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6月の読書本
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49.『シーラという子』トリイ・ヘイデン著
50.『家族パラドクス』斎藤学著
51.『あかるく拒食 ゲンキに過食』伊藤比呂美・斎藤学著
52.『ゾウの時間 ネズミの時間 -サイズの生物学-』本川達雄著
53.『仏教教団の誕生』佐々木閑著
54.『般若心経』佐々木閑著
55.『死について考える』遠藤周作著
56.『宗教を心理学する ーデータから見えてくる日本人の宗教性ー』松島公望・川島大輔・西脇良編著
57.『タイガーと呼ばれた子』トリイ・ヘイデン著
58.『マインドフルネス 気づきの瞑想』バンテ・H・グナラタナ著
59.『道元 正法眼蔵』ひろさちや著
60.『身体感覚を取り戻すー腰・ハラ文化の再生ー』斎藤孝著(再読)
61.『意識に直接与えられたものについての試論』アンリ・ベルクソン著
62.『笑い』アンリ・ベルクソン著
63.『風土-人間学的考察-』和辻哲郎著
64.『感性の覚醒-近代情念論の再検討を通じて-』中村雄二郎著
65.『無意識の発見(上)』アンリ・エレンベルガ―著
66.『野口体操 おもさに貞く』野口三千三著
67.『手放す生き方』アーチャン・チャー著
68.『身体の宇宙性-東洋と西洋-』湯浅泰雄著
69.『「からだ」と「ことば」のレッスン』竹内敏晴著
70.『「聴く」ことの力-臨床哲学的試論-』鷲田清一著
71.『森林の思考・砂漠の思考』鈴木秀夫著
72.『聖書と歎異抄』五木寛之・本田哲郎著
73.『〈いじめ学〉の時代』内藤朝雄著
74.『肉食の思想ーヨーロッパ精神の再発見ー』鯖田豊之著
75.『維摩経』釈徹宗著

*******

今月は、今までの自分の視野がいかに狭く限定されたものであったかを教えてくれるような本にたくさん出合いました。
自分の生きている風土、この人間という生体のあり様、寿命の長さ、心臓の鼓動の速さ、食べているもの等。
そのようないろいろな要素によって、無自覚の内に、世界観のとらえ方が限定を受けている、ということ。
また、”わたし”という感覚が如何に曖昧なものであるか、ということについても。

さて、ただいま東京行きの新幹線の中からブログを更新しています。
明日は、赤羽にあるヨーガ療法研修センターで開催される、ヨーガ療法士向けの専門講座の講師を務めさせていただきます。
アウトプットをすると、そのたびに新たな世界が開けていくので、とっても楽しみにしています。

明日から、7月ですね。

(写真は、北海道大学の植物園にて。)





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by ramram-yoga | 2017-06-30 20:55 | | Comments(0)
愛の言葉
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数日前から、口に出して唱える愛の言葉を、考えていました。
自分を愛でいっぱいに満たす言葉。
フォーカスする先を、欠乏感から、満ち足りた感じにシフトしていくことで、どんどん満たされていきます。
意識というのは、不思議ですね。

自分を愛するということは、周囲の人を愛するということ。
どんな言葉がいいかな…と、色々なアファメーションの言葉も参考にしながら、今の私の中から湧いて出てくる言葉を並べてみました。
そして、一番いいな、と思う言葉の一連が完成しました♪
愛の言葉の力は、とってもパワフルです。
繰り返し唱えていると、疲れも吹き飛び、愛で満たされてあふれ出していくようです。

今日は、ヨーガのクラスでも、皆さんとこの言葉を一部唱えました。
もし、この言葉が気に入ったようなら、毎日胸の前で手を合わせて、唱えてみてください。
微笑とともに…。

