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カテゴリ:ことば・メッセージ( 65 )
問い続けること
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なぜ「私」は、他の誰でもない「私」なのか。
見聞き感じて思考し、行為しているこの主体とは、何か。
なぜ生きているのか。
この、個としての生命が終わりを迎えた時、その後どうなるのか。
この悠久に流れる時間の中で、瞬く間ほどの生命を受けることの意味とは、何なのか。


小さな頃からふとした時にやってくるこの問いは、日常生活そのものを根底から揺るがしてしまうもので、やってくるたびに鮮明な驚きとともに、夢から覚めて正気に戻ったような感覚になったものでした。
正気に戻った時、つまり自分の個としての生命が有限であるということを思い出した時、その事実にただただ圧倒され、自分の無力さに打ちひしがれるような感覚に陥ります。
普段、主体的に自分の生を生きているようでいて、そもそも私が「私」という生命をこの世に受け、いずれは死んでいくのだという大前提を前にした時、私はその事実に対して何のなすすべも無く、そこに絶対的に包含されているのです。

この問いは最大のテーマであり、真剣に向き合おうとしながらも、一方で私に途方もない無力感と絶望感を引き起こすほどの破壊力を持ち合わせていて、それだけに向き合うことの難しいテーマでもありました。
また、これはおそらくもっとも重大なテーマであるにもかかわらず、テレビで、また教育現場で、また普段の人との会話の中で、全くといっていいほどこのテーマが扱われないことを、とても奇妙に感じていました。
それほどに、この目に映る諸行無常の世界というのは、変化するものでありながら、何か永遠に続いていくような錯覚を私たちに感じさせます。
そして私たちは目の前の事象に取り込まれ、一喜一憂するうちに、最も根本的なテーマである生と死の問題から遠ざかってしまうのでしょうか。

森信三先生が、自己の生命の有限性の無自覚こそが無知であると述べておられますが、その言葉を昨日改めて目にした時、認めざるを得ませんでした。
自分はまだ、「生と死」という、人生最大の問いに対しての回答を得ていないことに。
頭でわかったつもりになったり、この問いを持つこと自体がナンセンスなのかと思うこともありましたが、そうではないのだ、と。
回答を得たいのなら、正々堂々と、問い続けなければならないのですね。


********



人間が真に人間として成立する根本的な基底には真に無限な主体と逆説する有限相対の存在形態だということである。
この根本構造は実在世界そのものの根本構造であって、およそ存在するかぎりの存在者全体を貫く根本的な理法にほかならない。
ただこの根本的理法の存在と、この根本的理法を自覚することとは異なるのであり、この後の理法の自覚が実存的自覚なのである。
・・・
この事実を自覚し得るのはひとり人間存在だけなのであり、ここに人間は自覚的存在者だと言わねばならないが、しかしこの実在世界の根本的理法はひとがそれを意識しようとなかろうと、われわれの意識から独立にわれわれを支配する理法であるけれども、それをしかと捉えるものはそんなに多くはないのであって、これを真に捉える人が真の意味で主体的存在であり、実存の人とはまさにこの人間存在の根本的理法の存在に気付き、それに目覚める人のことである。
・・・

人間を特徴づけるものは、彼が思考する本質として、存在に対して開かれた存在の現前におかれ、存在に関与せしめられ、こうして存在に応答することに、基づいている。

             鈴木亨著作集第5巻『生活世界の存在論』より


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by ramram-yoga | 2017-04-09 09:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
人生二度なし
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先日、ヨーガの生徒さんが、小さなノートを持ってきて見せてくださいました。
なんとその方は短大時代に、私が心から尊敬する教育者・哲学者、森信三先生から道徳の授業を受けられていたのだそうです。
森先生は学生たちから、親しみを込めて「森爺(もりじい)」と呼ばれていたのだとか…。
持ってきてくださった小さなノートというのは、道徳の授業で森先生が人生や女性としての極意を一人一人に清書させたもので、嫁入りの際にはタンスの中に入れておくようにというお達しがあったのだそう。

ノートの中身を見させていただくと、森先生が著作の中でも触れられていた、いかにも先生の教えというべき言葉の数々が、ぎっしりと詰まっていました。
後半には、仏教詩人である坂村真民の詩も何篇か書かれており、最後には森先生のご自宅の電話番号までもが記入されていました。
森先生がいかに教育者として一人一人に想いを込められ、そしていかに具体的に学生一人一人の後の人生までをも慮っておられたかが、ひしひしと伝わってくるものでした。

