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よいお年を
昨日はとんでもなく長ったらしい文章を書いてしまいましたが、もし最後まで読んでくださった方がいたなら、一緒に追体験をしてくださってどうもありがとうございました。

ところで最近、特に精神医学や臨床心理学の世界では“ナラティブ”という概念がが結構なブームとなっています。
ナラティブとは直訳すると『物語り』。
人はそれぞれ、日々経験する出来事を自分なりに解釈し、自分の人生の“物語り”の一部として、ストーリー性を持たせつつ取り込んでいきます。
つまり、私たちは何かを体験した時、そのことに対して主観的に意味づけを行なっている、ということです。
そして、その意味付けとは不変なのではなく、流動的に変化していくもの。

例えば、真っ只中にいるときは辛く悲しい出来事も、後から振り返ると自分を成長させてくれた感謝すべき出来事だったと捉え直すことがあります。
そして、出来事を解釈し直すことにより、自分の考えが変化し、それに伴って行動が変化し、人生が動いていく・・・。
そんな風に私たちは、語りながら自己を生み出し、そして作り直しながら、“私”という自己を確認し続けていきます。

本当にそうだなぁと、思います。
自分自身の一年を振り返って、あの時のあの出来事は自分にとってああいう意味のあるものだったんだ、とか。
こんな風に捉えていたけれど、実はこうだったのか、とか。
そのような解釈は良くも悪くも、その後の私のあり方を決定付けてきました。
でも実は、それらの出来事の解釈の仕方に、正解があるわけではない。
大切なのは、どのように解釈するかで、自分の行動や世界観、ひいては生き方がどのように変わっていくのか、なのだと思います。

この世界は本当に、不思議。
自分がどのような心でいるかによって、見えてくる景色が全く変わっていきます。
それは言葉を変えれば、自分がどのような世界を観ているかについての責任は、自分にあるのだということです。
これは、来年のテーマとなりそうです。
年明け2日から4日間は、毎年恒例のラージャ・ヨーガの集中修行会に参加するので、瞑想の中で深めてみたいと思います。

それでは、今年はこの記事で更新を終わりたいと思います。

このブログを読んでくださっているあなたが、静かで平安な心の内に、光り輝く新年を迎え入れることができますように。
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by ramram-yoga | 2013-12-30 21:56 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
亡き祖母と過ごした夏
とっても印象に残っていたのに、振り返ると「あれ、こんなこともあったっけな」と、忘却のかなたに追いやられてしまいそうになっていたことを、新しい年が来る前に書きとめておこうと思います。
とてつもなく長文になってしまいました。

ことの始まりは、2年前にまでさかのぼります。
それは息子が生まれて間もないお盆のことだったのですが、実家の仏壇のお部屋で寝ていると、すでに亡くなっていた祖母の声が聞こえてきました。
「今あるお金はすべて、勉強のために使い果たしなさい」
夢だったのかそれとも現実だったのかどうか、よく分かりません。
ただ、決して大きい声ではないけれど身体にその振動が伝わってくるような力のある声で、枕元の私をゆっくりと諭すように何度も何度も繰り返し言われたので今でもはっきりと覚えています。
“今あるお金”とは、きっと生前祖母が「勉強に使いなさい」と私にくれた、まとまったお金のことなのだと思いました。
それから2週間後、私は放送大学に入学していました。
数年間はしばらく、ゆっくり子育てをしようと思っていた矢先のことでした。

その後は自分でもびっくりするほど、勉強にのめりこんでいきました。
新しい知識を蓄えていくにつれて目の前にどんどん開けていく新しい世界に没頭していきました。
なぜか自分の勉強をリードしたり後押ししてくれるような方との出会いが重なり、環境もどんどん準備されていくのです。
しかし、勉強をするには子どもを預けなければいけません。
幸い、息子は良く食べよく眠り、託児に預けてもあまり心配のかからない子どもでしたが、お金が要ります。
また、研修や勉強会なども、それなりにしっかりとしたお金が必要です。
お金のことで迷うたび、祖母のあの言葉を思い出しました。
何しろ「使いなさい」ではなく「使い果たしなさい」と言ってくれていたので、今あるお金をすべて勉強と勉強するための環境づくりのために使い果たすことに決めました。

