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”わたし”とは何者か
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昨日突然やってきた、見るものすべてが”わたし”であるという感覚。
以前の時と同じく、数分間で過ぎ去り、また通常の感覚に戻ってきました(以前の体験の記事はこちら)。

以前のは、一言でいうと”わたし”が述語的というか受動的になり、絶対者の一表現形態としての”わたし”を感じた体験でした。
今回はそれとは全く違うものでした。
”わたし”の範疇ががどんどん広がり、目に入るものすべてが実は”わたし”の内側にあった、という体験でした。
この体験から丸一日経ちましたが、目に映る世界が全く変わってしまいました。

まず、目の前にいる生徒さんや患者さんに良くなってもらいたいという思いを持つことは、”私”と”あなた”という主観ー客観の関係性を超え、主客が合一して”わたし”だけになった時、意味をなさなくなってしまうというのではないかと感じました。
なぜなら、私が患者さんの中に苦しみを見た時、それは私の心の中に苦しみがあるということだからです。
ということは、私は患者さんの苦しみを取り除くことは不可能であるということになります。
患者さんの中に苦しみを見なければならない自分の心をこそ、よくよく省みなければなりません。
目や耳を通して入ってくる暴力や悲しみ、自己卑下、絶望的なものも、これは決して自分と無関係ではない。
私がなぜ、それらを外に見なければならないのか、それを探る方向性でしか、これらは解決していかないのではないかと感じました。

そして、私が問わなければならないのは、先日までずっと考えていた「なぜ生きているのか」とか「死んだらどうなるのか」ではなかったのだ、ということが、わかり始めました。
なぜなら、それは、自我意識を主体とした”私”からしか発し得ない問いだからです。
そうではなく、下記のように問わなければなりません。

目に映るものすべてを内側に有しているこの”わたし”とは一体何者なのか。


*********


賢者たちがあらゆる方向にさがしもとめてきた彼は、われわれ自身のハートの中にいるのです。
あなたのきいた声は正しかったが、その声がくると見た方向がまちがっていた、とヴェーダンタは言います。
あなたが見たあの自由の理想は正しかった。
しかしあなたはそれを、あなた自身の外にあると見た、それがまちがいでした。
それをもっともっと近くに持ってらっしゃい。
それはつねにあなたのうちにあったのだ、それはあなた自身の自己であったのだ、ということがあなたにわかるまで。

あの自由は、あなた自身の本性だったのです。
そしてこのマーヤー(迷妄)は、決してあなたをしばったことはありません。
自然は決して、あなたの上に猛威をふるうことはありません。
おびえた子供のように、あなたが、自然が自分のくびをしめるというゆめを見ていたのです。
この恐怖から解放されることが目標なのです。
それを知的に理解するだけでなく、まのあたりにそれを見ることです。
この世界を見るよりももっと確実にそれを認識することです。
そのときにわれわれは、自分が自由であることを知るでしょう。
その時にはじめて、すべての困難は消滅し、心のまどいは解決し、まがりはただされるでしょう。
そして多様性と自然というまどわしは消えるでしょう。
そしてマーヤーは、いまのようなおそろしい絶望的なゆめではなくて、うつくしいものになり、この大地は牢獄ではなくて、われわれの遊園地になるでしょう。
そして危険や困難はすべての不幸までもが神聖なものとなり、われわれの前にその本性を示すでしょう。
いっさいのものの背後に、いっさいのものの実態として彼が立っているということを、そして彼が唯一の真の自己である、ということを示すでありましょう。

        スワミ・ヴィヴェーカナンダ『ギャーナ・ヨーガ』より

********

(写真は今朝近所で撮ったあじさい。もうすぐ開花ですね。)




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# by ramram-yoga | 2017-05-23 20:56 | ことば・メッセージ | Comments(0)
”わたし”を観ている
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前回の記事は少し奇妙だったかもしれません。
私も、自分で書いていて、「ヘンなこと書いてるな」と思いました(笑)
でも、そう感じるのですから仕方ありません。
考えて書いているというより、どんどん言葉が出てきてしまって止まらなかったのです…。

