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カテゴリ:最近のいろんなこと( 35 )
心配り
臨床心理士の資格試験が、いよいよ明後日にまで迫ってきました。
もうすぐ、試験勉強に明け暮れた日々からも解放です。
勉強をしていた期間は、プレッシャーを感じながら大変な思いもしたのですが、その反面楽しくもありました。
何より、勉強しながら自分の心理学全般に関する知識の浅はかさを思い知り、もしあのまま勉強をせずいたら…と思うと少し恐ろしいです。
専門家たるもの、常に向上心を持って勉強を続けなければ、と、改めて思いました。

*******

数日前から、大学院の指導教員の先生や知り合いの方から、応援メッセージをいただいています。
思いもよらぬことでしたが、とても嬉しかったです。
こんな風にして、誰かから気にかけてもらうこと、応援してもらうことというのは、こんなにも人の気持ちを温かく、そして勇気づけてくれるものかと思いました。
メッセージをくれた方々はそれぞれご活躍で忙しいのですが、こんな風にして細やかに心配りができるところは素敵ですし、私も忙しくても心にそんな余裕を持てるようになりたいとも思いました。

それでは、ラストスパートを、もうひとがんばり。
試験が終わったら読もうと買いためていた本の平積みを横目に・・・。
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by ramram-yoga | 2016-10-13 12:09 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
死と向き合う事で、今が見えてくる
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9月17日・18日は、プロジェクト「いのち」の夏季合宿に参加してきました。
1日目は私も実行委員として携わっている人体科学会第26回大会のシンポジウムや研究発表で登壇されるそうそうたる先生方の発表やワークショップ、2日目は「生と死の研修~よりよく生きるために」と題されたワークショップが行われ、2日間ともに非常に濃密な時間を過ごしました。

2日目の「生と死の研修」では、“死の体験旅行”という死の疑似体験をしました。
自分の大切な“物”・“人”・“活動”・“夢”を書き上げた付箋を、自分が死を宣告されたがん患者になったというシュミレーション・ストーリーの中で、1枚、1枚と捨てていきます。

案外早い段階であきらめがついて捨てることのできたもの。
後々まで捨てられず、譲れないもの。
自分の死が迫ってくる中で、これまで目いっぱい抱えていたたくさんの大切なものたちに優先順位をつけ、取捨選択していくことを、リアリティをもって突き付けられます。
驚いたのは、自分が普段たくさんのエネルギーを注いでいて、アイデンティティにより深く根ざしていると思っていたものが、意外と早い段階で捨てられたことでした。
最後まで握りしめ、どうしても捨てられなかったものを、死を目の前にして捨てなければならないときは、涙せずにはいられませんでした。

そしてその作業を通して、自分が何によって支えられ生きているのか、今何を一番大切にするべきなのかが、今までになくクリアーになっていきました。
死をリアルに感じることで、今の自分の状態が浮き彫りになり、方向性がはっきり見えたのです。

帰宅して翌日の朝は雨模様。
低気圧のせいか夫と息子は遅くまでぐっすり眠っていて、2人が起きるまでの間、気が付くとひたすらに掃除と片付けをしていました。
死の疑似体験をしたことで、心の中の大掃除と整頓ができたようです。

********


ある経営者の方が、“雲を突き抜けて山の頂にのぼると、それまで見ていた風景とはまったく違った風景が見え、他の山の頂が見えてくる”というようなことを言っておられました。
私自身は頂まで登ったわけではないのですが、本当にそうだな、と思います。
あるいは周波数に例えられるかもしれません。
ある種の心の状態がある一定の周波数を放っているとすれば、心の状態が変わると周波数も変わり、それに同調するように出会う人や起きてくる出来事が驚くほど変化します。
すると、それまで見えていた世界が全く色彩を変えてしまう。