そして、ノートの裏表紙には、森先生の直筆で「人生二度無し」と書いてありました。
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小さいノートに小さい字で書かれた一言でしたが、この直筆の言葉には、静かではありますが深く心に響いてくるような感覚を覚えました。
学生一人一人のノートに「人生二度無し」という言葉を書き込むほどの、森先生の人生に対する覚醒の深さとは、どれほどだったのかと思わずにはいられません。

***

人生とは、本当に一度きりしかないのですね。
なぜ私たちはこの事実を、あたかも忘れたかのように毎日暮らしているのでしょうか。
時々ハッと我に返ります。
死は誰にも必ず訪れるし、私もいつかは死ぬ存在なのだと。
でも、また、目の前の雑事に奔走し、それを忘れてしまう…。
というよりも、もしかして目を逸らしていたのでしょうか?
もっともっと、ごまかさずに、生と死に向き合っていく必要があるのではないかと思いました。
このテーマは、時々ハッと我にかえって思い出す程度のものでは、ないのですよね。


***********


私たちは、いつかは死ぬ存在です。
私たちの人生は有限です。
私たちの時間は限られています。
私たちの可能性は制約されています。
こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。
死とは、そういったことをするように強いるものなのです。
ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

***

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問を出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。

        ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』




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by ramram-yoga | 2017-04-01 00:42 | ことば・メッセージ | Comments(0)
あなたを愛しているという人が誰もいない日には
ゼミの指導教員である冨永良喜先生が紹介してくださったTEDの「荒れた学校を建て直すには」。


「あなたを愛しているという人が誰もいない日には、私が言うわ いつだって」

感動的でした。
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by ramram-yoga | 2016-02-26 16:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
顕れ出た純粋さ
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秋になって実のなるような果樹には、春、美しい花の咲く樹はない
              森信三



先日、集中内観から帰ってこられた方が、思わず別人かと思ってしまうほどに、変化を遂げられていました。
それまで漂わせていた、あきらめと激しい怒りで混沌とした雰囲気から一変、その下に隠されていた純粋さが表に輝き出てるかのようでした。
そして、まるで子どものように無垢で透き通った、キラキラとした瞳。
見たものをそのままに映し出すようで、そんな瞳に見つめられると、人はそれを鏡として自分自身を観るのだと、分かりました。

生い立ちから現在まで数十年続いた、とても過酷で辛い日々。
それが、まるで闇から光へと、目の覚めるような鮮やかな転換を起こしました。
こんなことって、あるんだなと、ただただ自分の目の前で起こったことに感激と驚きを感じずにはいられませんでした。
そして、その方の中にある純真さと、求め続けた強さに賞賛の思いでいました。

人は、変わることができる。
・・・
いいえ、本当は、変わったのではない。
隠されていた本質が、まぶしく輝く純粋性が、表に顕れ出てきたのですね。

心より、祝福を贈りたいと思います。
そして、人の本当の姿というのはこんなにも美しいということを、教えていただいたことに、感謝します。
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by ramram-yoga | 2015-03-27 00:14 | ことば・メッセージ | Comments(0)
年のはじめに
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人間において生きるとは、ただ単に生き永らえる事ではない。

人間において生きるとは、何の為にこの命を使うか、

この命をどう生かすかという事である。

だから、生きるとは、命をかけるという事だ。

命の最高のよろこびは、命をかけても惜しくない程の対象と出会う事にある。

その時こそ、命は最も充実した生のよろこびを味わい、

激しくも美しく燃え上がるのである。

君は何に命をかけるか。

君は何の為に死ぬことができるか。

この問いに答える事が、生きるということであり、

この問いに答える事が、人生である。


            芳村思風著『人間観の覚醒』より

***************




今年初めて開いた本の、一番最初に書いてあった言葉です。
年のはじめに、身が凛と引きしまる思いでした。
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by ramram-yoga | 2015-01-08 10:25 | ことば・メッセージ | Comments(0)
なぜわれわれは悪をみるのか
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われわれは、自分がうちに持っているものを外に見るのです。
赤ん坊は、うちにどろぼうを持っていないから、外にどろぼうを見ません。
すべての知識がそうです。
世界の悪とそれのすべての罪のことをはなしなさるな。
自分がまだ悪を見なければならないことを、お泣きなさい。
自分がいたるところに罪を見なければならないことを、お泣きなさい。

