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カテゴリ:music( 33 )
光へ
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光、  光、  光、  光。



昨日から、今まで感じたこともないような、強烈な光を感じるようになりました。
今まで、人や自然などを通して感じられていた光が、何者も介さずに光そのものとして、私の前に顕れています。
眩しくて眩しくて、今まで影になっていた部分も一瞬にして明るく照らし出すような光です。
もう、この強烈に眩しい光を前にして、迷いはありません。
なんとなく感じている、というのではなく、確かにはっきりと感じるのです。


時々電話で話す親しい友人と、昨日電話で話していました。
私が「また、想像もつかなかった展開になってきてる」と話すと、「最近電話で話すたびにそう言ってるよね」と、笑われてしまいました(笑)



光に向かって、まっしぐらに行きたいと思います。
一緒に行きませんか^^
光に満ち溢れる世界へ。




バッハ:カンタータ BWB61 "Amen(アーメン)”
バッハの音楽も、光に溢れています。







今年の7~9月に、どんどん浮かんできたことを言葉にして作った日めくりカレンダー。
この内容は、いわゆる”私”の考えではありません。
感覚的にキャッチしたものを翻訳した、というのが、しっくりくる感覚です。
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当時はただただ、その内容に驚いていました。
ですが、今、このカレンダーの世界観がそのまま私の世界観になっているような気がします。

購入されたい方はご連絡いただけたら、お送りいたします。
1冊1000円、送料は164円(5冊以上は無料)です。


  感謝と愛をこめて







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by ramram-yoga | 2017-11-01 11:30 | music
気づきはバッハの音楽とともに
昨日のブログ記事を書き終えた後、京大のゼミへ。
あの体験は、そのゼミに提出するレポートの内容を論考していた時に突然やってきました。

気づきというのは、最初は体験からやってくるものであるけれど、それを自分のものとして落とし込んでいく時に知的に理解する過程が必要となってくるのだと思います。
深い気づきの体験は身体感覚を伴います。
しかしそれは、理性的な働きによって考えを進めているときなのです、いつも。

昨日の気づきをもとに、今の私の真実を、簡潔に文章にしてみます。
それは…

*****

目に映る世界のすべてのものは、わたしの意識(こころ)に、即時即応的に応答している。
世界は、わたしの意識そのものである。

*****

この、世界と自分とに全く隔たりや距離の無い感じが、まさに ”わたしが世界” なのです。
だから、意識が変容すると、たちどころに目に映る世界が変化するのですね。
私は、世界を観ることで、実は私自身をみていたのです。


このことを何度も反芻するときに聴いていたのは、この音楽。
バッハのブランデンブルグ協奏曲第5番第1楽章ニ長調。
カラヤン指揮、ベルリンフィルの演奏で。


この音楽は、私が中学時代、生きていることにほとんど絶望していた時に、掃除の時間に毎日流れていました。
永久とも思える時間の流れの中で、瞬く間に消えていく自分の命のことを思うと、気が遠のいていったものです。
このことに気が付いてしまったことを後悔し、こんなことに考えが及んでしまう人間として生まれてしまったことを、憂いていました。
そんな自分の心境とは裏腹の、明るいこの曲の出だしが、そんな私の絶望感を余計に掻き立て、孤独感が増していきました。

でも。
この1楽章は、中盤から曲調が変わります。
チェンバロのソロの部分、この部分までは、確かあの掃除の時間には流れていなかったはず。
でも、そのソロの部分が、圧巻なのです。
躍動しながら迫ってくるように感じられる部分があります。
今回のこの気づきが、そのソロの部分にフィットしました。

チェンバロのソロの部分からはじまる動画も発見。



絶望感を感じていた頃から、こうしてある種の死生観ともいうべき見解に至るまでを、このバッハの1曲が包含してくれた、そんな不思議な音楽との関係です。



いつも思うのですが、バッハはなぜ、こんなすごい作曲ができたのでしょう。
それも、おびただしい曲数です。
その中に人間らしい感情に寄り添うメロディーは、ありません。
そうではなくて、常に天の高いところから降りてくるような、そして、本質的なものに気づく感性を呼び起こしてくれるような響きがあります。

振り返ってみると、私の形而上学的な気づきは、いつもバッハの音楽とともにあります。


溢れる愛と感謝をこめて




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by ramram-yoga | 2017-10-26 20:48 | music
AUM
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最近、空を見上げると、それがスカスカの何もない空間ではなく、ぎゅうぎゅうに遍満している何かがあるように感じていました。
そして、それを音で表すと「オーム」である、ということが分かってきました。
万所に遍在している響き、音なき音、それがオーム。
そういうことだったのですね。


