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カテゴリ:ことば・メッセージ( 65 )
”わたし”とは何者か
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昨日突然やってきた、見るものすべてが”わたし”であるという感覚。
以前の時と同じく、数分間で過ぎ去り、また通常の感覚に戻ってきました(以前の体験の記事はこちら)。

以前のは、一言でいうと”わたし”が述語的というか受動的になり、絶対者の一表現形態としての”わたし”を感じた体験でした。
今回はそれとは全く違うものでした。
”わたし”の範疇ががどんどん広がり、目に入るものすべてが実は”わたし”の内側にあった、という体験でした。
この体験から丸一日経ちましたが、目に映る世界が全く変わってしまいました。

まず、目の前にいる生徒さんや患者さんに良くなってもらいたいという思いを持つことは、”私”と”あなた”という主観ー客観の関係性を超え、主客が合一して”わたし”だけになった時、意味をなさなくなってしまうというのではないかと感じました。
なぜなら、私が患者さんの中に苦しみを見た時、それは私の心の中に苦しみがあるということだからです。
ということは、私は患者さんの苦しみを取り除くことは不可能であるということになります。
患者さんの中に苦しみを見なければならない自分の心をこそ、よくよく省みなければなりません。
目や耳を通して入ってくる暴力や悲しみ、自己卑下、絶望的なものも、これは決して自分と無関係ではない。
私がなぜ、それらを外に見なければならないのか、それを探る方向性でしか、これらは解決していかないのではないかと感じました。

そして、私が問わなければならないのは、先日までずっと考えていた「なぜ生きているのか」とか「死んだらどうなるのか」ではなかったのだ、ということが、わかり始めました。
なぜなら、それは、自我意識を主体とした”私”からしか発し得ない問いだからです。
そうではなく、下記のように問わなければなりません。

目に映るものすべてを内側に有しているこの”わたし”とは一体何者なのか。


*********


賢者たちがあらゆる方向にさがしもとめてきた彼は、われわれ自身のハートの中にいるのです。
あなたのきいた声は正しかったが、その声がくると見た方向がまちがっていた、とヴェーダンタは言います。
あなたが見たあの自由の理想は正しかった。
しかしあなたはそれを、あなた自身の外にあると見た、それがまちがいでした。
それをもっともっと近くに持ってらっしゃい。
それはつねにあなたのうちにあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたにわかるまで。

あの自由は、あなた自身の本性だったのです。
そしてこのマーヤー(迷妄)は、決してあなたをしばったことはありません。
自然は決して、あなたの上に猛威をふるうことはありません。
おびえた子供のように、あなたが、自然が自分のくびをしめるというゆめを見ていたのです。
この恐怖から解放されることが目標なのです。
それを知的に理解するだけでなく、まのあたりにそれを見ることです。
この世界を見るよりももっと確実にそれを認識することです。
そのときにわれわれは、自分が自由であることを知るでしょう。
その時にはじめて、すべての困難は消滅し、心のまどいは解決し、まがりはただされるでしょう。
そして多様性と自然というまどわしは消えるでしょう。
そしてマーヤーは、いまのようなおそろしい絶望的なゆめではなくて、うつくしいものになり、この大地は牢獄ではなくて、われわれの遊園地になるでしょう。
そして危険や困難はすべての不幸までもが神聖なものとなり、われわれの前にその本性を示すでしょう。
いっさいのものの背後に、いっさいのものの実態として彼が立っているということを、そして彼が唯一の真の自己である、ということを示すでありましょう。

        スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より

********

(写真は今朝近所で撮ったあじさい。もうすぐ開花ですね。)




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by ramram-yoga | 2017-05-23 20:56 | ことば・メッセージ | Comments(0)
禅病
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生まれた時からずっと、”私”という自我意識を主体として世界観を組み立ててきて、それを疑いもしていませんでした。
以前からヨーガでahamkara(自我意識)は被観照者、つまり客体だと学んでいましたが、それが体験として分かったのはつい最近のことです。
それがひっくり返ってしまった今、毎日のように、新鮮な驚きの毎日を送っています。

