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カテゴリ:ことば・メッセージ( 61 )
主観と客観の逆転
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世界観が新たに開け、今まで見えていなかったものが見えることによって、また新たな疑問点が次々と湧いてくる今日この頃です。
”なぜ生きているのか”、”死んだらどうなるのか”といった実存的な問いに対する着地点を、私は一体どこに求めているのかが、はっきりわからなくなってしまいました。
「本当のことを知りたい」と、ずっと思っていましたが、では、事実を知識として知るということで満足するのかというと、必ずしもそうではないことが、わかってきました。
なぜなら、この”私”という存在に対する実存的な問い自体が主観性を帯びたものであり、それは客観的な事実とは本質的に異なるものだからです。
”問い”というもの自体は論理的に、すなわち客観的な枠組みでとらえることのできる種類のものですが、よく考えてみるとそこに必ず好奇心が伴っていることが分かります。
好奇心、あるいは回答を得ることへの渇望や、現状に対する何か不足した感じや耐え難い不安・恐怖などであるかもしれませんが、これらは客観性の範疇ではなく、感性すなわち主観の範疇に入るものだといえます。
そして、その問いに対して回答を得ることで満たされるであろうものもまた、納得感や、喜び、欠乏感からの解放等、主観の範疇に入るものであることが分かります。
ということは、問うことも、それに対する回答を得る目的も、どちらも主観的な範疇の中で生じてくるものなのだということになります。

というようなことを考えていると、今まで求めていたものは客観的であると思っていたものが実は主観的であったのだ、ということがはっきりとしてきました。
客観と主観の逆転ともいうべきでしょうか。
アインシュタインの特殊相対性理論で、ブラックホール付近ではあたかも空間が時間のようにふるまい、両者の立場が全く逆転してしまうそうですが、なぜかそれを思わせるような転換が自分の中で起こっていました(大げさ?)。

この問い自体が、”私”という限定された存在の意識を前提として発せられているものなのですよね。
問いに対する回答を探し回る前に、その問いが生じてくる主体とはそもそも何なのかについて、もっとよくみていく必要がありそうです。
人間の精神そのものがまず、元々自然史的に物質から生命を経て歴史的に形成されてきたものなのですから。
また、主観と客観は区別してとらえることが可能ですが、おそらくその先にはその区別を超えた主客合一の世界があるのだと思います。

でも、私にはまだわかりません。
わかることがゴールなのかも、よくわかりません。
ただ、日々強くなる”問い”から、もう目を背けることができないのです。
そして、不思議なのですが、このような自分の変化と同時に、心は今までになく静かで、頭の中は青空のように澄み渡り、日々歓びが増していっているのも、事実です。



*************

事実の領域における「このもの」としての今・此処に在る者は瞬間、瞬間に生まれかつ消えゆくものとして本来有限性を脱しない存在者に他ならないが、この全存在者のうちにあって他の存在者たる物質的存在・生物的生命と異なって、人間存在は等しく有限的存在でありながら、独りこの有限性そのものを自覚する存在者である。
今・此処における瞬間的存在としての自己を自覚的に知るものである。
しかし自己の有限性を真に自覚するとは、決してたんに自己自身から起こって来るのではない。
有限を自覚するとは、絶対の自己ならぬ者として超越において自己を見ることに他ならない。
無限なるものに対して始めて有限であり得るのである。
しかも無限なるものはたんに有限に対立することによって無限なるのではない。
自己の内に有限を否定的に映すことによってはじめて真に無限なのである。
このことは言い換えれば、有限なるものは絶対無限なるものの前に自己を無として自覚することによってはじめて、真に有限なることを知るのである。

人間存在は自己の無の内にその存在の理由を有つのである。
自己が生きるとともに死にゆくことにその存在の理由をもつのである。
けれどもそれは先に言ったように、たんなる無なのではない。
絶対の消滅点即絶対の生産点としての空なる場所むしろ空なる反転作用というべきであろう。
世界が生起するとは空の運動であり、空動において世界が成るのである。
すなわち現成するのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

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by ramram-yoga | 2017-05-03 10:00 | ことば・メッセージ | Comments(0)
世界構造の弁証法的理解
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この世界が作られている根本的な原理を理解しようとするとき、どうしても一筋縄ではいかないのは、それが本質的に矛盾をはらんでいるものであり、また多重的・多層的だからなのだと思います。
多重的・多層的というのは、あるひとつの立場に立ってみては確かなことでも、別の立場から眺めるとそれとはまったく違った風景が広がっていく、ということです。
鈴木亨が、論考を進めていくのにヘーゲルの哲学が非常に役立ったと、著書の中で書いていました。
ヘーゲルの哲学そのものが、というより、弁証法的な論考の仕方が非常に役立ったそうです。