そして、放送大学の卒業を1年後に迎えた今年の春。
いろいろ考えた末、大学院に進学することを決め、受験勉強を始めました。
大学院を受験する際は院で行なう研究計画を提出しなければならないのですが、ちょうど研究計画の作成を手がけ始めた時、自分の研究テーマの具体性へとつながるお仕事をいただいたり、研究手法とリンクする貴重な情報をいただいたりと、天の計らいのように思えた出来事が重なりました。

しかし、トントン拍子とも言えるような院試の準備が整っていく勢いとは逆行するように、私の心の中にはある種の“重さ”のような抵抗勢力が働いているのを感じていました。
いまひとつ、気持ちが乗り切らないのです。
もっと正確に言うと、全力投球しようとすると、ブレーキがかかるのです。
その理由は、後で気づくことになります。

一方、院試を翌月に控えた7月、ある講演会でとても不思議な方とお会いする機会がありました。
人を見ていると、それぞれに個性的な光を発しているように感じられることがありますが、その方はご自身そのものが光であるかのように見えてしまうようなほど、精妙なバイブレーションの持ち主でした。
偶然ゆっくりとお話をさせていただいた時、祖母の話をしたのですが、その方は微笑みながらゆっくりと私の話を聞いてくださいました。
私にとって、生前からとてもつながりの深かった祖母。
その方とお話をさせていただいてからというもの、祖母の存在をますます実感として感じるようになりました。

そして8月。
院試を間近に控え、どこかでかかるブレーキを感じながらも、勉強に没頭していきました。
私の中の何がブレーキをかけているかについては、うすうす分かってきました。
それは、試験を受けることによって自分の実力が形となってあらわになってしまうことへの恐れでした。
思えばその恐れは、不登校をきっかけに高校を中退してからというもの、ずっと持ち続けていたものだったのかもしれません。
いわば“落ちぶれ”た経験を持つ私は、横道にそれることなくちゃんとした社会人になった人たちに対して、引け目を感じていたのだと思います。
そして、そんな人たちを目の前にするたびに、私は自分に「私だってがんばれば、あの人たちと同じようにできたはず」と、自分を慰めてきました。
しかし、実際に全力を出していいシチュエーションになると、怖くなってしまうのです。
だって自分に実力が本当にあるかどうかなんて、分からないのですから・・・。

でもとりあえず、ブレーキの正体がうすうす分かり始めてから、だんだんと勉強に集中することができるようになりました。
努力をセーブしておくと、受験に失敗した時に「精一杯がんばれば合格できたはず」と言い訳ができるのです、自分に対して。
でも、その言い訳の余地を残しておくのはやめようと決めました。
仕事のある日はもう少し少なかったですが、1日8~10時間くらい勉強していたと記憶しています。
まだ息子は待機児童だったため、一時保育に預けて勉強しました。
1日10時間預けて5,400円、週5日預けると27,000円。
お金がひらひらと羽をつけて飛んでいきます。
これで受験に受からなかったら、この投資が水の泡になってしまう・・・。
でも、なぜか状況的に追い詰められるほど、そのプレッシャーがゾクゾクするようなチャレンジ精神にすり替わっていきました。
机に向かっての勉強以外にも、家事をしながらラジオやDVD教材で勉強、車に乗っている時や歩いている時は音声教材で勉強、電車や買い物のレジでの待ち時間では参考書で勉強、とにかく生活と仕事に費やす時間は最低限に切り詰め、1分1秒を惜しんで勉強しました。

試験を1週間前に控えた頃、世の中はお盆でした。
祖母からの“お告げ”があったお盆から、ちょうど2年が経とうとしていました。
突然、母から「1週間息子を実家に連れて帰る」と連絡がありました。
私が受験勉強で息子を実家に連れて帰ることができず、ひ孫を見れない祖父がとてもさびしがっているから、とのこと。
それともちろん、娘である私に精一杯勉強させてやりたい、という愛情からでもありました。
迷いました。
つまりは、まだ2歳ちょっとの幼い息子を1週間も、自分の受験勉強のために実家に預ける、ということです。
でも、母が強くそう勧めてくれたこともあり、ありがたく甘えることにしました。