ここ数日間、考えれば考えるほど、この生きている世界が虚栄に満ちて見えてきて、日に日に空虚な感じに襲われるようになってきていました。
自我意識を前提とした世界観がガラガラと崩壊し、何もかもが頼りどころのないように思えてきて、途方に暮れてしまいました。
その感覚がピークに達した一昨日、非二元(ノンデュアリティ)に詳しい 親友のお母さま に相談したところ、それは禅病の一種ではないか、とのこと。

※非二元…直訳は「2つではない」。非二元によれば、主体と客体を前提とする二元論的な世界は幻想である。

一瞥体験(すべては一つの表れという体験)をした後、自我意識に戻り、その自我意識で世界を見るとそのような捉え方になってしまう、とのこと。
「途方に暮れ、無力感に襲われているのは誰ですか」と問われ、はっとしましたが、それも自我意識なのですよね。
観念的に頭で考えすぎると、このような状態に陥ってしまうようです。
あぁ難しい。
こういう事の追求は、一人でやっていると袋小路に入ってしまうので、先行く導き手が必要だと感じました。

この、理性で何もかもを理解してしまおうとする傾向自体を、見直す必要がありそうです。
理性は理性自体を、本当の意味で客体化することはできないし、理性を包含し超越しているものを理解することもできないのですから。
ならば、もっと別の”何か”で、真実を悟る必要があります。
それは何か。
分かったつもりをやめて、求め続けていきたいと思います。

******

ここ数日バタバタとしていましたが、今朝は少しゆっくりできたので、布団を干して部屋を片付けて掃除をしていました。
そうすると、自分自身も整っていく。
ちょうど自然農をしている知り合いから野菜が届き、水で丁寧に泥を落として料理をする。
生命力いっぱいの青々とした野菜に触れ、淡々と手を動かして生きるための動作をする。
観念から離れ、動作に集中している時、”私”という意識も薄れ、心が静かになっていく。

「真実は、生活の只中にあり」 森信三



(写真は、先日息子のボーイスカウトの活動に同行し、武田尾廃線を歩いた時に撮ったものです。)


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by ramram-yoga | 2017-05-16 10:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
「気」の死生観
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またまた、運命的な本との出合いがありました。
ずっと自分の根底にあった、一度しかない自分の生命に関する悲哀や恐怖が、一挙に逆転して客体化され、なんだか訳もないのに愉しく、心から安心するような感覚をもたらしてくれました。
先日の記事でも触れましたが、あの客観と主観の逆転はあながち間違っていなかったようです。
ちょっと言葉遊びのようですが、あそこで述べた主観というものこそ、観られるもの(つまり客体)だったのです。
悲哀も恐怖も、自分の心が作り出したもの。
なぜ生きているかという問い自体も、自分の心が作り出したもの。
問いに回答をもたらしたいという欠乏感も、自分の心が作り出したもの。
そして、そもそもそれらを作り出している自分の心そのものが、客体だったのです。
主体は別のところにある…というより、主体の表現形態として、”私”が存る。
これが西田哲学でいうところの、”述語的”ということなのでしょうか。

ここまで来た時に、自分という存在が無になってしまうということに対する恐れが、起こらなくなってしまいました。
なぜなら、それは本質的なものと無関係だからです。
大いなるいのちが作り出した小さな客体の中で起こっていることだからです。
もしかしたらまた、恐れるのかもしれませんし、今たどり着いた境地にもしかしたら間違いがあるのかもしれません。
でも、それでもいいのです。
間違ってたら、また新たな境地を見つけ出せばいいのですから。