”AはAであるが、同時にAにあらず”といったような命題を経て、最終的には、存在の根源が絶対無であることを証明していくヘーゲルの弁証法的論理学。
私も勉強してみたいと思います。
著書の中で紹介されていたヘーゲルの名著『論理学』をそのまま読んでも理解できそうにないので、まずは放送大学の教材などで適当なものを探し、基礎的な部分から少しずつ学んでみようかと思います。

******

無常すなわち一切のものが恒久的でないということは、世界構造そのものの弁証法的性格を示すのであって、この無常にたんに詠嘆的に即するかぎり、世界と自己との根本的な自己成立の事実の主体的な自覚はあり得ない。
一切が無常であることは、無常すなわち恒久的なものは一切存在しない、ということが恒常性であるということを意味する。
言いかえれば、いかなる絶対的なものもあり得ないのであって、世界の一切が矛盾するということだけが、絶対であるということに他ならない。
この世界の生存するものが逆説的に死ぬものであるという矛盾こそが唯一の絶対的なものである。
生死一如というのもこのことを指すに他ならない。
無常の本質は、たんなる恒常性の相対的な否定ではない、無常こそ唯一の恒常性なのである。
無常を絶対と悟るとは、絶対の愛の事実に生きるということである。
無常判断は、たんなる述語から出発する無限判断に対して有限的なる主語と述語がともに自己矛盾的に絶対的一者の自己否定的顕現として、述語即絶対主語の根源的弁証法的なる繁辞的世界に他ならぬことを悟るのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

******

以前の私は、悟りとは感覚的なものなのだと考えていました。
これまでひたすら「わかった」という感じを求めていましたし、その感覚そこが悟りでありゴールだと思っていました。
しかし、それは違うのだと、最近思うようになりました。
「わかった感じ」というのはあくまでただの感覚であって、そのままにしておくと、そこで終わってしまうのです。
その体験を落とし込み、自分のものとしていく”体得”の作業が、その後に必要になっていくのだと思います。
それこそ、論考を通してある一定の枠組みからその体験を反芻することで「わかった感じ」を理知的に深める過程であり、日常生活の実際の経験においてその境地から物事を眺め、自分のものとして落とし込んでいく作業になるのではないでしょうか。

大いなるいのちの海原から、個の意識を持った生命を受け、その個の視点から、改めてもう一度大いなるいのちを観る。
それが、人間として生をこの世に受けたことを真の意味で自覚することであり、さらに、その自覚を出発点として与えられた生に存分に応答し、響かせながら生きていく。
真の意味で生きるということ、また鈴木亨の言う「響存的世界」の目指しているところとは、そのようなものなのではないかと思います。

すなわち、「本来的自己が、単なる死への存在として消極的に規定されるのではなく、積極的に存在の真理の光の中に出で立つもの」なのであるということを自覚し、そのように生きていく、ということ。


「目に映る現象はすべて、ひとつの大いなるいのちのあらわれである」
という先日の一瞥体験は、ゴールではなく、スタートだったのでした。



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by ramram-yoga | 2017-05-02 06:47 | ことば・メッセージ | Comments(0)
響存的理性
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昨日、感じたこと。
頭での理解としてではなく、体感として。

この現象世界が成り立つ大前提として、それを支える絶対的な包摂者がいるということ。
それ無しには、いかなる現象も成り立ち得ないということ。
まるで、映画がスクリーン無しでは決して映し出されないように。
そして、この私という存在も、それに絶対的に支えられ、ここに生かされているということ。

突如としてやってきた、今まで全く感じたことのなかった感覚に驚き、とっさに窓を開けて外の景色を眺めていました。
自分の身体に満ち満ちてあふれるほどの何かを感じ、それが振動しながらゆっくりと、大地から天へと上昇していくのを感じていました。
そして、それが私の身体にだけでなく、目に映る全てのものの内で起こっているのを見て取ることができました。

あの感覚はなんだったのだろうと昨晩から振り返っていたのですが、
今朝、あれは、鈴木亨の言う「響存的理性」なのではないかと、ふと思いました。
「絶えず私に働きかけてくる、絶対に私の内ではない、同時に私と離し難く一つである」ものが、私を貫いて響いている感覚だったということに思い至りました。