この世の中には本当にたくさんの人が生きていますが、どんなに近くにいても周波数が合わなければ会うことができない。
逆に、周波数が合ったなら、確率論から言うと奇跡としか言えないような出会いが、あるものですよね。
この世界にはまだまだ、見ていないたくさんの景色がありそうです。

こんな風なことを強く思ったのは、合宿の1日目に登壇された先生方のご様子というか、存在感に物凄く感化されたからです。
私とは全く違う世界を見ておられるのだな、と思いました。
ある先生などは、オーラというのでしょうか、眩しい光を放射状に発していて、発表されている間は眩しすぎてその先生が見えなくなってしまったほどでした(笑)
まさに、ひょぇ~!です。
人間界にもこのようなお方が、いらっしゃるのですね。

…といった個人の感覚的所感はともかく、医療の分野においてご自身の専門性を一筋に数十年追及されてきた独創性と、実力の高さには、本当に目を見張るものがありました。

そんな、そうそうたる先生方が、まさに集結される人体科学会第26回大会は、12月3・4日に京都府立医科大学で開催されます。
ご興味のある方は、是非ご参加くださいね。
私もスタッフとして会場にてお待ちしております^^








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by ramram-yoga | 2016-09-20 19:55 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
波長を合わせる
9月のはじめ、家族と日本海側に旅行に行ってきました。
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宿泊したお宿は、すぐ裏が浜辺。
夜は、寄せては返す波の音に包まれて、眠りにつきました。
波の音を聞いていると、自分の記憶の奥底で眠っていた何かが呼び起こされるような感覚がありました。
地球の生命が海から陸に上がったはるか太古の昔から、ずっとずっと聞いていたこの波の音が、きっと私たち人間のDNAにも深く刻まれているのでしょうね。


****

8月末、プロジェクト「いのち」という研究会の定例会で、サウンド・ヒーリングをされている増川いづみ先生のヒーリングを実際に体験させていただく機会がありました。
元々は科学者である増川先生によると、地球上の生命はそれぞれ、ある特定の振動数に反応するDNAをもっているのだとか。
この地球上にはあらゆる周波数の振動が満ち溢れていて、植物を含めたそれぞれの生命のDNAが特定の振動数に反応し、それぞれの種に固有の形を形作っているのだそうです。
増川先生のヒーリングでは、音叉を直接体に当てて、深い部分にまで響かせていくようなものもあるのですが、自分の中にその音叉の振動と力強く共振するものを感じました。

そして、翌日。
とても不思議な感覚に包まれていました。
自分と外界との間にシールドが張られ、守られているという感覚。
これは、自分自身の内側で調和がとれて本来の振動数に立ち戻ることができたため、他の異質な振動数や、調和を狂わせてしまう振動数を寄せ付けなくなったからだと思います。


この世界は、振動から成り立っている。
生命も、鉱物も、思考も、ありとあらゆるものがすべて。
そんなことを知って、改めてみるこの世界は、本当に神秘に満ち溢れています。

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因みに、人間には528ヘルツの振動が、いのちの調和を促し進化を後押ししてくれる振動数なのだそうです。





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by ramram-yoga | 2016-09-15 19:54 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
ALOHA
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弟の挙式に参列するため、昨日までハワイに滞在していました。
ハワイに行くのは初めて。
見知らぬ土地での滞在で疲れるかと思いきや、逆に心身ともにコンディションが数段アップし、感性が冴え、この場所が持つエネルギーの凄さを体感しました。

a0118928_12402817.jpgそんな素晴らしい土地で、数日間家族水入らずで暮らし、結婚式で家族の歴史を振り返った時間はかけがえのないものとなりました。

