Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
カテゴリ:ことば・メッセージ( 61 )
風土による自己の自覚
a0118928_03403826.jpg

先日の京都大学での鎮守の森ヨーガ・セラピーの記事を、さっそく広井先生が記事にしてくださっていました。
教室で椅子ヨガを行った後、吉田神社で神林(しんりん)浴を行った風景も紹介されています。


今回ヨーガ・セラピーの後に皆さんでお話をしていた時に、広井先生が土地の風土によって宗教観が異なってくるのではないか、というお話をされ、それがとても印象に残りました。
例えば、ヨーガを源流として、インドで始まった仏教は森林の中で行じられていたので、仏教の宗教観には自然との一体や調和といった指向性がある。
一方で、キリスト教が唯一神教であり、超越的な指向性を持ち合わせているのは、砂漠という風土からこそ生まれてきたものであろう、と。
この考察は非常に興味深いと思いました。
なぜなら、私たちの世界観や論理的指向性は、私たちが意識する・しないにかかわらず、住んでいる土地の風土によってあらかじめ限定されている、ということになるからです。
でも、よく考えてみるとそうですよね。
私たちのイマジネーションというのは、五感で取り込んで認識した表象をベースとして創造されていくわけですから。

今日は和辻哲郎の『風土』を読んでいたのですが、そこに、上記に深く関連するようなことが述べられていました。
例えば、インド哲学では”アートマン(真我)”という実在原理を想定します。
想定するというより、これはヨーガ行者が”三昧”と呼ばれる深い瞑想状態において直覚したのです。
和辻は、これが直覚され得たのはインドの風土においてだからである、と述べています。
一方で、仏教の根本的原理はというと”無我”そして”無常”。
ヨーガの”絶対的有”とは全く逆の、”絶対的無”が仏教の究極であるところにおいて、この両者は鋭く対立している訳です。

それらの部分について、和辻は下記のように記述しています。

仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の実相を見ようとする。
いわゆる法の如是閑、如実観である。
その根本直感は、「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。
和辻哲郎『風土』より

*****


それでは、結局私たちは、自分の生きる風土に世界観や指向性といったものをあらかじめ限定されていて、どうやってもその枠を超えることはできないのか?
何か、限定されているということは不自由であるという印象を持ってしまっていたのですが、和辻はその限定があるからこそ、人間は己れの存在の深い根を自覚できると述べています。
そして、限定を自覚することによってはじめて、限定を超えることができる、と。

我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。
人間が己の存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的のみならずまた風土的に限定せられている。
かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。
ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。
比喩をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。
もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官を優秀ならしめるのではない。
ちょうどそのように、牧場的風土において理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。
それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光を最もよく輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。
風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。
またかくすることのよって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。
風土を無視するのは風土を超えるゆえんではない。
それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるにすぎない。
しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。
否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。

和辻哲郎『風土』p143-144


(ただいま学会で北海道にいます。写真は飛行機の中より。)






[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-17 02:59 | ことば・メッセージ | Comments(0)
集中と気づき
a0118928_22325365.jpg
自分とは何か、死とは何かという考えが、ここ2~3か月ずっと頭にこびりついて離れなくなってしまっていました。
こういうことを考えてノイローゼになってしまう人もいるようですが、それも分からなくはない、と感じました。

あれからまたいろいろな死生観や言葉との出会いがあり、ひとつ気付いたことがあります。
それは、ある一点に”焦点付け”をしようとしていた自分と、物事の本質を悟りたい時にもしかして焦点付けは弊害なのかもしれない、ということでした。
なぜなら、焦点付けが成り立つのは、まず前提として、その焦点付ける対象が一定して不変であるという想定が必要であるからです。
そして、焦点付けそれ自体がこだわっているということであり、今の不安定な心境から抜け出したいという欲から生じてきている、ということ。
果たして私が悟りたい対象は、一定して不変であるのか?というと、そもそもの立ち位置が違っていたのではないかと思うようになりました。

今日はバンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス』を読んでいましたが、内容がとても深いものでした。
優しい言葉で書かれているにもかかわらず、驚くほど深かった。
そこに、同じようなことが書いてありました。

