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カテゴリ:社会的視点( 6 )
ラディカルとマージナル
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昨年春から通年で通わせていただいていた、京都大学の「現代社会論」のゼミも、今日で最終回でした。
このゼミには学生さんや院生さんだけではなく、社会の様々なフィールドで活躍されている方々が集まり、非常に多方面・多次元からの新たな視点がもらえました。

私にとって昨年は、自分の認識が大きく変容した年でしたが、その変化はいつもこのゼミでの内容とリンクしていました。
その意味でも、このゼミの時間は私にとってかけがえのないものでした。

授業の最後に、広井先生が、「卒業生にいつも伝える言葉です」と、2つの言葉をくださいました。

 ラディカル Radical
 …過激と訳されることもありますが、もう一方に「根源的」「根本的」という意味があります。
  ここで先生がおっしゃったのは、後者の方。

 マージナル Marginal
 …直訳すると「周辺」「環境」。
  ここでは、ひとつのパラダイムに閉じこもらず、それを超えていく横断的なさま。

そして、上の写真のような表彰状もいただきました。

私はこのゼミで学んだのは、問い続ける姿勢でした。
得たい答えがあるのなら、率直に問う。
妥協せず、誠実に。
自分が納得するまで、決してあきらめずに問い続ける。
そうすると、必ず何かが変わり始め、動き出すという確信を持ちました。

終了後、個人的に広井先生にお礼のご挨拶に行くと、まだ私も道の途中ですから、これからもよろしくお願いしますと、笑顔で言ってくださいました。
見識・人格ともに素晴らしい先生に巡り合えたことに、改めて感謝しました。

「これでいい」と思った瞬間から後退が始まる。
どこまでも生成発展していく、これこそが、いのちを生かし切って輝く生き方ですね。


さて。
最近あまりブログを更新できていないのは、あるプロジェクトが大詰めの段階に入ってきているからです。
実現に向けて、昨年からそちらにエネルギーを投入しています。
もうすぐ、生まれます^^

こちらでも、またお知らせいたしますね。
来週あたりかな?


   愛と感謝をこめて



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by ramram-yoga | 2018-01-17 21:21 | 社会的視点
問いを発することで見えてきたもの
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今年の春から通年で通わせていただいていた、京都大学の広井良典先生の「現代社会論演習」の授業。
昨日は、今年最後の授業でした。
授業は、社会経済や政策について幅広い視点から見識を深め、考察を深めていく内容ではあるのですが、この広井ゼミのすごいところは、死生観や無、時間の概念など根本的普遍的な視点からそれらを俯瞰してとらえていくところにありました。

また、参加している人たちも、学部生さんは逆に少なく、フィールドワークや研究に携わっている院生の方、大手メーカーの研究開発に携わっている方、官公庁で実際に政策に携わっている方、医療現場で臨床活動を行っている方、神職の方、僧侶の方と、本当に多種多様でしかも幅広い関心を持つ方々が集い、とても刺激的でした。

私自身はこの授業に通わせていただいて、自分の世界に対する認識が大きく変わりました。
そのくらいのインパクトのある場でした。
授業では主に、参考図書が紹介され、それについて自分の意見をまとめて次の授業で発表する、その繰り返しです。

洗練された参考図書によって新しい視点を取り入れ、まずは自分の中で考察し言語化する。
それを授業で、皆様の前で発表する。
そして、広井先生から頂くコメントはいつも、表面的な部分ではなく、普遍的・原理的な視点からのものでした。
それを持ち帰り、新しい課題図書をいただき、また自分で考える。

新しい視点に対して自分はどのように捉えるのか、どのような立場をとるのか。
これを繰り返し繰り返し突きつけられ、自分に問い続けた1年だったようにも思います。

昨日の授業では、一人一人が自分の関心のあるテーマについて、構想を発表する機会をいただきました。

終了後いつも先生がお茶に誘ってくださり、皆さんでわいわい、長い時には2時間くらいお話しをしてそれがまたとてもいい時間のですが、昨日はその場で広井先生と個人的にいろいろとお話をさせていただき、感謝の気持ちを先生にお伝えすることができました。



