昨日、感じたこと。
頭での理解としてではなく、体感として。
この現象世界が成り立つ大前提として、それを支える絶対的な包摂者がいるということ。
それ無しには、いかなる現象も成り立ち得ないということ。
まるで、映画がスクリーン無しでは決して映し出されないように。
そして、この私という存在も、それに絶対的に支えられ、ここに生かされているということ。
突如としてやってきた、今まで全く感じたことのなかった感覚に驚き、とっさに窓を開けて外の景色を眺めていました。
自分の身体に満ち満ちてあふれるほどの何かを感じ、それが振動しながらゆっくりと、大地から天へと上昇していくのを感じていました。
そして、それが私の身体にだけでなく、目に映る全てのものの内で起こっているのを見て取ることができました。
あの感覚はなんだったのだろうと昨晩から振り返っていたのですが、
今朝、あれは、鈴木亨の言う「響存的理性」なのではないかと、ふと思いました。
「絶えず私に働きかけてくる、絶対に私の内ではない、同時に私と離し難く一つである」ものが、私を貫いて響いている感覚だったということに思い至りました。
すべて、この世界に存在する者としての有限的存在者は、無限・絶対・永遠な空の自己否定即他者(存在者)肯定として、空の大悲によって光被されて初めから存在させられている。
それは、存在者が存在するとは空が非在することを意味し、この空の大悲、キリスト教的には精霊の息吹によって、人間が初めから存在することを許され、また祝福されていることを意味しているのである。
ただ、ほとんどの人間は、そのことを自我中心的であることによって気づかず、自らを物や生物や世界の主であると錯覚しているのにすぎない。
鈴木亨著作集第4巻『響在的世界』より