この『「気」の死生観』は、河野十全という方が93歳の時に書かれた著書です。
私はこの方の死生観が、一番しっくりきました。
人間には死後の世界や天国や地獄、輪廻転生など、いろいろなものを想定する豊かな世界観があります。
実際に、私の息子も私のお腹に入る前は天国で黄金色の神様と一緒にいたみたいですから。
私自身も、死後の魂の存在をはっきりと感じたことは、これまでに何度かあります。
でも、”時間”が客体であるという認識に立った時、これら死後の世界は絶対的というよりは、フォーカスすればあるし、しなければないというような類の、何か相対的な性質を帯びたものになってしまうような気がしています。
このあたりのことは、私にも、まだよくわかりません。

では、真理はどこにあるのか。
それは、今ここで起こっていることを、よくよく感じてみることから始まるのではないでしょうか。
生まれた時から一時も休まずに動いているこの心臓は、誰が動かしているのでしょう。
呼吸という作用は、いったいどこから起こってくるのでしょう。
考えてみると、私たちが今ここに生きているといことは、本当に不思議です。
このことを感じた時、生きているのではなく、生かされているのだということに、本当の意味で気づきます。
自分の意志とは無関係に、何か絶対的なものに支えられ、”私”という存在が、ここにある。
これだけは、確かな真実です。


***********


生に徹すれば、死の恐怖はなくなってしまう。
しかし、死をも一応の計算に入れると、その生がより楽しく、尊いものになってくるのである。
これは、生死一如の原則を知ればよくわかる。
生と死というものは、一続きのもので、境はない。

生死一如という言葉は、仏教や悟りの人だけがいう言葉ではない。
生きているということと、死んでいくということは、一続きのものであるから、いとうべきことでもなく、不安もなく、不吉もなく、むしろ喜びであろう。

そういう悟りの境地に至れば、人生は生きているうち、非常に楽しいものとなる。
老人の心境も、いつ死んでもよいという安心立命が得られれば、生きているということがどれほど楽しくなるか。
生と死というものが本当にわかれば、生も楽しく、死もまた楽しい。
心頭を滅却すれば火もまた涼し、という境地と同じである。

私たち人間は、一日一日に生き一日ずつ死んでいるのである。
刻々にである。
人生には誕生と死があるが、実際は毎日に生きて、毎日死んで、一生涯を生き続け、死に続けているのである。
生と死は、今の中で一如同時に行われているのであるから、今を平凡に過ごしてはならぬ。

            河野十全著『「気」の死生観』まえがきより
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by ramram-yoga | 2017-05-09 11:31 | ことば・メッセージ | Comments(0)
生きること
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先日、上智大学名誉教授の渡部昇一氏が、逝去されました。
10年数前から愛読している月刊致知に、毎号のように、現在の経済情勢をとらえる鋭い視点と、日本の行く先をはっきりと見据えた展望とを持ち合わせた評論は、読んでいると人生の薫陶を受けているようで、読むたびに背筋が伸びるような思いでした。
この人がいれば日本という国家は大丈夫だと、頼もしく感じていていたものですが、そのような方が、亡くなられました。

その他にも、心のよりどころとしていたような人の訃報を、最近立て続けに聞きました。
この世に生きているどんな人にも、例外なく必ず死は訪れる。
改めて考えてみるまでもなく、これまで地球上に生を受けた人間の中で、現在生きている人間より、すでに亡くなった人の方が圧倒的に多いわけです。

私の個人的な感覚かもしれませんが、人は死後、影響力がだんだんと増していくように感じられます。
ジャーナリストの筑紫哲也さんが生前、21世紀のキーワードは「生きることです」とおっしゃっていました。
当時私は大学生でしたが、参加した講演の一番最後に言われた筑紫さんのこの言葉がとても印象に残りました。
その「生きること」をキーワードとおっしゃった本人の筑紫さんは、もうこの世にはいません。
そのような奇妙な矛盾を感じる一方、だからこそ生きることは本当に尊いことなのだと、筑紫さんの死後一層、その言葉の重みがどんどん増していきます。

最後に、渡部昇一氏が月刊致知最後の記事になった2017年6月号「20代をどう生きるか」で述べられていた言葉をご紹介し、心よりご冥福をお祈りいたします。

*************

若いうちに何になりたいかという強い意志を持つこと。
その願望を思い描き、頭の中で鮮明に映像化し、信念にまで高めることが重要であると思う。
脊髄の奥で沸々と願望を燃やしていると、天の一角からチャンスが下りてくるものである。

