Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
カテゴリ:ことば・メッセージ( 63 )
あなたを愛しているという人が誰もいない日には
ゼミの指導教員である冨永良喜先生が紹介してくださったTEDの「荒れた学校を建て直すには」。


「あなたを愛しているという人が誰もいない日には、私が言うわ いつだって」

感動的でした。
[PR]
by ramram-yoga | 2016-02-26 16:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
顕れ出た純粋さ
a0118928_23434314.jpg


秋になって実のなるような果樹には、春、美しい花の咲く樹はない
              森信三



先日、集中内観から帰ってこられた方が、思わず別人かと思ってしまうほどに、変化を遂げられていました。
それまで漂わせていた、あきらめと激しい怒りで混沌とした雰囲気から一変、その下に隠されていた純粋さが表に輝き出てるかのようでした。
そして、まるで子どものように無垢で透き通った、キラキラとした瞳。
見たものをそのままに映し出すようで、そんな瞳に見つめられると、人はそれを鏡として自分自身を観るのだと、分かりました。

生い立ちから現在まで数十年続いた、とても過酷で辛い日々。
それが、まるで闇から光へと、目の覚めるような鮮やかな転換を起こしました。
こんなことって、あるんだなと、ただただ自分の目の前で起こったことに感激と驚きを感じずにはいられませんでした。
そして、その方の中にある純真さと、求め続けた強さに賞賛の思いでいました。

人は、変わることができる。
・・・
いいえ、本当は、変わったのではない。
隠されていた本質が、まぶしく輝く純粋性が、表に顕れ出てきたのですね。

心より、祝福を贈りたいと思います。
そして、人の本当の姿というのはこんなにも美しいということを、教えていただいたことに、感謝します。
[PR]
by ramram-yoga | 2015-03-27 00:14 | ことば・メッセージ | Comments(0)
年のはじめに
a0118928_1020581.jpg

人間において生きるとは、ただ単に生き永らえる事ではない。

人間において生きるとは、何の為にこの命を使うか、

この命をどう生かすかという事である。

だから、生きるとは、命をかけるという事だ。

命の最高のよろこびは、命をかけても惜しくない程の対象と出会う事にある。

その時こそ、命は最も充実した生のよろこびを味わい、

激しくも美しく燃え上がるのである。

君は何に命をかけるか。

君は何の為に死ぬことができるか。

この問いに答える事が、生きるということであり、

この問いに答える事が、人生である。


            芳村思風著『人間観の覚醒』より

***************




今年初めて開いた本の、一番最初に書いてあった言葉です。
年のはじめに、身が凛と引きしまる思いでした。
[PR]
by ramram-yoga | 2015-01-08 10:25 | ことば・メッセージ | Comments(0)
なぜわれわれは悪をみるのか
a0118928_20301629.jpg


われわれは、自分がうちに持っているものを外に見るのです。
赤ん坊は、うちにどろぼうを持っていないから、外にどろぼうを見ません。
すべての知識がそうです。
世界の悪とそれのすべての罪のことをはなしなさるな。
自分がまだ悪を見なければならないことを、お泣きなさい。
自分がいたるところに罪を見なければならないことを、お泣きなさい。

・・・・

みなさん自身の心にむかって、「私は彼である、私は彼である」とおっしゃい。
うたのように、それを夜昼心の中にひびかせなさい。
そして死のときには、「私は彼である」と宣言なさい。
それが真理です。
世界の無限の力はみなさんのものです。
みなさんの心をおおっていた迷信を、おいはらいなさい。
勇敢になろうではありませんか。
真理を知り、真理を実践せよ。

ゴールは遠いかもしれない、しかしめざめ、たちあがり、ゴールに達するまでとまるな。


      スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より
[PR]
by ramram-yoga | 2014-05-06 20:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
誕生日、そして満月の夜に
a0118928_22233763.jpg



「癸丑歳 偶作 (きちゅうのとし ぐうさく)」

十有三春秋   十有三春秋
逝者已如水   逝く者は已に水の如し
天地無始終   天地始終なく
人生有生死   人生生死あり
安得類古人   安んぞ古人に類して
千載列青史   千載青史に列するを得ん