集中力とは心を一点に集中させ、一つの固定した対象に強引に心をとどめておくこと。
一方、気付きは繊細な働きであり、鋭敏で、様々な現象に気づくことができる。
そして瞑想では、集中と気づきは共同して働くのだ、と。

”集中”にばかり偏って、”気付き”が少しおろそかになっていたようです。

それにしても、ですね。
今まで疑いもしなかった「私」が、実は実体のないものだなんて。
思い出すたびに、新鮮な驚きを感じます。
驚き、というより、驚愕と言った方が近いような気もします。
だって、35年間そう信じて疑わずに生きてきたのですから。
驚愕しているのは他でもない、「私」なのですけれど…。

また、本書には人間が病気、老い、死のほうへ進んでいくことについて”おぞましい”と表現されていました。
確かに、事実とは時に、おぞましい。
でも、気づきとは、それらは本当は別におぞましいことではなく、ありのままの現実であることを学ぶことなのだ、と後に続きます。

最後に、気づきによってもたらされる境地について書かれている終盤の文章を。

**********


私たちは「私」と呼ばれる実体を探しています。
しかし見つかるものといえば身体-骨と皮でできている袋と、その袋を「私」と見なしていることです。
さらに探求していくと、感情や思考、意見などあらゆる種類の心の現象が見つかり、これら一つ一つにたいしても「私」と考えていることがわかるでしょう。
……
どこにも「私」というものは見つかりません。
絶え間なく変化し、終わりなく流れている心の集合体に見つかるものは、前の諸々の現象から引き起こされ、条件づけられた、おびただしい変化の流れのみです。
そこに実体は見つかりません。
流れだけなのです。
思考は見つかりますが、思考する人は見つかりません。
感情は見つかりますが、感情を抱く人はいないのです。
家(心と身体の集合体)の中は空っぽです。
そこには誰もいないのです。

鋭い気づきをもって自分自身を凝視するとき、「私」や「私がいる」などの「私という感覚」は、その個体性を失い、分解してなくなります。
そして智慧の瞑想の核である存在の三つの特徴-無常・苦・無我-がありありと家(心と身体の集合体)に現れるのです。
このとき鮮明に、生は無常であること、存在の本質は苦であること、「私」という実体はない、という真理を体験します。

この明晰で純粋な深い目覚めの瞬間、意識は変革します。
固定的な「私」という概念が消えてしまうのです。
残っているものといえば、相互に関係し合う実体のない無数の現象のみです。
それらは条件によって成り立ち、変化し続けているものです。
欲は消え、重い荷物は降ろされます。
抵抗も緊張もなくなり、苦も楽もない流れだけが残ります。
心に大きな安らぎが現れます。
つくられたものではない究極の幸福、涅槃(Nibbana)が実現するのです。

     バンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス 気づきの瞑想』より





[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-15 00:13 | ことば・メッセージ | Comments(0)
永遠の生命
a0118928_19191062.jpg
今日はNHKこころの時代5月14日の「鈴木大拙先生と私」の録画を見ていました。
世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の側近で長年教えを受けていた岡村美穂子さんが、鈴木大拙について語っていました。
紹介されたたくさんのエピソードの中に、禅、そして生命についてのエッセンスが詰まっていました。
その中で、印象に残った言葉を。

意識は常に意識できるものの中にこたえを見つけようとする。

そうか、そうそう。
何か、袋小路に入り込んでしまっているときは、いつも今の意識レベルで答えを出そうとしているから、なのですよね。
真実は、主体と客体を前提とする”思考”では、とらえることはできない。


**********

キリスト教にとっても神は人間の外にあるだけはなく、自分の内にあって、自分を生かしてくれているものです。
今まで長い間、神は外にあるものとして人間がそれを仰ぎ見るという感じでしたが、そうじゃなくて、神は自分の中にもある大きな生命です。
そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。
それを復活というのです。
復活は蘇生ではないのです。
死んだ人間が突然息を吹き返したということではないのです。
大きな永遠の生命の中に戻って行くことなのです。

禅については、私はよくわかりませんが、執着や妄執から解脱して、いわゆる悟りをひらくということが、この永遠の生命に触れたということではないでしょうか。
お茶をやる方はご存じのように、お茶室のなかは静寂です。
しかしその静寂とは、何もない空虚な虚無ではありません。
そこに宇宙と生命とのふれあう接点があるのを茶人は感得しているのでしょう。
それと同じように、我々の人生の苦しみや我々の死に対して、神は沈黙しているように見えるけれど、それは必ずしも氷のような沈黙ではないかもしれません。