そして、自分でもびっくり。

また思ってもいなかった方向へ、大きく舵を切ることになりそうです。

しかし、それはよく考えてみると、前々からそうしたいと思っていたことだったことに気づきました。

それが、この土地で、このタイミングで、まるでゆで卵の殻がツルンとむけるようにして、はっきり認識することができました。

自分の選択するべき道は、すべて自分が知っているんですね。


a0118928_12421728.jpgもうすぐ4歳になる息子は、はじめての海外でおおはしゃぎ。

滞在最終日は風も止んで素晴らしい快晴になり、浜辺で夢中になって遊びました。

子どもの成長を嬉しく思いながら、何故か、まだ見ぬ新しいわが子に恋焦がれるような気持ちになりました。
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by ramram-yoga | 2015-02-18 10:48 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
入学祝い
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new パソコン。
夫が大学院の入学祝いにと、買ってくれました。

物の扱いが粗雑な私ですが・・・。
大切に使います。

卒業するまで、落とさないように気をつけます。(?)
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by ramram-yoga | 2014-02-10 09:36 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
よいお年を
昨日はとんでもなく長ったらしい文章を書いてしまいましたが、もし最後まで読んでくださった方がいたなら、一緒に追体験をしてくださってどうもありがとうございました。

ところで最近、特に精神医学や臨床心理学の世界では“ナラティブ”という概念がが結構なブームとなっています。
ナラティブとは直訳すると『物語り』。
人はそれぞれ、日々経験する出来事を自分なりに解釈し、自分の人生の“物語り”の一部として、ストーリー性を持たせつつ取り込んでいきます。
つまり、私たちは何かを体験した時、そのことに対して主観的に意味づけを行なっている、ということです。
そして、その意味付けとは不変なのではなく、流動的に変化していくもの。

例えば、真っ只中にいるときは辛く悲しい出来事も、後から振り返ると自分を成長させてくれた感謝すべき出来事だったと捉え直すことがあります。
そして、出来事を解釈し直すことにより、自分の考えが変化し、それに伴って行動が変化し、人生が動いていく・・・。
そんな風に私たちは、語りながら自己を生み出し、そして作り直しながら、“私”という自己を確認し続けていきます。

本当にそうだなぁと、思います。
自分自身の一年を振り返って、あの時のあの出来事は自分にとってああいう意味のあるものだったんだ、とか。
こんな風に捉えていたけれど、実はこうだったのか、とか。
そのような解釈は良くも悪くも、その後の私のあり方を決定付けてきました。
でも実は、それらの出来事の解釈の仕方に、正解があるわけではない。
大切なのは、どのように解釈するかで、自分の行動や世界観、ひいては生き方がどのように変わっていくのか、なのだと思います。

この世界は本当に、不思議。
自分がどのような心でいるかによって、見えてくる景色が全く変わっていきます。
それは言葉を変えれば、自分がどのような世界を観ているかについての責任は、自分にあるのだということです。
これは、来年のテーマとなりそうです。
年明け2日から4日間は、毎年恒例のラージャ・ヨーガの集中修行会に参加するので、瞑想の中で深めてみたいと思います。

それでは、今年はこの記事で更新を終わりたいと思います。

このブログを読んでくださっているあなたが、静かで平安な心の内に、光り輝く新年を迎え入れることができますように。
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by ramram-yoga | 2013-12-30 21:56 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
亡き祖母と過ごした夏
とっても印象に残っていたのに、振り返ると「あれ、こんなこともあったっけな」と、忘却のかなたに追いやられてしまいそうになっていたことを、新しい年が来る前に書きとめておこうと思います。
とてつもなく長文になってしまいました。

ことの始まりは、2年前にまでさかのぼります。
それは息子が生まれて間もないお盆のことだったのですが、実家の仏壇のお部屋で寝ていると、すでに亡くなっていた祖母の声が聞こえてきました。
「今あるお金はすべて、勉強のために使い果たしなさい」
夢だったのかそれとも現実だったのかどうか、よく分かりません。
ただ、決して大きい声ではないけれど身体にその振動が伝わってくるような力のある声で、枕元の私をゆっくりと諭すように何度も何度も繰り返し言われたので今でもはっきりと覚えています。
“今あるお金”とは、きっと生前祖母が「勉強に使いなさい」と私にくれた、まとまったお金のことなのだと思いました。
それから2週間後、私は放送大学に入学していました。
数年間はしばらく、ゆっくり子育てをしようと思っていた矢先のことでした。