すべて、この世界に存在する者としての有限的存在者は、
無限・絶対・永遠な空の自己否定即他者(存在者)肯定として、
空の大悲によって光被されて初めから存在させられている。

それは、存在者が存在するとは空が非在することを意味し、
この空の大悲、キリスト教的には精霊の息吹によって、
人間が初めから存在することを許され、
また祝福されていることを意味しているのである。

ただ、ほとんどの人間は、
そのことを自我中心的であることによって気づかず、
自らを物や生物や世界の主であると錯覚しているのにすぎない。

鈴木亨著作集第4巻『響在的世界』より



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by ramram-yoga | 2017-04-25 20:01 | ことば・メッセージ | Comments(0)
絶対的に包まれている
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癒しというものは、いつも”包まれる”という現象の中で起こる事であるような気がしています。
癒す側が人であっても自然であっても、芸術的な何かであっても、そこに”包むー包まれる”という関係性が生じた時、包まれた側は自我の殻を緩め、無防備になって癒し手に身を委ね切り、そこから深い癒しが生じてくるのだと思います。

これは、自分が癒す側になっている時も、癒される側になっている時も、感じていることです。
というより、突き詰めていくところ、癒しが起こる時、癒す側・癒される側という区別は意味をなさなくなっているとさえ、思います。

最近のヨーガクラスでいつもイメージしていることがあります。
クラスに来られている生徒さんを、子宮という小宇宙ですっぽりと包み込んで密閉し、その場の気の密度をどんどん高めていくのです。
もはや何を言っているのか訳が分からないかもしれないですが(笑)、毎回、明確にそうイメージしています。
緩め委ねることが癒しに必要なら、やはり人が一番無防備で委ねることのできる場所は子宮の中だと思うからです。

先日、いつものようにすっぽりと包み込むイメージをしていた時、包んでいる側のはずの私が、実はそもそも絶対的に包まれているという事に気付きました。
包摂- 被包摂という関係が起こる時、それをさらに包みこんでいる包摂者としての”場”があり、この”場”が無ければそもそもこのような現象は起きえないのだと。
そして、気づきました。
相手が癒される時、同時に癒す側にも深い癒しが起こってきていることに。
包摂ー被包摂の関係で癒しが起こるのは、その底辺で、それを包み込む根源的な包摂者に触れるからである、と。

先日読んだ鈴木亨の『生活世界の存在論』の中で、氏の哲学思想の根本的理法が「存在者逆説空」つまり、”人間的主体は超越的他者に自己矛盾的に逆説し、そこから絶対的に限定されることによって、客体的に主体的であることができるような存在であるとありましたが、もう一つの理法「空包摂存在者」というのが何を表しているのかを、少し理解できたような気がしました。
つまり、この世界の存在者は、絶対的な包摂者である空に包摂され存在している、ということです。

ここまで書いていて、今まで入ったことのない思考の領域に足を踏み入れた感覚があるので、もう少し、以下文章を書き進めることで、気づきを深めてみることにします。
そもそも”私”が存在しているということ自体、その存在を絶対的に支えている何かがなければあり得ないことであり、今書きながら、たった今世界が全く逆転してしまって、あまりにびっくりして叫んでしまいそうなのですが、”わたし”という存在は、死んでしまえば無になってしまうという類の空虚なものでは、全くないのですね。
なぜなら、この世界が成り立つ大前提として、絶対的な包摂する側がまず在るからです。
これを”根本原理”というのか、それとも”絶対者”、”神”、”サムシンググレート”と呼ぶのか、それらが同じなのか分かりませんが、まずは絶対的な存在としての包摂者が在り、それがひとつの表現として”わたし”を存在させている、ということ。