自宅の窓から田んぼや山々、広がっていく空を、ぼーっと眺めていると、世界の側の方から、お誘いをいただきます。
「おいで」と、両手をいっぱいに広げて、待っていてくれているかのように、感じます。
あぁ、このまま、もう溶けてしまって、ひとつになってしまいたいなぁ…。
ひとつになってしまったら、この肉体は、どうなってしまうのかな。


今朝、バッハの Cello Suite を聴いていましたが、これも空から響いてくるオームと近い響きに感じました。
バッハはやっぱり、天とつながりながら作曲していたのですね。



**************



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まだ死にませんので、ご安心を(笑)



愛をこめて


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by ramram-yoga | 2017-09-11 16:17 | music
すべてが”わたし”である
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「”わたし”とは何者か」という問いを発した直後から、立て続けに応答がありました。
その日の内に、手にとった本の中から言葉が飛び込んできました。
翌日は京大の広井先生の授業の聴講後、皆さんとカフェでお茶をしていた時の話題として出てきました。
そして極め付けは、ふと録画していたNHKこころの時代のシリーズ「唯識に生きる」の第2回目を観ようと再生したら、その回のタイトルが「”自分”とは何者か」でした。
あまりに直球の応答だったので、タイトルを見た瞬間、ひとりで噴き出してしまいました(笑)

「問いを発すれば応答あり」
やはり、これは確かな事のようです。
得たい回答があるとするなら、宇宙に問いを投入しなければなりません。

この人生で、真理を得るための究極の問いを見出す。
そのために心身を極限まで研ぎ澄ましていく。
それが、人間に与えられた最大の難問かつ、これ以上無く面白くてエキサイトする挑戦なのかもしれません。

最近、生きることや死ぬこと、そして自分という存在について、考えに考え抜いた人たちと出会うことが多くなりました。
周りにそんな人はいないとつい最近まで思って孤独を感じていたのですが、それは単に、私がそのような人との交流に心を開いていなかっただけだったのでした。
私もやっと、満を持してその課題を正面から問える段階に入ることができたようです。

今私ができる最大限の認識力で、人間が到達しうる最高の境地について考えてみています。
それは「この世界のすべてが”わたし”である」という境地ではないかと思います。
”わたし”が、米澤紗智江というこの個人を超えて、無限に広がっていく。
ですから、個人としての私が死んでも、”わたし”が無くなることはない。
そもそも、よく洞察を深めると、個人としての私は、実はとても曖昧なものなのではないでしょうか。
このあたりのことは、これからもっと実体験と共に体認していきたいと思っているところです。


********


さて。
最近は大学時代によく聴いていたアフリカの音楽を毎日流しています。

西アフリカはマリ共和国の歌姫 Fanta Damba が唄う「Sekou Semega」。


ちなみに、この動画の女性はFanta Dambaではありません。
彼女はこんな人です↓(音声自体は上の方がいいので、下の彼女を観ながら上の音楽を聴いてみてくださいね)

通奏低音的にベースとして流れているG調のハーモニーが、自己の存在が絶対的に支えられていることを感じさせてくれるようです。








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by ramram-yoga | 2017-05-26 22:22 | music
”わたし”を観ている
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前回の記事は少し奇妙だったかもしれません。
私も、自分で書いていて、「ヘンなこと書いてるな」と思いました(笑)
でも、そう感じるのですから仕方ありません。
考えて書いているというより、どんどん言葉が出てきてしまって止まらなかったのです…。

記事の最後に「今見ている世界は、まさに私の心そのもの」と書きましたが、そう書いた後から、また今まで感じたことの無かった感覚が突然やってきてしばらく呆然としてしまいました。

私がこれまで外の世界と思って眺めていたのは、私の心そのものだったのでした。
この感覚がやってきた時、子供と寝室にいたのですが、子供はまさに、私そのものだったのだということが分かりました。
”子供”が、私と分離して存在していたのではなかったのです。
子供の中に見ていた純粋さ、それは私の心の中にある純粋さだったのでした。
保育所で友達と喧嘩して悲しい気持ちになっている、その悲しみは私の心の中にあったのでした。
私の目を盗んでおやつを食べている、そのうしろめたさと盗みは、私の心の中にあったのでした。
なんでもかんでも「見て見て」と言う子供から感じた、見てほしいという思いは、私の心の中にあったのでした。
「ちょっと待って」ではなく、その時その時に子供しっかり見るということは、その時その時の私の心をしっかり見るということと同じ事だったのでした。