その後は自分でもびっくりするほど、勉強にのめりこんでいきました。
新しい知識を蓄えていくにつれて目の前にどんどん開けていく新しい世界に没頭していきました。
なぜか自分の勉強をリードしたり後押ししてくれるような方との出会いが重なり、環境もどんどん準備されていくのです。
しかし、勉強をするには子どもを預けなければいけません。
幸い、息子は良く食べよく眠り、託児に預けてもあまり心配のかからない子どもでしたが、お金が要ります。
また、研修や勉強会なども、それなりにしっかりとしたお金が必要です。
お金のことで迷うたび、祖母のあの言葉を思い出しました。
何しろ「使いなさい」ではなく「使い果たしなさい」と言ってくれていたので、今あるお金をすべて勉強と勉強するための環境づくりのために使い果たすことに決めました。

そして、放送大学の卒業を1年後に迎えた今年の春。
いろいろ考えた末、大学院に進学することを決め、受験勉強を始めました。
大学院を受験する際は院で行なう研究計画を提出しなければならないのですが、ちょうど研究計画の作成を手がけ始めた時、自分の研究テーマの具体性へとつながるお仕事をいただいたり、研究手法とリンクする貴重な情報をいただいたりと、天の計らいのように思えた出来事が重なりました。

しかし、トントン拍子とも言えるような院試の準備が整っていく勢いとは逆行するように、私の心の中にはある種の“重さ”のような抵抗勢力が働いているのを感じていました。
いまひとつ、気持ちが乗り切らないのです。
もっと正確に言うと、全力投球しようとすると、ブレーキがかかるのです。
その理由は、後で気づくことになります。

一方、院試を翌月に控えた7月、ある講演会でとても不思議な方とお会いする機会がありました。
人を見ていると、それぞれに個性的な光を発しているように感じられることがありますが、その方はご自身そのものが光であるかのように見えてしまうようなほど、精妙なバイブレーションの持ち主でした。
偶然ゆっくりとお話をさせていただいた時、祖母の話をしたのですが、その方は微笑みながらゆっくりと私の話を聞いてくださいました。
私にとって、生前からとてもつながりの深かった祖母。
その方とお話をさせていただいてからというもの、祖母の存在をますます実感として感じるようになりました。

そして8月。
院試を間近に控え、どこかでかかるブレーキを感じながらも、勉強に没頭していきました。
私の中の何がブレーキをかけているかについては、うすうす分かってきました。
それは、試験を受けることによって自分の実力が形となってあらわになってしまうことへの恐れでした。
思えばその恐れは、不登校をきっかけに高校を中退してからというもの、ずっと持ち続けていたものだったのかもしれません。
いわば“落ちぶれ”た経験を持つ私は、横道にそれることなくちゃんとした社会人になった人たちに対して、引け目を感じていたのだと思います。
そして、そんな人たちを目の前にするたびに、私は自分に「私だってがんばれば、あの人たちと同じようにできたはず」と、自分を慰めてきました。
しかし、実際に全力を出していいシチュエーションになると、怖くなってしまうのです。
だって自分に実力が本当にあるかどうかなんて、分からないのですから・・・。