あぁ、そうか、そうだったのですね。
もう少し、今気が付いたことについて、時間をかけて深めてみたいと思います。




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by ramram-yoga | 2017-04-24 18:57 | ことば・メッセージ | Comments(0)
死生観の探求
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あれは、忘れもしない、小学校6年生の夏休みのことでした。
ある晩、寝床に入った時にふと、この目の前にある真っ暗な暗闇よりもっと暗い色というのはあるのだろうか?という素朴な疑問から、「果て」とか「限界」というものに毎晩思いをめぐらす日々が始まりました。
暗さや明るさの限界ってあるのだろうか?という疑問から、だんだんと時間や空間についての果てについて考えるようになり、私にとってとても面白い思索の時間となっていきました。
そして、何日目かの夜に突如として気づいた事に、それまでの知的好奇心はなぎ倒され、愕然としました。
いつ始まったとも終わるとも全く分からない、永遠に果て無く続く時間の中で、自分の生命が瞬くようにして終わりを迎え、その後永久に自分の意識というものが存在しなくなってしまうことに。
その時感じた恐怖は何とも形容しがたいほどに激しく、それからというもの、そのことを考えるたびにパニック発作を起こし、正常な思考ができなくなってしまう事態に陥ってしまいました。
このことは、私が「死」というものに正面から向き合って考えていくということを、途方もなく難しくさせてしまっていました。
今から考えると、「限界」とか「果て」というものは、そもそも限定的である自我意識が理解しようとするとエラーを引き起こし、一時的に思考がショートしてしまっていたのかもしれません。

前回の記事を書いたあたりから、それが少しずつ、理解できはじめました。
そこでも書いたように、実存的な問いと恐怖心とは、別物なのだということが、頭だけの理解ではなく体認を伴って理解できたような感覚があります。
そして、やっと、この問題に、清明な意識状態で向き合うことができるようになってきたのだと思います。
ようやくスタートラインに立てたといったところでしょうか。

****

そんなことを、先日母と電話していた時に何気なく話していたところ、母の死生観を教えてもらいました。
面白いのですが、親子でも本当に、死生観って違うのですよね。
母親は、死んだら元の場所に帰っていくのだと思っているそうです。
特に、自分の母親(私の祖母)が亡くなってからは死への恐怖が無くなり、毎日お仏壇に手を合わせるたびに、自分も死んだら母親の元へ行くのだという確信が強まっているのだそうです。
「死んだら元の場所に帰っていく」
この感覚は、私の中にはほとんどない感覚です。
ですが、このような死生観を持っていたとすれば、この人生はどんなにか心穏やかに過ごせるだろうか、と思うのです。


きっと死生観って、本当に人それぞれなのでしょうね。
これから、いろんな人に尋ねてみたいものです。
どれが正しいとか間違っているといったような、正誤を問うものではないのではないかと思います。
ただ、どのような死生観を持っているかによって、その人にとっての人生の意味というものが、全く違って見えてくるということが、ありうるのだと思います。


最後に、いつも愛読している月刊雑誌『致知』の今月届いた号の中で紹介されていた作家の北方謙三さんの言葉がとても印象に残ったので記しておきます。


いかに生きるべきかって問われて、志を持つことだとか、魂を汚さないことだとか、何だかんだ難しいことは言えるんです。
だけど人間は、否応なく志をうしなったり魂を汚したりする。
それでも心の生命力というのは失っちゃいけない。
そのためにはまず食うことですよ。
そういう欲望さえ失わなかったら、這いつくばろうが、何しようが立ち上がれるし、決して負けたことにならない。
生き方の基本というのは、そうやって具体的に考えること。
抽象的に考えないことです。



抽象的にではなく具体的に考えること。
生き方のことについて書いてありますが、これもある意味で死生観だと思うのです。

私も、自分の死を迎えるまでに、自分が心から納得できる死生観を築きたいと思っています。

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by ramram-yoga | 2017-04-17 23:14 | ことば・メッセージ | Comments(0)
死というものは
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「死というものは」

本当の死というものは
こわくなく
死の予感というものが
こわい

死は一瞬であり
死の瞬間を知る人は少ない

森信三

******

ここしばらく、「なぜ生きているのか」という問いが強烈な印象とともに湧いてきて、圧倒されてしまいそうな毎日を過ごしていました。

「人間の根本的無知は自己の有限性に対する無自覚である」
という森信三先生の言葉をある人の本の中で最近目にしたのですが、それをきっかけに、しばらくくすぶっていた生と死についての問いが目覚めたようです。

そうでした。
このことは、2000年以上に編纂されたヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』にもはっきり書いてありました。
有限のものをあたかも無限としてみなすことはまさしく無智であり、人間の全ての苦しみの根源であると。
そして、この無智の状態は、休眠状態にあったり活性化したりはするけれど、決して無くなりはしないのだということ。
私がしばらくの間、まるで何事もないかのように日々の出来事に奔走していたのは、無智だったのでした。
今日という日は二度と戻ってこない、一瞬一瞬が本当に一度きり、なのですよね。