なんでしょう、この感覚は。
”わたし”が無限に大きく広がり、すべてが”わたし”になってしまいました。

この感覚がやってきた時、聞いていた曲。
大学時代に没頭した、西アフリカの音楽です。
Mamady Keitaという世界的なジャンべ奏者が率いるアフリカン・トラディショナル・バンド「Sewa Kan」の演奏。

西アフリカの音楽を、一言で表現するなら”円環”。
始まりとか終わり、区切りといった概念が、リズムの中にないのです。
リズムを聞いているだけで、既成概念がひっくり返ってしまいます。

この西アフリカの音楽の円環の響きは、私の心の中にあったのでした。
バッハの音楽の調和の響きは、私の心の中にあったのでした。

亡くなった祖母の実在を今でも感じることができるのは、祖母は”わたし”だったからです。
今は亡きヨーガの先代の師匠である、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師様に祈ると、いつも明確なヴィジョンを見せてくださるのは、大使様が”わたし”だったからです。

そうか、わたしは常に、わたしを観ている。
今、ここで。





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by ramram-yoga | 2017-05-23 14:18 | music
Scott Ross のバッハ
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音楽の評論ができるほどいろんな音楽を知っているわけではないのですが、ただただバッハの音楽が好きで、惹かれ続けています。
最近は特に、気づきの深まりと共に、いつもバッハの音楽が流れています。
人間的・世俗的なところが無くて、天空に響くようなメロディーで一貫されています。

最近好きで毎日聴いているのは、アメリカのチェンバロ奏者スコット・ロスのバッハ。
「瞬間的な音楽の霊感」を追求した演奏家。

冴え渡る高度な技巧を有していながら、奇をてらった表現はほとんどなく、端正な演奏を良しとしていた。
一方で、チェンバロ演奏にしばしば見られるような学問的興味に傾いた演奏様式とも一線を画しており、生き生きとしたリズムや和声によって音楽の本質に迫ろうとする特徴がある。(wikipediaより)


平均律クラヴィーア曲集第一巻。

平均律クラヴィーア曲集は、24の調性をハ長調から順に半音ずつ上がるようにして構成されています。
つまり、全曲を通して、調整がゆっくりと上昇していくのですね。


パルティータ。

最近の私のテーマ曲になってしまったBWV828-3”courante”は、1:14:45あたりから。


頭頂が開いて天と繋がっていくような感覚になる、Scottの演奏です。
バッハ自身は、どんな演奏をしていたのでしょう。
今はもう聴くことのできない響きに、想いを馳せる日々です。



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by ramram-yoga | 2017-05-07 06:01 | music
世界観の逆転
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全ての現象は、その存在を絶対的に支えている何かがなければあり得ないのだ、ということを、身体感覚を伴って体験してから、丸2日が経とうとしています。
この体験が私にとってどんな意味を持つのかについては、後になって振り返ってみないと分からないことでもあると思います。
気付いたからといって私が変化してしまった訳ではなく、至っていつも通りです。
”人が何かを悟る”ということは、悟りがある瞬間突然に訪れて、その前とその後ではその人は決定的な変化を遂げて別人のようになってしまう、というのでは、実際は無いのかもしれません。
そのような人もいるのでしょうが、ほとんどの人にとって”悟り”とは、気づきが深まる体験を日常生活の中で繰り返し反芻し、だんだんと自分の体認として落とし込んでいく過程のことを言うのかもしれません。
また、その過程は、ただただ知覚による体験だけで成り立つのではなく、必ず何らかの形で客観的にとらえなおすという理性的な作業が必要なのだと思います。

今から4,000年以上も前に編纂されたとされるウパニシャッド聖典群のひとつ「ブリハドアーラニャカ・ウパニシャッド」の中に記されている瞑想手順にも通じていて、改めてそうなんだなぁと思いました。
そこに記されている瞑想法は以下の4段階に分かれます。

 1.シュラヴァナ(聴聞)…まずは智慧や進むべき方向性を学び、ヴィジョンを持っておく
 2.マナナ(熟考)…それについて熟考し、内省する
 3.ニディディヤーサナ(深い瞑想)…日常生活に即して熟考し続ける
 4.ギャーナ(悟り)

*********

今日、目的地に向かう道中、雨の中傘をさしてゆっくり歩いていたのですが、その時にふと、自分の見ている世界が全く変化していることに気付きました。
以前は、目に映る者は全て諸行無常で変化するために、そこに本質は無いという風に見ていました。
でも今日は、目に映るもの全てを、根源的ないのちともいうべき絶対者が多様な様相で現象しているものであると、見ていたのです。
どこを見回しても、それまで感じていた空虚さは無く、それと全く正反対の、充足・充満と形容すべき感覚に満たされていました。


