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エネルギー医学の講座へ
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昨日は京都で、すばる治療院 院長の藤原先生による「エネルギー医学とヒーリングや日常生活への応用」 という講座にお誘いいただき、受講してきました。
「エネルギー医学」や「エネルギー療法」という言葉も、だんだんと巷でも聞かれる言葉になってきましたが、電気療法、磁気療法、 手当て療法、遠隔ヒーリングなど、エネルギーを用いた補完・代替医療の一分野のことをいいます。

”気”は、ヨーガでいえば”プラーナ(PRANA)”。
目には見えないけれども、いたるところに満ち、そして私たちを生命たらしめているもの。
エネルギー療法で全面に出てくるキーワードです。

藤原先生は臨床心理士でありながら鍼灸師でもあり、整体や気功、易など東洋的な幅広い観点も持ち合わせ、全人的に療法を実践されている先生です。
ご自身での体験・臨床経験ともに非常に豊富で、どのような質問にも理解が深まる形でお答えくださいました。
講義は、量子力学における観察者効果など、人の持つ想いについての数々の実証研究の紹介からはじまりました。
いかに自分の心の状態が対象者(物)に影響を及ぼしているかを学んだ後、実際に気を送る・感じるなどのワークを行いました。

最近のテーマだった
・集団における気について
・エネルギー的につながる、切り離すことの効能と弊害
・イメージすることがどのように重要なのか
について、自分なりに理解が深まる内容で、多くの収穫をいただきました。

集団における気については、特に段上公民館で行っているヨーガの場で感じます。
集団がひとつの生命体のようになり、それがどんどん成長しているように感じるのです。
人数も増えたことで、会員さんが全員来られるとぎゅうぎゅうでゆったりとしたスペースが取れないのが、最近のちょっとした悩みでもあるのですが…。
でも、だからといってパッと他のクラスを増やし、グループを2分割してしまうのは、ちょっと雑な気もするのです。
今、クラスに来ようという意志を持ってきている方お一人お一人で構成されているひとつの大きい生命体なのですから。

レッスンでは、来ていただいた方とエネルギー的につながった状態でヨーガを行います。
ヨーガは”個の意識”を弱めてくれるので、来てくださっている方とスーッと一体になっていくことができます。
すると、私の中に、普段自分一人でヨーガをしているときとは違う身体感覚が出てきます。
私の中に立ち現れてくる、集団としての身体感覚、とでもいうものでしょうか。
最近は、それに従ってポーズをとっていく、というようなやり方をしています。

今回の講義で、自分が気(プラーナ)に対してもっと理解を深め、感性をひらいていくことの大切さを感じました。
臨床心理士の方が、このような研究・実践に携わっておられるという事にも、大きな勇気をいただきました。




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by ramram-yoga | 2017-04-03 13:53 | 心理学とヨーガ
人生二度なし
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先日、ヨーガの生徒さんが、小さなノートを持ってきて見せてくださいました。
なんとその方は短大時代に、私が心から尊敬する教育者・哲学者、森信三先生から道徳の授業を受けられていたのだそうです。
森先生は学生たちから、親しみを込めて「森爺(もりじい)」と呼ばれていたのだとか…。
持ってきてくださった小さなノートというのは、道徳の授業で森先生が人生や女性としての極意を一人一人に清書させたもので、嫁入りの際にはタンスの中に入れておくようにというお達しがあったのだそう。

ノートの中身を見させていただくと、森先生が著作の中でも触れられていた、いかにも先生の教えというべき言葉の数々が、ぎっしりと詰まっていました。
後半には、仏教詩人である坂村真民の詩も何篇か書かれており、最後には森先生のご自宅の電話番号までもが記入されていました。
森先生がいかに教育者として一人一人に想いを込められ、そしていかに具体的に学生一人一人の後の人生までをも慮っておられたかが、ひしひしと伝わってくるものでした。

そして、ノートの裏表紙には、森先生の直筆で「人生二度無し」と書いてありました。
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小さいノートに小さい字で書かれた一言でしたが、この直筆の言葉には、静かではありますが深く心に響いてくるような感覚を覚えました。
学生一人一人のノートに「人生二度無し」という言葉を書き込むほどの、森先生の人生に対する覚醒の深さとは、どれほどだったのかと思わずにはいられません。

***

人生とは、本当に一度きりしかないのですね。
なぜ私たちはこの事実を、あたかも忘れたかのように毎日暮らしているのでしょうか。
時々ハッと我に返ります。
死は誰にも必ず訪れるし、私もいつかは死ぬ存在なのだと。
でも、また、目の前の雑事に奔走し、それを忘れてしまう…。
というよりも、もしかして目を逸らしていたのでしょうか?
もっともっと、ごまかさずに、生と死に向き合っていく必要があるのではないかと思いました。
このテーマは、時々ハッと我にかえって思い出す程度のものでは、ないのですよね。


***********


私たちは、いつかは死ぬ存在です。
私たちの人生は有限です。
私たちの時間は限られています。
私たちの可能性は制約されています。
こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。
死とは、そういったことをするように強いるものなのです。
ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

***

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問を出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。

        ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』




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by ramram-yoga | 2017-04-01 00:42 | ことば・メッセージ