Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
カテゴリ:ことば・メッセージ( 65 )
瞑想と霊性の生活へ
a0118928_18132413.jpg
今日は、家族3人で大阪府三島郡の新居を見に行ってきました。
今年の春、他の用事でたまたまこの地を訪れた時、「ここに住みたい!」と、思いました。
その時は、それが現実になるとは、思ってもいませんでしたけれど。
その土地に身を置くと、とても静かな気持ちになるのです。

今住んでいる西宮は、とても気に入っていました。
日当たりが良く、落ち着いていて、窓を開けると上の写真の風景が広がり、向こうに見える六甲山からさわやかな風が吹き抜けていきます。
陰陽で言うと、陽を強く感じる土地でした。

しかし、これからの私にとっては、少し陽が強すぎる場所となったようです。
これから、前に前にと表立った活動をしていくことが、減っていくように感じています。
不思議ですが、そんな気がしています。

一昨日お話させていただいたイベント「常識のカベ」で、メインとなった内容は、役割について、でした。
自然界では、誰が一番ということは無く、それぞれがそれぞれの立場において、その存在にしかできないことをすることで、完全な調和と循環が成り立っています。
これは、人間界でも、同じことが言えるのではないでしょうか。
人間は一人一人分離しているように見えて、実は誰一人として独立して存在することはできません。
ある人が、ある意識状態にある時、それは必ず、周囲に影響を及ぼしています。
その意味で、人間は孤独な存在ではありえないのです。

今、私に起こっていることは、ひとつは思考がどんどん減って、とても静かである、ということです。
実際的な生産性は、減ってきているように感じています。
この、私の静けさの深まりは、他の誰かに影響し、その人の強力な活動力と推進力となって顕れているのだと思います。
そして、その人が強烈に活動すればするほど、私はますます静かになっていき、意識の奥底に沈殿していくような気がしています。



****************


誰の生涯にもやがては、霊的理想の呼びかけを感じるときが必ずやって来る。
こうした呼びかけが来たときには、耳を傾けずにはいられない。
そうなればこの世の何ものも、満足を与えてくれはしない。
その崇高な呼びかけの命令に従うまで、平安を見出すことはできない。
この内なる目覚めと、より高い理想に従おうとする止まれぬ衝動が、霊性の生活の始まりのしるしである。
それからは生涯を通じて、霊性の理想が彼を魅了し、絶えず心に去来する。
このように世俗の理想の追求から霊性に追求に変わることは、「回心」と呼ばれる。
霊性の生活はそこから始まる。
この回心はある人の場合には突然に起こり、またある人の場合には緩やかに展開する。

スワミ・ヤティシュワラーナンダ著『瞑想と霊性の生活1』より






愛と感謝をこめて






[PR]
by ramram-yoga | 2017-09-03 18:45 | ことば・メッセージ | Comments(0)
世界はうつくしいと
a0118928_19554223.jpg
この6月で6歳になった息子。
最近、何を言っても、「なんで?」の嵐です。
説明しても、それに対して「なんで?」。
また説明しても、「なんで?」。

先日、食事中に、肘をつかないように注意をしたら…
出ました!
「なんで?」攻撃(笑)
お行儀が悪いからよ、とか、そういう決まりだから、と伝えても、「なんで?」と納得できません。
考えた末、「美しく食べよう。美しい姿勢ってどんな姿勢?」と言いました。
すると、「なんで?」がピタッと止まりました。
そして、「こうかな?」と言いながら、スッと肘を引き、背筋を伸ばしました。
おまけになんと、表情も引き締まった。

美しいという言葉、息子なりに何か感じることがあったのでしょうね^^


***************




「世界はうつくしいと」
長田弘

うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光はうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇りの日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。