ひょっとすると、別世界の言葉を私たちは理解できないから、それが沈黙に見えるだけかもしれない。
それを日常の言葉では理解できないから、沈黙としか我々には思えないのかもしれない。
その理解できなかった世界へ、老年ののち死という通過儀式を経て入るのだというふうに、私は次第に思うようになりました。

遠藤周作著『死について考える』より



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-07 19:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
人生の正午
a0118928_21501938.jpg
正常な人間が、
自分には生涯形而上学的事態が
およそ生じないなどという空想をするならば、
彼は形而上的事件を一つ忘れている。
それは自身の死である。

カール・グスタフ・ユング


35歳という年齢になって直面化した、自分にとっての”死”の問題は、しばらく解決しそうにありません。

どうにか納得しようと、落としどころをつけようとすればするほど、それが早合点であることに気がづきます。

まるで、泥沼に足をとられてどんどん沈んでいくようです。


日常の雑事や、直面している世俗的な問題が途切れた時、突如として表れてくるこの”わたしとは何か”という問題。

なぜ、私は私なのか。

この目の前に広がる巧妙な世界は、一体誰が作ったのか。

すべてを根底で支えているものとは、何なのか。

小さい頃に考えていた事と全く同じ疑問ではあるのですが、その時よりもっと差し迫った形で繰り返される毎日。

これまでたくさんの数えきれない人達が、この問いに挑んできた訳であって、納得して死ぬ人もいれば、全く納得することなく死んだ人もたくさんいたのだろうと思います。

でも、わかっていることはただ一つ。

どうであれ、例外なく全員に、いつか必ず死が訪れるということ。



******


そんな、行ったり来たりの、混乱気味の毎日を送っている中、あるユングの言葉に出逢いました。

ユングは35歳から40歳を「人生の正午」と呼び、人生の重要な転換期、また心理的危機の時期として取り上げたそうです。

人生の正午はその人らしい人生を作り上げていく個性化の契機でもある。と。


・・・人生の後半に足を踏み出すとき、人生の前半に属しているものを脱皮しなければならない。

人生の後半とは精神の元型と自己の元型に直面する時期である。

・・略・・

個性化を達成すると人格の中心はもはや自我ではなくなる。

意識と無意識を統合する自己との出会いによって人は平静を手に入れ、死を恐れなくなる。

ユングは『人生の自然な終点は老いではなく、叡智である』と弟子たちに述べた。

アンリ・エレンベルガ―著『無意識の発見(下)』より





人間はそんな境地に、到達することができるのですね。
中でも、個性化とは自我のなせる業というような印象を受けますが、ユングによるとそうではない。
真の個性化とは、自我を脱したところにある、ということ。

私の年齢は、まさにユングの言う「人生の正午」にさしかかったところです。
心理的危機が訪れているなら、じっくり腰を据えて向き合っていきたいと思います。
もう、わかったフリと平気なフリは、しないように…。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-04 22:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)
死と再生のつながりを見つめる
a0118928_14454022.jpg
今日は『呼吸による気づきの教え』を読んでいました。
著者の井上ウィマラ先生は高野山大学で教鞭もとっておられ、学際的に研究をなさっている方でもあるので、学会のシンポジウム等でお話を拝聴したことはありました。
その一方でヴィパッサナー瞑想の実践者でもあります。
本を読んでいると、ご自身が瞑想によってかなり深い境地にまで達していらっしゃることが分かりました。
一貫して、丁寧で、清らかで、洞察の深い内容でした。

************


その中で、輪廻思想についての記述がありました。

仏教には「天眼智」という智慧があり、これによって、死んでゆく過程や生まれ育つ過程を繰り返し見つめていると、心の思いや行動のエネルギーによってさまざまな生存領域に輪廻転生する業(カルマ)の法則性に気づくというのです。
それはまるで、観察力のある人が、目の前に行き交う人を見ながら「あの人たちは家に入った。あの人たちは家から出ていった。あの人たちは広場の真ん中に座っている」と観察しているようである、といいます。

