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カテゴリ:社会的視点( 3 )
情報の進化と”無”の概念
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先々週から、京都大学の広井先生の「現代社会論演習」の講義の聴講をさせていただいています。
現代において死生観というものを突き詰めて考える時、社会的な視点無しには本当の意味で扱うことができないと先生に教えていただき、新たな世界が開けつつあります。

今回は、生物が進化していく上で情報処理がどのような進化を遂げてきたか、ということが話題の一つとなりました。
進化の過程において、両生類のあたりまでは遺伝情報のみで済んでいた情報処理が、哺乳類以上になると脳情報を必要とするようになり、さらに現代はデジタル情報に頼るまで拡大してきている。
それでは今後はどうなるのか?
以前の記事で触れたように情報技術の拡大の方向に”離陸”するのか、それとも身体性、場所性、ローカル性といった方向に”着陸”するのか。
しかし、”離陸”すなわち情報の拡大といった、”有”をどんどん大きくしていく方向性は、もう限界にきているのではないか。
そうではなく、身体性、場所性、ローカル性といったような”着地”に向かっていくのではないか。
講義中はそういった議論になりました。

そしてそこから議論のターゲットは”無”というものについてへ展開していきました。
そもそも無とは何か。
宇宙物理学等でも最近の関心は無へと向かっていて、科学的に”無”は共通了解可能なものとなるのではないか。
一方で、”無”とは、人間の知性で把握できるものなのか。
しかし、”無”という概念を人間が作り出し、名付けた以上、人間は何か本質的に”無”というものを理解していることが前提となっているのではないか。
仏教における”無”について。

これらの議論に結論が出たわけではありません。
でも、これら”無”についての議論は、最近毎回のようにブログ記事に書いているように、私にとって今最も関心のある話題で、このことを正面切って議論し合える場に居合わせることができたことを嬉しく思いました。
そして、最近感じていた生と死に対する空虚感と恐れは、孤独感が大きくかかわっていたのかもしれないと思いました。

人間は、生きて死ぬ存在です。
死ぬことに気づいていようと、気づかないでいようと、死ぬことを受け入れていようが、全く受け入れられないでいようが、死ぬ時になったら死ぬというのが人間の宿命です。

でも。
問いがあるのなら、わかったふりをせずに、ごまかさずに、その回答を求めること。
頭でのみの理解では、わかったことになっていない。
自分が心の底から納得し、体得するまで、その問いをやめないこと。
そして、必ず回答が得られると、信じて疑わないこと。

なぜそう思うかというと、率直に問い始めた時から、どんどんと新しく世界が開けていくからです。
まるで何かが導いてくれているかのようです。


(写真は、大学構内から見上げた今日の空です。)





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by ramram-yoga | 2017-05-17 20:19 | 社会的視点 | Comments(0)
社会経済のパラダイム・シフトと日本人の感性
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一昨日は先々週に引き続き、広井良典先生の授業を聴講させていただくため、先生が教鞭をとられる京都大学へ。
ここで、死生観を社会経済の枠組みから包括的に捉えなおすという今まで持たなかった視点をいただき、新たな世界が開けてきています。

今回のテーマは、AI(人工知能)すなわちテクノロジーが、今後どのように人間に影響を及ぼしているのかについて、『人類の未来』という書籍の「シンギュラリティは本当に近いのか?」という章を題材にして検討していきました。
この章の著者はレニー・カーツワイルという人工知能研究の世界的権威ですが、カーツワイルによるとAIは、映画『ターミネーター』のような人間と敵対する関係性の中で発展していくのではなく、AIが人間の中に組み込まれていき、人間はAIすなわちテクノロジーと一体化していくというのです。

テクノロジーと人間が一体化した先には何があるのか、という論点については、カーツワイルははっきりと「進化には目的がある」と述べています。
そしてそれは、「超越性(transcendence)を高めて、情報の中から何か超越的なものを生み出す、昇華するということです」と。
私自身はそれを読んだ時、何でも情報という枠組みでとらえようとするカーツワイルが、価値観とか指向性といったような範疇に収まるであろう”超越性”という言葉を使ったことを不思議に感じました。
後で広井先生の説明を聞いて納得したのですが、カーツワイルはイスラエル生まれのユダヤ系で、自然に対する超越や支配といった態度に親和性があるということでした。
ということはつまり、AIが今後発展していくとしても、その方向性には、AIを開発している人の指向や価値観がどうしても反映されてしまうわけであり、その意味でどうしても、進化の範囲は限定的にならざるを得ないのではないかと思いました。