(13歳となってこれまでを振り返ると、
 月日は水の流れのように過ぎ去って二度と戻らない。
 天地は永遠で始めも終わりも無い。
 しかし人間には必ず生があり、死がある。
 それならば何とかして歴史上の人物のように、
 自分も日本の歴史上に名を連ねたいものだ)


月間致知3月号「頼山陽」より




***************


上の詩は、江戸時代の歴史家、頼山陽(らいさんよう)が13歳の時に作ったものなのだそうです。
最近、違う場面でこの詩に立て続けに出会い、印象に残りました。
13歳で二度とない人生にはっきりと目覚め、ゆるぎない志を既に立てていることは、私にとって衝撃でした。

私は今日で32歳。
この歳にしてようやく、心願を立てようと思うに至りました。
自分が二度とない人生を生きているのだと自覚した時から本当の人生が始まるのだとしたら、実はまだ私は生まれていなかったのかもしれません。

立ち止まっている場合ではない、言い訳している場合ではない。
被害者気取りをしている場合ではない、人目を気にして萎縮している場合ではない。
日常の雑事に取り込まれ、埋もれてしまっている場合ではない。
稚心を捨て去り、生まれ変わりたい。
もう人生は、始まっている。
しかももう、30年以上も前から。
あと、何年生きられるか。
きっともう、悠長に構えていられるほど長くはない。



この二度とない人生を、いかにして真に意義あるように生きるかを、常に心の奥底に置いて忘れないように。
そして、歳をとるごとに緊張感を増し、生を終える一呼吸までその緊張感を失わないような生き方を、していきたい。
[PR]
by ramram-yoga | 2014-03-17 22:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
嫌われる勇気
このタイトルは書籍本の題名で、心理の師匠に紹介していただき読みました。
とても売れている本のようです。
しかし内容はタイトルから想像していたよりとても充実し、心理学の三大巨頭の一人と言われるアルフレッド・アドラーの創始したアドラー心理学の全体像が見渡せる一冊でした。

さて、まずはなんと言ってもタイトルからして惹かれてしまいます。
普段結構、人目を気にしてしまう性質の自分にとっては、特に・・・^^;
言ってみれば、誰からも嫌われたくないの、ですね。
しかし、そんな私と同じような思いを持ったこの著書の登場人物である青年は、同じく登場人物である哲人に次のような言葉でバッサリと切られてしまいます。

「誰からも嫌われたくないと思うことこそ、自己中心的な発想である」と。

なぜなら、“私”を好きか嫌いかというのは、相手が決めることであって、私がどうこうする問題なのではないから。
つまり、相手のことに首をつっこんでどうこうしようとしてまで、自分のイメージをまもろうとする行為は傲慢だということです。
そして、10人いれば、自分が何をやろうがしようが、自分のことを嫌う人は必ず1人はいるものなのだそうです。
このように考えれば、ちょっと楽になりますね。


以下、哲人の言葉を抜粋。

「嫌われる勇気」
自由とは、他者から嫌われることである。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。



また、アドラー心理学によると、われわれ人間は「優越性の追及」という普遍的な欲求を持っているのだそうです。
優越性の欲求とは、平たくいうと「向上したいと願うこと」や「理想の状態を追求すること」を指すのですが、それは時に、他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になろうとする目的に摩り替わってしまうことがあるのだそうです。
しかし、周囲からの注目を常に浴び、特別な存在であり続けることは、上に述べたような「誰からも嫌われたくない」という自己中心的発想へとつながってしまいます。
そのことに関して、哲人は次のようなことが大切だと青年に言います。

「普通であることの勇気」
なぜ「特別」になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。
普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。
普通であることとは、無能なのではありません。
わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。


つまり、今の自分ではない「何者か」になろうとする必要はなく、あるがままの自分をまずは認めるということ。
その上で、よりよくあろうと一歩を踏み出すのが、健やかな「優越性の追及」であるというのです。
哲人の表現を借りれば、人は上下に位置しているのではなく、平面に点在するそれぞれの人が、それぞれの立場からよりよきを目指して前進していくようなイメージです。