もっともっと、ともに満ち、満たされていきましょう。
いいえ、正確には、すでに、あり余るほど満ちたりていることを思い出し、心ゆくまで味わいませんか^^

*********


わたしは、わたしのあるがまますべてを受け入れ、愛します。
わたしは、今までいつも、わたし自身がその時できる最善の選択を取ってきたことを、知っています。
わたしの中で、欠点に思えるところも、実は魅力的なかけがえのない部分であり、周囲の人が親しみを感じる部分でもあることを、理解しています。
わたしには歓びを手にする価値があります。
わたしに必要なものはすべて、いちばんいい時機にわたしの元へやってきます。
わたしは健康で、エネルギーに満ちています。
わたしはいつも完全に満たされ、守られています。
わたしは、わたしのあるがまますべてを受け入れ、愛します。








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by ramram-yoga | 2017-06-29 20:56 | ことば・メッセージ | Comments(0)
プロジェクト「いのち」公開シンポジウム
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日曜日、プロジェクト「いのち」の定例会として、公開シンポジウムを開催しました。
開催の概要報告は、こちらから↓
(私が記事を書かせていただいています)
これまで定例会では、医療や宗教、哲学、科学等の分野についての内容は多かったのですが、今回の広井先生のご講演のように社会経済からの視点や、近藤先生からの防災・減災、そしてメディアからの視点は、非常に新鮮でした。

一番印象的だったのが、講師の先生方のお人柄でしょうか。
全くお高く留まったようなところがなく、とても気さくで、温かい。
後で主催者側で懇親会を行ったのですが、なんとも和気あいあいとした時間でした。

私自身も、これからの課題としていくつかキーワードをいただきました。
また昨日は、いつも研究会でご一緒させていただいている、堀田医院の堀田先生の診療を受けてきたのですが、そこで言っていただいたことを合わせて、今思っていることを以下にまとめてみます。


*********


教えてもらい、吸収するだけの時期は終わった。
これからは自分の立ち位置であるからこそ発信できることを、アウトプットしていく。

すごーい!と感動したり、不思議―!と追求を強めていくことは、一方で欠乏感を感じることであったことに気づく。
すでに手にしているもの、すでに満ち足りていることに、意識を向けていく。

どんなインプットに対しても価値観に縛られることなく、素直に受け入れる心を持つこと。
一方で、すべて鵜呑みにするのではなく、自分でよくよく考えた上で、受け入れるかどうかを判断する。

人生をかけて、本気になれることに、惜しまずにエネルギーを注いでいく。
人とかかわりながら、わくわくして楽しく、いくらやっても疲れないことを。






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by ramram-yoga | 2017-06-28 09:36 | プロジェクト「いのち」 | Comments(0)
すべては私の内側にある
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昨日、私の主治医である斎藤クリニックの斉藤先生に誘導していただいた瞑想で、はっとする経験がありました。
瞑想の中で仙人と出会います。
自分のイメージでその仙人を描いていいということだったので、以前から私の心の中で理想として描いている、ある御方のイメージをその仙人に重ね合わせました。
その神々しく眩い光をにじませているその御方に、今自分が直面している疑問を投げかけます。

私とは何?
なぜ生きているのですか?
本当のことが知りたいのです。

すると、その御方は、優しく微笑みながら、その欠乏感を抱えている私を丸ごと包みこんでくれました。
そして、その後、その御方と私は抱き合って、お互いに溶け合って一つになっていきました。

その時に、はっとしました。
答えは私の外側にではなく、内側にある。
私はすでに、知っている。
そしてすでに、満ち足りている。

分からない、分からない、と、不思議がり、外側に回答を求めても、そこには「分からない」を助長するものが待っている。
わたしが本当に深く探求していくべきなのは、わたし自身。