[PR]
by ramram-yoga | 2017-07-27 20:03 | ことば・メッセージ | Comments(0)
愛の言葉
a0118928_20392933.jpg
数日前から、口に出して唱える愛の言葉を、考えていました。
自分を愛でいっぱいに満たす言葉。
フォーカスする先を、欠乏感から、満ち足りた感じにシフトしていくことで、どんどん満たされていきます。
意識というのは、不思議ですね。

自分を愛するということは、周囲の人を愛するということ。
どんな言葉がいいかな…と、色々なアファメーションの言葉も参考にしながら、今の私の中から湧いて出てくる言葉を並べてみました。
そして、一番いいな、と思う言葉の一連が完成しました♪
愛の言葉の力は、とってもパワフルです。
繰り返し唱えていると、疲れも吹き飛び、愛で満たされてあふれ出していくようです。

今日は、ヨーガのクラスでも、皆さんとこの言葉を一部唱えました。
もし、この言葉が気に入ったようなら、毎日胸の前で手を合わせて、唱えてみてください。
微笑とともに…。

もっともっと、ともに満ち、満たされていきましょう。
いいえ、正確には、すでに、あり余るほど満ちたりていることを思い出し、心ゆくまで味わいませんか^^

*********


わたしは、わたしのあるがまますべてを受け入れ、愛します。
わたしは、今までいつも、わたし自身がその時できる最善の選択を取ってきたことを、知っています。
わたしの中で、欠点に思えるところも、実は魅力的なかけがえのない部分であり、周囲の人が親しみを感じる部分でもあることを、理解しています。
わたしには歓びを手にする価値があります。
わたしに必要なものはすべて、いちばんいい時機にわたしの元へやってきます。
わたしは健康で、エネルギーに満ちています。
わたしはいつも完全に満たされ、守られています。
わたしは、わたしのあるがまますべてを受け入れ、愛します。








[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-29 20:56 | ことば・メッセージ | Comments(0)
すべては私の内側にある
a0118928_07494995.jpg
昨日、私の主治医である斎藤クリニックの斉藤先生に誘導していただいた瞑想で、はっとする経験がありました。
瞑想の中で仙人と出会います。
自分のイメージでその仙人を描いていいということだったので、以前から私の心の中で理想として描いている、ある御方のイメージをその仙人に重ね合わせました。
その神々しく眩い光をにじませているその御方に、今自分が直面している疑問を投げかけます。

私とは何?
なぜ生きているのですか?
本当のことが知りたいのです。

すると、その御方は、優しく微笑みながら、その欠乏感を抱えている私を丸ごと包みこんでくれました。
そして、その後、その御方と私は抱き合って、お互いに溶け合って一つになっていきました。

その時に、はっとしました。
答えは私の外側にではなく、内側にある。
私はすでに、知っている。
そしてすでに、満ち足りている。

分からない、分からない、と、不思議がり、外側に回答を求めても、そこには「分からない」を助長するものが待っている。
わたしが本当に深く探求していくべきなのは、わたし自身。


*********


外から来る知識はありません。
それはすべて、内にあるものです。
われわれが、人が「知る」というものは、厳密に心理学的に表現するなら、彼が「発見する」もの、または「覆いを除く」ものであり、人が「学ぶ」というものは、実は彼が、無限の知識の鉱脈である自分の魂の覆いを取り除いて、そこに「発見する」ものなのであります。
われわれは、ニュートンが引力を発見した、と言います。
引力は、どこかのすみにいて彼を待っていたのでしょうか。
それは彼自身の心の中にあったのです。
時期が来て、彼がそれを発見したのです。
世界が獲得したすべての知識は、心から来ます。
宇宙という無限の書庫は、あなた自身の心中にあるにすぎません。
外部世界は単に、あなたに自分の心のンかあを研究させる暗示であり、機会であるにすぎません。
あなたの研究の対象は、常にあなた自身の心です。
リンゴが落ちたことがニュートンにヒントを与え、彼は自分の心を研究したのでした。
彼はすでに心の中にあった思いのつながりを再編成し、そこに、われわれが引力の法則と呼ぶところの新しいつながりを発見したのでした。
それはリンゴの中にあったのでも、地球の中心の何かにあったものでもありませんでした。
ですから、世俗のにせよ霊的なものにせよ、すべての知識は人間の心の中にあるのです。

