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生と死の自覚

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もうすぐ6歳になろうとする息子が、最近毎晩のように、私に死についての話をしてきます。
どこかの誰かの死といった”三人称の死”ではなく、身近な人の”二人称の死”や、そして自分自身の死という”一人称の死”について、です。
自分はやがて死ぬ存在なのだという自覚が、ある日突然彼に訪れたのです。

「僕は死んだらどうなるの?」
「お父さんとお母さんが死んだら、世界は終わっちゃうの?」
「死にたくないよ!ずっと生きていたいよ!」

死のことについて語り始めた同じ頃、息子は胎内記憶と、胎内に入る前の記憶(いわゆる中間生記憶)を、急に話し始めました。
私と息子との今後の関係において、大きな転機となりそうなインパクトがありました。
またの機会に、記事にしてみたいと思います。

このように、自分の生や死を言語を通して話し始めたということは、息子の中で、他の誰でもない我であるという認識、すなわち自我がある程度確立してきたと言えるのだと思います。
興味深いと思ったのは、”自分”という認識が出来てきたのと同時に、自分が死すべき存在であるという認識、そして時間の概念が確立されていったことでした。
これから息子は、生や死について、どのようにとらえていくのでしょう。
苦しむのを代わってあげたり、回答を与えたりすることはできないけれど、寄り添い見守っていける親でありたいと思います。

***

それにしても、死とはいったい何なのでしょうか。
私たちはなぜ生まれ、なぜ生きているのでしょうか。
このような問いに対し、求めればこの世界に沢山の答えがあふれています。
でも、教えられて頭で理解した回答では、やはり納得できないのです。
そのような意味では、私はやはりまだ探し求めています。

夜中、寝ている時は、自我の殻が少し緩むのでしょうか。
よく、ハッとするような驚きと共に、目が覚めます。
そして、自分は死ぬ存在なのだという強烈な自覚に圧倒されそうになります。
「我に返る」というのは、このことを言うのでしょうか。
小学生の頃からずっと、続いているのに、この驚きの鮮度は全く褪せることがありません。

ただ、少しずつ、実感していることもあります。
生きることと考えることとは、違うということ。
自他の区別や空間・時間とは、絶対的なものではないということ。
これらは自我によって作り出している概念であり、そこ枠組みから外れた時、生と死や分離といったものは意味をなさなくなってしまうのではないか、ということ。


ここで一曲、ご紹介。
バッハのブランデンブルグ協奏曲第5番。

中学校1年生の時、清掃の時間に毎日流れていました。
入学してすぐ別の学校に引っ越したので、3か月も聴いていないのですが、やけに覚えています。
その時流されていたのは原曲ではなくもうちょっと軽快なポップ調にアレンジしてありました。
当時、自分は死ぬのだという事実に気が遠くなるような毎日を過ごしていたのですが、先生も友人も、まるで死のことなど忘れてしまっているように思えて仕方なく、孤独感ばかり増していきました。
おまけに、軽快にアレンジされたこの曲が、当時の心情を逆なでするような明るさでもって、私の孤独感をますます助長させていたのでした・・・。
バッハのブランデンブルグ協奏曲シリーズは好きですが、この曲だけは今聴いていても当時の憂鬱な気分を思い起こさせます。






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by ramram-yoga | 2017-03-28 20:32 | 出産・子育て
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