記事の最後に「今見ている世界は、まさに私の心そのもの」と書きましたが、そう書いた後から、また今まで感じたことの無かった感覚が突然やってきてしばらく呆然としてしまいました。

私がこれまで外の世界と思って眺めていたのは、私の心そのものだったのでした。
この感覚がやってきた時、子供と寝室にいたのですが、子供はまさに、私そのものだったのだということが分かりました。
”子供”が、私と分離して存在していたのではなかったのです。
子供の中に見ていた純粋さ、それは私の心の中にある純粋さだったのでした。
保育所で友達と喧嘩して悲しい気持ちになっている、その悲しみは私の心の中にあったのでした。
私の目を盗んでおやつを食べている、そのうしろめたさと盗みは、私の心の中にあったのでした。
なんでもかんでも「見て見て」と言う子供から感じた、見てほしいという思いは、私の心の中にあったのでした。
「ちょっと待って」ではなく、その時その時に子供しっかり見るということは、その時その時の私の心をしっかり見るということと同じ事だったのでした。

なんでしょう、この感覚は。
”わたし”が無限に大きく広がり、すべてが”わたし”になってしまいました。

この感覚がやってきた時、聞いていた曲。
大学時代に没頭した、西アフリカの音楽です。
Mamady Keitaという世界的なジャンべ奏者が率いるアフリカン・トラディショナル・バンド「Sewa Kan」の演奏。

西アフリカの音楽を、一言で表現するなら”円環”。
始まりとか終わり、区切りといった概念が、リズムの中にないのです。
リズムを聞いているだけで、既成概念がひっくり返ってしまいます。

この西アフリカの音楽の円環の響きは、私の心の中にあったのでした。
バッハの音楽の調和の響きは、私の心の中にあったのでした。

亡くなった祖母の実在を今でも感じることができるのは、祖母は”わたし”だったからです。
今は亡きヨーガの先代の師匠である、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師様に祈ると、いつも明確なヴィジョンを見せてくださるのは、大使様が”わたし”だったからです。

そうか、わたしは常に、わたしを観ている。
今、ここで。





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# by ramram-yoga | 2017-05-23 14:18 | music | Comments(0)
問いを発すれば応答あり
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昨日はプロジェクトいのちの定例会に参加していました。
(最近の記事は私が書かせていただいていますので、詳細はこちらからご覧ください。)
医学(西洋医学・東洋医学)、宗教学、哲学、教育学、心理学等他分野の専門家が集まり、参加する度に深い示唆をいただいています。
また、臨床技術や学識のみならず、人格的にも尊敬する先生方と交流させていただけることも、私にとって非常に貴重な機会となっています。

一流と呼ばれる人の中には、今の状態に満足して留まっている人はいないということを感じます。
絶えずあくなき探求心を持ち、進化している。
しかも、進化すればするほど、進化のスピードが早くなる。
きっと、「これでいい」と思った瞬間に成長は止まり、後退が始まってしまうのだと思います。
そして、そのような方々と場を共にさせていただいているだけで、ぱっと新しく視界が開けていくことがよくあるのですが、昨日もそのような感覚がありました。

まず強く確信したことは、こちらが何か問いかけを発した瞬間から、必ずそれに対する応答が返ってきているということ。
どこから?というと、宇宙から。
宇宙というのは、本当は自分なのかもしれないですけれど。
その応答とは、はっきりとこちらが分かる形である場合もあれば、そうでない場合もあります。
人の言葉を通してその応答を聞くかもしれないし、フッと本で読んだ言葉かもしれないし、もっと抽象的なものかもしれない。
あるいはもっともっとダイレクトかもしれない。
応答が無いと感じる場合は、そもそも問いをちゃんと発することができていないか、自分に応答をキャッチできる感受性を準備できていないからだと思います。
必ず応答がある、と確信して問うこと。