この、自分の内側で、また目に映る全てのものの内側で、大地から天に向かって躍動感を伴って振動しながら上昇する”響き”。
鈴木亨が、「これを極限的に表現するものは、例えばモーツァルトの「交響曲第40番」や、K・514の「管弦五重奏曲第4番」」であると著書の『響存的世界』で書いていますが、私にとっては、最近いつも聴いているバッハのパルティータも、まさにそれを表しているように感じられます。
以前のブログでは、グレングールド演奏のを貼り付けましたが、今回はいつも聴いているグスタフ・レオンハルトのチェンバロ。
(courante は10:36~です。)


バッハも、この”いのちの響き”とも言える響きを、感じながら作曲していたのでしょうか。












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by ramram-yoga | 2017-04-26 20:00 | music
大地から天へ
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先週末はボーイスカウトの舎営に参加した息子に付き添って、1泊2日を甲山森林公園の中で過ごしました。
森林の中はツツジが満開。
道中で随所に咲いているのを目にする度に、心奪われました。
春に咲く花はまさに「咲き乱れる」という言葉がぴったりですね。
こちらに入り込む隙を全く与えないかのような力強さと勢い。
花の横顔を眺めながら、その一つ一つの花がどこか同じ方向に向かっているのを感じました。
大地から天へと上昇していく、それはそれは力強いエネルギーでした。


バッハのパルティータ BVW828-3 courante, グレングールドのピアノ演奏で。

今朝ふと聴きたくなって聴いていると、この曲にも、あのツツジのように、生命力が大地から天へ上昇していく様相が表現されているように感じたのでした。
数学者でもあり、音楽の作曲に関しても非常に緻密だったバッハ。
同じ時代に生きたヘンデルのような感動的なダイナミズムとは対照的な、淡々と進んでいくそのメロディーとリズムの中に、なぜこんなに豊かな感性の世界が広がっているのでしょうか。
何度聴いても全く色あせることがありません。
この曲以外にも、聴いていると天に上昇していくような曲が、バッハの楽曲にはあります。
それも、高揚感に浸るのではなく、静かな穏やかさとともに…。

そして、それを聴いている私がそこに感化しているということは、人間にもあの花のように大地から天に上昇していく力強いエネルギーを、生命の本質として持ち合わせているからなのだと思います。












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by ramram-yoga | 2017-04-21 11:20 | music
夜明け

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前回の記事でも書きましたが、教育分析(カウンセラー自身が自己理解を深めていくために指導者から受けるカウンセリング)を受けて、自分のこれまでの人生が一本の線でつながっていった体験をしてから、3週間が経ちました。
どのようにつながったかというと、今までずっと「母のように生きてきた」自分に気がついたのです。
このことは、私にとっては見当もつかなかったことで、教育分析の落とし所がこんなところにあったことが、心底意外でした。
でも、改めてそのような視点から今までの自分のやってきたことを振り返ると、まるでそれが方程式であるかのように、思い当たる全てのことに当てはまっていきました。

私にとって母親は、完璧な存在でした。
幼い頃からずっと、母親の価値基準で物事を判断し、進路や入部した部活、職業、仕事のスタイル等、母親の辿ってきたのと同じように自分の道を選択してきたことに気付きました。
そして、母親より劣ると感じた分野では、自分からそのステージを降りることで、その劣等性への直視を避けてきたことにも気づきました。
この中で特に母親に劣ると主観的に感じていたのは、女性性でした。
小さい頃から”女らしさ”になぜか嫌悪感を感じて、ボーイッシュな髪形や服装を好んでいた訳も、理解できました。
思春期から摂食障害になったのも、そのことと深く関連していたことに気付きました。
当時、摂食障害で急激に太っていったことが自分にとって最大の屈辱でしたが、その時奪われたと感じたのがまさに、女性らしさでした。
ですが本当は、それは奪われたのではなく、自分で剥ぎ取っていたのですね。

長い間ずっと苦しめられていた、周囲からネガティブな注目をされることへの怖れについても、その正体が分かりました。
なぜか、隠し事をしているわけでもないのに、ことあるごとに相手から疑われているのではないかと感じていたのです。
その怖れは、実は私には自分のアイデンティティというものが無く、全てが母の借り物であるということを見破られることに対して生じていたのだということが、分かりました。
母のようでないと周囲から歓迎されず、期待されないという信念を持っていた私にとって、偽りを暴かれ本当の自分があらわになることは、死活問題だったのですね。

