Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
<   2017年 06月 ( 12 )   > この月の画像一覧
すべては私の内側にある
a0118928_07494995.jpg
昨日、私の主治医である斎藤クリニックの斉藤先生に誘導していただいた瞑想で、はっとする経験がありました。
瞑想の中で仙人と出会います。
自分のイメージでその仙人を描いていいということだったので、以前から私の心の中で理想として描いている、ある御方のイメージをその仙人に重ね合わせました。
その神々しく眩い光をにじませているその御方に、今自分が直面している疑問を投げかけます。

私とは何?
なぜ生きているのですか?
本当のことが知りたいのです。

すると、その御方は、優しく微笑みながら、その欠乏感を抱えている私を丸ごと包みこんでくれました。
そして、その後、その御方と私は抱き合って、お互いに溶け合って一つになっていきました。

その時に、はっとしました。
答えは私の外側にではなく、内側にある。
私はすでに、知っている。
そしてすでに、満ち足りている。

分からない、分からない、と、不思議がり、外側に回答を求めても、そこには「分からない」を助長するものが待っている。
わたしが本当に深く探求していくべきなのは、わたし自身。


*********


外から来る知識はありません。
それはすべて、内にあるものです。
われわれが、人が「知る」というものは、厳密に心理学的に表現するなら、彼が「発見する」もの、または「覆いを除く」ものであり、人が「学ぶ」というものは、実は彼が、無限の知識の鉱脈である自分の魂の覆いを取り除いて、そこに「発見する」ものなのであります。
われわれは、ニュートンが引力を発見した、と言います。
引力は、どこかのすみにいて彼を待っていたのでしょうか。
それは彼自身の心の中にあったのです。
時期が来て、彼がそれを発見したのです。
世界が獲得したすべての知識は、心から来ます。
宇宙という無限の書庫は、あなた自身の心中にあるにすぎません。
外部世界は単に、あなたに自分の心のンかあを研究させる暗示であり、機会であるにすぎません。
あなたの研究の対象は、常にあなた自身の心です。
リンゴが落ちたことがニュートンにヒントを与え、彼は自分の心を研究したのでした。
彼はすでに心の中にあった思いのつながりを再編成し、そこに、われわれが引力の法則と呼ぶところの新しいつながりを発見したのでした。
それはリンゴの中にあったのでも、地球の中心の何かにあったものでもありませんでした。
ですから、世俗のにせよ霊的なものにせよ、すべての知識は人間の心の中にあるのです。

心の力は集中され、それ自身の方にむけかえられなければなりません。
そうるすと、太陽のさしつらぬくような光線の前にはまっくらな場所もその秘密をあかすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。
このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。
自分たちは魂をもっているのか、いないのか、生命はつかの間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。
それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ「カルマ・ヨーガ」、「ギャーナ・ヨーガ」より



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-25 08:48 | ことば・メッセージ | Comments(0)
平安神宮で1300人がヨガ
インドのモディ首相の提言により2015年から始まった国際ヨーガの日。
毎年6月21日がその日にあたります。
今年も、この日の前後に、世界各地でヨーガのイベントが行われたようです。

京都では平安神宮でなんと1300人が一斉にヨーガをするイベントがあったようです。


最前列の真ん中、ラフなジーパン姿でヨガをやっているお方は、我らがヨーガの師である木村慧心先生です。
ヨーガ療法学会の理事長でもいらっしゃいます。

それにしても…すごい迫力ですね。


*******


公開シンポジウム、いよいよ今週の日曜日です。
当日参加もOKですので、ご興味があれば是非お越しくださいね^^


[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-23 09:40 | YOGA | Comments(0)
あらゆるものの中に師を見出す
a0118928_18590291.jpg
最近、本との出会いが面白い。
今まではその時期その時期で、ある一定期間、一人の人が紹介してくれる本を読んでいく、というのが、私の読書のスタイルでした。
そして、そのことによって、それらの本を紹介してくれる人の精神性に少しずつ近づいていっていたのだと思います。
つまり、読書を通してその人に導いてもらっていたのですね。

でも、最近は、そのようなことが無くなり、私からダイレクトに本と繋がることができるようになってきました。
本に呼ばれる、というのでしょうか。
次々と、読むべき本が現れて、その中に書かれている言葉が私のこれから進むべき道を示してくれるのです。
その本を読んでいるうちに、気になるキーワードが出てくる、またはその本の中に興味をそそられる本が紹介してある。
調べてすぐに購入し、読む。
その中には驚くほどタイムリーで、そしてまた新たな世界が開けるキーワードがつづられている。
最近はそんなことの繰り返しです。

