Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
カテゴリ:瞑想( 18 )
Who am I ?

a0118928_00114074.jpg
私は、誰?
ヨーガでは、aham asmi (私は…である)という自我意識を生じさせるのは ahamkara(我執)という内的心理器官であるとされています。
この ahamkara は自己の本質ではないのだと、ヨーガで学び、何度も確認して理解していたつもりでした。
なのに、これまでずっとずっと、自我意識本位で物事を見聞きしていた…。
数日前に、視点が突然ガラッと変わる体験をして、そのことに気付きました。
自分の心臓が鼓動する大元である chaitanya (純粋意識)に向けて、ひたすらマントラを唱えながら瞑想をしていた時のことでした。

私たちは、「私」という個人が他の生命と分離して存在しているということに、何の疑いも持たず暮らしています。
しかし、それが、自分の想念が作り上げた幻想だったとしたら?
常に欠乏感を持ち、到達したいと渇望しながら終わりのない探求を続け、個の意識を強め続けることにならないだろうか。

逆に、「こうありたい」「よりよく変化したい」という想いを手ばなし、個の意識を弱めていく先に広がる世界に、行ってみたい。
力を緩め、委ねて、任せきる。




あなたの源を探し求めなさい。
「私」という想念が湧き上がってくるところを発見しなさい。
どんなものをわれわれはより確かだと思うことができますか、
またわれわれの真我よりいっそう確かなものを知ることができますか。
これは直接的な経験であり、それ以上説明することができません。

もし今の「私」が消え去ると、
心はそれが神話に過ぎないということがわかります。
残っているものが純粋な真我です。
深い眠りの中では真我が身体や世界を知覚することなしに存在しており、
そして幸福が君臨しています。

『不滅の意識ーラマナ・マハルシとの会話―』より





[PR]
by ramram-yoga | 2016-08-13 00:09 | 瞑想 | Comments(0)
ヨーガの智慧に収束していく
a0118928_21151090.jpg


9月。
世間より1ヶ月遅い、夏休みを過ごしています。
4月に大学院に入学してから8月まで、怒涛の毎日でした。
自分としてはあまり無理している感じもせず、とても精力的に過ごしていたのですが、8月後半に最後のイベントを終えたあたりから心身ともにどんどん緩んでいき、それに伴って心身ともに“排出”がありました。
やはり、緩みは必要だな、と思いました。
日々充実してフル回転という状態でこそ、自分の思っていた限界を超えていくことができる一方で、家庭を持つ身としてはそのような状態ばかりなく、余裕を持っていることは、家族への愛情でもあるのだと、つくづく感じています。
息子は私の休みに合わせるようにして、先週から高熱を出し、保育園をお休みして毎日一緒に過ごしています。
子どもは本当に、よく分かっていますね。

ひとしきり排出を終え、静かな気持ちで迎えた今朝。
瞑想中に精妙な意識状態へと入っていきました。
それを境に、今まで私をひきつけていたいろいろなものが急に力を失い、自分がとても力強くなったような気がしました。
でも、本当は、ひきつけられていたのではなく、私が力を与えていたのですね。
それほど、魅力的な出会いがいくつかあったということですが、そのために少し迷い込んだ感じもしていたのです。
しかし、今朝の瞑想で、自分の立ち戻るべき場所が、はっきりと見えたような気がしました。
それは他の何でもない、ヨーガなのだと。

起こってくる出来事をヨーガの智慧を通して見る、自己の立ち位置を確かめ自己コントロールしていく。
そして、瞑想は深まっていくと、普段体験する出来事を全て包括して有り余るほどの、包容力のあるものなのだと、感じました。
心理学を学び始めた当初、現代心理学でヨーガを説明してみようという魂胆は無残に砕かれ、ヨーガが現代心理学をはるかに凌駕している事実を突きつけられた時のことを、思い出していました。
今日も明日もあさっても、ヨーガをやっていこう。
一日も休まず、あせらず、脇目をふらず、淡々と。