母が息子を実家に連れて帰った翌日、勉強の合間に外に出たときのこと。
暑い炎天下、自転車で走っていると、あたりの空気とは全く違った種類の、なんとも例えがたい風が吹いてきました。
その瞬間、言葉が胸にドーンと響いてきました。
「やりなさい」
それは、確かに祖母でした。
1週間、祖母が私に時間を与えてくれたのだと思いました。
そして同時に気づきました。
私がそれまで引け目を感じていたのは、高校や大学時代に結果を出せなかったからじゃない。
横道にそれたことに対してでもない。
その時々で直面した課題に対していつも少し逃げ腰で、全力投球で思いっきりぶち当たっていくという経験をしてこなかった事に対してだったんだ。
今の私には、何かが不足しているわけでもない。
結婚をして家庭を持っているし、仕事だって必要とされている場でさせていただいているし、十分満たされている。
それなのに、こんなチャンスまで与えてもらえるなんて・・・。
祖母の実在と愛情を感じ、涙が止まらなくなりました。
よし、思いっきりやろう。
そう思えてから、息子を預けていることに対する罪悪感がなくなりました。

その翌日、鍼灸治療を受けに行きました。
鍼灸を受けると時々びっくりするようなことが起きるのですが、その時も起こりました。
先生には受験のことは全くお伝えしていなかったのですが、何かその時は新しい技をしてくださったとかで、それまで頭部にこもっていた熱もすっきりととれ、身体だけでなく頭がとてもクリアになりました。
それと同時に自分がシールドで守られたようになり、周囲からのノイズ的な情報から遮断され、とても静かな心の状態で勉強に没頭していきました。
まったく疲れず、勉強すればするほど頭が冴えてどんどん記憶できます。
過去問を解いていると、その問題の出題者の意図がスーッと筋を通して見えてくるような気がしました。
また、広い出題範囲の中から、どの分野をどれだけ、どのようにして勉強すればいいのかについて明確なインスピレーションがわき、迷いなく勉強に集中しました。
その数日間は、具体的にどんな風にして過ごしたのかよく覚えていません。
とにかく勉強して夜中になって限界が来たら布団に倒れこみ、また朝起きたら勉強しました。

試験前日。
勉強も一通り終わり、午後からなぜか何も頭に入らず思考も働かなくボーっとなりました。
ふと、なんとなく気になって、数年ぶりにある封筒を手にしていました。
その封筒には、生前の祖母からもらった数々の手紙が入っていました。
ひとつひとつゆっくりと、読み返しました。
そこには、祖母からの愛情がつまった言葉がたくさん書かれていました。
また、涙が溢れて止まらなくなりました。
私はどうであれ家族から愛されているのだと心から安心し、満たされた思いに浸りながら眠りにつきました。

受験当日。
高速に乗り試験会場に向かっていると、ふと道路脇に沢山咲いている山ユリが目に飛び込んできました。
そういえば、ユリはおばあちゃんが大好きな花だったな・・・と、なんとなく思っていると、気づきました。
「さっちゃん、がんばれ、がんばれー!!」と、祖母が手を大きく振って、私に声援を送ってくれていました。
受験では、心地よい緊張感とともに、受験勉強の成果を存分に発揮することができました。
一番印象的だったのは、筆記試験も口頭試問も終わり、帰宅の途についたときの身体の感覚。
とても軽く、爽快感に溢れていました。
帰り道、また山ユリが沢山咲いている場所を通りかかったとき、「さっちゃん、よくがんばったね!」と、祖母は盛大な拍手を送ってくれました。

3週間後に合格が分かって初めて、身体の力が緩みました。
どのくらい緩んだかというと、その後2~3日間、起き上がるのも困難なほどでした。
こうやって書いていると、院試ひとつで大げさだなって、思います。
でも、私にとっては、体当たりで全力投球してそれに対して結果が伴ったという経験は、高校時代から抱えてきた劣等感を大きく変化させるものでした。

