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仏教思想のゼロポイント
とても面白い本でした。

『仏教思想のゼロポイント -「悟り」とは何かー』

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

魚川 祐司 / 新潮社



東京大学で西洋哲学を、同大学院でインド哲学・仏教学を専攻、その後ミャンマーに渡航し、テーラワーダ仏教の修行も経験するという、研究者であり実践者の著作です。

仏教の研究者・実践者が、いわば“内側”から仏教を解説することはよくあると思います。
しかし、この本の著者の魚川氏は自身が仏教の研究者・実践者という当事者性をおびながらも、あくまで“外側”の第三者的な立場から客観的に(時折批判的に)仏教というものを眺め、鋭く切り込んでいくところに新鮮さを感じました。

扱う内容も大胆かつ、興味をひくものでした。
まず、第一章では、ゴータマ・ブッダの教えは現代日本人である私たちにとって、果たして「人間として正しく生きる道」であり得るのかどうか、という問題提起から始まります。
そして、ブッダの解いた「無我論」の真意に迫り、諸行無常の背後に絶対的な真実在があるかどうかについてブッダが当時の弟子たちにどのような態度をとっていたのか、等いくつかの考察を経て、本書の主題である仏教のゼロポイント、すなわち“涅槃”とは何かについてストレートに迫っていきます。

私自身は、今まで仏教の無我論というものをよく理解できていなかったようで、ブッダはヨーガにおける真実在である“真我(アートマン)”に対する反論として無我論を提唱したものとばかり思っていました。
しかし、本書を読む限り、そうでないことが分かります。
ブッダは、人が色(しき)、すなわち変わりゆくものに自己のアイデンティティを重ねている状態に対して「その変わりゆくものの中にはありませんよ」という意味で、「無我」という言葉を用いたようです。
こうして理解してみると、仏教における「無我」 はヨーガの変化するものには自己のアイデンティティを見出さないという考え方と相違ないと思いました。
ただ、真我を積極的に肯定するかどうかの見解に、やはり両者の違いがあります。
ヨーガでははっきりと、真我(アートマン)こそが真実在であるとしています。
一方ブッダは、そのあたりの究極的な部分に関しては沈黙を守っていたということですが、もはや涅槃の境地においてはそのような質の問題は意味をなさないのでしょうね。
真我(アートマン)の実在の有無は色(しき)の世界においてのみ問われるような質のもの、ですから。
本書でも、涅槃の境地においては「存在・非存在といった、分別や判断の作用自体が、停止してしまっている」と記されています。

私自身、その無分別の境地に意識をシフトしていきたいと思った時に初めて、現象世界に対して非常に強い愛着を持っているために大きな抵抗を起こしていることに気付きました。
同時に愛着の対象を失うことへの恐れの感情をたくさんもっていることにも気づきました。
しかし、その状態こそが本書で言われている“苦”の状態であり、そこから脱すると、いかに現象世界に愛着を持っている状態が苦であるのかが、分かるのだろうと思います。
また、そこ(涅槃の境地)へ至る道は、決して苦しみや恐怖を伴うものとは限らないのだろう、とも思います。
執着の対象物を手放すべく血を滲ませながら頑張る、というよりは、より崇高な境地に行くことで、それまでしがみついていた愛着の対象からごく自然に離れていく、ということが起こってくるのではないかと思います。
スワミ・ヴィヴェーカナンダが「バクティ・ヨーガ」の中において言及しているように、その移行は”なめらかに”行われるのかもしれません。

あとがきに紹介されていた「アップデートする仏教」も、面白そうだったので早速注文してみました。
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by ramram-yoga | 2016-07-21 22:01 |
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