気づかせていただき、ありがとうございます。
[PR]
by ramram-yoga | 2014-09-07 22:52 | 瞑想 | Comments(0)
明るみに出た記憶
a0118928_1754091.jpg

今朝は瞑想を始めるとまもなく、自分の内側で自動的な作用が生じ始めたので、しばらく観察していました。
真っ暗な中かすかに浮かび上がった光が次第に鋭く輝きだし、一筋にある過去の記憶へと注がれていきました。
その光がしばらくの間その記憶を照らし出している間、私は当時起こった出来事、そのときの状況、その時の自分の気持ち、相手の状態を詳細に見て取ることができました。

自分としては何の変哲もない、無数にある記憶のうちのひとつでした。
なぜ、この記憶に?と、疑問に思いました。
でも、その記憶を調べているうちに、自分がその時の自分について後悔し、今でも自責していることがわかってきました。
そして、その自責の念があることによって、自分のエネルギーが現在も少しずつその記憶に漏れ出し、今目の前に投入するべきエネルギーが削がれてしまっていることに気づきました。
もう5年以上前に過ぎ去った出来事が、自分の中では過去になり切っていなかったのです。

そんな記憶が、光に照らされ明るみに出ることによって、自分の中で過去の出来事となって現在と切り離されていきました。
そこでなされたのは、その出来事に対して「もう、終わったことなのだ」と理解し、許せなかった過去の自分に対しても「あの時はそうでしかなかったのだ」とその未熟さを認める、理性的な作業でした。

何かに注目すること、何かをトピックとして扱うことを、“光を当てる”と表現することがありますが、まさにそうで、それは光を当てる作業なのですね。
今朝光が当たった記憶はひとつでしたが、今回の瞑想で、他にもたくさんの“未完了”の記憶があることがわかりました。

今朝のように3時台させていただく瞑想は、格別なように思います。
目を閉じたときの自己内部の精妙さ、集中の具合などが、4時台、5時台とは格段に違うように感じられるので、少しずつ増やしていきたいと思っています。
3時台にすっきり目覚めるのは、なかなか難しいのですが・・・^^;
[PR]
by ramram-yoga | 2014-04-30 10:19 | 瞑想 | Comments(0)
不断の努力と離欲によって
今日は、ヨーガの聖典学習の会に参加させていただきました。

今日のテーマはヴァイラーギャ(離欲・無執着)についてでした。
私たちが何かに集中しようとするとき、または心を落ち着かせようとするとき、それを妨害するのが執着・欲望・嫌悪であり、それらは過去の記憶にまつわる想念から形成されているということ。
心は常に、そこにとどまろうとしたとしても、その人が執着しているものに向かって“逃げ出す”回路を作ってしまっているということ。
そして、そのような心の暴走を制御していくのが、不断の努力(アビャーサ)と離欲(ヴァイラーギヤ)だということ。

これらの講話の後、自分は普段の生活の中で何を好意的に感じ、何に嫌悪を感じるかを調べていく瞑想を行いました。
要するに「好き」「嫌い」といった、自分の好みに関しての瞑想です。
なぜそれが「好き」と感じるのか、「嫌い」と感じるのか。
好き嫌いを突破口にして、自分の心が何に執着しているのかを探っていきました。

私はといえば、思い通りに物事が進まないときにストレスを感じる自分を再確認。
でも、考えてみれば、思い通りにいかないことの方が多いので、もうちょっと現実を受け入れないとなぁ・・と思い直しました。

心をコントロールすることはほとんど不可能である。
それは確かに非常に難しい。
しかし、不断の努力(アビャーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)に確立することによって、それは可能となる。
              (スワミ・チダナンダ「至福への道より」)



