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カテゴリ:ことば・メッセージ( 70 )
愛しています
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昨日の記事のテーマであった”祈り”とは少し違うかもしれませんが、最近よく呟いている言葉があります。

それは、

「愛しています」

という言霊です。

先日、寺山心一翁著『ガンが消えた』を読んでいました。
寺山さんは、ガンの闘病生活の中で意識の大転換を経験し、それまでわずらわしいと感じていたガンが実は自分が作りだしたもので、心から愛おしいと感じるようになったそうです。
そして、ガンに「愛しているよ」と涙ながらに繰り返し伝える場面がありますが、それがとても印象的でした。
すると、ガンの痛みが驚くほどやわらぎ、夜もぐっすり眠ることができるようになったのだそうです。
寺山さんはその後いろいろな療法や体験を経て、結果的にガンは無くなりました。
意識状態がどれほど身体に影響を及ぼすのかと、愛の力について考えさせられ、その他にもいろいろと触発された刺激的な本でした。

私も、最近は毎日呟いています。
特に何かを対象として意識していなくても、ただ「愛しています」とつぶやくだけで、胸がフワっと開いて緩み、身体があたたかくなっていきます。

また、摂食障害だった私は長い間自分の身体を受け入れることができませんでした。
自分の身体を否定し、卑下し、まるで奴隷のように扱っていました。
その身体に向かって、繰り返し「愛しています」と伝えています。
すると身体が喜んでいるのが分かります、はっきりと。
そして、自分の身体のことを、愛おしく感じます。

自分を愛することと、人を愛することは、きっと同じですね^^


  愛しています。
 
  愛しています。

  愛しています。


 感謝と愛をこめて



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by ramram-yoga | 2017-11-22 00:00 | ことば・メッセージ
祈りと言霊
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先日、家族と出かけていた時にはぐれてしまい、ひとりお店の一角に取り残されてしまいました。
携帯もお財布も持っていなかったので、下手に動くよりその場所でじっと待っていることにしました。
さて、待っている時間、何をしよう…?と目を閉じると聖音オームの響きが感じられたので、しばらく目を閉じて心の中でオームを唱えていました。
間もなく、人が行き交う中にもかかわらず心が静けさで満たされていきました。

そうしてしばらく聖音を唱えていると、急に意識状態が違うフェーズに入り、今度は怒涛のように祈りが押し寄せてきました。
それは言葉に翻訳すると、以下のような祈りでした。

「世界人類が平和でありますように」

一人の祈りではない、老若男女、低い声高い声、呟く声叫ぶ声…。
とにかく、限りなく大勢の人が、口々に祈っているのが感じられました。
あぁこれは、過去も現在もこれからも、万人共通の祈りなのだな、と、その時に感じました。
それと同時に、祈りとは教えられたり誘われてするのではなく、本来人間の内側から必然的に湧いてくるものなのだ、と思いました。
私もしばらく、その祈りに没頭していました。
気が付くと1時間が経ち、家族とも無事に再開できました。
何か、私にはこの1時間が、偶然ではなく必然的にいただけた特別な時間であったように感じました。




  感謝と愛をこめて 






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by ramram-yoga | 2017-11-21 23:28 | ことば・メッセージ
苦しみの中にあるとき
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今、苦しみの中にある人は、実は光に最も近い人なのではないかと、思っています。

私は長い間、摂食障害という病気で苦しんできました。
摂食障害の中に過食嘔吐という症状がありますが、これには、とことん苦しめられました。
摂食障害の苦しさの中に、“自分でやっている行為なのにどうしてもやめることができない”というものがあります。
毎日毎日、わずかに残っている自尊心や前向きな気持ちを、根こそぎなぎ倒される、そんな日々でした。
これは、経験したことの無い人には想像もつかないかもしれません。
少なくとも私は、この病気になるまで、このような感覚を知りませんでした。

そして、自分の中に闇の存在を感じ、その闇にいつ襲われるかと、おびえていました。
この”闇”とか”魔物”という感覚、これは、摂食障害にかぎらず、苦しい時期に感じたことのある人も多いかもしれません。
ふと一人になった時に、この闇が突然うごめきだし、私を覆いつくそうと迫ってくるのです。