そして実は、私にとっての本当の正念場は、ここから訪れたのでした。
長年心に押し留めてきた情動が、合格発表の後から勢い良く吹き出だしました。
心身ともにとても・・・しんどい時期でした。
一時は、このままでは来年大学院にはいけないかもしれないと思うほどに情緒不安定となり、衰弱しました。
しかし、いつかは向きあわなければならないことでしたし、向き合うだけの素地が自分に出来たこの時期にだからこそ、出てきたのでしょう。
今まで噴出していた私の激しい情動や精神症状(これについてはまた機会があれば書きます)のその奥のマグマのような部分を、まざまざと見せ付けられた時には、そのあまりの巧妙さに驚愕しました。

その時期をなんとか乗り越え、今この記事を書いているのにはもうひとつの意図があります。
それは、私は自分のとる行動を主体的に選択して行なっていくのだという決心をしていきたいということです。
今まで私は、自分が勉強する理由を、“祖母のお告げ”があったからだとしていました。
その理由は時に、子育てに十分な時間を割くことのできないことに対しての、言い訳として使われました。
しかし、今ここではっきりさせておきたいと思います。
私は勉強が好きだから、自分で選択して今のこの道を選んでいるのだ、と。
主体的にその道を選ぶからには、それによってなんらかの不都合が生じた場合も、甘んじてそれを引き受けなければなりません。
また、自分で自分を酷く疲れさせたり、精神症状を出したりすることは、時にそれを理由にして自分の不全感を紛らわすことに使われてきました。

しかし、これからはそんな風に言い訳をしていては、とてもじゃないけどやっていけないと思います。
大学院生活だけでも超忙しいのに、それに子育て、家事、仕事もあるのですから。
それに、自分の巧妙な防衛手段が明るみに出てしまった以上、それらは意図的に使う手段としてはあまりに幼稚すぎます。
今ここで、私は大人にならなければなりません。

・・・こんな長い文になるとは思いませんでした。
年の締めくくりに、こんな風に文章化することができて、感謝しています。

そして、心から、
「おばあちゃん、ありがとう」。
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by ramram-yoga | 2013-12-29 19:41 | 最近のいろんなこと | Comments(2)
クッキー作り
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a0118928_13155060.jpg昨日は2歳6ヶ月になる息子と一緒に、クッキーを焼きました。

最近写真を撮るときはこの、「にこにこポーズ」が、お気に入り。

粉をまぜまぜして・・・

生地を丸め、手のひらで平らにして・・・

アーモンドを、むぎゅっ。

単なる食いしん坊かと思いきや、作る方もなかなかの腕前ではないですか。


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重曹入りの、ふんわりアーモンドクッキーのできあがり。

できたてクッキーを、お父さんと3人で食べました。

よっぽど楽しかったのか、今朝も私の顔を覗き込んでは「クッキー、つくる?」と言っている息子です。
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by ramram-yoga | 2013-12-29 13:22 | 出産・子育て | Comments(0)
自分を助けている
私は、思い違いをしていたようです。
しばらくの間、忘れてしまっていました。
私がヨーガを教えることによって助けていたのは、習いに来てくださる人たちではなく、私自身だったのだということに。

来春の大学院進学で、現在行なっているクラスが継続できなくなり、他のインストラクターに引き継いでもらう旨を、会員の皆様にお伝えしました。
お伝えしてはじめて、クラスを去ることをとってもさびしく思っている自分に、気づきました。
そして、必要とされることで、どれだけ自分が救われていたか、にも。
来春からも、今のように毎週はできないかもしれませんが、一般の方に通っていただけるクラスを、どうにかして継続していきたいと思います。

ヨーガをする場には、現在生きてその場に集っている人だけでなく、今は亡き歴代のヨーガ行者の方々の魂が息づいているのを、感じます。
自分の力量や意思とは無関係の力が、ヨーガをしている場には働きます。
そして、現在の生徒さんたちとのご縁も、歴代のヨーガ行者の方々に頂いたものだったのでした。
大切に大切に、つないでいきたいと思います。