と、これはバガヴァッドギーターでクリシュナ神が言うセリフですが、どんなに心がかき乱されても、いろんな感情に翻弄されたとしても、とにかく不断の努力をしつづけることが大切だというメッセージに勇気付けられます。
何度失敗しても、つまづいても、また立ち上がって進んでいこう。
そんな気持ちになりました。

****************

今日はうちの破壊の大魔王(息子)が、早くに就寝してくれたので、ゆったりパソコンに向かえています。
最近は家にいるとき聴くのはもっぱら放送大学の講義ばっかなのですが(なにしろ今期は10科目履修したので、聴きまくらないと間に合わないのです)、今夜は久しぶりに大好きなショパンのノクターン全集を。
演奏はアシュケナージです。


こちらは中でも大好きな8番(辻井伸行さん演奏)。



↑あっ今日やった瞑想のテーマの「好き」「嫌い」が、早速でました!
[PR]
by ramram-yoga | 2012-10-22 21:20 | 瞑想 | Comments(0)
変化するものと、しないもの
昨日の段上公民館のヨーガレッスンでは、毎月おなじみのヨーガ療法の教本読み合わせを行いました。
毎月少しずつ読み合わせ、やっと第一部が今回終わりました。
第一部に書かれてあった内容は、古代の聖典の引用も多かったので難しくもありました。
しかし、一貫して言われていることがあります。


苦しみは、無知から生まれるのだということ。

無知とは、変化するものを不変なるものと見間違えること。


普段、どのような対象物に心を結び付けているかを調べる瞑想を、行いました。


***************


今日は、今年カイラスに行かれた素敵なヨーガのお友達からいただいた聖地ティルタプリの温泉の湯の花を、お風呂に入れて入りました。

しばらくの間、遠くチベットの地に思いを馳せていました。


a0118928_23463021.jpg


(写真はティルタプリの温泉にて。
 隣にいるのはガイドのカイラさん。
 お互い湯の花を塗りたくっておふざけ中)
[PR]
by ramram-yoga | 2012-10-05 22:24 | 瞑想 | Comments(0)
自分への非暴力
ヨーガのクラスでは月に1回、ヨーガ療法の本の読み合わせを行い、ヨーガにおける人間観や価値観を少しずつお勉強する時間を設けています。
今回は、伝統的なヨーガの瞑想法の段階について、お勉強しました。

そして本の読み合わせを行った後、レッスンの最後にヨーガのヤーマ(禁戒)のひとつ「非暴力」についての瞑想を行いました。

ヨーガでいう非暴力というのは、思い・言葉・行動の3つのレベルでの非暴力ということで、単に他人を傷つけることだけでなく、誰かを軽蔑すること、偏見を抱くこと、陰口をたたくこと、怒りの感情を抱くことも、暴力に入ります。

今日は、自分に対しての非暴力について、瞑想をしました。

普段、自分に対して、傷つけるようなことを行っていないか。

a0118928_2225554.jpg例えば、体に無理強いをしていないか、疲れているのに酷使していないかどうか。

あるいは、心の中で、自分に対して、自分が傷つくような言葉かけをしていないか、例えば何か悪い状況に陥ったときに「私の馬鹿」とか「自分ってだめだなぁ」というようなことを心の中でつぶやいてむやみに自分を責めたりしていないかどうか、ということを、瞑想の中で調べました。

***

人のことが許せないときって、実は、自分のことが許せてなかったりしますね。
何か、自分の中にどうしても受け入れられないことがあったり、ストイックになり過ぎていたり・・・。
そういう自分に気づいて、凝り固まった気持ちを緩めてあげること。
そうしてはじめて、周りの人に思いやりが持てる気がします。


今日は、徳島からはるばるお友達がヨーガのクラスを受けに来てくれました。
とても嬉しい一日でした。



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2012-03-29 23:31 | 瞑想 | Comments(0)
2極の対立感情からの脱却
1部のクラスにて10回シリーズで行ってきた瞑想コースも、最終回の心理アセスメントを残して全過程終了しました。
試験的に行ってきた瞑想コースでしたが、私自身とても学びの多い機会となりました。