人との関係についても、同じことが起こっています。
これまでは、ある一定期間、一人の人についてその人にすべてを委ね、導いてもらう、というスタンスをとってきました。
でも、最近はそのような傾向が無くなりつつあります。
その時出会った人との会話、ふと目にした光景や、日常の体験など、いろいろなものの中から導かれているのを感じます。

それまで、何かを突き詰めていこうとする時には師が必須であり、その人にどこまでも導いてもらうべきだと考えていた私にとって、上に書いたような変化はしばらく受け入れがたいものでした。
しかし、これでいいのだと、思うようになりました。
なぜなら、外に師を見る時、それは自分自身を見ているのであり、その師の言葉を聴く時、それは自分自身の心の内から響いてくる言葉だということが分かってきたからです。
つまり、師とは鏡のような存在で、師を通して自分自身を見ていたのですね。
そして、師を一人の人に限定することなく、あらゆるものに師を見出し導かれることもできるのだと思います。
人間としての師はきっと、究極的に導いてくれる何かの、一つの表れにすぎないのです。

同じように、今、本を通して出会っている言葉や、外界で見聞きするあらゆる出来事は、自分自身の内側にあるのだと感じます。
外側で起こっている出来事は、自分の心を映し出している。
だから、自分の心が変容していくと、出会う人や見聞きすることが変わってくる。

出会いの広がりに、際限がない。
どんどん、新たな感性が開け、それがみるみる展開していく。
1日1日が、新しい。
従来の認識では許容できない不思議な出来事も次々と体験します。
でも、いちいち不思議がって驚ている暇も、ありません。
これからまだまだ、今まで出会ったことの無いような人と出会い、聞いたことも見たこともないようなものとの出会いが待っていると思います。
そして、今はまだ未知の認識が、開けてくるのだと思います。
とにかく、導かれるまま潜ってみよう、自分の心の奥深くに。


***********


6月25日に京都で行われる公開シンポジウムが、今週末に迫ってきました。
ご興味のある方は、是非ご参加ください。
私も受付でお待ちしています^^




(写真は、先日訪れた北海道大学植物園で咲いていたヤマボウシ。
 正面から見てももちろん綺麗でしたが、写真のような横顔も素敵。)

[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-20 19:36 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
心身医学会 at 札幌
a0118928_22492742.jpg
6月16日(金)・17日(土)と、札幌コンベンションセンターで日本心身医学会の学術集会があり、参加してきました。
札幌には前日入りしていたのですが、飛行機で降り立った瞬間、寒さに驚いてしまいました。
完全に、夏の恰好で行ってしまったのでした…笑

学会では、普段は会えない仲間や先輩方、共同研究の先生方など、様々な方と交流ができ、とてもいい2日間となりました。

また、修士論文の研究内容をポスター発表しました。
大学生を対象とした、摂食障害傾向と失体感症との関連についての調査研究の報告です。
この研究では大学生の摂食障害傾向と失体感症傾向とが有意に関連していることが示唆され、摂食障害の病態理解や臨床での介入の根拠の一つになるのではないかと考えています。

a0118928_22492838.jpg

いろいろな方に手助けしていただきながら、ようやくこの研究の英語論文も出来上がってきました。
近いうちに投稿することができそうです。


バタバタととんぼ返りの北海道でしたが、今日の午前中は学会を抜け出して、ひとりで 北海道大学植物園を散策してきました。
6月の新緑が、本当に美しかった。
草原の静かな木の下で瞑想もすることができ、なんとも幸せなひと時でした。


***********


さて。
ほっとしたのもつかの間、次なる大きな仕事が待っています。
7月1日に東京で開催される、ヨーガ療法士のための専門講座の講師です。
こちらも、とっても楽しみにしています。
充実した時間になるよう、これからしっかり準備をしていきたいと思います^^






[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-17 22:48 | 活動記録 | Comments(0)
風土による自己の自覚
a0118928_03403826.jpg

先日の京都大学での鎮守の森ヨーガ・セラピーの記事を、さっそく広井先生が記事にしてくださっていました。
教室で椅子ヨガを行った後、吉田神社で神林(しんりん)浴を行った風景も紹介されています。