今、私の中に、闇の存在はありません。
また闇に襲われるのではないかという恐怖も、ありません。
反対に、今私を溢れんばかりに満たしているのは、愛・光・歓びといった感覚です。
それが私の本質だということに、気づいたからです。
もちろん、ネガティブな気分になることもあります。
でも、それは私の本質とは全く別者なのだ、ということを知っているので、どっぷりハマりこんでしまうことはありません。
すぐに笑って、切り替えることができます。
これは自制心の問題ではありません。
自分の本質が愛だと気づいているときに、ネガティブになりようがないのです。



もし、あなたが今苦しみの中にあっても、この記事を読んで何か感じることがあるとするなら、それはあなたが、自分の本質的な部分が気づいているからです。

あなたは、闇に苦しめられたり圧倒されたりするような、小さくて弱い存在ではありません。
その闇を明るく照らし、さんさんと輝く光です。



あなたの本質は、愛です。

あなたの本質は、輝く光です。




あなたは、愛そのものです。

あなたは、光です。




   愛と感謝をこめて






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by ramram-yoga | 2017-10-30 07:12 | ことば・メッセージ
私たちの本質は、輝く光
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昨日から読み始めていた五井昌久著『霊性の開発』を、読み終えました。
内容もさることながら、最近感じていた自分の感覚と、本書で書かれている文章の語感が、驚くほどフィットするのです。

例えば、本文に「神仏と人間とが、光一筋のもの、一体のものである」とありますが、この ”光一筋” という表現、これは今私がまさに感じていた感覚でした。
今の自宅は近所に神社がたくさんあり、毎朝必ずどこかの神社に参るのですが、本堂の前であいさつをすると、天から一筋の光がまっすぐ降りてきて、頭頂から入ってくるのです。
それはそれは明るく、清らかで颯爽とした光です。

そして、その光を、ヨーガやカウンセリングにいらっしゃる方に、流すようにしています。
私がそのように考えてやっている訳ではなく、何かそのような意図が生じてくるのです。
こちらから何も言わなくても、気感の鋭い方は太陽のような明るさや、熱感を感じ取ってくださいます。
そういうことも、この本に書いてあったのですね。
「世界人類を平和にする、光明の波を、この世の中に放送」する、という表現で書かれていました。

また、「愛が満ち満ちる」という表現も、私が感じている愛の感覚とぴったりです。
この世界の本質は愛であり、愛がいたるところに遍満している。
愛が足りないと思うのは、その無条件の愛に対して、心を閉ざしているだけなのだと思うのです。

そして、霊性が開発されていくことによって、次のようなことが生じてくると書かれています。

・現れてくる悪や不幸にとらわれなくなってくる。
・怒りや妬みや、焦りの思いがへってくる。
・自分自身の存在価値を、いつの間にか、強く認識している。
・自分自身の生活が悪くなりっこない、という確信がついてくる。
・本心(自分の本性)と業想念(自我による移ろいゆく情感)の区別がはっきりついてくる。

これらはすべて、自分の変化として実感していたことでした。

まるで、”それでいいですよ、その道を進んでいきなさい”と、言ってもらっているようでした。
とても不思議ですが、私を導いてくれる人格のようなものをはっきり感じました。
面白いですね^^





さて、今日は本当は、鹿児島に行く予定だったのですが、あいにくの台風でキャンセル。
こんな光を放つ人のところへ、行く予定にしていたのですが・・・。
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この光の主は、ある医院の先生です。
とてもまぶしい閃光を放っていて、時々その光で先生の姿が見えなくなってしまうのです。
先日ご本人にこの絵をお渡ししたところとても喜んでくださり、院長室に飾って毎日見てくださっているそうで、なんとも光栄です。

このように、私には、精神の高みに達している人が、それぞれいろいろな様相の光を発しているように見えます。
ですが、一度だけ、自分の意識状態がとても精妙になった時に見えた光景は、圧巻でした。
周りにいる人たちがひとり残らず、清らかな光を発しているのが見えたのです。
驚いて目をこすり、何度も瞬きしたのですが、同じでした。