逆境に処する態度が運を掴む上で極めて重要であること。
英語の諺に、「a blessing in disguise.(仮装した祝福)」とあるように、一見不幸な出来事も仮装しているだけで、実は天の祝福、恩恵なのである。
どんな逆境に遭っても、決して天を怨(うら)まず人を咎めず、自らを信じて心穏やかに道を楽しむ。
「これは天命だ」と受け入れる。
そうすると、霧が晴れ渡るように視界が開け、天から梯子(はしご)が下りてきて、思いも寄らない幸運に恵まれるのです。

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by ramram-yoga | 2017-05-05 11:19 | ことば・メッセージ | Comments(0)
主観と客観の逆転
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世界観が新たに開け、今まで見えていなかったものが見えることによって、また新たな疑問点が次々と湧いてくる今日この頃です。
”なぜ生きているのか”、”死んだらどうなるのか”といった実存的な問いに対する着地点を、私は一体どこに求めているのかが、はっきりわからなくなってしまいました。
「本当のことを知りたい」と、ずっと思っていましたが、では、事実を知識として知るということで満足するのかというと、必ずしもそうではないことが、わかってきました。
なぜなら、この”私”という存在に対する実存的な問い自体が主観性を帯びたものであり、それは客観的な事実とは本質的に異なるものだからです。
”問い”というもの自体は論理的に、すなわち客観的な枠組みでとらえることのできる種類のものですが、よく考えてみるとそこに必ず好奇心が伴っていることが分かります。
好奇心、あるいは回答を得ることへの渇望や、現状に対する何か不足した感じや耐え難い不安・恐怖などであるかもしれませんが、これらは客観性の範疇ではなく、感性すなわち主観の範疇に入るものだといえます。
そして、その問いに対して回答を得ることで満たされるであろうものもまた、納得感や、喜び、欠乏感からの解放等、主観の範疇に入るものであることが分かります。
ということは、問うことも、それに対する回答を得る目的も、どちらも主観的な範疇の中で生じてくるものなのだということになります。

というようなことを考えていると、今まで求めていたものは客観的であると思っていたものが実は主観的であったのだ、ということがはっきりとしてきました。
客観と主観の逆転ともいうべきでしょうか。
アインシュタインの特殊相対性理論で、ブラックホール付近ではあたかも空間が時間のようにふるまい、両者の立場が全く逆転してしまうそうですが、なぜかそれを思わせるような転換が自分の中で起こっていました(大げさ?)。

この問い自体が、”私”という限定された存在の意識を前提として発せられているものなのですよね。
問いに対する回答を探し回る前に、その問いが生じてくる主体とはそもそも何なのかについて、もっとよくみていく必要がありそうです。
人間の精神そのものがまず、元々自然史的に物質から生命を経て歴史的に形成されてきたものなのですから。
また、主観と客観は区別してとらえることが可能ですが、おそらくその先にはその区別を超えた主客合一の世界があるのだと思います。

でも、私にはまだわかりません。
わかることがゴールなのかも、よくわかりません。
ただ、日々強くなる”問い”から、もう目を背けることができないのです。
そして、不思議なのですが、このような自分の変化と同時に、心は今までになく静かで、頭の中は青空のように澄み渡り、日々歓びが増していっているのも、事実です。



*************

事実の領域における「このもの」としての今・此処に在る者は瞬間、瞬間に生まれかつ消えゆくものとして本来有限性を脱しない存在者に他ならないが、この全存在者のうちにあって他の存在者たる物質的存在・生物的生命と異なって、人間存在は等しく有限的存在でありながら、独りこの有限性そのものを自覚する存在者である。
今・此処における瞬間的存在としての自己を自覚的に知るものである。
しかし自己の有限性を真に自覚するとは、決してたんに自己自身から起こって来るのではない。
有限を自覚するとは、絶対の自己ならぬ者として超越において自己を見ることに他ならない。
無限なるものに対して始めて有限であり得るのである。
しかも無限なるものはたんに有限に対立することによって無限なるのではない。
自己の内に有限を否定的に映すことによってはじめて真に無限なのである。
このことは言い換えれば、有限なるものは絶対無限なるものの前に自己を無として自覚することによってはじめて、真に有限なることを知るのである。