心の力は集中され、それ自身の方にむけかえられなければなりません。
そうるすと、太陽のさしつらぬくような光線の前にはまっくらな場所もその秘密をあかすように、この集中された心は、それ自身の最奥の秘密を洞察するでしょう。
このようにしてわれわれは、信仰の根底、真の純粋な宗教に到達するでありましょう。
自分たちは魂をもっているのか、いないのか、生命はつかの間のものか、永遠のものであるのか、宇宙に神はおられるのか、おられないのか、自分で知覚するでしょう。
それはことごとく、われわれの前に示されるでしょう。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ「カルマ・ヨーガ」、「ギャーナ・ヨーガ」より



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-25 08:48 | ことば・メッセージ | Comments(0)
風土による自己の自覚
a0118928_03403826.jpg

先日の京都大学での鎮守の森ヨーガ・セラピーの記事を、さっそく広井先生が記事にしてくださっていました。
教室で椅子ヨガを行った後、吉田神社で神林(しんりん)浴を行った風景も紹介されています。


今回ヨーガ・セラピーの後に皆さんでお話をしていた時に、広井先生が土地の風土によって宗教観が異なってくるのではないか、というお話をされ、それがとても印象に残りました。
例えば、ヨーガを源流として、インドで始まった仏教は森林の中で行じられていたので、仏教の宗教観には自然との一体や調和といった指向性がある。
一方で、キリスト教が唯一神教であり、超越的な指向性を持ち合わせているのは、砂漠という風土からこそ生まれてきたものであろう、と。
この考察は非常に興味深いと思いました。
なぜなら、私たちの世界観や論理的指向性は、私たちが意識する・しないにかかわらず、住んでいる土地の風土によってあらかじめ限定されている、ということになるからです。
でも、よく考えてみるとそうですよね。
私たちのイマジネーションというのは、五感で取り込んで認識した表象をベースとして創造されていくわけですから。

今日は和辻哲郎の『風土』を読んでいたのですが、そこに、上記に深く関連するようなことが述べられていました。
例えば、インド哲学では”アートマン(真我)”という実在原理を想定します。
想定するというより、これはヨーガ行者が”三昧”と呼ばれる深い瞑想状態において直覚したのです。
和辻は、これが直覚され得たのはインドの風土においてだからである、と述べています。
一方で、仏教の根本的原理はというと”無我”そして”無常”。
ヨーガの”絶対的有”とは全く逆の、”絶対的無”が仏教の究極であるところにおいて、この両者は鋭く対立している訳です。

それらの部分について、和辻は下記のように記述しています。

仏教の哲学はアートマン(我)を原理とする形而上学を捨てて現実の生の実相を見ようとする。
いわゆる法の如是閑、如実観である。
その根本直感は、「我」の形而上学を捨てる点において無我観であり、一切の現実を流転と見る点において無常観であるが、さらにこの一切を苦と見るところの苦観において情的思惟の特徴を明らかに示している。
和辻哲郎『風土』より

*****


それでは、結局私たちは、自分の生きる風土に世界観や指向性といったものをあらかじめ限定されていて、どうやってもその枠を超えることはできないのか?
何か、限定されているということは不自由であるという印象を持ってしまっていたのですが、和辻はその限定があるからこそ、人間は己れの存在の深い根を自覚できると述べています。
そして、限定を自覚することによってはじめて、限定を超えることができる、と。