私たちの本質はきっと、輝く光そのものなのではないでしょうか。
誰の内にも聖なる神性が宿っているのですから、絶えずそこに意識を合わせ、光を見出す。
私はこれから、自分の通常の意識状態をそこまで高めていきたいと思っています。



愛と感謝をこめて


(写真は徒歩5分のところにある椎尾神社。
男性性を感じさせる、とてもエネルギッシュな光が降りてきます。)



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by ramram-yoga | 2017-10-28 15:27 | ことば・メッセージ
すべては必然
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またまた、すごい本に、出合ってしまいました。
五井昌久著『霊性の開発』。
五井昌久とは、あの有名な”世界人類が平和でありますように”の方です。
よく知っているのに、この人の思想に触れるのは、はじめてです。



人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える
しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に



これは、私の尊敬する哲学者森信三の言葉ですが、この言葉は真実ですね。
起こって来る出来事に偶然というのは、ありません。
すべての出会いが、必然でしかありえないのです。
なぜなら、世界とは自分の意識(こころ)なのですから。

まだ読み始めたばかりですが、内容の要点と采配にざっと目を通し、これを昭和36年に書いた人がいたのかと、少し不思議に思いました。
今自分が考えている内容と、ピタッと一致する感覚があるのです。

今月はバタバタと過ぎてしまいましたが、来月は少し落ち着いて本が読めそうです。
読書の秋、ですね^^


  感謝と愛をこめて








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by ramram-yoga | 2017-10-27 23:20 | ことば・メッセージ
瞑想と霊性の生活へ
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今日は、家族3人で大阪府三島郡の新居を見に行ってきました。
今年の春、他の用事でたまたまこの地を訪れた時、「ここに住みたい!」と、思いました。
その時は、それが現実になるとは、思ってもいませんでしたけれど。
その土地に身を置くと、とても静かな気持ちになるのです。

今住んでいる西宮は、とても気に入っていました。
日当たりが良く、落ち着いていて、窓を開けると上の写真の風景が広がり、向こうに見える六甲山からさわやかな風が吹き抜けていきます。
陰陽で言うと、陽を強く感じる土地でした。

しかし、これからの私にとっては、少し陽が強すぎる場所となったようです。
これから、前に前にと表立った活動をしていくことが、減っていくように感じています。
不思議ですが、そんな気がしています。

一昨日お話させていただいたイベント「常識のカベ」で、メインとなった内容は、役割について、でした。
自然界では、誰が一番ということは無く、それぞれがそれぞれの立場において、その存在にしかできないことをすることで、完全な調和と循環が成り立っています。
これは、人間界でも、同じことが言えるのではないでしょうか。
人間は一人一人分離しているように見えて、実は誰一人として独立して存在することはできません。
ある人が、ある意識状態にある時、それは必ず、周囲に影響を及ぼしています。
その意味で、人間は孤独な存在ではありえないのです。

今、私に起こっていることは、ひとつは思考がどんどん減って、とても静かである、ということです。
実際的な生産性は、減ってきているように感じています。
この、私の静けさの深まりは、他の誰かに影響し、その人の強力な活動力と推進力となって顕れているのだと思います。
そして、その人が強烈に活動すればするほど、私はますます静かになっていき、意識の奥底に沈殿していくような気がしています。



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誰の生涯にもやがては、霊的理想の呼びかけを感じるときが必ずやって来る。
こうした呼びかけが来たときには、耳を傾けずにはいられない。
そうなればこの世の何ものも、満足を与えてくれはしない。
その崇高な呼びかけの命令に従うまで、平安を見出すことはできない。
この内なる目覚めと、より高い理想に従おうとする止まれぬ衝動が、霊性の生活の始まりのしるしである。
それからは生涯を通じて、霊性の理想が彼を魅了し、絶えず心に去来する。
このように世俗の理想の追求から霊性に追求に変わることは、「回心」と呼ばれる。
霊性の生活はそこから始まる。
この回心はある人の場合には突然に起こり、またある人の場合には緩やかに展開する。

スワミ・ヤティシュワラーナンダ著『瞑想と霊性の生活1』より






愛と感謝をこめて






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by ramram-yoga | 2017-09-03 18:45 | ことば・メッセージ
世界はうつくしいと
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この6月で6歳になった息子。
最近、何を言っても、「なんで?」の嵐です。
説明しても、それに対して「なんで?」。
また説明しても、「なんで?」。