でもとりあえず、ブレーキの正体がうすうす分かり始めてから、だんだんと勉強に集中することができるようになりました。
努力をセーブしておくと、受験に失敗した時に「精一杯がんばれば合格できたはず」と言い訳ができるのです、自分に対して。
でも、その言い訳の余地を残しておくのはやめようと決めました。
仕事のある日はもう少し少なかったですが、1日8~10時間くらい勉強していたと記憶しています。
まだ息子は待機児童だったため、一時保育に預けて勉強しました。
1日10時間預けて5,400円、週5日預けると27,000円。
お金がひらひらと羽をつけて飛んでいきます。
これで受験に受からなかったら、この投資が水の泡になってしまう・・・。
でも、なぜか状況的に追い詰められるほど、そのプレッシャーがゾクゾクするようなチャレンジ精神にすり替わっていきました。
机に向かっての勉強以外にも、家事をしながらラジオやDVD教材で勉強、車に乗っている時や歩いている時は音声教材で勉強、電車や買い物のレジでの待ち時間では参考書で勉強、とにかく生活と仕事に費やす時間は最低限に切り詰め、1分1秒を惜しんで勉強しました。

試験を1週間前に控えた頃、世の中はお盆でした。
祖母からの“お告げ”があったお盆から、ちょうど2年が経とうとしていました。
突然、母から「1週間息子を実家に連れて帰る」と連絡がありました。
私が受験勉強で息子を実家に連れて帰ることができず、ひ孫を見れない祖父がとてもさびしがっているから、とのこと。
それともちろん、娘である私に精一杯勉強させてやりたい、という愛情からでもありました。
迷いました。
つまりは、まだ2歳ちょっとの幼い息子を1週間も、自分の受験勉強のために実家に預ける、ということです。
でも、母が強くそう勧めてくれたこともあり、ありがたく甘えることにしました。

母が息子を実家に連れて帰った翌日、勉強の合間に外に出たときのこと。
暑い炎天下、自転車で走っていると、あたりの空気とは全く違った種類の、なんとも例えがたい風が吹いてきました。
その瞬間、言葉が胸にドーンと響いてきました。
「やりなさい」
それは、確かに祖母でした。
1週間、祖母が私に時間を与えてくれたのだと思いました。
そして同時に気づきました。
私がそれまで引け目を感じていたのは、高校や大学時代に結果を出せなかったからじゃない。
横道にそれたことに対してでもない。
その時々で直面した課題に対していつも少し逃げ腰で、全力投球で思いっきりぶち当たっていくという経験をしてこなかった事に対してだったんだ。
今の私には、何かが不足しているわけでもない。
結婚をして家庭を持っているし、仕事だって必要とされている場でさせていただいているし、十分満たされている。
それなのに、こんなチャンスまで与えてもらえるなんて・・・。
祖母の実在と愛情を感じ、涙が止まらなくなりました。
よし、思いっきりやろう。
そう思えてから、息子を預けていることに対する罪悪感がなくなりました。

その翌日、鍼灸治療を受けに行きました。
鍼灸を受けると時々びっくりするようなことが起きるのですが、その時も起こりました。
先生には受験のことは全くお伝えしていなかったのですが、何かその時は新しい技をしてくださったとかで、それまで頭部にこもっていた熱もすっきりととれ、身体だけでなく頭がとてもクリアになりました。
それと同時に自分がシールドで守られたようになり、周囲からのノイズ的な情報から遮断され、とても静かな心の状態で勉強に没頭していきました。
まったく疲れず、勉強すればするほど頭が冴えてどんどん記憶できます。
過去問を解いていると、その問題の出題者の意図がスーッと筋を通して見えてくるような気がしました。
また、広い出題範囲の中から、どの分野をどれだけ、どのようにして勉強すればいいのかについて明確なインスピレーションがわき、迷いなく勉強に集中しました。
その数日間は、具体的にどんな風にして過ごしたのかよく覚えていません。
とにかく勉強して夜中になって限界が来たら布団に倒れこみ、また朝起きたら勉強しました。