あぁ、しばらくの間、本当に忘れてしまっていました・・・!
奉仕とは、他人を助けているのではなく、自分自身を助けているのだということを。


大好きな「カルマ・ヨーガ(働きのヨーガ)」を読み返しました。


********


『われわれは、自分を助けているのであって 世間を助けているのではない』

・・・しかしよく考えてみると、この世は決してわれわれの助けなどを必要とはしていない、ということがよくわかります。
この世界は、みなさんが私が来て助けなければならないように、できてはいないのです。

長い間には、他者を助けるのは自分自身を助けているにすぎないのだ、ということが分かってくるでしょう。
高い台にのって手に5セントを持ち、「これ、貧しい人よ」と呼びかけるようなことはなさるな。
貧しい人がそこにいるおかげで、彼にものを与えることによって私は自分を救うことができるのだ、と思って感謝なさい。
恵まれているのは貰う人ではなくて与える人なのです。
自分がこの世で慈悲の力を行使することを許され、それによって、純粋に完全になることができるのを、有難く思いなさい・・・

                                         スワミ・ヴィヴェーカナンダ 『カルマ・ヨーガ』 より



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by ramram-yoga | 2013-12-26 23:09 | ことば・メッセージ | Comments(0)
東洋的身体
今年の2月、生まれて初めて体験した鍼灸治療で、身体という小宇宙の驚くべき巧妙な世界が目の前に開け、それからというもの今年のテーマのひとつは<身体>でした。

デカルトの心身二元論に代表されるように、西洋の伝統的身体観とは、心的なものと身体的・物質的なものを分析的に区別する傾向にあるわけです。
現代の日本の教育においても自然科学や西洋医学に基づいた身体について学びますから、やはり“身体は物質”で“心は非物質”と、なんとなく感じている場合が多いのではないかと思います。
かくいう私も、ヨーガの身体観を頭では理解しつつも、なんとなく身体と精神とを二元論的に捉えていました。

しかし鍼灸を受けて、その施術が身体の物質的側面ではなく、もっと精妙な次元の何かに侵食していくのを感じた時、その考えは一新されました。
「侵食」、あまり聞こえのいい言葉ではありませんが、まさにこの言葉がぴったりでした。
通常なら誰も入ってくるはずの無い守られた領域が侵されていく感覚は、脅威的でさえありました。
そこは物質的側面より精妙で、はるかに強力なエネルギーが渦巻いている場所でした。
しかもその場所は理智などといった精神領域ではなく、確かに身体に属する領域でした。
・・・しかし幸いなことに、その侵食に対して嫌な感じはしませんでした。
これは本当に、幸いなことでした。
それは、施術者側の先生の人格によるものだったと思います。
自分の想いを滅して一歩身を引き、私という人間に宿る自然治癒力に敬意を払い、その発現を最大限に引き出す施術を行なってくださるからです。
人格的にも安定感があり、純度が高く、信頼して心身を明け渡すことができます。
施術側が、もし自分の想いを前面に出した施術をしたり、善意からであっても患者を操作しようという意図を持っていたとしたら、私はとてもしんどくなり、すぐにでも治療を中断していたと思います。
その衝撃的な初回の鍼灸治療以降、定期的に施術を受けていますが、本当にいろんなことが自分に起こりました。
感覚でいうなら、それまで頭頂にはまっていたでかいコルク栓がスッポンと抜けて天空とつながり、“私”という個のいのちを越えた大きな生命が自分の中を流れ始めた、とでも言う感じでしょうか。
この先生との出会いがあって、私もセラピストとしての自分の人格について、いろいろと考える機会をいただきました。
どのような技術を持っているかももちろん大切なのですが、それと同じくらい、いいえ場合によってはそれよりも、施術側の人格が如何に大切かを、ひしひしと感じています。

少し横道にそれたので、話を元に戻します。
<身体>に関して言えば、やはり東洋的な身体論は逸品だと思います。
というより、身体に関する考察がこれほどまでに深められているのは、東洋思想以外にあるのかとさえ、思われます。
哲学に関しても、日本のそれは理論のみに終始することはなく、そこに必ずといっていいほど<身体>の要素が組み入れられています。
例えば、日本において医学哲学を確立した澤瀉久敬は、著書「健康を考える」の中で『心身一如の“身”そのものが、すでに「気」と「身体」の二元性をもっている』とし、α(気)+β(物質)=c(生物体)という二元的一元性について解説していますが、この説明が今の私には一番しっくりきています。