我々はこの考察によって次のごときことを結論し得るであろう。
人間が己の存在の深い根を自覚してそれを客体的に表現するとき、その仕方はただに歴史的のみならずまた風土的に限定せられている。
かかる限定を持たない精神の自覚はかつて行われたことはなかった。
ところでこの風土的限定は、ちょうどそれにおいて最も鋭く自覚の実現せられ得る優越点を提供するのである。
比喩をもって語るならば、聴覚の優れた者において音楽の才能が最もよく自覚せられ、筋肉の優れた者において運動の才能が最もよく自覚せられる。
もちろん我々はこの自覚が実現せられた後にそれぞれの機官を優秀ならしめるのではない。
ちょうどそのように、牧場的風土において理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。
それならば我々は、音楽家を通じて音楽を己れのものとし、運動家を通じて競技を体験し得るように、理性の光を最もよく輝くところから己の理性の開発を学び、感情的洗練の最もよく実現せられるところから己の感情の洗練を習うべきではなかろうか。
風土の限定が諸国民をしてそれぞれに異なった方面に長所を持たしめたとすれば、ちょうどその点において我々はまた己れの短所を自覚せしめられ、互いに相学び得るに至るのである。
またかくすることのよって我々は風土的限定を超えて己れを育てて行くこともできるであろう。
風土を無視するのは風土を超えるゆえんではない。
それはただ風土的限定の内に無自覚的に留まるにすぎない。
しかし限定を自覚することによってその限定を超えたからといって、風土の特性が消失するわけではない。
否、むしろそれによって一層よくその特性が生かされてくるのである。

和辻哲郎『風土』p143-144


(ただいま学会で北海道にいます。写真は飛行機の中より。)






[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-17 02:59 | ことば・メッセージ | Comments(0)
集中と気づき
a0118928_22325365.jpg
自分とは何か、死とは何かという考えが、ここ2~3か月ずっと頭にこびりついて離れなくなってしまっていました。
こういうことを考えてノイローゼになってしまう人もいるようですが、それも分からなくはない、と感じました。

あれからまたいろいろな死生観や言葉との出会いがあり、ひとつ気付いたことがあります。
それは、ある一点に”焦点付け”をしようとしていた自分と、物事の本質を悟りたい時にもしかして焦点付けは弊害なのかもしれない、ということでした。
なぜなら、焦点付けが成り立つのは、まず前提として、その焦点付ける対象が一定して不変であるという想定が必要であるからです。
そして、焦点付けそれ自体がこだわっているということであり、今の不安定な心境から抜け出したいという欲から生じてきている、ということ。
果たして私が悟りたい対象は、一定して不変であるのか?というと、そもそもの立ち位置が違っていたのではないかと思うようになりました。

今日はバンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス』を読んでいましたが、内容がとても深いものでした。
優しい言葉で書かれているにもかかわらず、驚くほど深かった。
そこに、同じようなことが書いてありました。

集中力とは心を一点に集中させ、一つの固定した対象に強引に心をとどめておくこと。
一方、気付きは繊細な働きであり、鋭敏で、様々な現象に気づくことができる。
そして瞑想では、集中と気づきは共同して働くのだ、と。

”集中”にばかり偏って、”気付き”が少しおろそかになっていたようです。

それにしても、ですね。
今まで疑いもしなかった「私」が、実は実体のないものだなんて。
思い出すたびに、新鮮な驚きを感じます。
驚き、というより、驚愕と言った方が近いような気もします。
だって、35年間そう信じて疑わずに生きてきたのですから。
驚愕しているのは他でもない、「私」なのですけれど…。

また、本書には人間が病気、老い、死のほうへ進んでいくことについて”おぞましい”と表現されていました。
確かに、事実とは時に、おぞましい。
でも、気づきとは、それらは本当は別におぞましいことではなく、ありのままの現実であることを学ぶことなのだ、と後に続きます。