試験前日。
勉強も一通り終わり、午後からなぜか何も頭に入らず思考も働かなくボーっとなりました。
ふと、なんとなく気になって、数年ぶりにある封筒を手にしていました。
その封筒には、生前の祖母からもらった数々の手紙が入っていました。
ひとつひとつゆっくりと、読み返しました。
そこには、祖母からの愛情がつまった言葉がたくさん書かれていました。
また、涙が溢れて止まらなくなりました。
私はどうであれ家族から愛されているのだと心から安心し、満たされた思いに浸りながら眠りにつきました。

受験当日。
高速に乗り試験会場に向かっていると、ふと道路脇に沢山咲いている山ユリが目に飛び込んできました。
そういえば、ユリはおばあちゃんが大好きな花だったな・・・と、なんとなく思っていると、気づきました。
「さっちゃん、がんばれ、がんばれー!!」と、祖母が手を大きく振って、私に声援を送ってくれていました。
受験では、心地よい緊張感とともに、受験勉強の成果を存分に発揮することができました。
一番印象的だったのは、筆記試験も口頭試問も終わり、帰宅の途についたときの身体の感覚。
とても軽く、爽快感に溢れていました。
帰り道、また山ユリが沢山咲いている場所を通りかかったとき、「さっちゃん、よくがんばったね!」と、祖母は盛大な拍手を送ってくれました。

3週間後に合格が分かって初めて、身体の力が緩みました。
どのくらい緩んだかというと、その後2~3日間、起き上がるのも困難なほどでした。
こうやって書いていると、院試ひとつで大げさだなって、思います。
でも、私にとっては、体当たりで全力投球してそれに対して結果が伴ったという経験は、高校時代から抱えてきた劣等感を大きく変化させるものでした。

そして実は、私にとっての本当の正念場は、ここから訪れたのでした。
長年心に押し留めてきた情動が、合格発表の後から勢い良く吹き出だしました。
心身ともにとても・・・しんどい時期でした。
一時は、このままでは来年大学院にはいけないかもしれないと思うほどに情緒不安定となり、衰弱しました。
しかし、いつかは向きあわなければならないことでしたし、向き合うだけの素地が自分に出来たこの時期にだからこそ、出てきたのでしょう。
今まで噴出していた私の激しい情動や精神症状(これについてはまた機会があれば書きます)のその奥のマグマのような部分を、まざまざと見せ付けられた時には、そのあまりの巧妙さに驚愕しました。

その時期をなんとか乗り越え、今この記事を書いているのにはもうひとつの意図があります。
それは、私は自分のとる行動を主体的に選択して行なっていくのだという決心をしていきたいということです。
今まで私は、自分が勉強する理由を、“祖母のお告げ”があったからだとしていました。
その理由は時に、子育てに十分な時間を割くことのできないことに対しての、言い訳として使われました。
しかし、今ここではっきりさせておきたいと思います。
私は勉強が好きだから、自分で選択して今のこの道を選んでいるのだ、と。
主体的にその道を選ぶからには、それによってなんらかの不都合が生じた場合も、甘んじてそれを引き受けなければなりません。
また、自分で自分を酷く疲れさせたり、精神症状を出したりすることは、時にそれを理由にして自分の不全感を紛らわすことに使われてきました。

しかし、これからはそんな風に言い訳をしていては、とてもじゃないけどやっていけないと思います。
大学院生活だけでも超忙しいのに、それに子育て、家事、仕事もあるのですから。
それに、自分の巧妙な防衛手段が明るみに出てしまった以上、それらは意図的に使う手段としてはあまりに幼稚すぎます。
今ここで、私は大人にならなければなりません。

・・・こんな長い文になるとは思いませんでした。
年の締めくくりに、こんな風に文章化することができて、感謝しています。

そして、心から、
「おばあちゃん、ありがとう」。
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by ramram-yoga | 2013-12-29 19:41 | 最近のいろんなこと | Comments(2)
心のバランスをとるために
最近まで時間的な余裕があまり無く、ブログもたまにしか更新できていませんでしたが、少しずつ更新する余裕ができてきました。
偶然できたというよりは、そのような時間を意識して作ることができるようになってきました。
思えば、今までが詰め込みすぎだったのだと思います。

