Ram-Ramのホームページはこちらをクリックして下さい
2017年 05月 02日 ( 1 )
世界構造の弁証法的理解
a0118928_06213643.jpg

この世界が作られている根本的な原理を理解しようとするとき、どうしても一筋縄ではいかないのは、それが本質的に矛盾をはらんでいるものであり、また多重的・多層的だからなのだと思います。
多重的・多層的というのは、あるひとつの立場に立ってみては確かなことでも、別の立場から眺めるとそれとはまったく違った風景が広がっていく、ということです。
鈴木亨が、論考を進めていくのにヘーゲルの哲学が非常に役立ったと、著書の中で書いていました。
ヘーゲルの哲学そのものが、というより、弁証法的な論考の仕方が非常に役立ったそうです。

”AはAであるが、同時にAにあらず”といったような命題を経て、最終的には、存在の根源が絶対無であることを証明していくヘーゲルの弁証法的論理学。
私も勉強してみたいと思います。
著書の中で紹介されていたヘーゲルの名著『論理学』をそのまま読んでも理解できそうにないので、まずは放送大学の教材などで適当なものを探し、基礎的な部分から少しずつ学んでみようかと思います。

******

無常すなわち一切のものが恒久的でないということは、世界構造そのものの弁証法的性格を示すのであって、この無常にたんに詠嘆的に即するかぎり、世界と自己との根本的な自己成立の事実の主体的な自覚はあり得ない。
一切が無常であることは、無常すなわち恒久的なものは一切存在しない、ということが恒常性であるということを意味する。
言いかえれば、いかなる絶対的なものもあり得ないのであって、世界の一切が矛盾するということだけが、絶対であるということに他ならない。
この世界の生存するものが逆説的に死ぬものであるという矛盾こそが唯一の絶対的なものである。
生死一如というのもこのことを指すに他ならない。
無常の本質は、たんなる恒常性の相対的な否定ではない、無常こそ唯一の恒常性なのである。
無常を絶対と悟るとは、絶対の愛の事実に生きるということである。
無常判断は、たんなる述語から出発する無限判断に対して有限的なる主語と述語がともに自己矛盾的に絶対的一者の自己否定的顕現として、述語即絶対主語の根源的弁証法的なる繁辞的世界に他ならぬことを悟るのである。

(鈴木亨著作集第5巻『響存的世界』より)

******

以前の私は、悟りとは感覚的なものなのだと考えていました。
これまでひたすら「わかった」という感じを求めていましたし、その感覚そこが悟りでありゴールだと思っていました。
しかし、それは違うのだと、最近思うようになりました。
「わかった感じ」というのはあくまでただの感覚であって、そのままにしておくと、そこで終わってしまうのです。
その体験を落とし込み、自分のものとしていく”体得”の作業が、その後に必要になっていくのだと思います。
それこそ、論考を通してある一定の枠組みからその体験を反芻することで「わかった感じ」を理知的に深める過程であり、日常生活の実際の経験においてその境地から物事を眺め、自分のものとして落とし込んでいく作業になるのではないでしょうか。

大いなるいのちの海原から、個の意識を持った生命を受け、その個の視点から、改めてもう一度大いなるいのちを観る。
それが、人間として生をこの世に受けたことを真の意味で自覚することであり、さらに、その自覚を出発点として与えられた生に存分に応答し、響かせながら生きていく。
真の意味で生きるということ、また鈴木亨の言う「響存的世界」の目指しているところとは、そのようなものなのではないかと思います。

すなわち、「本来的自己が、単なる死への存在として消極的に規定されるのではなく、積極的に存在の真理の光の中に出で立つもの」なのであるということを自覚し、そのように生きていく、ということ。


「目に映る現象はすべて、ひとつの大いなるいのちのあらわれである」
という先日の一瞥体験は、ゴールではなく、スタートだったのでした。



[PR]
by ramram-yoga | 2017-05-02 06:47 | ことば・メッセージ