*********


外から来る知識はありません。
それはすべて、内にあるものです。
われわれが、人が「知る」というものは、厳密に心理学的に表現するなら、彼が「発見する」もの、または「覆いを除く」ものであり、人が「学ぶ」というものは、実は彼が、無限の知識の鉱脈である自分の魂の覆いを取り除いて、そこに「発見する」ものなのであります。
われわれは、ニュートンが引力を発見した、と言います。
引力は、どこかのすみにいて彼を待っていたのでしょうか。
それは彼自身の心の中にあったのです。
時期が来て、彼がそれを発見したのです。
世界が獲得したすべての知識は、心から来ます。
宇宙という無限の書庫は、あなた自身の心中にあるにすぎません。
外部世界は単に、あなたに自分の心のンかあを研究させる暗示であり、機会であるにすぎません。
あなたの研究の対象は、常にあなた自身の心です。
リンゴが落ちたことがニュートンにヒントを与え、彼は自分の心を研究したのでした。
彼はすでに心の中にあった思いのつながりを再編成し、そこに、われわれが引力の法則と呼ぶところの新しいつながりを発見したのでした。
それはリンゴの中にあったのでも、地球の中心の何かにあったものでもありませんでした。
ですから、世俗のにせよ霊的なものにせよ、すべての知識は人間の心の中にあるのです。

心の力は集中され、それ自身の方にむけかえられなければなりません。
そうるすと、太陽のさしつらぬくような光線の前にはまっくらな場所もその秘密をあかすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。
このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。
自分たちは魂をもっているのか、いないのか、生命はつかの間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。
それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ「カルマ・ヨーガ」、「ギャーナ・ヨーガ」より



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by ramram-yoga | 2017-06-25 08:48 | ことば・メッセージ | Comments(0)
平安神宮で1300人がヨガ
インドのモディ首相の提言により2015年から始まった国際ヨーガの日。
毎年6月21日がその日にあたります。
今年も、この日の前後に、世界各地でヨーガのイベントが行われたようです。

京都では平安神宮でなんと1300人が一斉にヨーガをするイベントがあったようです。


最前列の真ん中、ラフなジーパン姿でヨガをやっているお方は、我らがヨーガの師である木村慧心先生です。
ヨーガ療法学会の理事長でもいらっしゃいます。

それにしても…すごい迫力ですね。


*******


公開シンポジウム、いよいよ今週の日曜日です。
当日参加もOKですので、ご興味があれば是非お越しくださいね^^


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by ramram-yoga | 2017-06-23 09:40 | YOGA | Comments(0)
あらゆるものの中に師を見出す
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最近、本との出会いが面白い。
今まではその時期その時期で、ある一定期間、一人の人が紹介してくれる本を読んでいく、というのが、私の読書のスタイルでした。
そして、そのことによって、それらの本を紹介してくれる人の精神性に少しずつ近づいていっていたのだと思います。
つまり、読書を通してその人に導いてもらっていたのですね。

でも、最近は、そのようなことが無くなり、私からダイレクトに本と繋がることができるようになってきました。
本に呼ばれる、というのでしょうか。
次々と、読むべき本が現れて、その中に書かれている言葉が私のこれから進むべき道を示してくれるのです。
その本を読んでいるうちに、気になるキーワードが出てくる、またはその本の中に興味をそそられる本が紹介してある。
調べてすぐに購入し、読む。
その中には驚くほどタイムリーで、そしてまた新たな世界が開けるキーワードがつづられている。
最近はそんなことの繰り返しです。

人との関係についても、同じことが起こっています。
これまでは、ある一定期間、一人の人についてその人にすべてを委ね、導いてもらう、というスタンスをとってきました。
でも、最近はそのような傾向が無くなりつつあります。
その時出会った人との会話、ふと目にした光景や、日常の体験など、いろいろなものの中から導かれているのを感じます。

それまで、何かを突き詰めていこうとする時には師が必須であり、その人にどこまでも導いてもらうべきだと考えていた私にとって、上に書いたような変化はしばらく受け入れがたいものでした。
しかし、これでいいのだと、思うようになりました。
なぜなら、外に師を見る時、それは自分自身を見ているのであり、その師の言葉を聴く時、それは自分自身の心の内から響いてくる言葉だということが分かってきたからです。
つまり、師とは鏡のような存在で、師を通して自分自身を見ていたのですね。
そして、師を一人の人に限定することなく、あらゆるものに師を見出し導かれることもできるのだと思います。
人間としての師はきっと、究極的に導いてくれる何かの、一つの表れにすぎないのです。