・・・・

みなさん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。
うたのように、それを夜昼心の中にひびかせなさい。
そして死のときには、「私は彼である」と宣言なさい。
それが真理です。
世界の無限の力はみなさんのものです。
みなさんの心をおおっていた迷信を、おいはらいなさい。
勇敢になろうではありませんか。
真理を知り、真理を実践せよ。

ゴールは遠いかもしれない、しかしめざめ、たちあがり、ゴールに達するまでとまるな。


      スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より
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by ramram-yoga | 2014-05-06 20:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
誕生日、そして満月の夜に
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「癸丑歳 偶作 (きちゅうのとし ぐうさく)」

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者は已に水の如し
天地無始終   天地始終なく
人生有生死   人生生死あり
安得類古人   安んぞ古人に類して
千載列青史   千載青史に列するを得ん

(13歳となってこれまでを振り返ると、
 月日は水の流れのように過ぎ去って二度と戻らない。
 天地は永遠で始めも終わりも無い。
 しかし人間には必ず生があり、死がある。
 それならば何とかして歴史上の人物のように、
 自分も日本の歴史上に名を連ねたいものだ)


月間致知3月号「頼山陽」より




***************


上の詩は、江戸時代の歴史家、頼山陽(らいさんよう)が13歳の時に作ったものなのだそうです。
最近、違う場面でこの詩に立て続けに出会い、印象に残りました。
13歳で二度とない人生にはっきりと目覚め、ゆるぎない志を既に立てていることは、私にとって衝撃でした。

私は今日で32歳。
この歳にしてようやく、心願を立てようと思うに至りました。
自分が二度とない人生を生きているのだと自覚した時から本当の人生が始まるのだとしたら、実はまだ私は生まれていなかったのかもしれません。

立ち止まっている場合ではない、言い訳している場合ではない。
被害者気取りをしている場合ではない、人目を気にして萎縮している場合ではない。
日常の雑事に取り込まれ、埋もれてしまっている場合ではない。
稚心を捨て去り、生まれ変わりたい。
もう人生は、始まっている。
しかももう、30年以上も前から。
あと、何年生きられるか。
きっともう、悠長に構えていられるほど長くはない。



この二度とない人生を、いかにして真に意義あるように生きるかを、常に心の奥底に置いて忘れないように。
そして、歳をとるごとに緊張感を増し、生を終える一呼吸までその緊張感を失わないような生き方を、していきたい。
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by ramram-yoga | 2014-03-17 22:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
嫌われる勇気
このタイトルは書籍本の題名で、心理の師匠に紹介していただき読みました。
とても売れている本のようです。
しかし内容はタイトルから想像していたよりとても充実し、心理学の三大巨頭の一人と言われるアルフレッド・アドラーの創始したアドラー心理学の全体像が見渡せる一冊でした。

さて、まずはなんと言ってもタイトルからして惹かれてしまいます。
普段結構、人目を気にしてしまう性質の自分にとっては、特に・・・^^;
言ってみれば、誰からも嫌われたくないの、ですね。
しかし、そんな私と同じような思いを持ったこの著書の登場人物である青年は、同じく登場人物である哲人に次のような言葉でバッサリと切られてしまいます。

「誰からも嫌われたくないと思うことこそ、自己中心的な発想である」と。

なぜなら、“私”を好きか嫌いかというのは、相手が決めることであって、私がどうこうする問題なのではないから。
つまり、相手のことに首をつっこんでどうこうしようとしてまで、自分のイメージをまもろうとする行為は傲慢だということです。
そして、10人いれば、自分が何をやろうがしようが、自分のことを嫌う人は必ず1人はいるものなのだそうです。
このように考えれば、ちょっと楽になりますね。


以下、哲人の言葉を抜粋。

「嫌われる勇気」
自由とは、他者から嫌われることである。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。



また、アドラー心理学によると、われわれ人間は「優越性の追及」という普遍的な欲求を持っているのだそうです。
優越性の欲求とは、平たくいうと「向上したいと願うこと」や「理想の状態を追求すること」を指すのですが、それは時に、他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になろうとする目的に摩り替わってしまうことがあるのだそうです。
しかし、周囲からの注目を常に浴び、特別な存在であり続けることは、上に述べたような「誰からも嫌われたくない」という自己中心的発想へとつながってしまいます。
そのことに関して、哲人は次のようなことが大切だと青年に言います。