人間存在は自己の無の内にその存在の理由を有つのである。
自己が生きるとともに死にゆくことにその存在の理由をもつのである。
けれどもそれは先に言ったように、たんなる無なのではない。
絶対の消滅点即絶対の生産点としての空なる場所むしろ空なる反転作用というべきであろう。
世界が生起するとは空の運動であり、空動において世界が成るのである。
すなわち現成するのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

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by ramram-yoga | 2017-05-03 10:00 | ことば・メッセージ | Comments(0)
世界構造の弁証法的理解
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この世界が作られている根本的な原理を理解しようとするとき、どうしても一筋縄ではいかないのは、それが本質的に矛盾をはらんでいるものであり、また多重的・多層的だからなのだと思います。
多重的・多層的というのは、あるひとつの立場に立ってみては確かなことでも、別の立場から眺めるとそれとはまったく違った風景が広がっていく、ということです。
鈴木亨が、論考を進めていくのにヘーゲルの哲学が非常に役立ったと、著書の中で書いていました。
ヘーゲルの哲学そのものが、というより、弁証法的な論考の仕方が非常に役立ったそうです。

”AはAであるが、同時にAにあらず”といったような命題を経て、最終的には、存在の根源が絶対無であることを証明していくヘーゲルの弁証法的論理学。
私も勉強してみたいと思います。
著書の中で紹介されていたヘーゲルの名著『論理学』をそのまま読んでも理解できそうにないので、まずは放送大学の教材などで適当なものを探し、基礎的な部分から少しずつ学んでみようかと思います。

******

無常すなわち一切のものが恒久的でないということは、世界構造そのものの弁証法的性格を示すのであって、この無常にたんに詠嘆的に即するかぎり、世界と自己との根本的な自己成立の事実の主体的な自覚はあり得ない。
一切が無常であることは、無常すなわち恒久的なものは一切存在しない、ということが恒常性であるということを意味する。
言いかえれば、いかなる絶対的なものもあり得ないのであって、世界の一切が矛盾するということだけが、絶対であるということに他ならない。
この世界の生存するものが逆説的に死ぬものであるという矛盾こそが唯一の絶対的なものである。
生死一如というのもこのことを指すに他ならない。
無常の本質は、たんなる恒常性の相対的な否定ではない、無常こそ唯一の恒常性なのである。
無常を絶対と悟るとは、絶対の愛の事実に生きるということである。
無常判断は、たんなる述語から出発する無限判断に対して有限的なる主語と述語がともに自己矛盾的に絶対的一者の自己否定的顕現として、述語即絶対主語の根源的弁証法的なる繁辞的世界に他ならぬことを悟るのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

******

以前の私は、悟りとは感覚的なものなのだと考えていました。
これまでひたすら「わかった」という感じを求めていましたし、その感覚そこが悟りでありゴールだと思っていました。
しかし、それは違うのだと、最近思うようになりました。
「わかった感じ」というのはあくまでただの感覚であって、そのままにしておくと、そこで終わってしまうのです。
その体験を落とし込み、自分のものとしていく”体得”の作業が、その後に必要になっていくのだと思います。
それこそ、論考を通してある一定の枠組みからその体験を反芻することで「わかった感じ」を理知的に深める過程であり、日常生活の実際の経験においてその境地から物事を眺め、自分のものとして落とし込んでいく作業になるのではないでしょうか。