「自分は母のように生きてきた」ということを突き付けられた時に初めて、自分の中にぽっかりと大きな空洞が空いているのを感じました。
自分というものがまるでなく、とても、空虚でした。
そして思いました。
私は、必死にこの空虚さから目を背けようとして、個性的になることに多大な労力を費やし、様々な外的活動にしがみついてきたのだと。
このことを突き付けられた時は一時期、抜け殻のようになりました。
実際に、これまで私を支えてきた芯のようなものがごそっと背中から抜けて、肩が軽くて軽くてしょうがないのです。
肩ってこんなに軽いものなのかと驚きました。
そして一方で、大きな虚しさが襲ってきました。
いったい私はこれまで、何をしてきたんだろうと。


でも。
アイデンティティとはそもそも個と個を区別するものであり、ヨーガで言うところの”非我”なのですよね。
アイデンティティの本質である ”私は~~” という感覚こそが、執着を強めていくのですから。
今回の気づきがあってから、そのヨーガの教えがスーッとしみ込んできました。
空虚な感じのしたぽっかり穴も、周りをアイデンティティという名の柵で囲っていたから空洞ができていたのであって、その柵をとっぱらってしまい、もっともっと大きな”いのちの根源”ともいうべき大いなるものに自分を重ね合わせていけばいいのだと、思いました。
本当の自分である真我は、これまでも誰からも気づ付けられたことは無く、低められたり高められたりすることは決してないのですから…。


ー禅の教えでもあるように、まるで水のように、四角い容器にはいったら四角くなり、丸い容器に入ったら丸くなるように、自分を固定化しないことー


これは、以上のようなことを、現在の主治医である齋藤クリニックの齋藤先生にお話ししたところ、いただいた言葉です。
教育分析をしてくださった私の心理の師匠もそうですし、このように全人的な変容をすっぽりと包み込んでくれる器の大きな医療者とご縁をいただけているのは本当にありがたいことです。
涙ながらに語る私にティッシュを取ってくださいながらも、
「アメーバのように、自在に形を変えていけるようになればいいんですわ。わぁっはっはっはー!」
と笑い飛ばされ、最後まで残っていた深刻さもスーッと抜けていきました。


その後。
ここ最近、自分というものが自分の肉体だけにとどまらず、広がっていくような感覚を感じています。
感じたことのない、不思議な感覚です。
ここからまた、新たな世界が開けてくるのかどうかは、私次第ですね。
そして、目の前にいる人に、いつも最善を尽くすことができますように。
自分の存在価値を確かめるためにではなく、純粋に人のために尽くすとはどういうことかを、これからもっと考えていきたいと思っています。


「新たな始まり」という感じがしているこの頃の心境に、フィットしてくれる一曲を、最後にご紹介。
人はいつでも、決意した時に、生まれ変わることができるのですね。

バッハ管弦楽組曲第4番ニ長調


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by ramram-yoga | 2017-03-14 01:25 | music
感情に寄り添う音楽
昨日の続きです。
人からグサッと弱点を突かれた時のこと。
それ以降、気持ちがどんよりとはしていたのですが、自分が落ち込んでいたことを意識化できたのは、それから半日以上経ったその日の晩。
好きな音楽をかけ、ハーブティーを飲みながらほっと一息ついていた時でした。

感情というのは身体感覚と未分化であり、“もやもや”とか“どんより”、“いらいら”など、まずはそのような形容詞であらわされるような状態で存在しています。
それが“私は怒っている”、“悲しい”、“嬉しい”、“切ない”など、動詞として表されるような理性的な捉え方ができるまでにはラグがあるわけであり、もしかして大半の感情とは、このように認識されることなく過ぎ去っていくのかもしれません。

そのような、言葉という少々粗雑な手段で捉えきることのできない繊細な感情に寄り添い、包み込んでくれるのが、同じく非言語的な音楽なのだと思います。

テンションが高いときは楽しい曲を、フラストレーションがたまっている時はロック調の曲を大音量で。
憂鬱なときはトーンを落とした静かな曲、ショックを受けた時は絶望的な曲を。
誰でも、それぞれ、無意識的に選んでいるのだと思います。
またそのことは、非言語的に自分の感情と向き合い、癒していくプロセスなのだと思います。


今晩、私の心に寄り添ってくれたのは、この曲でした。

ショパンのノクターン8番、アシュケナージの演奏で。



今のあなたに寄り添ってくれる一曲は、どんな曲ですか?
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by ramram-yoga | 2016-01-17 21:50 | music