だから、何かを知りたい、得たいと思う時は、まず問いかけるということが必要です。
そして、何か応答が返ってきたとき、それがそのまま回答になる訳ではありません。
応答はあくまで、問いかけに対するレスポンスであり、そのレスポンスを受け取った人が解釈し、自分で回答を導き出す必要があります。
なぜかというと、自分が自分で納得する回答を求めている訳であって、そこはどうしても自分でしなければならない部分ですね。

ですから、重要なことは、いかに質の高い問いを宇宙に対して発することができるか、そして、その問いに対するレスポンスをいかに深くキャッチできるか、ということになると思います。
質の高い問いを発するには、そして、レスポンスをキャッチする感性を豊かにしていくためには、まだまだ進化しなければなりません。
理性で理解するには、限界があります。
理性以外の、もっと別の感覚、あるいは意識状態を開発していく必要がありそうです。

つまり、今の自分の状態で「死んだあとはどうなるか」と問っても、それを問っている私の意識状態自体が限定されているために、自分が納得する応答は得られないのです、きっと。
地球上の人間は、みんな同じ世界を生きているようでいて、実はそうではないのかもしれません。
意識が変わると、出会う人が変わる。
ということは、これからは、今まで出会ったことの無いような人や情報と触れ合うということになる。
それまで見ていた世界とは、またまったく違った世界が広がっていく。

だから、今まで取り込んできた常識や、価値観に、とらわれていてはいけない。
尊敬する先達の発した言葉や教えでさえも、そこに固執することなく、ニュートラルでいる必要がある。
なぜなら、私は私で、あなたはあなたで、それぞれ独自の回答を導き出さなければならないのだから。
今見ている世界は、まさに私の心そのもの。








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# by ramram-yoga | 2017-05-22 21:10 | 最近のいろんなこと | Comments(0)
トラウマと死の恐怖
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今日は仕事の後、R-TEP(直近トラウマエピソードプロトコル) の研修会に参加しました。
そこでの説明でありましたが、何かの体験というのは大体半年で記憶として定着するのだそうです。
また、人の記憶は「場面記憶(エピソード記憶)」「意味記憶」「手続き記憶」等に分類できますが、このうち「場面記憶」は結構変化するものだということが分かっています。
場面記憶というのは”あの日あの時あの人と…”と、具体的に思い出すことの記憶なのですが、実際は赤い車を見たのに”青い車を見た”とか、変わってしまうことも多々あるのです。
そう考えると、人間の記憶というのは実はとても曖昧なものなのですよね。

死の恐怖でパニック発作をよく起こしていた私ですが、何とかパニックを克服して振り返ってみると、あれはトラウマ反応とよく似ていたのだということが分かってきました。
最初に感じた死への恐怖があまりに強かったために、トラウマティックな記憶となっていたようです。
通常の記憶から隔離され”冷凍保存”された恐怖を伴う記憶は、私自身では全く制御不能なものとなってしまっていました。
そして、時々何の前触れもなくやってきては、私を激しい恐怖で圧倒して、パニックに陥らせてしまっていました。
まだまだ、死に関しての恐怖心が消え去ったわけではないので、自分自身でトラウマ処理を試してみてもいいかもしれないと思っています。
つまり、恐怖を感じた記憶というのは、出来事そのものが恐怖なのではない。
恐怖心は、出来事に何等かの”意味づけ”を行うことで生じてくるものであり、また、恐怖を突き詰めてみていくと強い罪悪感や無力感が伴っていることが分かっていきます。
それら強力にセットになっている出来事と感情・情動のセットを、少しずつ解きほぐしていく。
それがトラウマ処理の過程なのだと思います。


さて。
私はといえば、自我意識が主体ではなく客体だったのだと気づいてから、まったく見る世界が変わってしまいました。
たった35年前に生まれ、”自分”という意識が確立して、そこから築いてきた世界。
今さらながら、なんてちっぽけな、狭い世界観に住んでいたのだろうと思う日々です。
そんな自我意識が、「なぜ生まれてきたんだろう」とか「死ぬのが怖い」とか、あれこれ言ったり探求したりしています。
元々そんな自我意識自体が無かったのにね…なんだか笑えてしまいます^^