また、哲学者の湯浅泰雄によると、東洋思想の哲学的独自性とはその基礎部分に“修行”の考え方がおかれているところにあるのだそうです。
真の哲学的知というものは、単なる理論的思考によって得られるものではなく、「体得」あるいは「体認」によってのみ経験できるものである、と。
そして、同じく哲学者である西田幾多郎の「行為的直観」という概念を引き合いに出してそのことを説明しています。
いわゆる悟りの境地である三昧境に没入することは身体がなくなることではなくて、むしろそれが深くなっていくということである。
悟りの境地に立ち入ったとき、身体は普段は心のはたらきに抵抗する“重さ”を失い、またその客体性を失って主体的となっていくのだ、と。
つまり東洋的な修行体系においては、悟りを得ようとするとき、身体は邪魔なものではなく必要不可欠なものとして位置づけられているということです。

ということで現在、湯浅泰雄著の「身体論」を今年中に読破すべく、呼んでいます。
文庫本ですぐ読めるかと思いきや、内容量・質ともに重厚かつ深遠で、自分が知らないだけで日本には偉大な人がいっぱいいるんだなぁと感動しきりです。
いろいろな哲学者の身体観が比較考察されていて、<身体>をテーマとした今年の締めくくりにふさわしい一冊です。

元はといえば、「身体論」も、鍼灸の先生にご紹介いただいたものでした。
同じようにして以下の本もご紹介いただいて、今年全て読みましたが、どれも質・純度共に高く、心に残っています。 


1.渡邉勝之著 「医療原論」
2.有川貞清著 「始原東洋医学」
3.澤瀉久敬著 「科学と哲学」
4.澤瀉久敬著 「健康を考える」
5.橋本敬三著 「万病を治せる妙療法」
6.澤瀉久敬著 「医学概論Ⅰ」
7.澤瀉久敬著 「医学概論Ⅱ」
8.澤瀉久敬著 「医学概論Ⅲ」
9.井筒俊彦著 「意識と本質」
10.中村仁一著 「大往生したけりゃ医療とかかわるな」
11.木村 秋則著 「リンゴが教えてくれたこと」
12.オイゲン・ヘリゲル著 「弓と禅」
13.西岡 常一著 「木に学べ」
14.松田博公著 「鍼灸の挑戦」
15.矢作直樹著 「人は死なない」
16. 間中 喜雄著 「体の中の原始信号系」
17.鈴木大拙著 「日本的霊性」
18.貝原益軒著 「養生訓」
19.湯川泰雄著 「身体論」
20.小阪佐知子著 「片翼の天使」
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by ramram-yoga | 2013-12-21 08:27 | 心身医学・統合医療 | Comments(0)
大地性




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**************


天日(てんじつ)は有難いに相違ない。
またこれなくては生命はない。
生命はみな天をさしている。
が、根はどうしても大地におろさねばならぬ。
大地に係わりのない生命は、本当の意味で生きていない。
天は畏るべきだが、大地は親しむべく愛すべきである。
大地はいくら踏んでも怒らぬ。
生れるも大地からだ。
死ねば固よりそこに帰る。
天はどうしても仰がねばならぬ。
自分を引取ってはくれぬ。
天は遠い、地は近い。
大地はどうしても母である、愛の大地である。
これほど具体的なものはない。
宗教は実にこの具体的なものからでないと発生しない。
霊性の奥の院は、実に大地の座に在る。

大地は詐(いつわ)らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。
人間の心を正直に映しかえす鏡の人面を照らすが如くである。
大地はまた急がぬ。
春の次でなければ夏の来ぬことを知っている。

人間は、天に対しては絶対的に受動的である。
天は畏るべきほどに、愛せられぬ。
人間は、天に対して懾服(しょうふく)を知るのみである。
もし天の愛に親しみ得られることがあるとすれば、それは大地を通してである。
大地と共にその恵を受ける時に、天日はこの身、この一個の人間の外に出て、その愛の平等性を肯定する。
本当の愛は、個人的なる者の奥に、我も人もというところがなくてはいけない。
ここに宗教がある、霊性の生活がある。
天日だけでは、宗教意識は呼びさまされぬ、大地を通さねばならぬ。