今回ヨーガ・セラピーの後に皆さんでお話をしていた時に、広井先生が土地の風土によって宗教観が異なってくるのではないか、というお話をされ、それがとても印象に残りました。
例えば、ヨーガを源流として、インドで始まった仏教は森林の中で行じられていたので、仏教の宗教観には自然との一体や調和といった指向性がある。
一方で、キリスト教が唯一神教であり、超越的な指向性を持ち合わせているのは、砂漠という風土からこそ生まれてきたものであろう、と。
この考察は非常に興味深いと思いました。
なぜなら、私たちの世界観や論理的指向性は、私たちが意識する・しないにかかわらず、住んでいる土地の風土によってあらかじめ限定されている、ということになるからです。
でも、よく考えてみるとそうですよね。
私たちのイマジネーションというのは、五感で取り込んで認識した表象をベースとして創造されていくわけですから。

今日は和辻哲郎の『風土』を読んでいたのですが、そこに、上記に深く関連するようなことが述べられていました。
例えば、インド哲学では”アートマン(真我)”という実在原理を想定します。
想定するというより、これはヨーガ行者が”三昧”と呼ばれる深い瞑想状態において直覚したのです。
和辻は、これが直覚され得たのはインドの風土においてだからである、と述べています。
一方で、仏教の根本的原理はというと”無我”そして”無常”。
ヨーガの”絶対的有”とは全く逆の、”絶対的無”が仏教の究極であるところにおいて、この両者は鋭く対立している訳です。

それらの部分について、和辻は下記のように記述しています。

仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の実相を見ようとする。
いわゆる法の如是閑、如実観である。
その根本直感は、「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。
和辻哲郎『風土』より

*****


それでは、結局私たちは、自分の生きる風土に世界観や指向性といったものをあらかじめ限定されていて、どうやってもその枠を超えることはできないのか?
何か、限定されているということは不自由であるという印象を持ってしまっていたのですが、和辻はその限定があるからこそ、人間は己れの存在の深い根を自覚できると述べています。
そして、限定を自覚することによってはじめて、限定を超えることができる、と。

我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。
人間が己の存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的のみならずまた風土的に限定せられている。
かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。
ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。
比喩をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。
もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官を優秀ならしめるのではない。
ちょうどそのように、牧場的風土において理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。
それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光を最もよく輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。
風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。
またかくすることのよって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。
風土を無視するのは風土を超えるゆえんではない。
それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるにすぎない。
しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。
否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。

和辻哲郎『風土』p143-144


(ただいま学会で北海道にいます。写真は飛行機の中より。)






[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-17 02:59 | ことば・メッセージ | Comments(0)
集中と気づき
a0118928_22325365.jpg
自分とは何か、死とは何かという考えが、ここ2~3か月ずっと頭にこびりついて離れなくなってしまっていました。
こういうことを考えてノイローゼになってしまう人もいるようですが、それも分からなくはない、と感じました。

あれからまたいろいろな死生観や言葉との出会いがあり、ひとつ気付いたことがあります。
それは、ある一点に”焦点付け”をしようとしていた自分と、物事の本質を悟りたい時にもしかして焦点付けは弊害なのかもしれない、ということでした。
なぜなら、焦点付けが成り立つのは、まず前提として、その焦点付ける対象が一定して不変であるという想定が必要であるからです。
そして、焦点付けそれ自体がこだわっているということであり、今の不安定な心境から抜け出したいという欲から生じてきている、ということ。
果たして私が悟りたい対象は、一定して不変であるのか?というと、そもそもの立ち位置が違っていたのではないかと思うようになりました。

今日はバンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス』を読んでいましたが、内容がとても深いものでした。
優しい言葉で書かれているにもかかわらず、驚くほど深かった。
そこに、同じようなことが書いてありました。

集中力とは心を一点に集中させ、一つの固定した対象に強引に心をとどめておくこと。
一方、気付きは繊細な働きであり、鋭敏で、様々な現象に気づくことができる。
そして瞑想では、集中と気づきは共同して働くのだ、と。

”集中”にばかり偏って、”気付き”が少しおろそかになっていたようです。

それにしても、ですね。
今まで疑いもしなかった「私」が、実は実体のないものだなんて。
思い出すたびに、新鮮な驚きを感じます。
驚き、というより、驚愕と言った方が近いような気もします。
だって、35年間そう信じて疑わずに生きてきたのですから。
驚愕しているのは他でもない、「私」なのですけれど…。

また、本書には人間が病気、老い、死のほうへ進んでいくことについて”おぞましい”と表現されていました。
確かに、事実とは時に、おぞましい。
でも、気づきとは、それらは本当は別におぞましいことではなく、ありのままの現実であることを学ぶことなのだ、と後に続きます。