そして、死の直前、死後に生まれ変わる世界の様子(Gati-nimitta)が予兆として見えることがあるのだそうです。
例えば、天からお迎えが来るのを見て歓喜にひたる、等。
それらのイメージは極めて明瞭であるため、実際に今ここでこれを実体験しているような意識作用が生じる。
すると、全身で体感した思いの力が時空のほころびを作り、業のエネルギーが瞬時に次の生涯へと転送されるのだというのです。

それに対し、輪廻から解脱する智慧を完成させると、どんなイメージが浮かんできても、それが記憶を介して作られたものであることに気づいて、自覚していることができるのだそうです。
そのおかげで、死の間際にどんなイメージが出てきても、それをありのままに見つめ、それが消えていくことを自覚できる、と。
つまりそれが輪廻転生からの解放(解脱)ですね。

************

物事に対する洞察が深まっていくというのは、このようなことなのかと、感動を覚えました。
そのように物事が修行者によって観察される様子を、ブッダは長部経典の『修行者となる成果についての教え(Samannaphala-Sutta)』で下記のように述べています。


そのように、修行者は集中して、澄み切り穢れなく柔軟で揺るぎない心を、生き物たちの死と誕生を知る智慧に向ける。
彼は、超人的に清らかな天眼智で、生き物たちが死んでゆく様子、生まれてくる様子を遍(あまね)く知る。
卑しいものも高貴なものも、美しいものも醜いものも、幸福なものも不幸なものも、業に従って生まれてくる生き物たちのことを遍く知るのである。
               井上ウィマラ『呼吸による気づきの教え』より


偉大なる覚者・ブッダの教えを、改めて学んでみたいと思います。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-30 18:57 | ことば・メッセージ | Comments(0)
心は燃えている
a0118928_21175027.jpg

今日は、母校の兵庫教育大学大学院にて、来月の心身医学会(札幌)で発表する演題の予演と、事例検討会への事例提出をさせていただきました。
院生時代の指導教員の冨永良喜先生と、ゼミの先輩、そして現在在学中の院生の方々も駆けつけてくださいました。
特に事例検討会では、自分では持てない視点や鋭い考察をいろいろといただき、とても勉強になりました。
こうして発表のために経過をまとめていると、大きな正念場があり、今振り返るとそこがターニングポイントとなっていました。
相手の方にとっても、そして私にとっても。


********


一見きれいに取り繕っていて平気そうでも、それとも反対に無表情で無気力に装っていても、きっと本当は、見せかけ。
表向きの分厚い皮が少しはがれて、その奥を垣間見た時に、ハッとする。
そこに、躍動しながら燃えている心がある。
思わず息をのむほど、鮮やかな色彩の光を放っている。
純粋であるために、脆くもある、生の心。
そこに触れる。
こちらも皮を脱いで、無防備になって、生の心と心で触れる。

あぁそうか。
あなたはこんなに、豊かな感情を持っていたんだね。
そんなあなたのことを、私は心から魅力的に思います。
でも…。
そうだよね、こんなに繊細な心、むき出しではやってられなかったよね。
むき出しだと、すぐに傷ついてしんどくなってしまうね。
今まで、辛かったね。
悲しかったね。
寂しかったよね。
いっぱい、傷ついていたんだね。
そして、心の中で、泣いていたんだね。
それなのに、感じていないふりをして、平気そうにしてたんだね。

でもね…。
あなただけは、感じてあげてね。
自分がとっても、悲しかったこと。
寂しかったこと。
笑っていても、本当はたくさん傷ついて、心の中で泣いていたこと。
あなたが感じてあげなかったら、その感情たちは、誰からも気づいてもらえないから…。

感じることに、”いい”とか”悪い”は、無い。
だって、いくら感じたくないと思ったって、もう感じている。
だから、否定しなくていい。
どんな感情でも。
誰かや何かを大好きだという想いも。
今あなたの周りで認めてくれる人がいなくても。

あなただけは、自分が今感じていることを認めてあげてね。





[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-27 21:07 | ことば・メッセージ | Comments(0)
”わたし”とは何者か
a0118928_12401196.jpg
昨日突然やってきた、見るものすべてが”わたし”であるという感覚。
以前の時と同じく、数分間で過ぎ去り、また通常の感覚に戻ってきました(以前の体験の記事はこちら)。