霊性と言うといかにも観念的な影の薄い化物のようなものに考えられるかも知れぬが、これほど大地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。
大地と自分とは一つのものである。
大地の底は、自分の存在の底である。


***************

              
                          鈴木大拙著「日本的霊性」より







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by ramram-yoga | 2013-12-20 22:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
クリスマスプレゼント
昨日は夫に子どもを預けて、楽しみにしていたベートーヴェンの第九を聞きに行ってきました。
夫からのクリスマスプレゼントです。
コンサートに行くのは、2011年5月の息子が生まれる直前にレオン・ハルト氏のチェンバロを聴きに行って以来、実に2年半ぶり。
2011年といえば震災があった年。
多くの有名アーティストが来日を見合わせ、演奏会の中止も相次いでいた中、レオン・ハルト氏は高齢にも関わらず、予定通り来日しました。
演奏中の姿からも、音楽に向き合う真摯な姿勢と誠実なお人がらが伝わってきて、感激したのを覚えています。

さて、今回の演奏会は久しぶりの生オーケストラの迫力で、1時間半の演奏中ずっと泣きっぱなしで、最後には涙と鼻水で顔がぐしょぐしょになってしまいました。
隣の人の邪魔にならないように、できるだけ静かに泣くのって、意外と難しいです(笑)

ベートーヴェンは耳が聞こえない状態で、どうしてあのような重厚で緻密な楽曲を作ることができたのでしょうか。
人生の底で絶望や苦悩を舐め、底辺から湧き上がってくるような響き。
でも、絶望や苦悩が決して否定されているわけではなく、そこに一貫して美しさがある。
苦しみが、一点の妥協もなく、気高い洗練された音の重なりによって表現され、そして最後には、宗教的とも言えるような高みに昇りつめていく。

こちらの動画は、佐渡裕さん指揮の一万人の第九(四楽章)。
すごい迫力です。









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by ramram-yoga | 2013-12-16 11:20 | music | Comments(0)
心のバランスをとるために
最近まで時間的な余裕があまり無く、ブログもたまにしか更新できていませんでしたが、少しずつ更新する余裕ができてきました。
偶然できたというよりは、そのような時間を意識して作ることができるようになってきました。
思えば、今までが詰め込みすぎだったのだと思います。

そしてこの文章を書くという作業をすることによって、自分自身がとても、助けられています。
自分にとってそれは、頭の中を整理整頓する作業であり、取り込んだ情報や体験したことを咀嚼して落とし込む作業であり、インプットに見合ったアウトプットをすることで頭の中のバランスをとっていく作業だからです。

ということで、自分の心のバランスをとっていくために大切だな、と最近感じていることを書き出してみました。


*******

1.自分の中に取り込んだことを消化する時間的な余裕と、インプットに見合ったアウトプット(文章化する、人に話すなど)
2.旬の食材を取り入れた、和の食事
3.家族に丁寧に接する(きちんと食事を作る、会話を大切にする)
4.ご縁のあった人、お世話になった人とやりとりを丁寧にする、感謝の思いを伝える
5.良書を読む
6.毎日少しでも、自分の時間を持つ
7.ある程度部屋の中が片付いている状態

*******


逆に言うと、なんとなく荒んだ気持ちになるときとは、これらができなくなっている時だということが、分かってきました。

自分がいい状態でいるということは、自分だけのためではないのだと、実感しています。
自分で自分の状態をバランスよく保ち、機嫌よく幸せに暮らすことこそ、周囲の大切な人にとっての大きな愛情である、と。

それと、来年は「怒らないこと」を、大きなテーマとしてみたいと思います。
特に、家族に対して。
私にとっての怒りは、未熟さであり、自己欺瞞であり、相手を支配し、愛情欲求するための手段でした。
今までどれだけ怒りを使ってきたか、そしてそれを正当化してきたか。
でも、怒りはどんなときも、正当化されるべきではないのだなと、思うようになりました。
そして、手放していきたいと思います。