最後に、気づきによってもたらされる境地について書かれている終盤の文章を。

**********


私たちは「私」と呼ばれる実体を探しています。
しかし見つかるものといえば身体-骨と皮でできている袋と、その袋を「私」と見なしていることです。
さらに探求していくと、感情や思考、意見などあらゆる種類の心の現象が見つかり、これら一つ一つにたいしても「私」と考えていることがわかるでしょう。
……
どこにも「私」というものは見つかりません。
絶え間なく変化し、終わりなく流れている心の集合体に見つかるものは、前の諸々の現象から引き起こされ、条件づけられた、おびただしい変化の流れのみです。
そこに実体は見つかりません。
流れだけなのです。
思考は見つかりますが、思考する人は見つかりません。
感情は見つかりますが、感情を抱く人はいないのです。
家(心と身体の集合体)の中は空っぽです。
そこには誰もいないのです。

鋭い気づきをもって自分自身を凝視するとき、「私」や「私がいる」などの「私という感覚」は、その個体性を失い、分解してなくなります。
そして智慧の瞑想の核である存在の三つの特徴-無常・苦・無我-がありありと家(心と身体の集合体)に現れるのです。
このとき鮮明に、生は無常であること、存在の本質は苦であること、「私」という実体はない、という真理を体験します。

この明晰で純粋な深い目覚めの瞬間、意識は変革します。
固定的な「私」という概念が消えてしまうのです。
残っているものといえば、相互に関係し合う実体のない無数の現象のみです。
それらは条件によって成り立ち、変化し続けているものです。
欲は消え、重い荷物は降ろされます。
抵抗も緊張もなくなり、苦も楽もない流れだけが残ります。
心に大きな安らぎが現れます。
つくられたものではない究極の幸福、涅槃(Nibbana)が実現するのです。

     バンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス 気づきの瞑想』より





[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-15 00:13 | ことば・メッセージ | Comments(0)
鎮守の森ヨーガ・セラピー
a0118928_19474976.jpg
この4月から聴講させていただいている、京都大学の「現代社会論演習」の授業のうちの一コマで、今日はなんと!ヨーガ・セラピーをさせていただきました。

この授業を担当されている広井良典教授が、「鎮守の森コミュニティ研究所」の所長でもいらっしゃり、その研究活動の一環も兼ねて、このような機会へのお声がけをいただいたのです。


鎮守の森コミュニティ研究所のHPで、広井先生が今日の活動を掲載してくださっています↓


毎回様々な分野の専門家が集まるのこの授業。
今日も、京大で社会経済や福祉制度を学ぶ学部生さん、医学研究科の院生さんをはじめとして、こころの未来研究所や日立製作所の研究員さん、神職の方、鍼灸師さん、身体的技法の専門家の方々など、様々な方が出席してくださり、皆さんと一緒にヨーガの時間をご一緒させていただきました。

当初は、大学の近くにある吉田神社の中で行う予定だったのですが、境内の中で大勢でヨーガはちょっとダメかな…ということで、急きょ教室内で行うことに。
皆さんで円になって、椅子ヨガを行いました。
皆さんから具体的な感想はお聞きできませんでしたが、私の印象では、開始後すぐに皆さんの意識状態が集中していくのが雰囲気として感じられました。


********


その後は、いいお天気の中、皆さんで吉田神社を参拝。
ちょうど、森林セラピーならぬ「神林(しんりん)セラピー」を開発された神職の本間裕康さんがファシリテートしてくださり、参拝や木々からのエネルギーのいただき方などを教えていただきました。

普段のクラスとは違うヨーガの機会は、新たな発見がたくさんあり、とても新鮮です。
このような機会を与えてくださった広井先生に、心から感謝いたします。




広井先生もご登壇される公開シンポジウムのご案内は、こちらです↓





[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-14 20:07 | 活動記録 | Comments(0)
永遠の生命
a0118928_19191062.jpg
今日はNHKこころの時代5月14日の「鈴木大拙先生と私」の録画を見ていました。
世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の側近で長年教えを受けていた岡村美穂子さんが、鈴木大拙について語っていました。
紹介されたたくさんのエピソードの中に、禅、そして生命についてのエッセンスが詰まっていました。
その中で、印象に残った言葉を。

意識は常に意識できるものの中にこたえを見つけようとする。

そうか、そうそう。
何か、袋小路に入り込んでしまっているときは、いつも今の意識レベルで答えを出そうとしているから、なのですよね。
真実は、主体と客体を前提とする”思考”では、とらえることはできない。


**********

キリスト教にとっても神は人間の外にあるだけはなく、自分の内にあって、自分を生かしてくれているものです。
今まで長い間、神は外にあるものとして人間がそれを仰ぎ見るという感じでしたが、そうじゃなくて、神は自分の中にもある大きな生命です。
そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。
それを復活というのです。
復活は蘇生ではないのです。
死んだ人間が突然息を吹き返したということではないのです。
大きな永遠の生命の中に戻って行くことなのです。