私が先生の授業に参加させていただくきっかけになった、広井先生の「死生観を問い直す」という本。
先生にとっても、このご著書は、非常に思い入れ深い本なのだそうです。
この本を読んで、死生観について時間について、ここまで真摯に向き合い考察を深めている人がいるのだと、驚きました。
そして、それは、同じく死生観を得たいと求めている私の、大きな希望となりました。
あきらめずに、誤魔化さずに、まっすぐに誠実に問うという姿勢を、先生から教えていただきました。

自分が本当に知りたいことを、誤魔化さずに、率直に問う。
これをし始めて、私は初めて、問うとそれに対して必ず応答が返ってくるということを体験的に知りました。
でも、それはあくまで応答であって、回答ではありませんでした。
逆に自分が問われているのだ、ということに気がついたのです。
あなたは目に映る現象をどのように捉え、それに対してどのように応答していくのですか?と。


私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」にこたえなければならない、答えを出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。
「それでも人生にイエスと言う」V.E.フランクル著


以前読んだこの言葉。
読んだ時はよく理解できませんでしたが、この言葉が最近腑に落ちました。
同じくフランクルの名著「夜と霧」を昨日読み返していましたが、良かったです。



愛と感謝をこめて





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by ramram-yoga | 2017-12-14 20:17 | 社会的視点
社会的視点から身体感覚を捉える
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今年4月から出席させてもらっている、京都大学の「現代社会論演習」の授業も、今日で前期最終回でした。
講義というよりはゼミといった方が近い感覚のこの授業で、今まで出会ったこともないような分野の方々と交流し、今まで持ったこともなかったような視点を得られたことは、私にとって大きな収穫となりました。

前回と今回の授業では、出席者の一人一人が自分の関心ごとや、これからの方向性をまとめて授業の中で発表するという内容でした。
皆さんおひとりおひとりの発表に、また新鮮な刺激をたくさんいただきました。

私も今回の機会に改めて、自分の一番の関心ごとは何かと考えてみましたが、出てきたのは意外にもとってもシンプルなことでした。
それは、身体感覚。
ということで、「身体感覚に気づくことの臨床的意義」と題し、今の自分の考えをまとめて発表しました。

すると、なんと、それを頷きながら聴いていた広井先生が、上記のような図を黒板に描きながら、私の発表を社会的視点からまとめてくださいました。
個人と社会と自然という、重層的構造がある(三角形の図)ように、個人そのものの中にも重層的構造がある。
それは、個人(自我としての私)と、社会的関係性の中の私、そして身体/生命としての私。
現代の日本社会に生きる私たちは、社会的関係性(つまり世間体や他人からの評価)を重視しすぎるあまり、自分自身の身体/生命といったものに気づきにくい事態となってしまっている。
それに対し、身体感覚に意識を向け、そこに気づいていくこととは、まさに身体/生命に気づき、人間の本質的部分に立ち戻るきっかけとなるのではないか。
そのようなお話をしてくださいました。

なるほど!と、納得。
自分の考えを第三者の言葉で聴くと、また違った印象を受けるのが面白い。
いつも、目の前の人や事象など、ミクロレベルで物事を捉え、考える傾向のある私ですが、このように他者の視点で改めて自分のやっていることを眺めるというプロセスは、とても新鮮でした。

最近は、だんだんとアウトプットの機会が増えてきています。
このブログも、私にとっては貴重なアウトプットの機会です。
自分の体験したこと、感じたことをこんな風にアウトプットすることで、それがどんどん展開していくのですね。
10月から始まる後期の授業も、楽しみです。







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by ramram-yoga | 2017-07-12 16:29 | 社会的視点
情報の進化と”無”の概念
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先々週から、京都大学の広井先生の「現代社会論演習」の講義の聴講をさせていただいています。
現代において死生観というものを突き詰めて考える時、社会的な視点無しには本当の意味で扱うことができないと先生に教えていただき、新たな世界が開けつつあります。