そして毎日、今まで私はいったい何をしてきたのだろうと、思ってしまいます。
ヨーガでは、この世界はマーヤー(迷妄)と言われますが、その意味がこんなに実感を伴ったのは初めてです。

結局、私たちは自由であるようで、根本的なところで全く受動的でしかありえないのです。
生まれてくることも、死ぬことも、自分で決めた訳ではありません。
気が付いたら生まれていて、そしていつか必ず死んでいくのです。
心臓を動かし呼吸しているのも、自分ではありません。
なんて、なんて、私たちは無力なのでしょうか。

この”無力”を感じた時、2つの感覚が沸き起こってきます。
ひとつは、虚無感や恐怖。
これは、自我意識を主体として感じる感覚、でしょうか。
自分の意識が無くなるということが、どうしてこんなに怖いのでしょうね。
そしてもう一つは、安心感というのか、なぁ~んだ、という感覚。
なぜか、こんな感覚があるのです、面白いですけれど。
人間は生きて死ぬ、それが宿命だと思うと。

現に、意識は毎日無くなっているのですよね。
寝ている時に。
全く、何も怖くない。
むしろ、安心している。
あぁ、一日が終わったなぁと、安心しきって身体を緩めます。
死ぬというのも、これに近いのでしょうか?

*******

という訳で、相変わらず驚きと混乱の日々を送っています。
”わかったつもり”は、もうしないことにしています。
気が済むまで、混乱しておくことにします(笑)

その一方で別のところで自分の感覚が大きく変わりました。
人との壁がどんどん取り払われていくのです。
心と心の深いところで人と触れ合える感覚が、日に日に増していきます。
その意味でも、これまでとはまったく別の世界が、見え始めてきています。








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# by ramram-yoga | 2017-05-20 21:34 | 死生観 | Comments(0)
祈り
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近所にある甲東教会に以前いらっしゃった同年代の牧師さんと、今朝久しぶりにfacebookでやりとりをしていました。
やりとりの最後に「お祈りしています」と送ってくださり、なんとも幸せな気持ちになりました。
誰かが自分のことを想ってくれている、祈ってくれている。
それを感じるということで、どこからともなく力が湧いてくる。
祈りには、不思議な力があります。

実際、欧米では祈りに関する研究も進んでいて、祈られる人は、自分が祈られていると知っているいないにかかわらず、祈られていない人よりも病気の快復がいいという報告まであります。
つまり、祈られている側が気づいていなくても、祈りはその人に確実に影響を及ぼしているわけです。

私も最近、毎朝行っている瞑想が、祈りのようになってきています。
自分のためにいくら瞑想しても集中できたりできなかったりとムラがあるのに、人のことを祈っていると、すーっと瞑想状態に入っていくことができるのです。
同じことを、自分自身の成長や勉学に当てはめても、同じです。
自分の好奇心で勉強して成長しようとする時よりも、目の前にいる辛い人に何かできることはないかとか、一緒に切磋琢磨して学び合いたいとしている時の方が、学びが深まり、成長できるのです。
自分ひとりだけよくなることや、自分だけの利益を求めるというのは、本当は不可能なことではないでしょうか。
一緒にみんなで利益を得、幸せになっていこうという気持ちを持ったり、人に何かを与えようと思った時に、実はその与える側の人が恩恵を受けている。

それでは一体、与える側の人は、何から恩恵を受けるのか。
それは、敢えて言葉にするなら、無条件の愛の大海原からなのだと思います。
愛を与えるという行為は、そもそも自分自身が絶対的な愛の中にいなければ成しえないことであり、与えるという行為がそのことに気づかせてくれる。
そんなことを感じている、今日この頃です。

毎朝瞑想時に、ヨーガの生徒さんおひとりおひとりのことを、お祈りしています。
今日一日を穏やかに過ごすことができますように。
何か困難に遭遇しても、それに対峙し乗り越えていく力がすでに与えられていることに、気づくことができますように。







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# by ramram-yoga | 2017-05-19 11:31 | 瞑想 | Comments(0)