「嫌われる勇気」そして「普通であることの勇気」。
肩の力が抜け、そして勇気が出てくる言葉です。
[PR]
by ramram-yoga | 2014-03-02 16:16 | ことば・メッセージ | Comments(3)
人間としてこの世に生を受けて
a0118928_14305632.jpg

随ってこの地上にあっては、巨大な魂ほど実は深刻な苦悩を嘗めずにはいられないことの意義も分かるであろう。
ベートーヴェンにしても、ドストエフスキーにしても、その他天才と呼ばれるほどの人にして、深刻な人間苦を嘗めなかった者はかつて一人もないといってよい。
何となれば、人間はその深刻な身・心分離の苦悩を通してのみ、初めて宇宙生命の深奥なる内面を伺い知らしめられるがゆえである。
そしてこのことは、動植物にはこの種の苦悩ともいうべきものの皆無なことによっても、如上の理を伺い知ることが出来るであろう。

かかる無量の幸慶の根源は、結局我われ人間のみが高度の意識能力というものを賦与せられているという一事に尽きることを念う時、我われとしては、いたずらに自己中心の我執に囚われて、この二度とない人生を苦悩と憂悶のうちに過ごすのは、かく我われ人間にのみ、特に高度の意識を恵まれていることの深意に対して、あまりにも無自覚であり、かつそれに背くゆえんというべきではあるまいか。

何となれば、我われにしてひと度自己中心的な我執の囚われから脱したとしたら、すべての苦悩や憂悶は、雲霧の晴れゆくように次第に消えゆくと共に、この大宇宙は、万象のすべてが、それぞれの美に光り輝く絶大なる「生(いのち)」の体系たることに、徐々に「開眼」せしめられてゆくことであろう。
同時にかくして初めて大宇宙生命が、我われ人間に対して特に高度の意識能力を賦与せられた深意に添いうるのではあるまいか。


森信三全集 第2巻 「全一的人間学 人間―心身相即的存在」より抜粋

[PR]
by ramram-yoga | 2014-02-25 14:48 | ことば・メッセージ | Comments(0)
光を放つ人
a0118928_22265096.jpg

最近出会った方なのですが、その人からなんとも言えない穏やかなあたたかさが、温泉のようにフツフツと湧き出してくるのです。
多くの人に光を与えるような役割が、その人にあるのではないかな。
・・・と、思っていたところ、お話の中で、すでにそのような活動をされていたことが分かったので、納得。
その人から発せられる光はきっと、人に与えていく活動を通して輝きを増していったのだろうと思います。
誰かのために動くことで、自分自身が磨き清められ、内面の純粋さがあふれ出てくるようになるのですね。

もうお一人、この方はヨーガの先輩でかれこれ5年以上お付き合いさせていただいている方。
初めてお会いした時からきれいな光を宿している方でしたが、どんどんその輝きを増していきます。
そんな方々を目にするたび、ヨーガには不思議な力があると、思わされます。
その方が先日、大人数の前でお話をされていましたが、まばゆい光が勢い良く噴き出しているように感じられ、目が覚めるようでした。

ある密教系の僧侶の方が「人間は光が粗雑化したものである」というようなことを仰っていましたが、本当に、そうなのでしょうね。

人は、その存在そのものが、光。
生命は、その光にどうしようもなく恋焦がれて、引き寄せられずにはいられない。
だから、純度が高く、本性である光が内面から輝き出ている人の周りには、自然と生命が集まる。
そしてその生命は、輝く人の光に照らし出されながら、やがて自己の本性に覚醒し、光を放ちはじめる。



**********

光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る

     坂村真民「一日一言」より

**********


[PR]
by ramram-yoga | 2014-01-17 22:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)
自分を助けている
私は、思い違いをしていたようです。
しばらくの間、忘れてしまっていました。
私がヨーガを教えることによって助けていたのは、習いに来てくださる人たちではなく、私自身だったのだということに。