禅については、私はよくわかりませんが、執着や妄執から解脱して、いわゆる悟りをひらくということが、この永遠の生命に触れたということではないでしょうか。
お茶をやる方はご存じのように、お茶室のなかは静寂です。
しかしその静寂とは、何もない空虚な虚無ではありません。
そこに宇宙と生命とのふれあう接点があるのを茶人は感得しているのでしょう。
それと同じように、我々の人生の苦しみや我々の死に対して、神は沈黙しているように見えるけれど、それは必ずしも氷のような沈黙ではないかもしれません。

ひょっとすると、別世界の言葉を私たちは理解できないから、それが沈黙に見えるだけかもしれない。
それを日常の言葉では理解できないから、沈黙としか我々には思えないのかもしれない。
その理解できなかった世界へ、老年ののち死という通過儀式を経て入るのだというふうに、私は次第に思うようになりました。

遠藤周作著『死について考える』より



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-07 19:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
維摩経
a0118928_19094308.jpg
今月のNHK100分de名著でピックアップされているのは、「維摩経」。
サブタイトルには、このような言葉が。

「自分」の枠をばらし、あらたな「私」を組み立てる。

なんてタイムリー。

紹介してくださったのは、私のかかりつけ医である斉藤クリニックの斉藤先生です。
心・身体・魂をも含めて深~い視点から診てくださる先生。
初めて診察を受けた時は、静かな衝撃を受けました。
まるで大海の中に放流されて自由に泳ぎ回る魚になったかのような感覚を覚えました。
治療者としての器が、とても、広く深いのです。
まだ、私には、その底が見えません。

先生のクリニックには本棚がたくさんあって、ぎっしりと本が詰まっていて、毎回のように本を貸し出してくださいます。
ものすごい読書家。
70歳を超えていらっしゃるのに、本当に真摯な追求をされていて、私も大いに触発されています。

さて。
第1回目の再放送は、明日の早朝です。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-06 19:38 | | Comments(0)
人生の正午
a0118928_21501938.jpg
正常な人間が、
自分には生涯形而上学的事態が
およそ生じないなどという空想をするならば、
彼は形而上的事件を一つ忘れている。
それは自身の死である。

カール・グスタフ・ユング


35歳という年齢になって直面化した、自分にとっての”死”の問題は、しばらく解決しそうにありません。

どうにか納得しようと、落としどころをつけようとすればするほど、それが早合点であることに気がづきます。

まるで、泥沼に足をとられてどんどん沈んでいくようです。


日常の雑事や、直面している世俗的な問題が途切れた時、突如として表れてくるこの”わたしとは何か”という問題。

なぜ、私は私なのか。

この目の前に広がる巧妙な世界は、一体誰が作ったのか。

すべてを根底で支えているものとは、何なのか。

小さい頃に考えていた事と全く同じ疑問ではあるのですが、その時よりもっと差し迫った形で繰り返される毎日。

これまでたくさんの数えきれない人達が、この問いに挑んできた訳であって、納得して死ぬ人もいれば、全く納得することなく死んだ人もたくさんいたのだろうと思います。

でも、わかっていることはただ一つ。

どうであれ、例外なく全員に、いつか必ず死が訪れるということ。



******


そんな、行ったり来たりの、混乱気味の毎日を送っている中、あるユングの言葉に出逢いました。

ユングは35歳から40歳を「人生の正午」と呼び、人生の重要な転換期、また心理的危機の時期として取り上げたそうです。

人生の正午はその人らしい人生を作り上げていく個性化の契機でもある。と。


・・・人生の後半に足を踏み出すとき、人生の前半に属しているものを脱皮しなければならない。

人生の後半とは精神の元型と自己の元型に直面する時期である。

・・略・・

個性化を達成すると人格の中心はもはや自我ではなくなる。

意識と無意識を統合する自己との出会いによって人は平静を手に入れ、死を恐れなくなる。

ユングは『人生の自然な終点は老いではなく、叡智である』と弟子たちに述べた。

アンリ・エレンベルガ―著『無意識の発見(下)』より





人間はそんな境地に、到達することができるのですね。
中でも、個性化とは自我のなせる業というような印象を受けますが、ユングによるとそうではない。
真の個性化とは、自我を脱したところにある、ということ。

私の年齢は、まさにユングの言う「人生の正午」にさしかかったところです。
心理的危機が訪れているなら、じっくり腰を据えて向き合っていきたいと思います。
もう、わかったフリと平気なフリは、しないように…。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-04 22:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)