大いなるいのちの海原から、個の意識を持った生命を受け、その個の視点から、改めてもう一度大いなるいのちを観る。
それが、人間として生をこの世に受けたことを真の意味で自覚することであり、さらに、その自覚を出発点として与えられた生に存分に応答し、響かせながら生きていく。
真の意味で生きるということ、また鈴木亨の言う「響存的世界」の目指しているところとは、そのようなものなのではないかと思います。

すなわち、「本来的自己が、単なる死への存在として消極的に規定されるのではなく、積極的に存在の真理の光の中に出で立つもの」なのであるということを自覚し、そのように生きていく、ということ。


「目に映る現象はすべて、ひとつの大いなるいのちのあらわれである」
という先日の一瞥体験は、ゴールではなく、スタートだったのでした。



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by ramram-yoga | 2017-05-02 06:47 | ことば・メッセージ | Comments(0)
響存的理性
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昨日、感じたこと。
頭での理解としてではなく、体感として。

この現象世界が成り立つ大前提として、それを支える絶対的な包摂者がいるということ。
それ無しには、いかなる現象も成り立ち得ないということ。
まるで、映画がスクリーン無しでは決して映し出されないように。
そして、この私という存在も、それに絶対的に支えられ、ここに生かされているということ。

突如としてやってきた、今まで全く感じたことのなかった感覚に驚き、とっさに窓を開けて外の景色を眺めていました。
自分の身体に満ち満ちてあふれるほどの何かを感じ、それが振動しながらゆっくりと、大地から天へと上昇していくのを感じていました。
そして、それが私の身体にだけでなく、目に映る全てのものの内で起こっているのを見て取ることができました。

あの感覚はなんだったのだろうと昨晩から振り返っていたのですが、
今朝、あれは、鈴木亨の言う「響存的理性」なのではないかと、ふと思いました。
「絶えず私に働きかけてくる、絶対に私の内ではない、同時に私と離し難く一つである」ものが、私を貫いて響いている感覚だったということに思い至りました。




すべて、この世界に存在する者としての有限的存在者は、
無限・絶対・永遠な空の自己否定即他者(存在者)肯定として、
空の大悲によって光被されて初めから存在させられている。

それは、存在者が存在するとは空が非在することを意味し、
この空の大悲、キリスト教的には精霊の息吹によって、
人間が初めから存在することを許され、
また祝福されていることを意味しているのである。

ただ、ほとんどの人間は、
そのことを自我中心的であることによって気づかず、
自らを物や生物や世界の主であると錯覚しているのにすぎない。

鈴木亨著作集第4巻『響在的世界』より



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by ramram-yoga | 2017-04-25 20:01 | ことば・メッセージ | Comments(0)
絶対的に包まれている
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癒しというものは、いつも”包まれる”という現象の中で起こる事であるような気がしています。
癒す側が人であっても自然であっても、芸術的な何かであっても、そこに”包むー包まれる”という関係性が生じた時、包まれた側は自我の殻を緩め、無防備になって癒し手に身を委ね切り、そこから深い癒しが生じてくるのだと思います。

これは、自分が癒す側になっている時も、癒される側になっている時も、感じていることです。
というより、突き詰めていくところ、癒しが起こる時、癒す側・癒される側という区別は意味をなさなくなっているとさえ、思います。

最近のヨーガクラスでいつもイメージしていることがあります。
クラスに来られている生徒さんを、子宮という小宇宙ですっぽりと包み込んで密閉し、その場の気の密度をどんどん高めていくのです。
もはや何を言っているのか訳が分からないかもしれないですが(笑)、毎回、明確にそうイメージしています。
緩め委ねることが癒しに必要なら、やはり人が一番無防備で委ねることのできる場所は子宮の中だと思うからです。

先日、いつものようにすっぽりと包み込むイメージをしていた時、包んでいる側のはずの私が、実はそもそも絶対的に包まれているという事に気付きました。
包摂- 被包摂という関係が起こる時、それをさらに包みこんでいる包摂者としての”場”があり、この”場”が無ければそもそもこのような現象は起きえないのだと。
そして、気づきました。
相手が癒される時、同時に癒す側にも深い癒しが起こってきていることに。
包摂ー被包摂の関係で癒しが起こるのは、その底辺で、それを包み込む根源的な包摂者に触れるからである、と。