さて、最後の瞑想のテーマは「2極の対立感情について」でした。

a0118928_1239687.jpg2極の対立感情とは、何か起こってくることに対して私達が自分の立場で加える判断のことで「善い・悪い」「好き・嫌い」「好都合・不都合」といったようなものをいいます。

例えば、運動会を前日に控えている子供にとって当日雨が降ることは嫌なことですが、雨を待ち焦がれている農家の方にとっては雨は嬉しく恵みです。

このように、何かに対して下される2極の対立感情による判断はすべて、その人の置かれている立場や時代、社会の成熟度によって違ってくるわけで、本当は起こってくることはすべてニュートラルである、ということ。

そして、今ある苦しみや葛藤は、そのような自分の下した2極の対立感情による判断によって、生じてはいないか?

そのようなことを調べる瞑想を行いました。

今回も、参加者の皆様からは本当に貴重なお話を聞かせていただきました。

************

ヨーガのレッスンや瞑想を皆様と一緒にさせていただいてよく思うのですが、いつもその「場」に私の意志とは無関係にやってくる「働き」のようなものがあると感じます。

もちろん指導は私がさせていただいているのですが、時々、私なんかが到底誘導できないような高みに、皆様と一緒に連れていってもらえる気がします。

それはきっと、古代よりヨーガに携わってきた沢山の方々の魂が、ヨーガが行われる場にはいつもあるからなのだ、と、感じています。


OUM Shantih Shantih Shantih


(写真は、昨日生徒さんからいただいた素敵なプレゼントです)



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2011-03-09 12:50 | 瞑想 | Comments(0)
行為の結果の放棄
一部のクラスにて10回コースで行ってきた瞑想コースも、残すところあと2回となりました。
毎回、参加者の皆様からは心の深いところから、貴重な体験をきかせていただき、私にとってもとても大切な時間となっています。

a0118928_22573856.jpgところで、脳科学者の茂木健一郎さんがおっしゃっていたのですが、自分の問題点というのは、脳はそれを理解すれば理解するほど勝手に克服しようと働くらしいのです。

ですから、たとえば自分の考え方を修正していこうと思うなら、まずは現在の自分を知らなければいけないということになります。

私も含めて、自分にとって都合の悪いことは見ないようにして、うやむやにごまかしてしまう癖のようなものがありますから、意外と自分で自分のことって、わかっているようで、わからない場合が多いように感じます。

そこでまずは、自分がどのような思考回路のパターンを持っているのかをしっかりと認識することが大切で、その認識をするためには、現代の心身医学においても言葉に出す「言語化」の作業がとても有効とされています。

今回の瞑想では、「自分は普段どのような動機で行為を行っているか」というテーマで自分を調べ、後で言語化していく作業を行いました。
このテーマは、カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)に基づいたもので、行為の結果の良し悪しに執着せず、目の前の自分のやるべきことに最善を尽くすこと、そしてそのことこそが最終的には自分を助けてくれるのだ、ということを教えてくれています。
私自身も今までこの教えにとても助けられてきました。

でも・・・自分自身、久しぶりにこの瞑想を行って気づいたのは、いかに自分が普段「結果」とか「見返り」に心を結びつけているかで、そういえば最近、求めてばかりの自分だなぁ、と、ちょっとガクっときてしまいました。
苦しいな、何か報われないな・・と感じたときは決まって、人の評価や見返りや損得など、「結果」を求めている私です。

スワミ・ヴィヴェーカナンダ著の「カルマ・ヨーガ」を久しぶりに読んだのですが、やはりこの本はとてもいいです。
最初に手にとったとき、感激しながら1ページ1ページ読み進めていったのを思い出します。
スワミ・ヴィヴェーカナンダの教えももちろんですが、日本語訳での表現がとてもきれいで感動的です。
特定の訳者は記載されていませんが、どんな素敵な方が訳したんだろう・・・と、想像がふくらみます。
最後に、その本の中から、好きな一説を。



