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カテゴリ:死生観( 1 )
トラウマと死の恐怖
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今日は仕事の後、R-TEP(直近トラウマエピソードプロトコル) の研修会に参加しました。
そこでの説明でありましたが、何かの体験というのは大体半年で記憶として定着するのだそうです。
また、人の記憶は「場面記憶(エピソード記憶)」「意味記憶」「手続き記憶」等に分類できますが、このうち「場面記憶」は結構変化するものだということが分かっています。
場面記憶というのは”あの日あの時あの人と…”と、具体的に思い出すことの記憶なのですが、実際は赤い車を見たのに”青い車を見た”とか、変わってしまうことも多々あるのです。
そう考えると、人間の記憶というのは実はとても曖昧なものなのですよね。

死の恐怖でパニック発作をよく起こしていた私ですが、何とかパニックを克服して振り返ってみると、あれはトラウマ反応とよく似ていたのだということが分かってきました。
最初に感じた死への恐怖があまりに強かったために、トラウマティックな記憶となっていたようです。
通常の記憶から隔離され”冷凍保存”された恐怖を伴う記憶は、私自身では全く制御不能なものとなってしまっていました。
そして、時々何の前触れもなくやってきては、私を激しい恐怖で圧倒して、パニックに陥らせてしまっていました。
まだまだ、死に関しての恐怖心が消え去ったわけではないので、自分自身でトラウマ処理を試してみてもいいかもしれないと思っています。
つまり、恐怖を感じた記憶というのは、出来事そのものが恐怖なのではない。
恐怖心は、出来事に何等かの”意味づけ”を行うことで生じてくるものであり、また、恐怖を突き詰めてみていくと強い罪悪感や無力感が伴っていることが分かっていきます。
それら強力にセットになっている出来事と感情・情動のセットを、少しずつ解きほぐしていく。
それがトラウマ処理の過程なのだと思います。


さて。
私はといえば、自我意識が主体ではなく客体だったのだと気づいてから、まったく見る世界が変わってしまいました。
たった35年前に生まれ、”自分”という意識が確立して、そこから築いてきた世界。
今さらながら、なんてちっぽけな、狭い世界観に住んでいたのだろうと思う日々です。
そんな自我意識が、「なぜ生まれてきたんだろう」とか「死ぬのが怖い」とか、あれこれ言ったり探求したりしています。
元々そんな自我意識自体が無かったのにね…なんだか笑えてしまいます^^

そして毎日、今まで私はいったい何をしてきたのだろうと、思ってしまいます。
ヨーガでは、この世界はマーヤー(迷妄)と言われますが、その意味がこんなに実感を伴ったのは初めてです。

結局、私たちは自由であるようで、根本的なところで全く受動的でしかありえないのです。
生まれてくることも、死ぬことも、自分で決めた訳ではありません。
気が付いたら生まれていて、そしていつか必ず死んでいくのです。
心臓を動かし呼吸しているのも、自分ではありません。
なんて、なんて、私たちは無力なのでしょうか。

この”無力”を感じた時、2つの感覚が沸き起こってきます。
ひとつは、虚無感や恐怖。
これは、自我意識を主体として感じる感覚、でしょうか。
自分の意識が無くなるということが、どうしてこんなに怖いのでしょうね。
そしてもう一つは、安心感というのか、なぁ~んだ、という感覚。
なぜか、こんな感覚があるのです、面白いですけれど。
人間は生きて死ぬ、それが宿命だと思うと。

現に、意識は毎日無くなっているのですよね。
寝ている時に。
全く、何も怖くない。
むしろ、安心している。
あぁ、一日が終わったなぁと、安心しきって身体を緩めます。
死ぬというのも、これに近いのでしょうか?

*******

という訳で、相変わらず驚きと混乱の日々を送っています。
”わかったつもり”は、もうしないことにしています。
気が済むまで、混乱しておくことにします(笑)

その一方で別のところで自分の感覚が大きく変わりました。
人との壁がどんどん取り払われていくのです。
心と心の深いところで人と触れ合える感覚が、日に日に増していきます。
その意味でも、これまでとはまったく別の世界が、見え始めてきています。








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by ramram-yoga | 2017-05-20 21:34 | 死生観