以前のは、一言でいうと”わたし”が述語的というか受動的になり、絶対者の一表現形態としての”わたし”を感じた体験でした。
今回はそれとは全く違うものでした。
”わたし”の範疇ががどんどん広がり、目に入るものすべてが実は”わたし”の内側にあった、という体験でした。
この体験から丸一日経ちましたが、目に映る世界が全く変わってしまいました。

まず、目の前にいる生徒さんや患者さんに良くなってもらいたいという思いを持つことは、”私”と”あなた”という主観ー客観の関係性を超え、主客が合一して”わたし”だけになった時、意味をなさなくなってしまうというのではないかと感じました。
なぜなら、私が患者さんの中に苦しみを見た時、それは私の心の中に苦しみがあるということだからです。
ということは、私は患者さんの苦しみを取り除くことは不可能であるということになります。
患者さんの中に苦しみを見なければならない自分の心をこそ、よくよく省みなければなりません。
目や耳を通して入ってくる暴力や悲しみ、自己卑下、絶望的なものも、これは決して自分と無関係ではない。
私がなぜ、それらを外に見なければならないのか、それを探る方向性でしか、これらは解決していかないのではないかと感じました。

そして、私が問わなければならないのは、先日までずっと考えていた「なぜ生きているのか」とか「死んだらどうなるのか」ではなかったのだ、ということが、わかり始めました。
なぜなら、それは、自我意識を主体とした”私”からしか発し得ない問いだからです。
そうではなく、下記のように問わなければなりません。

目に映るものすべてを内側に有しているこの”わたし”とは一体何者なのか。


*********


賢者たちがあらゆる方向にさがしもとめてきた彼は、われわれ自身のハートの中にいるのです。
あなたのきいた声は正しかったが、その声がくると見た方向がまちがっていた、とヴェーダンタは言います。
あなたが見たあの自由の理想は正しかった。
しかしあなたはそれを、あなた自身の外にあると見た、それがまちがいでした。
それをもっともっと近くに持ってらっしゃい。
それはつねにあなたのうちにあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたにわかるまで。

あの自由は、あなた自身の本性だったのです。
そしてこのマーヤー(迷妄)は、決してあなたをしばったことはありません。
自然は決して、あなたの上に猛威をふるうことはありません。
おびえた子供のように、あなたが、自然が自分のくびをしめるというゆめを見ていたのです。
この恐怖から解放されることが目標なのです。
それを知的に理解するだけでなく、まのあたりにそれを見ることです。
この世界を見るよりももっと確実にそれを認識することです。
そのときにわれわれは、自分が自由であることを知るでしょう。
その時にはじめて、すべての困難は消滅し、心のまどいは解決し、まがりはただされるでしょう。
そして多様性と自然というまどわしは消えるでしょう。
そしてマーヤーは、いまのようなおそろしい絶望的なゆめではなくて、うつくしいものになり、この大地は牢獄ではなくて、われわれの遊園地になるでしょう。
そして危険や困難はすべての不幸までもが神聖なものとなり、われわれの前にその本性を示すでしょう。
いっさいのものの背後に、いっさいのものの実態として彼が立っているということを、そして彼が唯一の真の自己である、ということを示すでありましょう。

        スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より

********

(写真は今朝近所で撮ったあじさい。もうすぐ開花ですね。)




[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-23 20:56 | ことば・メッセージ | Comments(0)
禅病
a0118928_10090744.jpg
生まれた時からずっと、”私”という自我意識を主体として世界観を組み立ててきて、それを疑いもしていませんでした。
以前からヨーガでahamkara(自我意識)は被観照者、つまり客体だと学んでいましたが、それが体験として分かったのはつい最近のことです。
それがひっくり返ってしまった今、毎日のように、新鮮な驚きの毎日を送っています。

ここ数日間、考えれば考えるほど、この生きている世界が虚栄に満ちて見えてきて、日に日に空虚な感じに襲われるようになってきていました。
自我意識を前提とした世界観がガラガラと崩壊し、何もかもが頼りどころのないように思えてきて、途方に暮れてしまいました。
その感覚がピークに達した一昨日、非二元(ノンデュアリティ)に詳しい 親友のお母さま に相談したところ、それは禅病の一種ではないか、とのこと。