そんな想いの中、2冊の本を読んでいました。

渡邉勝之著『医学・医療原論ーいのち学&セルフケアー』
鈴木亨著『生活世界の存在論』

お2人には共通している部分があり、それは生と死に対してまずは苦しみ、そして問うことをやめずに真剣に向き合ってきたことと、そうした結果ついにご自分の死生観を確立されたことです。
この事実に私は深いところで、救われたように感じています。
そして初めて、これまで混同していた二つのこと(恐怖という感情と、実存的な問い)を、すみ分けて認知することができるようになっている感覚を持ち始めました。
つまり、恐怖で我を忘れることなく、正常な意識を保って問う、ということです。



焦る必要はない。
死ぬまでに答えが見つけられたらいい。
その答えを見つけるために、生まれてきたんじゃないかな。


著者のお一人である渡邉先生に言っていただいた言葉です。
冒頭に紹介した森信三先生の言葉とともに。
体認を伴って理解している方の発する言葉というのは、どうしてこうも体の深いところに響いていくのでしょうか。

この地球で人間だけが、自分が死ぬ存在であるということを自覚し、この大宇宙の根本原理に対して唯一自ら働きかけることのできる存在だとするなら・・・
そのことに真に目覚めた状態で生きていきたいものです。




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by ramram-yoga | 2017-04-13 19:54 | ことば・メッセージ | Comments(0)
問い続けること
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なぜ「私」は、他の誰でもない「私」なのか。
見聞き感じて思考し、行為しているこの主体とは、何か。
なぜ生きているのか。
この、個としての生命が終わりを迎えた時、その後どうなるのか。
この悠久に流れる時間の中で、瞬く間ほどの生命を受けることの意味とは、何なのか。


小さな頃からふとした時にやってくるこの問いは、日常生活そのものを根底から揺るがしてしまうもので、やってくるたびに鮮明な驚きとともに、夢から覚めて正気に戻ったような感覚になったものでした。
正気に戻った時、つまり自分の個としての生命が有限であるということを思い出した時、その事実にただただ圧倒され、自分の無力さに打ちひしがれるような感覚に陥ります。
普段、主体的に自分の生を生きているようでいて、そもそも私が「私」という生命をこの世に受け、いずれは死んでいくのだという大前提を前にした時、私はその事実に対して何のなすすべも無く、そこに絶対的に包含されているのです。

この問いは最大のテーマであり、真剣に向き合おうとしながらも、一方で私に途方もない無力感と絶望感を引き起こすほどの破壊力を持ち合わせていて、それだけに向き合うことの難しいテーマでもありました。
また、これはおそらくもっとも重大なテーマであるにもかかわらず、テレビで、また教育現場で、また普段の人との会話の中で、全くといっていいほどこのテーマが扱われないことを、とても奇妙に感じていました。
それほどに、この目に映る諸行無常の世界というのは、変化するものでありながら、何か永遠に続いていくような錯覚を私たちに感じさせます。
そして私たちは目の前の事象に取り込まれ、一喜一憂するうちに、最も根本的なテーマである生と死の問題から遠ざかってしまうのでしょうか。

森信三先生が、自己の生命の有限性の無自覚こそが無知であると述べておられますが、その言葉を昨日改めて目にした時、認めざるを得ませんでした。
自分はまだ、「生と死」という、人生最大の問いに対しての回答を得ていないことに。
頭でわかったつもりになったり、この問いを持つこと自体がナンセンスなのかと思うこともありましたが、そうではないのだ、と。
回答を得たいのなら、正々堂々と、問い続けなければならないのですね。


********



人間が真に人間として成立する根本的な基底には真に無限な主体と逆説する有限相対の存在形態だということである。
この根本構造は実在世界そのものの根本構造であって、およそ存在するかぎりの存在者全体を貫く根本的な理法にほかならない。
ただこの根本的理法の存在と、この根本的理法を自覚することとは異なるのであり、この後の理法の自覚が実存的自覚なのである。
・・・
この事実を自覚し得るのはひとり人間存在だけなのであり、ここに人間は自覚的存在者だと言わねばならないが、しかしこの実在世界の根本的理法はひとがそれを意識しようとなかろうと、われわれの意識から独立にわれわれを支配する理法であるけれども、それをしかと捉えるものはそんなに多くはないのであって、これを真に捉える人が真の意味で主体的存在であり、実存の人とはまさにこの人間存在の根本的理法の存在に気付き、それに目覚める人のことである。
・・・