先日読んだ鈴木亨の『生活世界の存在論』の中で、氏の哲学思想の根本的理法が「存在者逆説空」つまり、”人間的主体は超越的他者に自己矛盾的に逆説し、そこから絶対的に限定されることによって、客体的に主体的であることができるような存在であるとありましたが、もう一つの理法「空包摂存在者」というのが何を表しているのかを、少し理解できたような気がしました。
つまり、この世界の存在者は、絶対的な包摂者である空に包摂され存在している、ということです。

ここまで書いていて、今まで入ったことのない思考の領域に足を踏み入れた感覚があるので、もう少し、以下文章を書き進めることで、気づきを深めてみることにします。
そもそも”私”が存在しているということ自体、その存在を絶対的に支えている何かがなければあり得ないことであり、今書きながら、たった今世界が全く逆転してしまって、あまりにびっくりして叫んでしまいそうなのですが、”わたし”という存在は、死んでしまえば無になってしまうという類の空虚なものでは、全くないのですね。
なぜなら、この世界が成り立つ大前提として、絶対的な包摂する側がまず在るからです。
これを”根本原理”というのか、それとも”絶対者”、”神”、”サムシンググレート”と呼ぶのか、それらが同じなのか分かりませんが、まずは絶対的な存在としての包摂者が在り、それがひとつの表現として”わたし”を存在させている、ということ。

あぁ、そうか、そうだったのですね。
もう少し、今気が付いたことについて、時間をかけて深めてみたいと思います。




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by ramram-yoga | 2017-04-24 18:57 | ことば・メッセージ | Comments(0)
死生観の探求
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あれは、忘れもしない、小学校6年生の夏休みのことでした。
ある晩、寝床に入った時にふと、この目の前にある真っ暗な暗闇よりもっと暗い色というのはあるのだろうか?という素朴な疑問から、「果て」とか「限界」というものに毎晩思いをめぐらす日々が始まりました。
暗さや明るさの限界ってあるのだろうか?という疑問から、だんだんと時間や空間についての果てについて考えるようになり、私にとってとても面白い思索の時間となっていきました。
そして、何日目かの夜に突如として気づいた事に、それまでの知的好奇心はなぎ倒され、愕然としました。
いつ始まったとも終わるとも全く分からない、永遠に果て無く続く時間の中で、自分の生命が瞬くようにして終わりを迎え、その後永久に自分の意識というものが存在しなくなってしまうことに。
その時感じた恐怖は何とも形容しがたいほどに激しく、それからというもの、そのことを考えるたびにパニック発作を起こし、正常な思考ができなくなってしまう事態に陥ってしまいました。
このことは、私が「死」というものに正面から向き合って考えていくということを、途方もなく難しくさせてしまっていました。
今から考えると、「限界」とか「果て」というものは、そもそも限定的である自我意識が理解しようとするとエラーを引き起こし、一時的に思考がショートしてしまっていたのかもしれません。

前回の記事を書いたあたりから、それが少しずつ、理解できはじめました。
そこでも書いたように、実存的な問いと恐怖心とは、別物なのだということが、頭だけの理解ではなく体認を伴って理解できたような感覚があります。
そして、やっと、この問題に、清明な意識状態で向き合うことができるようになってきたのだと思います。
ようやくスタートラインに立てたといったところでしょうか。

****

そんなことを、先日母と電話していた時に何気なく話していたところ、母の死生観を教えてもらいました。
面白いのですが、親子でも本当に、死生観って違うのですよね。
母親は、死んだら元の場所に帰っていくのだと思っているそうです。
特に、自分の母親(私の祖母)が亡くなってからは死への恐怖が無くなり、毎日お仏壇に手を合わせるたびに、自分も死んだら母親の元へ行くのだという確信が強まっているのだそうです。
「死んだら元の場所に帰っていく」
この感覚は、私の中にはほとんどない感覚です。
ですが、このような死生観を持っていたとすれば、この人生はどんなにか心穏やかに過ごせるだろうか、と思うのです。