最後に、気づきによってもたらされる境地について書かれている終盤の文章を。

**********


私たちは「私」と呼ばれる実体を探しています。
しかし見つかるものといえば身体-骨と皮でできている袋と、その袋を「私」と見なしていることです。
さらに探求していくと、感情や思考、意見などあらゆる種類の心の現象が見つかり、これら一つ一つにたいしても「私」と考えていることがわかるでしょう。
……
どこにも「私」というものは見つかりません。
絶え間なく変化し、終わりなく流れている心の集合体に見つかるものは、前の諸々の現象から引き起こされ、条件づけられた、おびただしい変化の流れのみです。
そこに実体は見つかりません。
流れだけなのです。
思考は見つかりますが、思考する人は見つかりません。
感情は見つかりますが、感情を抱く人はいないのです。
家(心と身体の集合体)の中は空っぽです。
そこには誰もいないのです。

鋭い気づきをもって自分自身を凝視するとき、「私」や「私がいる」などの「私という感覚」は、その個体性を失い、分解してなくなります。
そして智慧の瞑想の核である存在の三つの特徴-無常・苦・無我-がありありと家(心と身体の集合体)に現れるのです。
このとき鮮明に、生は無常であること、存在の本質は苦であること、「私」という実体はない、という真理を体験します。

この明晰で純粋な深い目覚めの瞬間、意識は変革します。
固定的な「私」という概念が消えてしまうのです。
残っているものといえば、相互に関係し合う実体のない無数の現象のみです。
それらは条件によって成り立ち、変化し続けているものです。
欲は消え、重い荷物は降ろされます。
抵抗も緊張もなくなり、苦も楽もない流れだけが残ります。
心に大きな安らぎが現れます。
つくられたものではない究極の幸福、涅槃(Nibbana)が実現するのです。

     バンテ・H・グナラタナ著『マインドフルネス 気づきの瞑想』より





[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-15 00:13 | ことば・メッセージ | Comments(0)
永遠の生命
a0118928_19191062.jpg
今日はNHKこころの時代5月14日の「鈴木大拙先生と私」の録画を見ていました。
世界的な仏教哲学者、鈴木大拙の側近で長年教えを受けていた岡村美穂子さんが、鈴木大拙について語っていました。
紹介されたたくさんのエピソードの中に、禅、そして生命についてのエッセンスが詰まっていました。
その中で、印象に残った言葉を。

意識は常に意識できるものの中にこたえを見つけようとする。

そうか、そうそう。
何か、袋小路に入り込んでしまっているときは、いつも今の意識レベルで答えを出そうとしているから、なのですよね。
真実は、主体と客体を前提とする”思考”では、とらえることはできない。


**********

キリスト教にとっても神は人間の外にあるだけはなく、自分の内にあって、自分を生かしてくれているものです。
今まで長い間、神は外にあるものとして人間がそれを仰ぎ見るという感じでしたが、そうじゃなくて、神は自分の中にもある大きな生命です。
そして、死によって人間はその大きな生命の中に戻って行く。
それを復活というのです。
復活は蘇生ではないのです。
死んだ人間が突然息を吹き返したということではないのです。
大きな永遠の生命の中に戻って行くことなのです。

禅については、私はよくわかりませんが、執着や妄執から解脱して、いわゆる悟りをひらくということが、この永遠の生命に触れたということではないでしょうか。
お茶をやる方はご存じのように、お茶室のなかは静寂です。
しかしその静寂とは、何もない空虚な虚無ではありません。
そこに宇宙と生命とのふれあう接点があるのを茶人は感得しているのでしょう。
それと同じように、我々の人生の苦しみや我々の死に対して、神は沈黙しているように見えるけれど、それは必ずしも氷のような沈黙ではないかもしれません。

ひょっとすると、別世界の言葉を私たちは理解できないから、それが沈黙に見えるだけかもしれない。
それを日常の言葉では理解できないから、沈黙としか我々には思えないのかもしれない。
その理解できなかった世界へ、老年ののち死という通過儀式を経て入るのだというふうに、私は次第に思うようになりました。