人間を特徴づけるものは、彼が思考する本質として、存在に対して開かれた存在の現前におかれ、存在に関与せしめられ、こうして存在に応答することに、基づいている。

             鈴木亨著作集第5巻『生活世界の存在論』より


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by ramram-yoga | 2017-04-09 09:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
人生二度なし
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先日、ヨーガの生徒さんが、小さなノートを持ってきて見せてくださいました。
なんとその方は短大時代に、私が心から尊敬する教育者・哲学者、森信三先生から道徳の授業を受けられていたのだそうです。
森先生は学生たちから、親しみを込めて「森爺(もりじい)」と呼ばれていたのだとか…。
持ってきてくださった小さなノートというのは、道徳の授業で森先生が人生や女性としての極意を一人一人に清書させたもので、嫁入りの際にはタンスの中に入れておくようにというお達しがあったのだそう。

ノートの中身を見させていただくと、森先生が著作の中でも触れられていた、いかにも先生の教えというべき言葉の数々が、ぎっしりと詰まっていました。
後半には、仏教詩人である坂村真民の詩も何篇か書かれており、最後には森先生のご自宅の電話番号までもが記入されていました。
森先生がいかに教育者として一人一人に想いを込められ、そしていかに具体的に学生一人一人の後の人生までをも慮っておられたかが、ひしひしと伝わってくるものでした。

そして、ノートの裏表紙には、森先生の直筆で「人生二度無し」と書いてありました。
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小さいノートに小さい字で書かれた一言でしたが、この直筆の言葉には、静かではありますが深く心に響いてくるような感覚を覚えました。
学生一人一人のノートに「人生二度無し」という言葉を書き込むほどの、森先生の人生に対する覚醒の深さとは、どれほどだったのかと思わずにはいられません。

***

人生とは、本当に一度きりしかないのですね。
なぜ私たちはこの事実を、あたかも忘れたかのように毎日暮らしているのでしょうか。
時々ハッと我に返ります。
死は誰にも必ず訪れるし、私もいつかは死ぬ存在なのだと。
でも、また、目の前の雑事に奔走し、それを忘れてしまう…。
というよりも、もしかして目を逸らしていたのでしょうか?
もっともっと、ごまかさずに、生と死に向き合っていく必要があるのではないかと思いました。
このテーマは、時々ハッと我にかえって思い出す程度のものでは、ないのですよね。


***********


私たちは、いつかは死ぬ存在です。
私たちの人生は有限です。
私たちの時間は限られています。
私たちの可能性は制約されています。
こういう事実のおかげで、そしてこういう事実だけのおかげで、そもそも、なにかをやってみようと思ったり、なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。
死とは、そういったことをするように強いるものなのです。
ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。

***

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問を出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。

        ヴィクトール・フランクル『それでも人生にイエスと言う』




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by ramram-yoga | 2017-04-01 00:42 | ことば・メッセージ | Comments(0)
あなたを愛しているという人が誰もいない日には
ゼミの指導教員である冨永良喜先生が紹介してくださったTEDの「荒れた学校を建て直すには」。


「あなたを愛しているという人が誰もいない日には、私が言うわ いつだって」

感動的でした。
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by ramram-yoga | 2016-02-26 16:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
顕れ出た純粋さ
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秋になって実のなるような果樹には、春、美しい花の咲く樹はない
              森信三



先日、集中内観から帰ってこられた方が、思わず別人かと思ってしまうほどに、変化を遂げられていました。
それまで漂わせていた、あきらめと激しい怒りで混沌とした雰囲気から一変、その下に隠されていた純粋さが表に輝き出てるかのようでした。
そして、まるで子どものように無垢で透き通った、キラキラとした瞳。
見たものをそのままに映し出すようで、そんな瞳に見つめられると、人はそれを鏡として自分自身を観るのだと、分かりました。

生い立ちから現在まで数十年続いた、とても過酷で辛い日々。
それが、まるで闇から光へと、目の覚めるような鮮やかな転換を起こしました。
こんなことって、あるんだなと、ただただ自分の目の前で起こったことに感激と驚きを感じずにはいられませんでした。
そして、その方の中にある純真さと、求め続けた強さに賞賛の思いでいました。

人は、変わることができる。
・・・
いいえ、本当は、変わったのではない。
隠されていた本質が、まぶしく輝く純粋性が、表に顕れ出てきたのですね。

心より、祝福を贈りたいと思います。
そして、人の本当の姿というのはこんなにも美しいということを、教えていただいたことに、感謝します。
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by ramram-yoga | 2015-03-27 00:14 | ことば・メッセージ | Comments(0)