そしてこの文章を書くという作業をすることによって、自分自身がとても、助けられています。
自分にとってそれは、頭の中を整理整頓する作業であり、取り込んだ情報や体験したことを咀嚼して落とし込む作業であり、インプットに見合ったアウトプットをすることで頭の中のバランスをとっていく作業だからです。

ということで、自分の心のバランスをとっていくために大切だな、と最近感じていることを書き出してみました。


*******

1.自分の中に取り込んだことを消化する時間的な余裕と、インプットに見合ったアウトプット(文章化する、人に話すなど)
2.旬の食材を取り入れた、和の食事
3.家族に丁寧に接する(きちんと食事を作る、会話を大切にする)
4.ご縁のあった人、お世話になった人とやりとりを丁寧にする、感謝の思いを伝える
5.良書を読む
6.毎日少しでも、自分の時間を持つ
7.ある程度部屋の中が片付いている状態

*******


逆に言うと、なんとなく荒んだ気持ちになるときとは、これらができなくなっている時だということが、分かってきました。

自分がいい状態でいるということは、自分だけのためではないのだと、実感しています。
自分で自分の状態をバランスよく保ち、機嫌よく幸せに暮らすことこそ、周囲の大切な人にとっての大きな愛情である、と。

それと、来年は「怒らないこと」を、大きなテーマとしてみたいと思います。
特に、家族に対して。
私にとっての怒りは、未熟さであり、自己欺瞞であり、相手を支配し、愛情欲求するための手段でした。
今までどれだけ怒りを使ってきたか、そしてそれを正当化してきたか。
でも、怒りはどんなときも、正当化されるべきではないのだなと、思うようになりました。
そして、手放していきたいと思います。


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by ramram-yoga | 2013-12-15 23:16 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
悲しみを悲しいと感じられるということ
この9月は、私生活でも仕事においても、いろいろなことがいっぺんに決まった月でした。
あまりにも急にバババっと決まっていったので、決まるときは決まるものなんだなと、少し驚きました。

その中のひとつ、息子が来月から保育所へ入所することになりました。
10ヶ月間入所を待機して、やっとの入所。
ほっとすると共に、それはこれまでずっとお世話になってきた一時保育の保育園や、ファミリーサポートという託児ボランティアの方とのお別れでもあります。
平日はほとんど1人で育児をしていた私にとって、息子のことを可愛がってくれ、一緒に成長を喜んでくれる人たちが他にいるということが、どれだけ救いになったでしょうか。
それだけに、その方々とのお別れを考えると胸がキュッと締め付けられるようで、涙が出てきます。
でも、出会いがあるということは、いつかはお別れもあるということ。
それに、息子の成長ゆえのお別れであり、それは喜ばしいことでもあること。

また、悲しさを“悲しい”と感じられることのありがたさも、同時に感じました。
なぜかというと、以前はそのようにできなかったからです。
ネガティブな感情を感じるということが、以前は大の苦手でした。
特に、お別れの悲しさというのは、中でも特に、感じるのを避けてきました。
でも、感情から目をそらして、感じるべきときに感じないでいると、その感情は不完全燃焼のまま心に留まってしまうのですね、きっと。


悲しさも、せつなさも、苦しさも・・・。

怒りも、嫉妬も、それらの奥にある恐れも・・・。

誰かの事を「やだな」と感じることも、反対に「好きだな」と感じることも・・・。

“こう感じちゃダメ”ってことは、何一つない。
だって、実際に感じているのだから。
だから、そのまま感じて、いい。
感じていることのありのままを、「私は今、こう感じている」と、認める。
私の“感じ”は私にしか感じることができないのだから、まずは私が私の事を、認める。

ありのままを感じるという感性を育てていくことができたのは、ヨーガのおかげでした。
繰り返し繰り返し、今自分の身体や心に起こっていることを、そのまま感じるという作業が、だんだんとネガティブな感情をそのまま受け入れる力となっていきました。