遠藤周作著『死について考える』より



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-07 19:39 | ことば・メッセージ | Comments(0)
人生の正午
a0118928_21501938.jpg
正常な人間が、
自分には生涯形而上学的事態が
およそ生じないなどという空想をするならば、
彼は形而上的事件を一つ忘れている。
それは自身の死である。

カール・グスタフ・ユング


35歳という年齢になって直面化した、自分にとっての”死”の問題は、しばらく解決しそうにありません。

どうにか納得しようと、落としどころをつけようとすればするほど、それが早合点であることに気がづきます。

まるで、泥沼に足をとられてどんどん沈んでいくようです。


日常の雑事や、直面している世俗的な問題が途切れた時、突如として表れてくるこの”わたしとは何か”という問題。

なぜ、私は私なのか。

この目の前に広がる巧妙な世界は、一体誰が作ったのか。

すべてを根底で支えているものとは、何なのか。

小さい頃に考えていた事と全く同じ疑問ではあるのですが、その時よりもっと差し迫った形で繰り返される毎日。

これまでたくさんの数えきれない人達が、この問いに挑んできた訳であって、納得して死ぬ人もいれば、全く納得することなく死んだ人もたくさんいたのだろうと思います。

でも、わかっていることはただ一つ。

どうであれ、例外なく全員に、いつか必ず死が訪れるということ。



******


そんな、行ったり来たりの、混乱気味の毎日を送っている中、あるユングの言葉に出逢いました。

ユングは35歳から40歳を「人生の正午」と呼び、人生の重要な転換期、また心理的危機の時期として取り上げたそうです。

人生の正午はその人らしい人生を作り上げていく個性化の契機でもある。と。


・・・人生の後半に足を踏み出すとき、人生の前半に属しているものを脱皮しなければならない。

人生の後半とは精神の元型と自己の元型に直面する時期である。

・・略・・

個性化を達成すると人格の中心はもはや自我ではなくなる。

意識と無意識を統合する自己との出会いによって人は平静を手に入れ、死を恐れなくなる。

ユングは『人生の自然な終点は老いではなく、叡智である』と弟子たちに述べた。

アンリ・エレンベルガ―著『無意識の発見(下)』より





人間はそんな境地に、到達することができるのですね。
中でも、個性化とは自我のなせる業というような印象を受けますが、ユングによるとそうではない。
真の個性化とは、自我を脱したところにある、ということ。

私の年齢は、まさにユングの言う「人生の正午」にさしかかったところです。
心理的危機が訪れているなら、じっくり腰を据えて向き合っていきたいと思います。
もう、わかったフリと平気なフリは、しないように…。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-06-04 22:44 | ことば・メッセージ | Comments(0)
死と再生のつながりを見つめる
a0118928_14454022.jpg
今日は『呼吸による気づきの教え』を読んでいました。
著者の井上ウィマラ先生は高野山大学で教鞭もとっておられ、学際的に研究をなさっている方でもあるので、学会のシンポジウム等でお話を拝聴したことはありました。
その一方でヴィパッサナー瞑想の実践者でもあります。
本を読んでいると、ご自身が瞑想によってかなり深い境地にまで達していらっしゃることが分かりました。
一貫して、丁寧で、清らかで、洞察の深い内容でした。

************


その中で、輪廻思想についての記述がありました。

仏教には「天眼智」という智慧があり、これによって、死んでゆく過程や生まれ育つ過程を繰り返し見つめていると、心の思いや行動のエネルギーによってさまざまな生存領域に輪廻転生する業(カルマ)の法則性に気づくというのです。
それはまるで、観察力のある人が、目の前に行き交う人を見ながら「あの人たちは家に入った。あの人たちは家から出ていった。あの人たちは広場の真ん中に座っている」と観察しているようである、といいます。