同じように、今、本を通して出会っている言葉や、外界で見聞きするあらゆる出来事は、自分自身の内側にあるのだと感じます。
外側で起こっている出来事は、自分の心を映し出している。
だから、自分の心が変容していくと、出会う人や見聞きすることが変わってくる。

出会いの広がりに、際限がない。
どんどん、新たな感性が開け、それがみるみる展開していく。
1日1日が、新しい。
従来の認識では許容できない不思議な出来事も次々と体験します。
でも、いちいち不思議がって驚ている暇も、ありません。
これからまだまだ、今まで出会ったことの無いような人と出会い、聞いたことも見たこともないようなものとの出会いが待っていると思います。
そして、今はまだ未知の認識が、開けてくるのだと思います。
とにかく、導かれるまま潜ってみよう、自分の心の奥深くに。


***********


6月25日に京都で行われる公開シンポジウムが、今週末に迫ってきました。
ご興味のある方は、是非ご参加ください。
私も受付でお待ちしています^^




(写真は、先日訪れた北海道大学植物園で咲いていたヤマボウシ。
 正面から見てももちろん綺麗でしたが、写真のような横顔も素敵。)

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by ramram-yoga | 2017-06-20 19:36 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
心身医学会 at 札幌
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6月16日(金)・17日(土)と、札幌コンベンションセンターで日本心身医学会の学術集会があり、参加してきました。
札幌には前日入りしていたのですが、飛行機で降り立った瞬間、寒さに驚いてしまいました。
完全に、夏の恰好で行ってしまったのでした…笑

学会では、普段は会えない仲間や先輩方、共同研究の先生方など、様々な方と交流ができ、とてもいい2日間となりました。

また、修士論文の研究内容をポスター発表しました。
大学生を対象とした、摂食障害傾向と失体感症との関連についての調査研究の報告です。
この研究では大学生の摂食障害傾向と失体感症傾向とが有意に関連していることが示唆され、摂食障害の病態理解や臨床での介入の根拠の一つになるのではないかと考えています。

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いろいろな方に手助けしていただきながら、ようやくこの研究の英語論文も出来上がってきました。
近いうちに投稿することができそうです。


バタバタととんぼ返りの北海道でしたが、今日の午前中は学会を抜け出して、ひとりで 北海道大学植物園を散策してきました。
6月の新緑が、本当に美しかった。
草原の静かな木の下で瞑想もすることができ、なんとも幸せなひと時でした。


***********


さて。
ほっとしたのもつかの間、次なる大きな仕事が待っています。
7月1日に東京で開催される、ヨーガ療法士のための専門講座の講師です。
こちらも、とっても楽しみにしています。
充実した時間になるよう、これからしっかり準備をしていきたいと思います^^






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by ramram-yoga | 2017-06-17 22:48 | 活動記録 | Comments(0)
風土による自己の自覚
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先日の京都大学での鎮守の森ヨーガ・セラピーの記事を、さっそく広井先生が記事にしてくださっていました。
教室で椅子ヨガを行った後、吉田神社で神林(しんりん)浴を行った風景も紹介されています。


今回ヨーガ・セラピーの後に皆さんでお話をしていた時に、広井先生が土地の風土によって宗教観が異なってくるのではないか、というお話をされ、それがとても印象に残りました。
例えば、ヨーガを源流として、インドで始まった仏教は森林の中で行じられていたので、仏教の宗教観には自然との一体や調和といった指向性がある。
一方で、キリスト教が唯一神教であり、超越的な指向性を持ち合わせているのは、砂漠という風土からこそ生まれてきたものであろう、と。
この考察は非常に興味深いと思いました。
なぜなら、私たちの世界観や論理的指向性は、私たちが意識する・しないにかかわらず、住んでいる土地の風土によってあらかじめ限定されている、ということになるからです。
でも、よく考えてみるとそうですよね。
私たちのイマジネーションというのは、五感で取り込んで認識した表象をベースとして創造されていくわけですから。