先日、食事中に、肘をつかないように注意をしたら…
出ました!
「なんで?」攻撃(笑)
お行儀が悪いからよ、とか、そういう決まりだから、と伝えても、「なんで?」と納得できません。
考えた末、「美しく食べよう。美しい姿勢ってどんな姿勢?」と言いました。
すると、「なんで?」がピタッと止まりました。
そして、「こうかな?」と言いながら、スッと肘を引き、背筋を伸ばしました。
おまけになんと、表情も引き締まった。

美しいという言葉、息子なりに何か感じることがあったのでしょうね^^


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「世界はうつくしいと」
長田弘

うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光はうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇りの日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。





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by ramram-yoga | 2017-07-27 20:03 | ことば・メッセージ
愛の言葉
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数日前から、口に出して唱える愛の言葉を、考えていました。
自分を愛でいっぱいに満たす言葉。
フォーカスする先を、欠乏感から、満ち足りた感じにシフトしていくことで、どんどん満たされていきます。
意識というのは、不思議ですね。

自分を愛するということは、周囲の人を愛するということ。
どんな言葉がいいかな…と、色々なアファメーションの言葉も参考にしながら、今の私の中から湧いて出てくる言葉を並べてみました。
そして、一番いいな、と思う言葉の一連が完成しました♪
愛の言葉の力は、とってもパワフルです。
繰り返し唱えていると、疲れも吹き飛び、愛で満たされてあふれ出していくようです。

今日は、ヨーガのクラスでも、皆さんとこの言葉を一部唱えました。
もし、この言葉が気に入ったようなら、毎日胸の前で手を合わせて、唱えてみてください。
微笑とともに…。

もっともっと、ともに満ち、満たされていきましょう。
いいえ、正確には、すでに、あり余るほど満ちたりていることを思い出し、心ゆくまで味わいませんか^^

*********


わたしは、わたしのあるがまますべてを受け入れ、愛します。
わたしは、今までいつも、わたし自身がその時できる最善の選択を取ってきたことを、知っています。
わたしの中で、欠点に思えるところも、実は魅力的なかけがえのない部分であり、周囲の人が親しみを感じる部分でもあることを、理解しています。
わたしには歓びを手にする価値があります。
わたしに必要なものはすべて、いちばんいい時機にわたしの元へやってきます。
わたしは健康で、エネルギーに満ちています。
わたしはいつも完全に満たされ、守られています。
わたしは、わたしのあるがまますべてを受け入れ、愛します。








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by ramram-yoga | 2017-06-29 20:56 | ことば・メッセージ
すべては私の内側にある
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昨日、私の主治医である斎藤クリニックの斉藤先生に誘導していただいた瞑想で、はっとする経験がありました。
瞑想の中で仙人と出会います。
自分のイメージでその仙人を描いていいということだったので、以前から私の心の中で理想として描いている、ある御方のイメージをその仙人に重ね合わせました。
その神々しく眩い光をにじませているその御方に、今自分が直面している疑問を投げかけます。

私とは何?
なぜ生きているのですか?
本当のことが知りたいのです。

すると、その御方は、優しく微笑みながら、その欠乏感を抱えている私を丸ごと包みこんでくれました。
そして、その後、その御方と私は抱き合って、お互いに溶け合って一つになっていきました。

その時に、はっとしました。
答えは私の外側にではなく、内側にある。
私はすでに、知っている。
そしてすでに、満ち足りている。

分からない、分からない、と、不思議がり、外側に回答を求めても、そこには「分からない」を助長するものが待っている。
わたしが本当に深く探求していくべきなのは、わたし自身。