きっと死生観って、本当に人それぞれなのでしょうね。
これから、いろんな人に尋ねてみたいものです。
どれが正しいとか間違っているといったような、正誤を問うものではないのではないかと思います。
ただ、どのような死生観を持っているかによって、その人にとっての人生の意味というものが、全く違って見えてくるということが、ありうるのだと思います。


最後に、いつも愛読している月刊雑誌『致知』の今月届いた号の中で紹介されていた作家の北方謙三さんの言葉がとても印象に残ったので記しておきます。


いかに生きるべきかって問われて、志を持つことだとか、魂を汚さないことだとか、何だかんだ難しいことは言えるんです。
だけど人間は、否応なく志をうしなったり魂を汚したりする。
それでも心の生命力というのは失っちゃいけない。
そのためにはまず食うことですよ。
そういう欲望さえ失わなかったら、這いつくばろうが、何しようが立ち上がれるし、決して負けたことにならない。
生き方の基本というのは、そうやって具体的に考えること。
抽象的に考えないことです。



抽象的にではなく具体的に考えること。
生き方のことについて書いてありますが、これもある意味で死生観だと思うのです。

私も、自分の死を迎えるまでに、自分が心から納得できる死生観を築きたいと思っています。

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by ramram-yoga | 2017-04-17 23:14 | ことば・メッセージ | Comments(0)
死というものは
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「死というものは」

本当の死というものは
こわくなく
死の予感というものが
こわい

死は一瞬であり
死の瞬間を知る人は少ない

森信三

******

ここしばらく、「なぜ生きているのか」という問いが強烈な印象とともに湧いてきて、圧倒されてしまいそうな毎日を過ごしていました。

「人間の根本的無知は自己の有限性に対する無自覚である」
という森信三先生の言葉をある人の本の中で最近目にしたのですが、それをきっかけに、しばらくくすぶっていた生と死についての問いが目覚めたようです。

そうでした。
このことは、2000年以上に編纂されたヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』にもはっきり書いてありました。
有限のものをあたかも無限としてみなすことはまさしく無智であり、人間の全ての苦しみの根源であると。
そして、この無智の状態は、休眠状態にあったり活性化したりはするけれど、決して無くなりはしないのだということ。
私がしばらくの間、まるで何事もないかのように日々の出来事に奔走していたのは、無智だったのでした。
今日という日は二度と戻ってこない、一瞬一瞬が本当に一度きり、なのですよね。

そんな想いの中、2冊の本を読んでいました。

渡邉勝之著『医学・医療原論ーいのち学&セルフケアー』
鈴木亨著『生活世界の存在論』

お2人には共通している部分があり、それは生と死に対してまずは苦しみ、そして問うことをやめずに真剣に向き合ってきたことと、そうした結果ついにご自分の死生観を確立されたことです。
この事実に私は深いところで、救われたように感じています。
そして初めて、これまで混同していた二つのこと(恐怖という感情と、実存的な問い)を、すみ分けて認知することができるようになっている感覚を持ち始めました。
つまり、恐怖で我を忘れることなく、正常な意識を保って問う、ということです。



焦る必要はない。
死ぬまでに答えが見つけられたらいい。
その答えを見つけるために、生まれてきたんじゃないかな。


著者のお一人である渡邉先生に言っていただいた言葉です。
冒頭に紹介した森信三先生の言葉とともに。
体認を伴って理解している方の発する言葉というのは、どうしてこうも体の深いところに響いていくのでしょうか。

この地球で人間だけが、自分が死ぬ存在であるということを自覚し、この大宇宙の根本原理に対して唯一自ら働きかけることのできる存在だとするなら・・・
そのことに真に目覚めた状態で生きていきたいものです。




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by ramram-yoga | 2017-04-13 19:54 | ことば・メッセージ | Comments(0)