今日は和辻哲郎の『風土』を読んでいたのですが、そこに、上記に深く関連するようなことが述べられていました。
例えば、インド哲学では”アートマン(真我)”という実在原理を想定します。
想定するというより、これはヨーガ行者が”三昧”と呼ばれる深い瞑想状態において直覚したのです。
和辻は、これが直覚され得たのはインドの風土においてだからである、と述べています。
一方で、仏教の根本的原理はというと”無我”そして”無常”。
ヨーガの”絶対的有”とは全く逆の、”絶対的無”が仏教の究極であるところにおいて、この両者は鋭く対立している訳です。

それらの部分について、和辻は下記のように記述しています。

仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の実相を見ようとする。
いわゆる法の如是閑、如実観である。
その根本直感は、「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。
和辻哲郎『風土』より

*****


それでは、結局私たちは、自分の生きる風土に世界観や指向性といったものをあらかじめ限定されていて、どうやってもその枠を超えることはできないのか?
何か、限定されているということは不自由であるという印象を持ってしまっていたのですが、和辻はその限定があるからこそ、人間は己れの存在の深い根を自覚できると述べています。
そして、限定を自覚することによってはじめて、限定を超えることができる、と。

我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。
人間が己の存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的のみならずまた風土的に限定せられている。
かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。
ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。
比喩をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。
もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官を優秀ならしめるのではない。
ちょうどそのように、牧場的風土において理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。
それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光を最もよく輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。
風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。
またかくすることのよって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。
風土を無視するのは風土を超えるゆえんではない。
それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるにすぎない。
しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。
否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。

和辻哲郎『風土』p143-144


(ただいま学会で北海道にいます。写真は飛行機の中より。)






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by ramram-yoga | 2017-06-17 02:59 | ことば・メッセージ | Comments(0)
集中と気づき
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自分とは何か、死とは何かという考えが、ここ2~3か月ずっと頭にこびりついて離れなくなってしまっていました。
こういうことを考えてノイローゼになってしまう人もいるようですが、それも分からなくはない、と感じました。

あれからまたいろいろな死生観や言葉との出会いがあり、ひとつ気付いたことがあります。
それは、ある一点に”焦点付け”をしようとしていた自分と、物事の本質を悟りたい時にもしかして焦点付けは弊害なのかもしれない、ということでした。
なぜなら、焦点付けが成り立つのは、まず前提として、その焦点付ける対象が一定して不変であるという想定が必要であるからです。
そして、焦点付けそれ自体がこだわっているということであり、今の不安定な心境から抜け出したいという欲から生じてきている、ということ。
果たして私が悟りたい対象は、一定して不変であるのか?というと、そもそもの立ち位置が違っていたのではないかと思うようになりました。

今日はバンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス』を読んでいましたが、内容がとても深いものでした。
優しい言葉で書かれているにもかかわらず、驚くほど深かった。
そこに、同じようなことが書いてありました。

集中力とは心を一点に集中させ、一つの固定した対象に強引に心をとどめておくこと。
一方、気付きは繊細な働きであり、鋭敏で、様々な現象に気づくことができる。
そして瞑想では、集中と気づきは共同して働くのだ、と。

”集中”にばかり偏って、”気付き”が少しおろそかになっていたようです。

それにしても、ですね。
今まで疑いもしなかった「私」が、実は実体のないものだなんて。
思い出すたびに、新鮮な驚きを感じます。
驚き、というより、驚愕と言った方が近いような気もします。
だって、35年間そう信じて疑わずに生きてきたのですから。
驚愕しているのは他でもない、「私」なのですけれど…。

また、本書には人間が病気、老い、死のほうへ進んでいくことについて”おぞましい”と表現されていました。
確かに、事実とは時に、おぞましい。
でも、気づきとは、それらは本当は別におぞましいことではなく、ありのままの現実であることを学ぶことなのだ、と後に続きます。