そして、死の直前、死後に生まれ変わる世界の様子(Gati-nimitta)が予兆として見えることがあるのだそうです。
例えば、天からお迎えが来るのを見て歓喜にひたる、等。
それらのイメージは極めて明瞭であるため、実際に今ここでこれを実体験しているような意識作用が生じる。
すると、全身で体感した思いの力が時空のほころびを作り、業のエネルギーが瞬時に次の生涯へと転送されるのだというのです。

それに対し、輪廻から解脱する智慧を完成させると、どんなイメージが浮かんできても、それが記憶を介して作られたものであることに気づいて、自覚していることができるのだそうです。
そのおかげで、死の間際にどんなイメージが出てきても、それをありのままに見つめ、それが消えていくことを自覚できる、と。
つまりそれが輪廻転生からの解放(解脱)ですね。

************

物事に対する洞察が深まっていくというのは、このようなことなのかと、感動を覚えました。
そのように物事が修行者によって観察される様子を、ブッダは長部経典の『修行者となる成果についての教え(Samannaphala-Sutta)』で下記のように述べています。


そのように、修行者は集中して、澄み切り穢れなく柔軟で揺るぎない心を、生き物たちの死と誕生を知る智慧に向ける。
彼は、超人的に清らかな天眼智で、生き物たちが死んでゆく様子、生まれてくる様子を遍(あまね)く知る。
卑しいものも高貴なものも、美しいものも醜いものも、幸福なものも不幸なものも、業に従って生まれてくる生き物たちのことを遍く知るのである。
               井上ウィマラ『呼吸による気づきの教え』より


偉大なる覚者・ブッダの教えを、改めて学んでみたいと思います。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-30 18:57 | ことば・メッセージ | Comments(0)
心は燃えている
a0118928_21175027.jpg

今日は、母校の兵庫教育大学大学院にて、来月の心身医学会(札幌)で発表する演題の予演と、事例検討会への事例提出をさせていただきました。
院生時代の指導教員の冨永良喜先生と、ゼミの先輩、そして現在在学中の院生の方々も駆けつけてくださいました。
特に事例検討会では、自分では持てない視点や鋭い考察をいろいろといただき、とても勉強になりました。
こうして発表のために経過をまとめていると、大きな正念場があり、今振り返るとそこがターニングポイントとなっていました。
相手の方にとっても、そして私にとっても。


********


一見きれいに取り繕っていて平気そうでも、それとも反対に無表情で無気力に装っていても、きっと本当は、見せかけ。
表向きの分厚い皮が少しはがれて、その奥を垣間見た時に、ハッとする。
そこに、躍動しながら燃えている心がある。
思わず息をのむほど、鮮やかな色彩の光を放っている。
純粋であるために、脆くもある、生の心。
そこに触れる。
こちらも皮を脱いで、無防備になって、生の心と心で触れる。

あぁそうか。
あなたはこんなに、豊かな感情を持っていたんだね。
そんなあなたのことを、私は心から魅力的に思います。
でも…。
そうだよね、こんなに繊細な心、むき出しではやってられなかったよね。
むき出しだと、すぐに傷ついてしんどくなってしまうね。
今まで、辛かったね。
悲しかったね。
寂しかったよね。
いっぱい、傷ついていたんだね。
そして、心の中で、泣いていたんだね。
それなのに、感じていないふりをして、平気そうにしてたんだね。

でもね…。
あなただけは、感じてあげてね。
自分がとっても、悲しかったこと。
寂しかったこと。
笑っていても、本当はたくさん傷ついて、心の中で泣いていたこと。
あなたが感じてあげなかったら、その感情たちは、誰からも気づいてもらえないから…。

感じることに、”いい”とか”悪い”は、無い。
だって、いくら感じたくないと思ったって、もう感じている。
だから、否定しなくていい。
どんな感情でも。
誰かや何かを大好きだという想いも。
今あなたの周りで認めてくれる人がいなくても。

あなただけは、自分が今感じていることを認めてあげてね。





[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-27 21:07 | ことば・メッセージ | Comments(0)