また、物質(17世紀)→エネルギー(19世紀)→情報(現代)と世界経済のパラダイム・シフトが起こってきた中で、これからの時代はどのようなパラダイムなのか。
カーツワイルのように、”有”をどんどん拡大していく指向性に対し、”無”をどのように捉えるのか。
際限なく発展していくという発想は、地球の資源が有限であるという前提を忘れてしまってはいないか。
またそこには、適度に・調和をはかりながら、という感覚が欠如していないか。
これらの議論は、”無”とか”和”といった、日本人独特の感性(これも指向性でしょうか)であるからこそ持てる視点から出てくるのだということは、新たな発見でした。

授業に参加し始めて、今までの自分が見ていた世界は限定的だったことに気づかされます。
いつも新しい視点や価値観に心を開いておくことの大切さと、それこそが何かを追求していく上での真摯な態度であるということを感じています。






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by ramram-yoga | 2017-05-12 10:12 | 社会的視点 | Comments(0)
社会的枠組みという視点
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死生観を求めて最近出会い、影響を受けた『死生観を問い直す』『ケア学』という2冊の本があるのですが、なんとこれらの本を執筆された広井良典先生に直接ご教授いただけるという大変ありがたいご縁を知り合いの先生からいただき、今週から毎週、先生が教鞭をとられる京都大学へ学びにいくことになりました。
求めているものに出会えることのありがたさと、いつも学び続けることの大切さを感じています。

哲学的考察から公共政策の研究まで非常に幅広い分野で活動されている先生の今回の講義の大きなテーマは「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」という今まで全く耳にしたことのない言葉でした。

※ ソーシャル・キャピタルとは
社会学、政治学、経済学、経営学などにおいて用いられる概念。
人々の協調行動が活発化することにより社会の効率性を高めることができるという考え方のもとで、社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念である。(wikipediaより)

普段、ヨーガ療法士や臨床心理士として臨床を行っている際、いつも相手のパーソナルな部分と向き合い、もう少し幅を広げたとしても家族や職場の人間関係といった、狭い視野でしか物事をとらえていなかった私にとって、ソーシャル・キャピタルの概念は今までほとんど意識したことのない視点でした。
特に伝統的なヨーガでは、どこまでいってもその人個人の内での調和をはかることで、周囲と調和し、そして全体と調和していく、といったものですので、社会的包括的な視点とは全く正反対の観点から物事をとらえているということになると思います。
私自身も、まずは自己を知り、自分との調和を保つことが重要であり、社会情勢やシステム等に個人の幸福はあまり左右されないと考えていた節があり、それだけにこの枠組みから何かを考えることの必要性を感じたことはありませんでした。

講義後広井先生に、今まで自分は個人レベルでしか物事を考えていなかったので、今回の授業でまったく新しい視点をいただいたことを、お伝えしました。
すると、先生は、まっすぐ私の方を見て、”個人の死生観やケアというものも、突き詰めるところ社会組織といった大きな視点からとらえることができなければ、本当の意味で扱っていくことができないのです”と言ってくださいました。
死生観やケアというものを突き詰めて考えていくことと、社会組織や医療経済の在り方を追求していくことと、これまで全くつながらなかった私ですが、その先生のお言葉をいただいて、これは自分に欠けていた視点だったのだということに気付きました。
そのような、優しく静かでありながら、でもしっかりと心に響いてくるような、先生の真摯なご姿勢が、印象的でした。

講義にいらっしゃっていた方々は、政治家を目指す学部生さんや疫学を研究している院生さん、大手メーカーの研究職の方、行政の方、神職の方々、医療関係の方々など多様で本当に刺激的でした。
これからまた、新しい視点が開けていきそうです。





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by ramram-yoga | 2017-04-28 02:34 | 社会的視点 | Comments(0)