※非二元…直訳は「2つではない」。非二元によれば、主体と客体を前提とする二元論的な世界は幻想である。

一瞥体験(すべては一つの表れという体験)をした後、自我意識に戻り、その自我意識で世界を見るとそのような捉え方になってしまう、とのこと。
「途方に暮れ、無力感に襲われているのは誰ですか」と問われ、はっとしましたが、それも自我意識なのですよね。
観念的に頭で考えすぎると、このような状態に陥ってしまうようです。
あぁ難しい。
こういう事の追求は、一人でやっていると袋小路に入ってしまうので、先行く導き手が必要だと感じました。

この、理性で何もかもを理解してしまおうとする傾向自体を、見直す必要がありそうです。
理性は理性自体を、本当の意味で客体化することはできないし、理性を包含し超越しているものを理解することもできないのですから。
ならば、もっと別の”何か”で、真実を悟る必要があります。
それは何か。
分かったつもりをやめて、求め続けていきたいと思います。

******

ここ数日バタバタとしていましたが、今朝は少しゆっくりできたので、布団を干して部屋を片付けて掃除をしていました。
そうすると、自分自身も整っていく。
ちょうど自然農をしている知り合いから野菜が届き、水で丁寧に泥を落として料理をする。
生命力いっぱいの青々とした野菜に触れ、淡々と手を動かして生きるための動作をする。
観念から離れ、動作に集中している時、”私”という意識も薄れ、心が静かになっていく。

「真実は、生活の只中にあり」 森信三



(写真は、先日息子のボーイスカウトの活動に同行し、武田尾廃線を歩いた時に撮ったものです。)


[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-16 10:49 | ことば・メッセージ | Comments(0)
「気」の死生観
a0118928_10382815.jpg
またまた、運命的な本との出合いがありました。
ずっと自分の根底にあった、一度しかない自分の生命に関する悲哀や恐怖が、一挙に逆転して客体化され、なんだか訳もないのに愉しく、心から安心するような感覚をもたらしてくれました。
先日の記事でも触れましたが、あの客観と主観の逆転はあながち間違っていなかったようです。
ちょっと言葉遊びのようですが、あそこで述べた主観というものこそ、観られるもの(つまり客体)だったのです。
悲哀も恐怖も、自分の心が作り出したもの。
なぜ生きているかという問い自体も、自分の心が作り出したもの。
問いに回答をもたらしたいという欠乏感も、自分の心が作り出したもの。
そして、そもそもそれらを作り出している自分の心そのものが、客体だったのです。
主体は別のところにある…というより、主体の表現形態として、”私”が存る。
これが西田哲学でいうところの、”述語的”ということなのでしょうか。

ここまで来た時に、自分という存在が無になってしまうということに対する恐れが、起こらなくなってしまいました。
なぜなら、それは本質的なものと無関係だからです。
大いなるいのちが作り出した小さな客体の中で起こっていることだからです。
もしかしたらまた、恐れるのかもしれませんし、今たどり着いた境地にもしかしたら間違いがあるのかもしれません。
でも、それでもいいのです。
間違ってたら、また新たな境地を見つけ出せばいいのですから。

この『「気」の死生観』は、河野十全という方が93歳の時に書かれた著書です。
私はこの方の死生観が、一番しっくりきました。
人間には死後の世界や天国や地獄、輪廻転生など、いろいろなものを想定する豊かな世界観があります。
実際に、私の息子も私のお腹に入る前は天国で黄金色の神様と一緒にいたみたいですから。
私自身も、死後の魂の存在をはっきりと感じたことは、これまでに何度かあります。
でも、”時間”が客体であるという認識に立った時、これら死後の世界は絶対的というよりは、フォーカスすればあるし、しなければないというような類の、何か相対的な性質を帯びたものになってしまうような気がしています。
このあたりのことは、私にも、まだよくわかりません。