今回は、生物が進化していく上で情報処理がどのような進化を遂げてきたか、ということが話題の一つとなりました。
進化の過程において、両生類のあたりまでは遺伝情報のみで済んでいた情報処理が、哺乳類以上になると脳情報を必要とするようになり、さらに現代はデジタル情報に頼るまで拡大してきている。
それでは今後はどうなるのか?
以前の記事で触れたように情報技術の拡大の方向に”離陸”するのか、それとも身体性、場所性、ローカル性といった方向に”着陸”するのか。
しかし、”離陸”すなわち情報の拡大といった、”有”をどんどん大きくしていく方向性は、もう限界にきているのではないか。
そうではなく、身体性、場所性、ローカル性といったような”着地”に向かっていくのではないか。
講義中はそういった議論になりました。

そしてそこから議論のターゲットは”無”というものについてへ展開していきました。
そもそも無とは何か。
宇宙物理学等でも最近の関心は無へと向かっていて、科学的に”無”は共通了解可能なものとなるのではないか。
一方で、”無”とは、人間の知性で把握できるものなのか。
しかし、”無”という概念を人間が作り出し、名付けた以上、人間は何か本質的に”無”というものを理解していることが前提となっているのではないか。
仏教における”無”について。

これらの議論に結論が出たわけではありません。
でも、これら”無”についての議論は、最近毎回のようにブログ記事に書いているように、私にとって今最も関心のある話題で、このことを正面切って議論し合える場に居合わせることができたことを嬉しく思いました。
そして、最近感じていた生と死に対する空虚感と恐れは、孤独感が大きくかかわっていたのかもしれないと思いました。

人間は、生きて死ぬ存在です。
死ぬことに気づいていようと、気づかないでいようと、死ぬことを受け入れていようが、全く受け入れられないでいようが、死ぬ時になったら死ぬというのが人間の宿命です。

でも。
問いがあるのなら、わかったふりをせずに、ごまかさずに、その回答を求めること。
頭でのみの理解では、わかったことになっていない。
自分が心の底から納得し、体得するまで、その問いをやめないこと。
そして、必ず回答が得られると、信じて疑わないこと。

なぜそう思うかというと、率直に問い始めた時から、どんどんと新しく世界が開けていくからです。
まるで何かが導いてくれているかのようです。


(写真は、大学構内から見上げた今日の空です。)





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by ramram-yoga | 2017-05-17 20:19 | 社会的視点
社会経済のパラダイム・シフトと日本人の感性
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一昨日は先々週に引き続き、広井良典先生の授業を聴講させていただくため、先生が教鞭をとられる京都大学へ。
ここで、死生観を社会経済の枠組みから包括的に捉えなおすという今まで持たなかった視点をいただき、新たな世界が開けてきています。

今回のテーマは、AI(人工知能)すなわちテクノロジーが、今後どのように人間に影響を及ぼしているのかについて、『人類の未来』という書籍の「シンギュラリティは本当に近いのか?」という章を題材にして検討していきました。
この章の著者はレニー・カーツワイルという人工知能研究の世界的権威ですが、カーツワイルによるとAIは、映画『ターミネーター』のような人間と敵対する関係性の中で発展していくのではなく、AIが人間の中に組み込まれていき、人間はAIすなわちテクノロジーと一体化していくというのです。

テクノロジーと人間が一体化した先には何があるのか、という論点については、カーツワイルははっきりと「進化には目的がある」と述べています。
そしてそれは、「超越性(transcendence)を高めて、情報の中から何か超越的なものを生み出す、昇華するということです」と。
私自身はそれを読んだ時、何でも情報という枠組みでとらえようとするカーツワイルが、価値観とか指向性といったような範疇に収まるであろう”超越性”という言葉を使ったことを不思議に感じました。
後で広井先生の説明を聞いて納得したのですが、カーツワイルはイスラエル生まれのユダヤ系で、自然に対する超越や支配といった態度に親和性があるということでした。
ということはつまり、AIが今後発展していくとしても、その方向性には、AIを開発している人の指向や価値観がどうしても反映されてしまうわけであり、その意味でどうしても、進化の範囲は限定的にならざるを得ないのではないかと思いました。