**************


外から来る知識はありません。
それはすべて、内にあるものです。
われわれが、人が「知る」というものは、厳密に心理学的に表現するなら、彼が「発見する」もの、または「覆いを除く」ものであり、人が「学ぶ」というものは、実は彼が、無限の知識の鉱脈である自分の魂の覆いを取り除いて、そこに「発見する」ものなのであります。

われわれは、ニュートンが引力を発見した、と言います。
引力は、どこかのすみにいて彼を待っていたのでしょうか。
それは彼自身の心の中にあったのです。
時期が来て、彼がそれを発見したのです。

世界の獲得したすべての知識は、心から来ます。
宇宙という無限の書庫は、あなた自身の心中にあるのです。
外部世界は単に、あなたに自分の心を研究させる暗示であり、機会であるにすぎません。
あなたの研究の対象は、常にあなた自身の心です。


*************



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2011-02-25 22:58 | 瞑想 | Comments(0)
認知行動療法としてのヨーガ療法
10回コースで行っている瞑想コース、今日のテーマは「苦行(タパス)」でした。
「苦行」というと、厳しくて辛いイメージがありますが、ヨーガにおける苦行とは、熱心に何かに取り組んだり律したりすることも含めて幅広い意味を指します。

また、ただ何も問題もなく平和な状態より、問題や障害があって苦しんだり大変な状況に置かれている方が、人間として成長できますよ、という教えでもあります。
今回の瞑想では、当時は苦しかったり辛かったりしたことが、今思えば自分にとってプラスになっていたことについて、過去のそれぞれの経験を調べていただきました。
今回も、参加者の皆様には貴重で深いお話を聞かせていただき、私自身も本当にすばらしい勉強をさせていただきました。

a0118928_1375269.jpg瞑想コースで特に大切にしているのが、瞑想後、それぞれの方にお調べいただいたことをお話していただく(言語化する)ことです。
瞑想コースも今回で7回目となり、回を重ねるごとに参加者の皆様がご自分の思いをスムーズに言葉にされていることに、私も驚きを感じています。
当の私も、インストラクター養成コースで言語化の訓練を何度もさせられたので、それで大分自分のことを人に話すことに抵抗を感じなくなりました。
本当に、言語化というのは練習することでどんどん上手にできるようになると感じています。


**************


さて、この「言語化」についてですが、たったこれだけのことで驚くほどの効果があるとされています。
実際、自分自身もこの言語化することのすごさを日々感じています。
それは、思いや経験を言葉にすることが、いつも主観的に捉えがちな自己像を客観視するきっかけを与えてくれるからだ、と言えると思います。

ところで最近、うつ病に対する効果的な治療法として注目を浴びているのが、認知行動療法です。
認知行動療法とは、物事を解釈したり理解する仕方の修正(認知の修正)を行うことで、行動を変容させていこうとする療法であり、うつ病のほかにもパニック障害や不安神経症、摂食障害などに有効とされています。
去年の4月より保険適応にもなり、厚生労働省もこの認知行動療法の普及に力を入れているところだ、ということです。
この認知行動療法の技法の中でも頻繁に使われている技法こそが「言語化」であり、まさにヨーガ療法の瞑想でやっていることそのもの、ですね。

ただ事実を事実として確認するだけで、過去の出来事に対するイメージが塗り替えられたり、問題点がクリアになったり、深刻だと思っていたことは実際はそうでなかったり・・・。
ヨーガ療法や内観とも通じる認知行動療法、いろんな効果が期待できそうです。



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2011-02-09 00:10 | 瞑想 | Comments(5)
愛を汲み取る作業
去年から一部のクラスで実施している瞑想コースですが、1月は「プラーナ(想い)の自由度」と「愛」の二つの課題についての瞑想を行いました。

