分からないかもしれないですが(笑)、毎回、明確にそうイメージしています。
緩め委ねることが癒しに必要なら、やはり人が一番無防備で委ねることのできる場所は子宮の中だと思うからです。

先日、いつものようにすっぽりと包み込むイメージをしていた時、包んでいる側のはずの私が、実はそもそも絶対的に包まれているという事に気付きました。
包摂- 被包摂という関係が起こる時、それをさらに包みこんでいる包摂者としての”場”があり、この”場”が無ければそもそもこのような現象は起きえないのだと。
そして、気づきました。
相手が癒される時、同時に癒す側にも深い癒しが起こってきていることに。
包摂ー被包摂の関係で癒しが起こるのは、その底辺で、それを包み込む根源的な包摂者に触れるからである、と。

先日読んだ鈴木亨の『生活世界の存在論』の中で、氏の哲学思想の根本的理法が「存在者逆説空」つまり、”人間的主体は超越的他者に自己矛盾的に逆説し、そこから絶対的に限定されることによって、客体的に主体的であることができるような存在であるとありましたが、もう一つの理法「空包摂存在者」というのが何を表しているのかを、少し理解できたような気がしました。
つまり、この世界の存在者は、絶対的な包摂者である空に包摂され存在している、ということです。

ここまで書いていて、今まで入ったことのない思考の領域に足を踏み入れた感覚があるので、もう少し、以下文章を書き進めることで、気づきを深めてみることにします。
そもそも”私”が存在しているということ自体、その存在を絶対的に支えている何かがなければあり得ないことであり、今書きながら、たった今世界が全く逆転してしまって、あまりにびっくりして叫んでしまいそうなのですが、”わたし”という存在は、死んでしまえば無になってしまうという類の空虚なものでは、全くないのですね。
なぜなら、この世界が成り立つ大前提として、絶対的な包摂する側がまず在るからです。
これを”根本原理”というのか、それとも”絶対者”、”神”、”サムシンググレート”と呼ぶのか、それらが同じなのか分かりませんが、まずは絶対的な存在としての包摂者が在り、それがひとつの表現として”わたし”を存在させている、ということ。

あぁ、そうか、そうだったのですね。
もう少し、今気が付いたことについて、時間をかけて深めてみたいと思います。




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# by ramram-yoga | 2017-04-24 18:57 | ことば・メッセージ | Comments(0)
大地から天へ
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先週末はボーイスカウトの舎営に参加した息子に付き添って、1泊2日を甲山森林公園の中で過ごしました。
森林の中はツツジが満開。
道中で随所に咲いているのを目にする度に、心奪われました。
春に咲く花はまさに「咲き乱れる」という言葉がぴったりですね。
こちらに入り込む隙を全く与えないかのような力強さと勢い。
花の横顔を眺めながら、その一つ一つの花がどこか同じ方向に向かっているのを感じました。
大地から天へと上昇していく、それはそれは力強いエネルギーでした。


バッハのパルティータ BVW828-3 courante, グレングールドのピアノ演奏で。

今朝ふと聴きたくなって聴いていると、この曲にも、あのツツジのように、生命力が大地から天へ上昇していく様相が表現されているように感じたのでした。
数学者でもあり、音楽の作曲に関しても非常に緻密だったバッハ。
同じ時代に生きたヘンデルのような感動的なダイナミズムとは対照的な、淡々と進んでいくそのメロディーとリズムの中に、なぜこんなに豊かな感性の世界が広がっているのでしょうか。
何度聴いても全く色あせることがありません。
この曲以外にも、聴いていると天に上昇していくような曲が、バッハの楽曲にはあります。
それも、高揚感に浸るのではなく、静かな穏やかさとともに…。

そして、それを聴いている私がそこに感化しているということは、人間にもあの花のように大地から天に上昇していく力強いエネルギーを、生命の本質として持ち合わせているからなのだと思います。












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# by ramram-yoga | 2017-04-21 11:20 | music | Comments(0)