最後に、気づきによってもたらされる境地について書かれている終盤の文章を。

**********


私たちは「私」と呼ばれる実体を探しています。
しかし見つかるものといえば身体-骨と皮でできている袋と、その袋を「私」と見なしていることです。
さらに探求していくと、感情や思考、意見などあらゆる種類の心の現象が見つかり、これら一つ一つにたいしても「私」と考えていることがわかるでしょう。
……
どこにも「私」というものは見つかりません。
絶え間なく変化し、終わりなく流れている心の集合体に見つかるものは、前の諸々の現象から引き起こされ、条件づけられた、おびただしい変化の流れのみです。
そこに実体は見つかりません。
流れだけなのです。
思考は見つかりますが、思考する人は見つかりません。
感情は見つかりますが、感情を抱く人はいないのです。
家(心と身体の集合体)の中は空っぽです。
そこには誰もいないのです。

鋭い気づきをもって自分自身を凝視するとき、「私」や「私がいる」などの「私という感覚」は、その個体性を失い、分解してなくなります。
そして智慧の瞑想の核である存在の三つの特徴-無常・苦・無我-がありありと家(心と身体の集合体)に現れるのです。
このとき鮮明に、生は無常であること、存在の本質は苦であること、「私」という実体はない、という真理を体験します。

この明晰で純粋な深い目覚めの瞬間、意識は変革します。
固定的な「私」という概念が消えてしまうのです。
残っているものといえば、相互に関係し合う実体のない無数の現象のみです。
それらは条件によって成り立ち、変化し続けているものです。
欲は消え、重い荷物は降ろされます。
抵抗も緊張もなくなり、苦も楽もない流れだけが残ります。
心に大きな安らぎが現れます。
つくられたものではない究極の幸福、涅槃(Nibbana)が実現するのです。

     バンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス 気づきの瞑想』より





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by ramram-yoga | 2017-06-15 00:13 | ことば・メッセージ | Comments(0)
鎮守の森ヨーガ・セラピー
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この4月から聴講させていただいている、京都大学の「現代社会論演習」の授業のうちの一コマで、今日はなんと!ヨーガ・セラピーをさせていただきました。

この授業を担当されている広井良典教授が、「鎮守の森コミュニティ研究所」の所長でもいらっしゃり、その研究活動の一環も兼ねて、このような機会へのお声がけをいただいたのです。


鎮守の森コミュニティ研究所のHPで、広井先生が今日の活動を掲載してくださっています↓


毎回様々な分野の専門家が集まるのこの授業。
今日も、京大で社会経済や福祉制度を学ぶ学部生さん、医学研究科の院生さんをはじめとして、こころの未来研究所や日立製作所の研究員さん、神職の方、鍼灸師さん、身体的技法の専門家の方々など、様々な方が出席してくださり、皆さんと一緒にヨーガの時間をご一緒させていただきました。

当初は、大学の近くにある吉田神社の中で行う予定だったのですが、境内の中で大勢でヨーガはちょっとダメかな…ということで、急きょ教室内で行うことに。
皆さんで円になって、椅子ヨガを行いました。
皆さんから具体的な感想はお聞きできませんでしたが、私の印象では、開始後すぐに皆さんの意識状態が集中していくのが雰囲気として感じられました。


********


その後は、いいお天気の中、皆さんで吉田神社を参拝。
ちょうど、森林セラピーならぬ「神林(しんりん)セラピー」を開発された神職の本間裕康さんがファシリテートしてくださり、参拝や木々からのエネルギーのいただき方などを教えていただきました。

普段のクラスとは違うヨーガの機会は、新たな発見がたくさんあり、とても新鮮です。
このような機会を与えてくださった広井先生に、心から感謝いたします。




広井先生もご登壇される公開シンポジウムのご案内は、こちらです↓





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by ramram-yoga | 2017-06-14 20:07 | 活動記録 | Comments(0)