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by ramram-yoga | 2013-12-15 23:16 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
精神科の薬がわかる本
「精神科の薬がわかる本」 姫井昭男著

最近医療系の勉強が全然追いついていないと感じていた矢先、先日(12月7、8日)に開催された日本心療内科学会学術大会会場の書籍コーナーにタイムリーな本がいろいろと並んでおり、購入した数冊のうちの一冊がこちらの本。
買った日の晩ホテルでなかなか寝付けなかったので、一気に読み終えてしまいました。

色々な学会にて症例発表を聞いていると感じるのですが、やはりどうしても、“自分の専門”という色メガネを通して患者さんを見てしまうということが、あるような気がしています。
例えば、私たちのような人の心理に焦点を当てるようなことをやっていると、患者さんが良くなると、「それは精神的に安定したから良くなったのだ」と、短絡的に捉えてしまう危険性があります。
実は、その患者さんの変化は、服薬内容の変化が大きく影響していたのかもしれません。
しかし、これは意外とよくあることなのだと思うのです。

その意味では、治療や療法の効果というのを、ニュートラルな視点から見る、ということは、実はとても難しいことだとも、思うのです。
個人に起こってくる問題の原因を、心理学者は心理的要因に、社会学者は社会的要因に、科学者は器質的要因に求めようと、やはりしてしまいがちだと思います。

そのような状況の中でとかく心理の専門職は、患者さんが何の薬を服薬し、それにはどのような効果があってどのような副作用があるのかを、ともすれば軽く見てしまう危険性が無きにしもあらず(自分への戒めをこめて)。

::::::::


この本は、精神科の薬について、専門外の人が読んでも分かるように、とても丁寧に書かれています。
読んで改めて感じたことは、薬というのはやはり副作用がとても多いのだなということ。
そして、作用機序が明らかになっているお薬の方がむしろ稀で、出されたものを何の疑問も無くホイホイ飲むという危機感の無い受動的な姿勢は、少し危険だとも思いました。
・・・ということも含め、非常に勉強になりました。






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by ramram-yoga | 2013-12-14 16:41 | | Comments(0)
本日ただいま誕生
終戦後のシベリアで凍傷にかかり両足を切断し、絶望のどん底から義足で托鉢行脚を始めた「足無し禅師」、小澤道雄師。
師のご著書である「本日ただいま誕生」を読み、こんな人生を送る人がいるのだと、そのあまりにも壮絶な内容にただただ驚き、運命の不思議さと宿命の厳しさというものを感じました。

27歳で人生のどん底を体験し、自分は仏に見捨てられた、もう祈るのはやめようと決意した時、心の底からひらめきに似た思いがわきあがってきたのだそうです。


 ****

 苦しみの原因は比べることにある。
 比べる心のもとは27年前に生まれたということだ。
 27年前に生まれたということをやめにして、今日生まれたことにするのだ。
 両足切断したまま今日生まれたのだ。
 今日生まれたものには一切がまっさらなのだ。

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そんな師は、後に妻となった小澤道仙さんによると、まるで達磨(だるま)さんか布袋さんのような風貌をし、いつも穏やかな微笑みを絶やさず、縁ある人たちのために尽くした方だったそうです。
そして、以下のような信条を心にとめておられたとのこと。


 1.微笑を絶やさない
 2.人の話を素直に聞こう
 3.親切にしよう
 4.絶対、怒らない


とてもシンプルなように見えて、これを徹底するのはきっと、相当大変なこと。
中でも、怒らないということ。
私の最近のテーマでもあります。
今年の締めくくりにふさわしい本に、出合わせていただきました。

この本を読んでから、「本日ただいま誕生」という言葉、私も時々朝に声に出して言います。
よし、自分はこういう風に生きていこうと決めた瞬間から、新たに生まれ変わることができるのだと思います。
「どうせ自分は○○だから」とか、「~~と言われたからダメだ」と、知らず知らずのうちに、自己イメージで自分を縛り付けてしまいがちですが、本来の自分はきっと、そのようなイメージから全く自由になることができる。
大好きな言葉のひとつになりました。

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by ramram-yoga | 2013-12-13 23:41 | ことば・メッセージ | Comments(0)