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「気」の死生観
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またまた、運命的な本との出合いがありました。
ずっと自分の根底にあった、一度しかない自分の生命に関する悲哀や恐怖が、一挙に逆転して客体化され、なんだか訳もないのに愉しく、心から安心するような感覚をもたらしてくれました。
先日の記事でも触れましたが、あの客観と主観の逆転はあながち間違っていなかったようです。
ちょっと言葉遊びのようですが、あそこで述べた主観というものこそ、観られるもの(つまり客体)だったのです。
悲哀も恐怖も、自分の心が作り出したもの。
なぜ生きているかという問い自体も、自分の心が作り出したもの。
問いに回答をもたらしたいという欠乏感も、自分の心が作り出したもの。
そして、そもそもそれらを作り出している自分の心そのものが、客体だったのです。
主体は別のところにある…というより、主体の表現形態として、”私”が存る。
これが西田哲学でいうところの、”述語的”ということなのでしょうか。

ここまで来た時に、自分という存在が無になってしまうということに対する恐れが、起こらなくなってしまいました。
なぜなら、それは本質的なものと無関係だからです。
大いなるいのちが作り出した小さな客体の中で起こっていることだからです。
もしかしたらまた、恐れるのかもしれませんし、今たどり着いた境地にもしかしたら間違いがあるのかもしれません。
でも、それでもいいのです。
間違ってたら、また新たな境地を見つけ出せばいいのですから。

この『「気」の死生観』は、河野十全という方が93歳の時に書かれた著書です。
私はこの方の死生観が、一番しっくりきました。
人間には死後の世界や天国や地獄、輪廻転生など、いろいろなものを想定する豊かな世界観があります。
実際に、私の息子も私のお腹に入る前は天国で黄金色の神様と一緒にいたみたいですから。
私自身も、死後の魂の存在をはっきりと感じたことは、これまでに何度かあります。
でも、”時間”が客体であるという認識に立った時、これら死後の世界は絶対的というよりは、フォーカスすればあるし、しなければないというような類の、何か相対的な性質を帯びたものになってしまうような気がしています。
このあたりのことは、私にも、まだよくわかりません。

では、真理はどこにあるのか。
それは、今ここで起こっていることを、よくよく感じてみることから始まるのではないでしょうか。
生まれた時から一時も休まずに動いているこの心臓は、誰が動かしているのでしょう。
呼吸という作用は、いったいどこから起こってくるのでしょう。
考えてみると、私たちが今ここに生きているといことは、本当に不思議です。
このことを感じた時、生きているのではなく、生かされているのだということに、本当の意味で気づきます。
自分の意志とは無関係に、何か絶対的なものに支えられ、”私”という存在が、ここにある。
これだけは、確かな真実です。


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生に徹すれば、死の恐怖はなくなってしまう。
しかし、死をも一応の計算に入れると、その生がより楽しく、尊いものになってくるのである。
これは、生死一如の原則を知ればよくわかる。
生と死というものは、一続きのもので、境はない。

生死一如という言葉は、仏教や悟りの人だけがいう言葉ではない。
生きているということと、死んでいくということは、一続きのものであるから、いとうべきことでもなく、不安もなく、不吉もなく、むしろ喜びであろう。

そういう悟りの境地に至れば、人生は生きているうち、非常に楽しいものとなる。
老人の心境も、いつ死んでもよいという安心立命が得られれば、生きているということがどれほど楽しくなるか。
生と死というものが本当にわかれば、生も楽しく、死もまた楽しい。
心頭を滅却すれば火もまた涼し、という境地と同じである。

私たち人間は、一日一日に生き一日ずつ死んでいるのである。
刻々にである。
人生には誕生と死があるが、実際は毎日に生きて、毎日死んで、一生涯を生き続け、死に続けているのである。
生と死は、今の中で一如同時に行われているのであるから、今を平凡に過ごしてはならぬ。

            河野十全著『「気」の死生観』まえがきより
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by ramram-yoga | 2017-05-09 11:31 | ことば・メッセージ
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