「死というものは」
本当の死というものは
こわくなく
死の予感というものが
こわい
死は一瞬であり
死の瞬間を知る人は少ない
森信三
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ここしばらく、「なぜ生きているのか」という問いが強烈な印象とともに湧いてきて、圧倒されてしまいそうな毎日を過ごしていました。
「人間の根本的無知は自己の有限性に対する無自覚である」
という森信三先生の言葉をある人の本の中で最近目にしたのですが、それをきっかけに、しばらくくすぶっていた生と死についての問いが目覚めたようです。
そうでした。
このことは、2000年以上に編纂されたヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』にもはっきり書いてありました。
有限のものをあたかも無限としてみなすことはまさしく無智であり、人間の全ての苦しみの根源であると。
そして、この無智の状態は、休眠状態にあったり活性化したりはするけれど、決して無くなりはしないのだということ。
私がしばらくの間、まるで何事もないかのように日々の出来事に奔走していたのは、無智だったのでした。
今日という日は二度と戻ってこない、一瞬一瞬が本当に一度きり、なのですよね。
そんな想いの中、2冊の本を読んでいました。
渡邉勝之著『医学・医療原論ーいのち学&セルフケアー』
鈴木亨著『生活世界の存在論』
お2人には共通している部分があり、それは生と死に対してまずは苦しみ、そして問うことをやめずに真剣に向き合ってきたことと、そうした結果ついにご自分の死生観を確立されたことです。
この事実に私は深いところで、救われたように感じています。
そして初めて、これまで混同していた二つのこと(恐怖という感情と、実存的な問い)を、すみ分けて認知することができるようになっている感覚を持ち始めました。
つまり、恐怖で我を忘れることなく、正常な意識を保って問う、ということです。
焦る必要はない。
死ぬまでに答えが見つけられたらいい。
その答えを見つけるために、生まれてきたんじゃないかな。
著者のお一人である渡邉先生に言っていただいた言葉です。
冒頭に紹介した森信三先生の言葉とともに。
体認を伴って理解している方の発する言葉というのは、どうしてこうも体の深いところに響いていくのでしょうか。
この地球で人間だけが、自分が死ぬ存在であるということを自覚し、この大宇宙の根本原理に対して唯一自ら働きかけることのできる存在だとするなら・・・
そのことに真に目覚めた状態で生きていきたいものです。