つい先日には、愛についての瞑想を行いました。
ヨーガにおける「愛」の概念については、次の3つのようなことが言われています。

a0118928_1522772.jpg1.愛は、恐れを知らない
2.愛は、見返りを求めない
3.愛は、比較しない


この3つに基づいて、クラスの瞑想では、自分が今まで体験したことのある「愛のかたち」についての瞑想を行いました。
瞑想の後で参加者の皆さんでシェアリングをしましたが、中には涙なしには聴けないような、それぞれの愛の経験を聴かせていただき、皆さんの豊かで深い感性にとても感動させられました。

*********************

ところで最近、白金台内観研修所の本山陽一先生という内観面接者の方の講義の音声を聞かせていただく機会があったのですが、その中に今回の瞑想にも関係するとても興味深いお話がありました。

そのお話によると、人間の精神的な成熟度は、その人がどれだけ周囲からの愛を汲み取ることができているかと深い関係があるということです。

例えば、うつ状態になるなど精神的に追い詰められるような状態に陥った人というのは、決まって、周囲からの愛を上手く汲み取ることの出来ない状態になっているのだそうです。
愛は、いくら周りから与えられても、本人がそれに気づかなければ、無いのと同じ。

精神的な成熟度が高まれば高まるほど、愛を感じ取れ感謝ができるようになる、と。
だから、すごい人になれば、「体が思うように動く」ってだけで、幸せ。
そんな人にとっては、起こってくるいろんなことがありがたく思える。

・・・そう考えてみると、自分はなんて未熟なんだろう、と思います。
でもだからこそ、時々立ち止まって、よく観察してみることが大切。
何も難しいことは無くって、ただ、事実を確認していく作業です。
それが瞑想であり、内観であると思います。

私の経験だと、以前一週間の集中内観を行ったときに大きな衝撃を受けました。
それは、自分が成長していくのを、父親がどれだけ喜んでくれていたかが分かったからです。
気づいたときには、びっくりしました。
なぜかというと、普段はそんなに愛情表現をしない父、あまり多く言葉も交わさない父だったからです。
おかしなもので、それまでの私の記憶の中では、父に叱られたり反発したり、そんな嫌な思い出ばかりが残っていたのです。
でも、過去をゆっくり振り返って、言われたことやしてもらったことをつなぎ合わせていくうちに、どれだけ愛されていたのかがしみじみと分かりました。
私にとって、この気づきはとてもありがたく、自分を楽にしてくれました。

逆に言えば、親が子を想うという当たり前のことさえも、こんな風に確認して初めて気づくような、未熟な自分だったのだと思います。
そして、そのようなことが原因で苦しんでいる人が、案外と多いと感じています。

自分が愛されていると分かると、ほっと安心していることができる。
そして、心が温かく、優しくなれる。
本山先生の言葉を借りると、見えるものがすべてがなんだか柔らかく見えてくるような感じです。

ただ、事実をしっかりとみつめていくだけで、自分の過去の記憶の印象が塗り替えられていく。
これってとっても不思議です。
私も本当にまだまだなのですが、でも、以前とは見える世界が全然違って、薄暗かった世界がとても明るくなったように思えます。
人間関係に気を遣うより一人でいた方が気楽で好きだったのに、人に対して親しみを感じられることが多くなって、気疲れしたり苦痛に感じたりすることがあまり無くなってきました。

私の人生を変えてくれたヨーガと、クラスに来て一緒にヨーガをしてくださる生徒さんに、感謝しています。


(写真は、私が以前4年間過ごした、兵庫県北部・但馬の雪景色です。
 今頃、あちらでは雪がたくさん降っていると思います。)



sachie
ブログランキング・にほんブログ村へ

[PR]
by ramram-yoga | 2011-01-31 10:44 | 瞑想 | Comments(0)