来春の大学院進学で、現在行なっているクラスが継続できなくなり、他のインストラクターに引き継いでもらう旨を、会員の皆様にお伝えしました。
お伝えしてはじめて、クラスを去ることをとってもさびしく思っている自分に、気づきました。
そして、必要とされることで、どれだけ自分が救われていたか、にも。
来春からも、今のように毎週はできないかもしれませんが、一般の方に通っていただけるクラスを、どうにかして継続していきたいと思います。

ヨーガをする場には、現在生きてその場に集っている人だけでなく、今は亡き歴代のヨーガ行者の方々の魂が息づいているのを、感じます。
自分の力量や意思とは無関係の力が、ヨーガをしている場には働きます。
そして、現在の生徒さんたちとのご縁も、歴代のヨーガ行者の方々に頂いたものだったのでした。
大切に大切に、つないでいきたいと思います。


あぁ、しばらくの間、本当に忘れてしまっていました・・・!
奉仕とは、他人を助けているのではなく、自分自身を助けているのだということを。


大好きな「カルマ・ヨーガ(働きのヨーガ)」を読み返しました。


********


『われわれは、自分を助けているのであって 世間を助けているのではない』

・・・しかしよく考えてみると、この世は決してわれわれの助けなどを必要とはしていない、ということがよくわかります。
この世界は、みなさんが私が来て助けなければならないように、できてはいないのです。

長い間には、他者を助けるのは自分自身を助けているにすぎないのだ、ということが分かってくるでしょう。
高い台にのって手に5セントを持ち、「これ、貧しい人よ」と呼びかけるようなことはなさるな。
貧しい人がそこにいるおかげで、彼にものを与えることによって私は自分を救うことができるのだ、と思って感謝なさい。
恵まれているのは貰う人ではなくて与える人なのです。
自分がこの世で慈悲の力を行使することを許され、それによって、純粋に完全になることができるのを、有難く思いなさい・・・

                                         スワミ・ヴィヴェーカナンダ 『カルマ・ヨーガ』 より



*************






[PR]
by ramram-yoga | 2013-12-26 23:09 | ことば・メッセージ | Comments(0)
大地性




a0118928_22233707.jpg

**************


天日(てんじつ)は有難いに相違ない。
またこれなくては生命はない。
生命はみな天をさしている。
が、根はどうしても大地におろさねばならぬ。
大地に係わりのない生命は、本当の意味で生きていない。
天は畏るべきだが、大地は親しむべく愛すべきである。
大地はいくら踏んでも怒らぬ。
生れるも大地からだ。
死ねば固よりそこに帰る。
天はどうしても仰がねばならぬ。
自分を引取ってはくれぬ。
天は遠い、地は近い。
大地はどうしても母である、愛の大地である。
これほど具体的なものはない。
宗教は実にこの具体的なものからでないと発生しない。
霊性の奥の院は、実に大地の座に在る。

大地は詐(いつわ)らぬ、欺かぬ、またごまかされぬ。
人間の心を正直に映しかえす鏡の人面を照らすが如くである。
大地はまた急がぬ。
春の次でなければ夏の来ぬことを知っている。

人間は、天に対しては絶対的に受動的である。
天は畏るべきほどに、愛せられぬ。
人間は、天に対して懾服(しょうふく)を知るのみである。
もし天の愛に親しみ得られることがあるとすれば、それは大地を通してである。
大地と共にその恵を受ける時に、天日はこの身、この一個の人間の外に出て、その愛の平等性を肯定する。
本当の愛は、個人的なる者の奥に、我も人もというところがなくてはいけない。
ここに宗教がある、霊性の生活がある。
天日だけでは、宗教意識は呼びさまされぬ、大地を通さねばならぬ。

霊性と言うといかにも観念的な影の薄い化物のようなものに考えられるかも知れぬが、これほど大地に深く根をおろしているものはない、霊性は生命だからである。
大地と自分とは一つのものである。
大地の底は、自分の存在の底である。


***************

              
                          鈴木大拙著「日本的霊性」より







[PR]
by ramram-yoga | 2013-12-20 22:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)