また、物質(17世紀)→エネルギー(19世紀)→情報(現代)と世界経済のパラダイム・シフトが起こってきた中で、これからの時代はどのようなパラダイムなのか。
カーツワイルのように、”有”をどんどん拡大していく指向性に対し、”無”をどのように捉えるのか。
際限なく発展していくという発想は、地球の資源が有限であるという前提を忘れてしまってはいないか。
またそこには、適度に・調和をはかりながら、という感覚が欠如していないか。
これらの議論は、”無”とか”和”といった、日本人独特の感性(これも指向性でしょうか)であるからこそ持てる視点から出てくるのだということは、新たな発見でした。

授業に参加し始めて、今までの自分が見ていた世界は限定的だったことに気づかされます。
いつも新しい視点や価値観に心を開いておくことの大切さと、それこそが何かを追求していく上での真摯な態度であるということを感じています。






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by ramram-yoga | 2017-05-12 10:12 | 社会的視点
社会的枠組みという視点
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死生観を求めて最近出会い、影響を受けた『死生観を問い直す』『ケア学』という2冊の本があるのですが、なんとこれらの本を執筆された広井良典先生に直接ご教授いただけるという大変ありがたいご縁を知り合いの先生からいただき、今週から毎週、先生が教鞭をとられる京都大学へ学びにいくことになりました。
求めているものに出会えることのありがたさと、いつも学び続けることの大切さを感じています。

哲学的考察から公共政策の研究まで非常に幅広い分野で活動されている先生の今回の講義の大きなテーマは「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」という今まで全く耳にしたことのない言葉でした。

※ ソーシャル・キャピタルとは
社会学、政治学、経済学、経営学などにおいて用いられる概念。
人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。(wikipediaより)

普段、ヨーガ療法士や臨床心理士として臨床を行っている際、いつも相手のパーソナルな部分と向き合い、もう少し幅を広げたとしても家族や職場の人間関係といった、狭い視野でしか物事をとらえていなかった私にとって、ソーシャル・キャピタルの概念は今までほとんど意識したことのない視点でした。
特に伝統的なヨーガでは、どこまでいってもその人個人の内での調和をはかることで、周囲と調和し、そして全体と調和していく、といったものですので、社会的包括的な視点とは全く正反対の観点から物事をとらえているということになると思います。
私自身も、まずは自己を知り、自分との調和を保つことが重要であり、社会情勢やシステム等に個人の幸福はあまり左右されないと考えていた節があり、それだけにこの枠組みから何かを考えることの必要性を感じたことはありませんでした。

講義後広井先生に、今まで自分は個人レベルでしか物事を考えていなかったので、今回の授業でまったく新しい視点をいただいたことを、お伝えしました。
すると、先生は、まっすぐ私の方を見て、”個人の死生観やケアというものも、突き詰めるところ社会組織といった大きな視点からとらえることができなければ、本当の意味で扱っていくことができないのです”と言ってくださいました。
死生観やケアというものを突き詰めて考えていくことと、社会組織や医療経済の在り方を追求していくことと、これまで全くつながらなかった私ですが、その先生のお言葉をいただいて、これは自分に欠けていた視点だったのだということに気付きました。
そのような、優しく静かでありながら、でもしっかりと心に響いてくるような、先生の真摯なご姿勢が、印象的でした。

講義にいらっしゃっていた方々は、政治家を目指す学部生さんや疫学を研究している院生さん、大手メーカーの研究職の方、行政の方、神職の方々、医療関係の方々など多様で本当に刺激的でした。
これからまた、新しい視点が開けていきそうです。





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by ramram-yoga | 2017-04-28 02:34 | 社会的視点