そして、一見ネガティブな感情も、実は私を助けてくれているのだと、思うようになりました。
悲しみをきちんと悲しむことが、次のステージに進むエネルギーに変わっていくのを、感じているからです。
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by ramram-yoga | 2013-09-28 01:25 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
おめでとう
新しくいろんなことが始まる春。
去年に引き続き今年の春も、私の周りで3人の方が、新たなスタートを踏み出します。

一人は、この春看護学校を卒業して晴れて看護師さんになる、Aちゃん。
二年前の今頃は休学中でした。
自分で自分のことがよく分からない、コントロールができないという苦しみは相当のものだったと思います。
人の気持ちも深く汲み取れる人なので、それで辛くなることも多かったのでは。
そして、Aちゃんの場合、苦しい期間が長かった。
でも、最後のチャンスであった今年度、やっぱり看護師になりたいという強い思いを胸に勇気を振り絞って復学、ハードな実習もがんばってこなしました。
そこでのAちゃんの変化には、目を見張るものがありました。
復学して実習が始まると、どんどん生き生きとして、とても充実した日々を送っているのが言葉の端々から分かりました。

もう一人は、Sくん。
彼は理学療法士を目指して学校に通っていましたが、心身のバランスを崩して一時実習に行くことが難しくなり、一時は理学療法士の道をあきらめようかというところまでいきました。
傍から見てももう今は休学して休んだ方がいいのではと思うほどだったのですが、そこから考え方を変え、少しずつそれまでとは違った発想を取り入れるようになり、最後の力を振り絞るようにして実習に挑みました。
すると、それまで苦痛だと感じていた実習に充実感を感じるようになり、最後の実習では患者様に惜しまれるほどの本当に実りあるものだったそうです。
傍からみても、途中からどんどん生き生きして輝いていくのが手に取るように分かりました。
彼も去年の春から、理学療法士として病院で働いています。

a0118928_10184935.jpgそして、最後の一人はSちゃん。
彼女は介護士として勤務して8年目のベテランですが、人間関係のストレスからうつ状態になってしまいました。
仕事に行けなくなり休職、集中内観に2度行き自分をみつめなおしました。
そこで価値観の転換が起こり、復職。
今では見違えるほど元気に働いています。
今年、10年後福祉分野での起業を目指して新しい一歩を踏み出します。

3人ともに共通していることは、一度底落ち体験をしているということ。
そこから、いい方向に一気に転じていきました。
まさに感動のひとことです。

でも・・・

ここに来るまでに、何度、不安や孤独で一人涙したことでしょう。
挫折感ややり場のない気持ちを抱えて、いく夜、眠れない夜を明かしたことでしょう。

感受性が豊かでやさしくて、でもその繊細さゆえに傷つきやすい。
でも、そんなもろさの奥に、どん底から這い上がってくるほとばしるような生きる力強さを見たような気がしました。

これからも、きっとつまずくことや迷って立ち止まってしまうことがあると思います。
だけど、それを乗り越え糧としながら、ますます輝いていく彼らを想像しています。

誰一人として、問題を抱えていない人なんていない。
誰にだって、時として理不尽としか思えないようなことが起こったり、誰にも言えないような悩みがあったりする。
でも、それらはいつか、必ず乗り越えることができる。
困難が与えられたときには、その困難を乗り越える力も必ず与えられているのだと思います。
大きい困難が与えられ、そしてその困難を見事に乗り越えた3人を、敬意を持って祝福したいと思います。

偶然にも、3人とも医療・福祉分野で活躍する人。
本当の意味で患者さんに寄り添える素晴らしい職業人になると確信しています。


本当に、心から。
おめでとう。
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by ramram-yoga | 2013-03-27 10:19 | 最近のいろんなこと | Comments(0)