*********


外から来る知識はありません。
それはすべて、内にあるものです。
われわれが、人が「知る」というものは、厳密に心理学的に表現するなら、彼が「発見する」もの、または「覆いを除く」ものであり、人が「学ぶ」というものは、実は彼が、無限の知識の鉱脈である自分の魂の覆いを取り除いて、そこに「発見する」ものなのであります。
われわれは、ニュートンが引力を発見した、と言います。
引力は、どこかのすみにいて彼を待っていたのでしょうか。
それは彼自身の心の中にあったのです。
時期が来て、彼がそれを発見したのです。
世界が獲得したすべての知識は、心から来ます。
宇宙という無限の書庫は、あなた自身の心中にあるにすぎません。
外部世界は単に、あなたに自分の心のンかあを研究させる暗示であり、機会であるにすぎません。
あなたの研究の対象は、常にあなた自身の心です。
リンゴが落ちたことがニュートンにヒントを与え、彼は自分の心を研究したのでした。
彼はすでに心の中にあった思いのつながりを再編成し、そこに、われわれが引力の法則と呼ぶところの新しいつながりを発見したのでした。
それはリンゴの中にあったのでも、地球の中心の何かにあったものでもありませんでした。
ですから、世俗のにせよ霊的なものにせよ、すべての知識は人間の心の中にあるのです。

心の力は集中され、それ自身の方にむけかえられなければなりません。
そうるすと、太陽のさしつらぬくような光線の前にはまっくらな場所もその秘密をあかすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。
このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。
自分たちは魂をもっているのか、いないのか、生命はつかの間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。
それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ「カルマ・ヨーガ」、「ギャーナ・ヨーガ」より



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by ramram-yoga | 2017-06-25 08:48 | ことば・メッセージ
風土による自己の自覚
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先日の京都大学での鎮守の森ヨーガ・セラピーの記事を、さっそく広井先生が記事にしてくださっていました。
教室で椅子ヨガを行った後、吉田神社で神林(しんりん)浴を行った風景も紹介されています。


今回ヨーガ・セラピーの後に皆さんでお話をしていた時に、広井先生が土地の風土によって宗教観が異なってくるのではないか、というお話をされ、それがとても印象に残りました。
例えば、ヨーガを源流として、インドで始まった仏教は森林の中で行じられていたので、仏教の宗教観には自然との一体や調和といった指向性がある。
一方で、キリスト教が唯一神教であり、超越的な指向性を持ち合わせているのは、砂漠という風土からこそ生まれてきたものであろう、と。
この考察は非常に興味深いと思いました。
なぜなら、私たちの世界観や論理的指向性は、私たちが意識する・しないにかかわらず、住んでいる土地の風土によってあらかじめ限定されている、ということになるからです。
でも、よく考えてみるとそうですよね。
私たちのイマジネーションというのは、五感で取り込んで認識した表象をベースとして創造されていくわけですから。

今日は和辻哲郎の『風土』を読んでいたのですが、そこに、上記に深く関連するようなことが述べられていました。
例えば、インド哲学では”アートマン(真我)”という実在原理を想定します。
想定するというより、これはヨーガ行者が”三昧”と呼ばれる深い瞑想状態において直覚したのです。
和辻は、これが直覚され得たのはインドの風土においてだからである、と述べています。
一方で、仏教の根本的原理はというと”無我”そして”無常”。
ヨーガの”絶対的有”とは全く逆の、”絶対的無”が仏教の究極であるところにおいて、この両者は鋭く対立している訳です。

それらの部分について、和辻は下記のように記述しています。

仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の実相を見ようとする。
いわゆる法の如是閑、如実観である。
その根本直感は、「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。
和辻哲郎『風土』より

*****


それでは、結局私たちは、自分の生きる風土に世界観や指向性といったものをあらかじめ限定されていて、どうやってもその枠を超えることはできないのか?
何か、限定されているということは不自由であるという印象を持ってしまっていたのですが、和辻はその限定があるからこそ、人間は己れの存在の深い根を自覚できると述べています。
そして、限定を自覚することによってはじめて、限定を超えることができる、と。

我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。
人間が己の存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的のみならずまた風土的に限定せられている。
かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。
ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。
比喩をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。
もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官を優秀ならしめるのではない。
ちょうどそのように、牧場的風土において理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。
それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光を最もよく輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。
風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。
またかくすることのよって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。
風土を無視するのは風土を超えるゆえんではない。
それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるにすぎない。
しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。
否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。

和辻哲郎『風土』p143-144


(ただいま学会で北海道にいます。写真は飛行機の中より。)






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by ramram-yoga | 2017-06-17 02:59 | ことば・メッセージ