「普通であることの勇気」
なぜ「特別」になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。
普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。
普通であることとは、無能なのではありません。
わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。


つまり、今の自分ではない「何者か」になろうとする必要はなく、あるがままの自分をまずは認めるということ。
その上で、よりよくあろうと一歩を踏み出すのが、健やかな「優越性の追及」であるというのです。
哲人の表現を借りれば、人は上下に位置しているのではなく、平面に点在するそれぞれの人が、それぞれの立場からよりよきを目指して前進していくようなイメージです。


「嫌われる勇気」そして「普通であることの勇気」。
肩の力が抜け、そして勇気が出てくる言葉です。
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by ramram-yoga | 2014-03-02 16:16 | ことば・メッセージ | Comments(3)
人間としてこの世に生を受けて
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随ってこの地上にあっては、巨大な魂ほど実は深刻な苦悩を嘗めずにはいられないことの意義も分かるであろう。
ベートーヴェンにしても、ドストエフスキーにしても、その他天才と呼ばれるほどの人にして、深刻な人間苦を嘗めなかった者はかつて一人もないといってよい。
何となれば、人間はその深刻な身・心分離の苦悩を通してのみ、初めて宇宙生命の深奥なる内面を伺い知らしめられるがゆえである。
そしてこのことは、動植物にはこの種の苦悩ともいうべきものの皆無なことによっても、如上の理を伺い知ることが出来るであろう。

かかる無量の幸慶の根源は、結局我われ人間のみが高度の意識能力というものを賦与せられているという一事に尽きることを念う時、我われとしては、いたずらに自己中心の我執に囚われて、この二度とない人生を苦悩と憂悶のうちに過ごすのは、かく我われ人間にのみ、特に高度の意識を恵まれていることの深意に対して、あまりにも無自覚であり、かつそれに背くゆえんというべきではあるまいか。

何となれば、我われにしてひと度自己中心的な我執の囚われから脱したとしたら、すべての苦悩や憂悶は、雲霧の晴れゆくように次第に消えゆくと共に、この大宇宙は、万象のすべてが、それぞれの美に光り輝く絶大なる「生(いのち)」の体系たることに、徐々に「開眼」せしめられてゆくことであろう。
同時にかくして初めて大宇宙生命が、我われ人間に対して特に高度の意識能力を賦与せられた深意に添いうるのではあるまいか。


森信三全集 第2巻 「全一的人間学 人間―心身相即的存在」より抜粋

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by ramram-yoga | 2014-02-25 14:48 | ことば・メッセージ | Comments(0)
光を放つ人
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最近出会った方なのですが、その人からなんとも言えない穏やかなあたたかさが、温泉のようにフツフツと湧き出してくるのです。
多くの人に光を与えるような役割が、その人にあるのではないかな。
・・・と、思っていたところ、お話の中で、すでにそのような活動をされていたことが分かったので、納得。
その人から発せられる光はきっと、人に与えていく活動を通して輝きを増していったのだろうと思います。
誰かのために動くことで、自分自身が磨き清められ、内面の純粋さがあふれ出てくるようになるのですね。

もうお一人、この方はヨーガの先輩でかれこれ5年以上お付き合いさせていただいている方。
初めてお会いした時からきれいな光を宿している方でしたが、どんどんその輝きを増していきます。
そんな方々を目にするたび、ヨーガには不思議な力があると、思わされます。
その方が先日、大人数の前でお話をされていましたが、まばゆい光が勢い良く噴き出しているように感じられ、目が覚めるようでした。

ある密教系の僧侶の方が「人間は光が粗雑化したものである」というようなことを仰っていましたが、本当に、そうなのでしょうね。

人は、その存在そのものが、光。
生命は、その光にどうしようもなく恋焦がれて、引き寄せられずにはいられない。
だから、純度が高く、本性である光が内面から輝き出ている人の周りには、自然と生命が集まる。
そしてその生命は、輝く人の光に照らし出されながら、やがて自己の本性に覚醒し、光を放ちはじめる。



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光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る

     坂村真民「一日一言」より

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by ramram-yoga | 2014-01-17 22:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)