では、真理はどこにあるのか。
それは、今ここで起こっていることを、よくよく感じてみることから始まるのではないでしょうか。
生まれた時から一時も休まずに動いているこの心臓は、誰が動かしているのでしょう。
呼吸という作用は、いったいどこから起こってくるのでしょう。
考えてみると、私たちが今ここに生きているといことは、本当に不思議です。
このことを感じた時、生きているのではなく、生かされているのだということに、本当の意味で気づきます。
自分の意志とは無関係に、何か絶対的なものに支えられ、”私”という存在が、ここにある。
これだけは、確かな真実です。


***********


生に徹すれば、死の恐怖はなくなってしまう。
しかし、死をも一応の計算に入れると、その生がより楽しく、尊いものになってくるのである。
これは、生死一如の原則を知ればよくわかる。
生と死というものは、一続きのもので、境はない。

生死一如という言葉は、仏教や悟りの人だけがいう言葉ではない。
生きているということと、死んでいくということは、一続きのものであるから、いとうべきことでもなく、不安もなく、不吉もなく、むしろ喜びであろう。

そういう悟りの境地に至れば、人生は生きているうち、非常に楽しいものとなる。
老人の心境も、いつ死んでもよいという安心立命が得られれば、生きているということがどれほど楽しくなるか。
生と死というものが本当にわかれば、生も楽しく、死もまた楽しい。
心頭を滅却すれば火もまた涼し、という境地と同じである。

私たち人間は、一日一日に生き一日ずつ死んでいるのである。
刻々にである。
人生には誕生と死があるが、実際は毎日に生きて、毎日死んで、一生涯を生き続け、死に続けているのである。
生と死は、今の中で一如同時に行われているのであるから、今を平凡に過ごしてはならぬ。

            河野十全著『「気」の死生観』まえがきより
******



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-09 11:31 | ことば・メッセージ | Comments(0)
生きること
a0118928_11342461.jpg
先日、上智大学名誉教授の渡部昇一氏が、逝去されました。
10年数前から愛読している月刊致知に、毎号のように、現在の経済情勢をとらえる鋭い視点と、日本の行く先をはっきりと見据えた展望とを持ち合わせた評論は、読んでいると人生の薫陶を受けているようで、読むたびに背筋が伸びるような思いでした。
この人がいれば日本という国家は大丈夫だと、頼もしく感じていていたものですが、そのような方が、亡くなられました。

その他にも、心のよりどころとしていたような人の訃報を、最近立て続けに聞きました。
この世に生きているどんな人にも、例外なく必ず死は訪れる。
改めて考えてみるまでもなく、これまで地球上に生を受けた人間の中で、現在生きている人間より、すでに亡くなった人の方が圧倒的に多いわけです。

私の個人的な感覚かもしれませんが、人は死後、影響力がだんだんと増していくように感じられます。
ジャーナリストの筑紫哲也さんが生前、21世紀のキーワードは「生きることです」とおっしゃっていました。
当時私は大学生でしたが、参加した講演の一番最後に言われた筑紫さんのこの言葉がとても印象に残りました。
その「生きること」をキーワードとおっしゃった本人の筑紫さんは、もうこの世にはいません。
そのような奇妙な矛盾を感じる一方、だからこそ生きることは本当に尊いことなのだと、筑紫さんの死後一層、その言葉の重みがどんどん増していきます。

最後に、渡部昇一氏が月刊致知最後の記事になった2017年6月号「20代をどう生きるか」で述べられていた言葉をご紹介し、心よりご冥福をお祈りいたします。

*************

若いうちに何になりたいかという強い意志を持つこと。
その願望を思い描き、頭の中で鮮明に映像化し、信念にまで高めることが重要であると思う。
脊髄の奥で沸々と願望を燃やしていると、天の一角からチャンスが下りてくるものである。

逆境に処する態度が運を掴む上で極めて重要であること。
英語の諺に、「a blessing in disguise.(仮装した祝福)」とあるように、一見不幸な出来事も仮装しているだけで、実は天の祝福、恩恵なのである。
どんな逆境に遭っても、決して天を怨(うら)まず人を咎めず、自らを信じて心穏やかに道を楽しむ。
「これは天命だ」と受け入れる。
そうすると、霧が晴れ渡るように視界が開け、天から梯子(はしご)が下りてきて、思いも寄らない幸運に恵まれるのです。

*************

[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-05 11:19 | ことば・メッセージ | Comments(0)