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祈り
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近所にある甲東教会に以前いらっしゃった同年代の牧師さんと、今朝久しぶりにfacebookでやりとりをしていました。
やりとりの最後に「お祈りしています」と送ってくださり、なんとも幸せな気持ちになりました。
誰かが自分のことを想ってくれている、祈ってくれている。
それを感じるということで、どこからともなく力が湧いてくる。
祈りには、不思議な力があります。

実際、欧米では祈りに関する研究も進んでいて、祈られる人は、自分が祈られていると知っているいないにかかわらず、祈られていない人よりも病気の快復がいいという報告まであります。
つまり、祈られている側が気づいていなくても、祈りはその人に確実に影響を及ぼしているわけです。

私も最近、毎朝行っている瞑想が、祈りのようになってきています。
自分のためにいくら瞑想しても集中できたりできなかったりとムラがあるのに、人のことを祈っていると、すーっと瞑想状態に入っていくことができるのです。
同じことを、自分自身の成長や勉学に当てはめても、同じです。
自分の好奇心で勉強して成長しようとする時よりも、目の前にいる辛い人に何かできることはないかとか、一緒に切磋琢磨して学び合いたいとしている時の方が、学びが深まり、成長できるのです。
自分ひとりだけよくなることや、自分だけの利益を求めるというのは、本当は不可能なことではないでしょうか。
一緒にみんなで利益を得、幸せになっていこうという気持ちを持ったり、人に何かを与えようと思った時に、実はその与える側の人が恩恵を受けている。

それでは一体、与える側の人は、何から恩恵を受けるのか。
それは、敢えて言葉にするなら、無条件の愛の大海原からなのだと思います。
愛を与えるという行為は、そもそも自分自身が絶対的な愛の中にいなければ成しえないことであり、与えるという行為がそのことに気づかせてくれる。
そんなことを感じている、今日この頃です。

毎朝瞑想時に、ヨーガの生徒さんおひとりおひとりのことを、お祈りしています。
今日一日を穏やかに過ごすことができますように。
何か困難に遭遇しても、それに対峙し乗り越えていく力がすでに与えられていることに、気づくことができますように。







by ramram-yoga | 2017-05-19 11:31 | 瞑想
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